『私をくいとめて』

昨年12月18日の公開から既に約3週間。元々上映館は少なかったものと思いますが、鑑賞段階で23区内では8館で上映されています。新宿では靖国通り沿いの映画館1館で、1日に4回も上映されています。年明けの最初の水曜日の午後4時40分からの回を観て来ました。

この映画館は以前ものん出演の『星屑の町』を観た映画館です。

シアターに入ると、30人ほどの観客がいました。ざっくり6割が男性で4割が女性と言った構成比に見えました。比較的あとからシアターに入ったため、既に着席している観客の年齢層はあまりよく分かりませんでした(し、終映後も多人数が(まるで終わるのを待っていたかのように)結構まとまって一気に会場を出て行ったので、今一つ年齢層が把握できないままになってしまいました)が、男性層は私より少々若目か同年齢ぐらいに平均値があるようで、女性客はそれよりやや若いぐらいに比較的偏っているように見えました。また、観た範囲で殆どが単独客だったように思います。

『星屑の町』の感想で私は以下のように書いています。

「ファンである訳でもなく、今でも彼女の今後の活動を追っかけてチェックして行きたいと思ってはいません。ただ、2015年当時上述のような社会的な評価だった若手女優が芸能界の諸事情から、あっという間に一旦姿を消し、『あまちゃん』制作現場での関係性の深さで「(能年玲奈の)芸能界でのお母さん」とまで言われて厳然と且つ公然と能年玲奈を支持していた小泉今日子まで発言を控えるようになり、今では不倫バカ扱いされている状況を見ると、業界の“しきたり”の強さを素人でも感じざるを得ません。

これは、芸能界にかなり疎い私でもパッと思い出せる事務所契約で揉めた鈴木あみ(旧「鈴木亜美」)の問題や、ネットでは秋元康への枕営業拒絶によると言われることが多い裕木奈江の問題などと同様に、私には(私は特にこの二人のファンと言う訳では決してありませんが)これらが、全く馬鹿げたファン不在の議論であるように思えてなりません。勿論、私は芸能事務所側も、芸能人に対して多くの投資をし、興業を行なっていく上での数々のリスク回避を代行していることを知っています。ですので、所属芸能人の不当な行為に対して何らかの賠償請求や制裁を設けることは間違っていないと思っています。ただ、その制裁の際に、ファンの意向が極端に無視された事態は、あるべきではないと思っています。

最近は、ジャニーズ事務所の急激な弱体化などの流れの背景にSNSなどに投影されるファンの意向がありますから、大分、「マーケット・イン」型の思考に変わって来ているようには思っています。しかし、ファンまたは「買い手」無視の商売のあり方は、芸能界にもそこここに散見されます。私は特にB2Cの商売は基本的に「購買=“金銭の支払による人気投票”」だと思っています。支持されるべきビジネスは基本的にその内容と姿勢の両方から顧客の購買を惹起して売上と利益の両方を伸ばし、そうではないビジネスはじわじわと時間と共に淘汰されて行くものと思っています。

私は一連の日本に対する外交的な態度で韓国に嫌悪感を抱きますので、一人不買運動を行なっていて、意識的に韓流映画作品は劇場でもDVDでも避けるようにしていますし(主役以外の韓国人俳優の出演は許容していますが…)、LINEも使いませんし、牛丼屋でキムチを付けたいと思った時にも生産国を確認します。“金銭の支払による人気投票”をしないケースはこのように実現されていますが、当然ながら、逆に“金銭の支払による人気投票”を積極的に行なうことで支持を表現することもします。今回の映画を観に行こうと決断したのも、まだまだ多くの芸能界の機会から締め出されているのんに僅かでも収益をもたらすためです。それは、よく知りもしないのんのファンだからではなく、「買い手」無視の業界慣行に逆らう活動を応援したいという単純な動機でしかありません。」

