6月11日の封切から約1ヶ月を経た木曜日の晩。『愛について語るときにイケダの語ること』を観たアップリンク吉祥寺で梯子して観て来ました。1日1回の上映。20時45分からの回です。東京ではここでしかやっていません。
たった58分しかない『愛について語るときにイケダの語ること』の本編と半ば強制参加のトークショーが終わってから、1時間ぐらいの時間があり、その間に軽食でも食べようかと、一旦映画館を出ましたが、降りしきる雨の中、吉祥寺駅北口の迷路状の商店街に迷い込み、最近延長だか最発令だかよく分からない「緊急事態宣言」の影響か、殆どの飲食店は店じまいしており、チェーンのファースト・フード店でさえ、20時営業終了の準備に入っている状態で、まともに何かを食べられる状態ではありませんでした。
仕方なく、コンビニでウィダーインゼリー的な商品を二つほど買って、吉祥寺パルコ付近の商店街のはずれのアーケード下で吸い、取り敢えず好としました。まるで終電間際の街並みのように暗い商店街が続き、人々は足早に駅に向かって行きました。
映画館に戻ると、じわじわと観終わった観客がシアターから出て来てはロビーで少々うろついて、去っていきます。この作品の観客はあまりいないかと思っていたら、それでも、シアター内には当初20人以上の観客が居ました。上映開始15分前ぐらいの入場開始のタイミングで私とほぼ同時に入った人々がそれぐらいでしたが、『愛について語るときにイケダの語ること』の際と同様に、意味不明のこの映画館運営への貢献者の名前の一覧をスクリーン上で延々見せられている間にも、ぞろぞろと観客が入り続けて10人ぐらい増えました。
さらにシアターが暗くなって予告が始まってからも、ぞろぞろと観客は入り続け、さらに10人ほど増えて、合計で40人を超えるぐらいになったと思います。老若男女入り乱れた状態でしたが、特に女性はかなり若い方に年齢が偏っていたように思います。男女カップルはまあまあ若目数組で、男性単独客や同性の二人連れは、それなりに高齢側に偏っていたように記憶します。男女はほぼ半々でしたが、じわじわとシアター内で増える過程でも、ほぼきれいに男…、女…、と半々になるように入ってくる規則正しさがありました。
また、奇妙なタイトルに関心が湧いたのは否めませんが、この映画を観る動機の主要な部分は、最近の若者の恋愛事情をそれなりに見知っておくことです。恋愛事情と言うのも正確ではないかもしれません。オモテ稼業の中小企業診断士商売で、無名企業での人材採用や、その後続く定着・育成の企画立案において、高校卒業ぐらいから20代前半ぐらいまでの若者、特に女性の価値観やライフ・スタイルを知る必要があるので、こう言った映画も観ておくかという関心が湧くのです。
しかし、その観点ではあまり役に立たない映画でした。では他に得るものがあったかと言えば、特に見当たりません。『SPA!』で以前連載されていた『だめんず・うぉ~か~』の方が豊富な学びがもたらされます。
この映画の主人公は表面的には完全な「だめんず・うぉ~か~」のように見えます。誰かに恋したと思い込み、思いつめては多くの場合、(同衾の後、相手の男が主人公に挿入するのではなく主人公の見ている前でテンガで射精するというケースもありましたが、一応)セックスに至り、実は相手には(これまた多くの場合)本命の女性がいて、ただ遊ばれたことが判明する…と言った展開を重ねて、最終的に何かに気づく訳でもなく、何かを止める訳でもなく、死に至る訳でもなく、何となく物語は終わります。
そこには笑えるほどの何かもなく、考えさせられるほどの何かもなく、重く深く心に突き刺さってくる何かもなく、72分の短い尺はダラダラとやたらに長く感じられる中で終わります。
主人公は相手を吟味するということがありません。それがこの(映画.comの)作品解説の…
