『テスラ エジソンが恐れた天才』番外編@狸小路@札幌

3月下旬の金曜日の公開日から翌々日の日曜日。札幌の狸小路にある映画館で観て来ました。この映画館の名前はサツゲキですが、この名称は昨年7月からのもので、それまで狸小路に存在した映画館や薄野の近くにあった映画館、白石にあった映画館など、幾つもの映画館が閉館と合併などを繰り返し、ウィキでもその経緯が延々と書かれているほど、長い変遷を経ています。

このブログでは『『トイ・ストーリー3』番外編@狸小路@札幌』を2010年に観た際にこの映画館は登場していますが、その際の名称は「東宝プラザ」でした。東宝プラザは翌年の2011年に閉館したようです。

このブログの3月中旬の『アウトポスト』の感想でも書いた通り、3月は観たい映画を観たい場所・観たい時間で観ることができず、劇場映画鑑賞月二本のノルマを果たすのが困難になって来たので、敢えて、札幌界隈の映画館で週末に取り敢えず一本消化することにしました。サツゲキは所謂大作を上映しておらず、調べてみると、この『テスラ…』以外にも私が観たいと思っているうちの1本『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』も上映しています。どちらでも良かったのですが、2本のうち時間的な都合の合う『テスラ…』を観ることにしました。1日に4回上映されています。

全国的な緊急事態宣言の解除後から各地では(ダイエットでもないのに)「リバウンド」が見え始めており、(さすがに外国人観光客はあまり見当たりませんが、)全国からの観光客でごった返す状態になった札幌市では、変異株ばかりの急激なリバウンドの兆しが見え始め、前日の土曜日から4月16日まで外出自粛要請が出ています。しかし、日曜日の狸小路は世の中が「コロナ、コロナ」と騒ぎ始める前の頃に較べるとモノの数ではありませんが、かなりの人出でした。

有名な映画というほどのことでもありませんが、私が午後1時55分のシアターに入った時点で、20人ほどの観客がいました。その後映画開始までの間にぽつぽつと観客が増え、最終的には25~30人ぐらいになったと思います。女性客はやたらに少なく、5人余りと言った感じでした。男女共通して平均年齢が高く、概ね50代前半ぐらいに平均値がありそうです。男女ともに2~3人ぐらいは20代がいたかもしれません。いずれにせよ、かなり高齢に偏った観客層です。ネットで見ると、サツゲキには4つのシアターがあり、そのうち最大の席数のシアターで上映されました。200席にに対して25~30の稼働で日曜の午後の稼ぎ時と考えると、少々寂しい客入りです。

テスラの名前はイーロン・マスク率いる自動運転車のメーカーとして知られていますが、勿論、この電磁気の分野の天才的発明家であるニコラ・テスラから命名したものです。私は一応電話技術屋でしたので、弱電・強電の両方を研修でかなり教え込まれ、テスラの名前はやはり磁束密度の単位としての方が何かしっくりきます。

この映画を観る前に『エジソンズ・ゲーム』という映画をDVDで観ようかと考えていて、映画紹介記事を読んで、伝記でよく見る発明王エジソンの美談の数々からのイメージとは全くかけ離れたえげつなく鼻持ちならない傲慢で老害の入りかけた金持ちの顔を知りました。当然ですがタイトルからも分かるように、この作品『テスラ…』もエジソンとの所謂「電流戦争」が主要なエピソードの一つとなっています。

歴史上の人物の人生を描いた映画はたくさんあります。特定のエピソードではなく、伝記として、人生の内の少なくとも半生以上の長さの物語を描くタイプのものだけでも、多数あります。役者がその人物を演じ物語として見せるタイプの方が多いと思います。たとえば、多数存在するゴッホの人生を描いた作品群とか、最近私が見た中では、大ヒットとなった『ボヘミアン・ラプソディ』などもそうでしょう。

それに対してドキュメンタリータッチの作品群もあります。記録映画と言った感じの作品で、当時の映像を織り交ぜることが基本と見なされているフシがありますから、通常20世紀以降の人物に使われることが多いように思います。私が最近観た中では『エッシャー 視覚の魔術師』がよくできた作品でした。

この作品は一応前者です。パンフレットが販売されていないので、情報が限られていますが、少なくとも主役を張っているのは他の役者に比べてダントツに知名度が高いイーサン・ホークです。本当にそうであったということのようですが、非常に無口な天才を黙々と演じています。