のんは、ウィキに拠るとのん名義で2020年までで既に四本の映画に出演しているようですが、そのうち、2本は極めてマイナーな映画だと思います。残った二本は本作と『星屑の町』で、それら二本を観ておきたいと思ったのが、本作を観た最大にして多分唯一の理由です。それは、上述の通り、のんのファンであるからではあまりなく、単純に、馬鹿げた業界慣行に対する反対投票の意義が大きいように自覚しています。

観に行くことにしてから数日経って初めて、ネットで多少関係情報を読み、監督が私がDVDで観て比較的好感を持てた『恋するマドリ』、『東京無印女子物語』、『勝手にふるえてろ』、『美人が婚活してみたら』、そして劇場で観ようかと思いつつ何となく観る時間を作るまでに至らなかった昨年9月公開の『甘いお酒でうがい』の監督であることに気が付きました。そして、それよりも少々前に、原作者が私がDVDで観てこれまた比較的好印象を持っている『インストール』と、前述の『勝手にふるえてろ』の綿矢りさであることにも気づきました。

女心(/乙女心)に疎い私から大雑把に観るこれらの映画の多くに共通する魅力は、微笑ましいこと。そして、「いるいる」・「あるある」と思えることです。それは多分、何かこだわりや思い込みや捨てられないものを一杯に抱えて、周囲とのミスコミュニケーションは深まる一方で、どうにもできなくなってしまった女子の現実を描いた、コメディ・タッチの要素がそういうテイストを醸し出すのだと思われます。

本作に感じるこの感覚は特に『勝手にふるえてろ』と共通に思えるので、監督と原作者のどちらの要素がより強く影響しているのか私には判別がつきません。単に前述のように私には類似しているポジションの作品群が絶対数で多く存在するという観点で、監督のテイストが強く効いているのかななどと何とかこじつけられる程度です。いずれにせよ、特にスラップスティックな笑いがある訳でもないのに、なぜこんなに愉快に見られるのか、不思議なぐらいの作品群です。

映画紹介サイトの色々な人のレビューでも同様のコメントがたくさん見つかりますが、私にもやはり今までののんや能年玲奈がこなした役柄とかなり大きく異なる役への挑戦と言う感じがします。と言っても、能年玲奈が出演しているという『告白』もありますが、私はその中の彼女を全く記憶していません。『アバター』も橋本愛ばかり記憶に残っていて、彼女の存在が思い出せません。彼女の映画でのヒット作と言われる『ホットロード』も全く関心が湧かず観ていません。ですので、私の知る映画作品の中の彼女は『カラスの親指』、『海月姫』、『星屑の町』、そして今回の作品しかありません。

もちろん、テレビをほとんど観る機会のない私なので、彼女の出世作であろう『あまちゃん』も全く観ていません。そんな中で、本作での彼女の役柄がどういう風に新しいかというと、端的に、「成人女性」の日常の漠然とした不安や懊悩を演じだした所だと思います。本作の彼女は31歳の独身会社員です。絵を描くことが好きでも美大の出身でもなく、とんでもなくバリキャリでもなく、結果的にデザイン系の会社の典型的「お茶汲みOL」的な扱いの女性です。入社以来、細かな嫌なことは積み重なっているものの、何とかそれを受け流したり心に封じ込めたりしながらやってきて、恋人ができることもなく、お一人様を堪能しようとしていますが、その虚無感が生む葛藤にも常に意識的であると言った人物です。

そんな彼女が職場で日々を送る支えになっているのが先輩“お一人様OL”のノゾミさんで、臼田あさ美が演じています。『架空OL日記』でも臼田あさ美は「やっちゃう系OL」を演じていますが、本作でも(『架空…』のような上司への積極的な嫌がらせを敢行するなどのワイルドさはないものの)同様の尊敬される先輩OLを好演しています。私が彼女を映画で初めて認識したのは、『桜並木の満開の下に』ですが、脚本なのか何がよくないのかよく分かりませんが、全く評価できない作品でしたし、彼女に対しても悪印象しか持てないぐらいの作品でした。その後観た『愚行録』は私にとってランク入りレベルの超名作で、その中の彼女は登場頻度の高い脇役でした。本来イヤミス作品の「イヤな部分」を体現すべき役柄をきちんと彼女がこなしていたようには感じられませんでした。