「遊園地の跡地にできたショッピングモールで、数時間に一度だけ動くメリーゴーランドの受付をしている宇田みこ。受付時間外は、くまの着ぐるみ姿で風船を配っている。人のことを100%信じるみこは、これまで出会った男たちを全力の愛で迎え入れてきたが、彼らは総じて最後には彼女の前から去ってしまった。そんな彼女についたあだ名は“恋愛体質純情セカンド”。誰かにとっての唯一になれないまま、メリーゴーランドに1人、回り続ける日々を送るみこだったが……。」
で言われる恋愛体質と言うことなのでしょうが、何かがおかしい感じがします。
中島みゆきの『ノスタルジア』という名曲があります。その中で「いい人にだけめぐり会ったわ。騙されたことがない。いい男いい別れそしてついにこのザマね」と歌われています。本当に100%相手を信じて、全力の愛で迎えてきたのなら、いちいち悪い結果が露呈するごとに落ち込んだり塞いだり、メリーゴーランド乗場の同僚に愚痴を聞いてもらったりする必要はないでしょう。全員に騙して貰えば良いだけのことです。
そうではなく、相手の男をモノにするというのなら、大抵存在する本命の女を蹴落とし、執拗に付き纏って相手の男を自分のものにすればよいだけの話です。
原田大二郎演じる老人は主人公のことを「可愛い可愛い」と褒めてくれて主人公の失恋話にも付き合ってくれます。「いっそこの人でいいや」と主人公が絡みつくと、原田大二郎は亡き妻との思い出に浸りながら数十年ぶりの勃起と射精で絶命するのでした。この人物のエピソードを除いて、相手の男性に執拗に関係を迫り、執拗に交際を求めれば、少なくとも本命と対等の立場ぐらいまでは行ける可能性がかなりあります。
特に最後に登場するかなりまともと言える男の場合には、以前付き合っていた女性が死んで霊となって付き纏っているだけで、リアルには全く競争相手がいません。おまけに霊の彼女は、主人公の体を借りて最後に男とセックスしたいと言い出します。主人公の体を借りて最愛だった男とセックスすると成仏して消えてしまうのです。後は男を自分のものにするだけのことですが、男は「夕夏はどこに消えた」と狼狽し主人公を拒絶するのでした。
その時に諦めずに「私が居る」と付き纏えば良いだけなのに、主人公はその男のもとを去ります。宮台真司は若者向けの恋愛論で常々「なんだかんだを乗り越える関係を築け」と言った趣旨を述べています。詰まる所、良いことも悪いことも乗り越えられる関係を男女間で築くことが重要であって、そこから逃げ続ける限り、“妥当な”人間関係は生まれないということでしょう。ならば、一目惚れでも何であっても、一旦ベタに好きになった男に付き纏えば良いことです。
それをせずにすぐに諦め、「やはりあの男もダメだった」と自分で結論付けるが故に、同僚の男から「男の優しさは全部下心」と言われて、その都度、納得するに終わるのだと思います。『だめんず・うぉ~か~』に登場する多くの女性達はこの点で非常に充実しています。だめんずに惹かれた上に尽くさねばいられない自分達をよく知っていて、肯定的であり続けられるのです。それができないなら、いちいち惚れた腫れたと騒ぐこと自体が愚かしく思えます。
この映画の上映終了後、『愛について語るときにイケダの語ること』の際同様に、再びトークショーがシレっと開始され、帰るタイミングを逸しさせ、一人立ち上がって帰るような雰囲気を抑圧されることになりました。その場で、まだ20代の女性監督が驚くべきことを発言しました。
この映画を作った背景に、最近の若い人々の恋愛観について異議申し立てをしたい気持ちがある…と言ったことを述べたのです。彼女によると、今の若い人々は、「先を読みに読みまくって、しもしないうちから、恋愛を値踏みして諦めてしまっている」とのことで、そうではなく、「今を生きる。目の前のことに真剣に取り組む。そう言ったことが大事だ」と何度も熱く語っていました。その通りです。全く異論の余地がありません。
(「男の優しさは全部下心なんですって」とは、自分も言われるが、自分はそう信じていない。だから目の前の恋愛にのめり込む価値がある。よしんば「男の優しさは全部下心」であったとしても、一所懸命今を生きていくべきことに変わりはない…。と言ったことも言っていました。遺伝子的にはオスは自分の母であるメスの遺伝子を他のメスに配る本能に突き動かされているだけですから、「男の優しさは全部下心」は科学的には間違いないことだと私は思います。ですので、彼女の「よしんば」以降の覚悟にこそ価値があると思えます。)