しかし、変なのです。何が変かというと、この映画は劇中劇のような感じなのです。まず、狂言回しのように、劇中でテスラと恋愛関係になりそうでならないJ.P.モルガンの実娘のアン・モルガンが、テスラの人生を要所要所で語ります。ネット情報によると、彼女は1952年に亡くなっているのですが、まるで現代からテスラの人生を振り返るように、現代に生きる観客の目線からテスラの人生を語るのです。

勿論、このアン・モルガンは劇中にも頻出しますので、劇中で当時の服装でまさにアン・モルガンの役を演じたかと思うと、どこかの大きな書斎のような部屋のプロジェクタで写された、この作品の一部分を見ているようなシーンで、狂言回しの語りを行なうのです。劇中劇の雰囲気になっています。

このアン・モルガンと不思議な狂言回し役を演じているのは、イブ・ヒューソンという女優でネットではまだ5本しか出演作品がなく、殆ど記述という記述がありません。U2のボノの娘ということのようですが、身長155センチはかなり女優としては低いと思います。顔はどちらかというと私の好きな横長丸顔に垂れ目気味の目尻でタヌキ顔に近く、身長に加えて、ハリウッドの伝統的美人女優のタイプから外れているように思います。

さらにこの作品の奇妙な演出は他にもあります。まるで演劇のように、背景が絵や写真で描かれているのです。テスラが生きた時代の室内の場面はほぼリアルなセットで撮られていますが、屋外などの多くのシーンの背景は絵や写真なのです。演劇などの舞台のスペースさえありません。絵や写真の背景のスクリーンのすぐ前に役者が立って演じているのです。たとえば野外の動物がいるシーンでは、野外の風景も動物も「絵柄」です。その動物に向かって、餌を差し出していたりしますが、やたらに不自然な状況が展開しています。おまけに、このスクリーンは舞台の幕が下りた状態の外側のような細い足場のようなスペースしかないようで、シーンが終わると、役者が真横に移動して去って行ったりするなど、非常に不自然なままに観客に提示されています。

不自然さの骨頂は、テスラがJ.P.モルガンから見捨てられ、失意のどん底に落ちた場面の演出として登場します。作品はこの場面から、アン・モルガンの狂言回しで、その後、テスラが大きく名声を得直すことはなく、ほぼ無一文でホテルの一室で亡くなることを告げておしまいになります。つまり、事実上のラストと言っていいテスラの失意を描く重要な場面と言えます。その場面で、何か薄暗い薄紫のようなモノトーンのスクリーンの前に歩み入ったテスラは、突如、どこかの安スナックのカラオケ・ステージにありそうなスタンド・マイクを手にして、ティアーズ・フォー・フィアーズの“Everybody Wants to Rule the World”を歌い始めるのです。結構長いフレーズです。それも日本人のようにカラオケを歌いなれていない感じなので、はっきり言ってへたくそで聞くに堪えません。なぜこのような演出なのかがよく分かりません。

狂言回しのアン・モルガンの早い段階の説明にもある通り、人嫌いで社交界への接触も最低限で、実験室にこもって時間を過ごすことが多かったテスラは、生涯独身で過ごし、テスラについての記録が殆ど残っていないことも一つの大きな理由になって、純粋な物語として成立させるには、あまりにも想像の穴埋めが多すぎてしまうということだったのかもしれません。現実にエジソンとの諍いの場面では、一旦諍いの場面を描いた後に、突如、アン・モルガンが場面を止めて、「このようなことは記録上は残っていない」など注釈を入れて、多少平静なバージョンの諍い場面をやり直したりするケースも複数回登場します。何か創作することへの躊躇や恥じらい、罪悪感のようなものを感じます。

しかし、それを躊躇するのなら、多くの伝記モノは誤謬だらけということになるでしょう。写真や記録が大量に残っている時代背景のものでも、司馬遼太郎の作品群の物語は史実とかけ離れていることが知られています。NHKの大河ドラマの制作陣は上の理屈に拠れば、全員恥知らずということになってしまいます。

エジソンが仕向けて、テスラが普及させようとした交流電流による送電網のイメージを落とすために、わざわざ死刑執行の電気椅子を交流電流を用いたもので「発明」したエピソードなど、あまり知られていない話がかなり登場します。一方でテスラがウィキにもある通り、(どちらかというと単体の発明品を指向していたエジソンとは異なり)社会全体に電力を供する「システム」を指向していたことなども、なるほどと頷かされました。

ちょっと『ブリューゲルの動く絵』を思い出させるような独特な演出が為された作品で、その実験の意気は認めますが、“Everybody Wants to Rule the World”はやり過ぎであるように感じます。ただそのような表現の魅力は置いておいて、あまり出演作のない私にとって新たなタヌキ顔女優を見る目的だけで、DVDは買いたくなってしまうものと思います。