その後、少々マイナー系な邦画のDVDをレンタルすると他作品の紹介で『南瓜とマヨネーズ』のトレーラーを十度以上は観たように思いますが、やはり、そこでの彼女も私には何か心の奥底の懊悩を表現し切れていないように思えました。これらの印象に対して、『架空OL日記』の彼女は輝いていて、主役の二人以上にやたらに目立っています。脚本でのそういう設定であるということもあると思いますが、自分の価値観を怯むことなく表明し、決然と実行に移せる姿が、愛らしく思えるような味のある演技であるように私には思えました。『架空…』を観て、彼女をウィキで調べ直し、「げっ。これ『桜並木…』の主演女優だったのかよ」とかなり驚きました。

本作の臼田あさ美演じるノゾミさんは、(『架空…』でも一人抜け駆け的にいきなり結婚に踏み切る役でしたが…)職場で悪印象の珍妙な伊達男への恋愛に猪突猛進であったりと、結構ぶっ飛んでいますが、のん演じるみつ子の指針であり模範のキャラとして、のんの奇妙なお一人様行動の説明役としても好演を重ねています。しかし、のんの行動全体の狂言回し役として、レビューなどでも注目されているのは「A」です。Aはみつ子の脳内キャラで、執事のように常にみつ子に寄り添い、みつ子の話し相手になり、みつ子に助言をし、みつ子に落ち着かせるキャラです。

女子の脳内が描かれる物語は珍しくありません。洋画なら『インサイド・ヘッド』が有名ですし、国内では真木よう子の好演が楽しい『脳内ポイズンベリー』などがあります。これらの作品では頭の中に別キャラが複数いて、色々協議をしたりします。しかし、本作のAは単独で主人公みつ子に対峙しています。おまけにオッサンで基本的には妙に落ち着いており、普段のみつ子のキャラに対して別人格的存在です。よく心理学などで「メタ認知」などと言われる、自分を俯瞰する自分の象徴的存在そのものです。

このAがみつ子の幻想の中で一度だけ半裸で登場する以外は、ずっと声だけの登場で、半裸の存在と声は別の役者が担当しています。声の方は、みつ子が重度に依存しているために、周囲に人がいてさえ、常時会話の相手として存在しています。

一見みつ子の疑問に答える siri のような存在のように見えますが、みつ子の一部である以上、みつ子の知っていること以上の何かを提供することはありません。しかも、そのことにみつ子は非常に自覚的で、「Aはさ。私なんだから…」のような発言は劇中で何度も繰り返されています。似ているシチュエーションが何かにあったと思ったら名作『ブルーアワーにぶっ飛ばす』の夏帆に対するシム・ウンギョンが演じる脳内キャラです。『ブルーアワー…』では、本作同様に性格がかなり乖離した人格になっていて、その点において設定的に類似しているようですが、『ブルアワー…』では別人格であることが意識されないままにずっと物語が進行するのに対して、本作では最初からずっと別人格的にAが登場し続けます。

『ブルアワー…』のエンディングで、夏帆が人生における“強張り”から解放されると同時にシム・ウンギョンは消失しますが、本作のAものんが自分の思い込みやこだわりを捨てて恋愛に向き合った時に、消失します。シム・ウンギョンと異なり、「いなくなったら困る」と本人が愛着を捨てきれずにいて、どちらかというと『寄生獣』のミギーが最後に主人公の身体の一部として溶け込んでしまったエンディングに近いように感じられます。

著者の綿矢りさもパンフで自分の頭の中にAのような存在がいると書いていますが、メタ認知は人格形成上もある方が望ましいものだと思われますので、寧ろ、あって当然なのかもしれません。別人格として存在しているのではありませんが、中学から高校にかけて断続的に在籍していた演劇部の活動を通して、そのスイッチを入れると、私も「外から見える自分」にかなり意識的になれるようになりました。