しかし、その主張の下にこの作品ができたのなら、全くの勘違いとしか言いようがありません。先述のように主人公は考えもなく、目の前の男性に「恋をしている」と自分自身に対する妄想を抱き、ただ猪突猛進し、そしてうまく行かないと早々に諦めて自己嫌悪に陥ることを繰り返しているだけです。目の前のことに全く真剣に取り組んでいません。
セックスも含めて、恋愛に浸り耽り溺れる最高の時間を過ごし、先述の「ノスタルジア」のような心境を重ねるのでも良いでしょう。そんな所に主人公は全く至る気配がなく、かといって、相手の男を絡めとるべく積極的に行動するのでもありません。
さらに、馬鹿げているのは、結構イケメンの同僚の存在です。彼ほど主人公のことをよく理解し、気遣ってくれている存在はいません。だからこそいつも食事を共にしたり、職場でも協力して働いています。主人公の行き場所がなくなった時、「俺の所に来ればいいし」と明言までしています。目の前のことに真剣になる…と言うのなら、この男にこそ、体当たりでぶつかり、執拗に関係性を迫れば良いだけのことです。
このように主人公は恋愛体質なのではありません。ただの妄想狂で勝手に恋愛している気分になっては勝手に落ち込んでいるだけです。おまけに恋愛表現は主としてセックスであるようです。「だめんず・うぉ~か~」にさえ全く成れていません。
企画・脚本・監督を務めた女性は、パンフの自らの文章に『女たちよ、それでも一緒に恋しようぜ!!!!!!!!』とタイトル付けしています。おまけに彼女は、「恋は勝手に生まれるもので、一度生まれると自分ではどうにもならない」と言ったようなことまで発言していました。これらは全くその通りです。『はじめての不倫学』の中で、著者の坂爪真吾は不倫をインフルエンザのように誰でもかかるときにはかかってしまうものとして捉えるべきと主張しているぐらいです。
彼女の恋愛に関する認識はいちいち賛同する所ばかりなのですが、その彼女の認識論に従った恋愛をこの作品の主人公がしているように全く見えません。企画・脚本・監督を兼任していますが、企画の端緒までの恋愛観の的確さを、構成にも設定にも脚本にも全く活かせていないということなのかもしれません。DVDは全く不要です。
追記:
この作品の鑑賞前後で、ロビー内でウロウロしていると、3度も見ず知らずのまあまあ若目の女性から声を掛けられました。「(パンフのサインをもらう)列に並んでいらっしゃいますか」、「そのパンフレットはどこで買うんですか」、「券売機ってこれですか」です。三人が三人とも、どこかのファッション専門学校の生徒のようなそれなりに奇抜か気合の入った服装をしていました。吉祥寺の場所柄、なぜか人々が親しみある関係を持っているということなのか、この映画のファンには何かの連帯感が生まれているということなのか、単にこの映画館のスタッフの接遇レベルが低く、分かっていそうな客に代わりに聞くということなのか、これら全部の理由の複合なのか、私には全く分かりませんでした。
追記2:
あまり関心もなく聞かされることになったトークショーですが、ぼそぼそ話すのでよく聞き取れないMCが冒頭で「今日、初見の方?」と挙手を観客に求めていました。よく聞き取れない上に、「初見」とは何を意味しているのかすぐに分からず、私は挙手のタイミングを逃しました。よく考えてみると、文字通り、「この映画を初めて見る人」と言うことと思われます。(私は挙げられないままでしたが)挙手したのはたった一人でした。この映画にそれほど反復して観る価値があるとは、私には到底思えませんでした。このような、意味するところがよく分からず、単なる思い付きの企画倒れのような作品でも良さを見出す大量の“どこかのファッション専門学校の生徒のような人々”が存在することが発見と思うべきであるのかもしれません。