Aが消えたのは劇中で過去にも一度あります。Aは単に執事のように存在するのではなく、本気になると、ないしは暴走すると、みつ子の人格を乗っ取ることができるようで、みつ子が恋愛をしたくて切なくなった20代半ばの頃に、かかりつけの47歳独身歯科医を逆ナンするような行動に駆り立てたことがあります。相手の年齢や価値観を冷静に考えれば、かなり普通に感じられますが、いきなり初回のデートでホテルのバーのカウンター席のボディ・タッチの展開になり、部屋は既に予約してあると告げられ、這う這うの体で逃げ出してきます。Aまでこの歯科医の後に「ブタ野郎」呼ばわりしていますが、Aとみつ子の「二人」の間での忌まわしい過去となったこの事件の直後、Aは(Aとそしてみつ子自身の)激しい自己嫌悪から消失してしまうのでした。

自分が自分で許せないことをしてしまった場面、強い後悔に駆られてしまった場面、みつ子は感情を爆発させますが、それに対してAはみつ子を許し、みつ子を責めない態度をとります。しかし、奔流のような自己嫌悪に襲われているみつ子には、そんなAも許せなくなり、Aとの諍いになりかけ、「どうせまた消えてしまうんでしょ」のようにAをみつ子が詰る展開にさえなるのです。

普通の会社員人生をお一人様で送り続けるみつ子には、数年前に突如イタリア人と結婚してイタリアに移住し、LINEでつながっている皐月という友人がいます。飛行機恐怖症を押してみつ子は皐月をイタリアに訪ねますが、異邦の地を訪ねる冒険と皐月との久々の邂逅、そして、皐月を取り囲む環境への違和感など多くのものがみつ子に押し寄せて来ている間もAは消えていました。

初めて年下の彼氏とホテルに泊まることになった時、追い詰められたみつ子の幻想の中で、Aは浜辺の場面を用意し、海パン姿で登場し、みつ子に穏やかに別れを告げます。つまり、Aとの別離が成長として描かれているのです。

先述のようにメタ認知の存在は寧ろ望ましいぐらいのものですから、成長とともに消えてしまう必要はありません。みつ子のように依存してしまった上に、実世界の他者とのコミュニケーションが断絶することだけが問題であるだけだと思われます。その意味で、できるなら、Aともフラットな関係性を見出して終わることはできなかったことが残念に思えます。

他にも、この作品にはやや残念な点があります。たとえば尺の問題です。皐月を訪ねて行くイタリアは撮影中に通称「武漢ウイルス」が全世界的に流行したためロケができなくなったとパンフにあります。国内ロケでイタリアを演出したのだということのようです。それはそれで成功しています。しかし、その勢いが余ったのか、何か冗長なのです。この作品で本当に133分もの尺が必要だったのかと考える時、やはりイタリアのエピソードは(旅行準備の場面も含めて)妙に時間がかかり過ぎているように思えます。

他にもレビューでもポツポツ指摘されている設定上の無理っぽい点があります。それは、全編を通して登場する後にみつ子の交際相手になる弱気であるのか何かよく分からない、ボーッとしているような営業担当者の男の配役です。林遣都が務めています。この男優を映画作品の中で私は殆ど認識したことがありませんでした。辛うじて『パレード』の彼と『花芯』が記憶にあるぐらいです。他にも『闇金ウシジマくん』や『悪の教典』や『グッドモーニングショー』などは観ていますが、全く記憶にありません。しかし、最近、中野信子の『サイコパス』を読んで身近な自称サイコパスの女性の性格の在り様とに違和感を覚えたので、サイコパスをよく知りたいと思いDVDで観たテレビドラマがあります。『ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子』です。ここでの彼は準主役級の心療内科医にして犯罪者という役柄ですが、気弱な感じの上に、上手く知性が載っていて、非常に好感が持てる役柄でした。配役の妙と言う感じがします。それにくらべて今回の作品では単にボーッとしたややコミュ障系の若手営業マンでしかありません。

さらに、設定上、31歳のみつ子に対しての年下の彼氏と言う設定です。役者の実年齢では、のんが27歳で彼が30歳です。捻じれ状態です。もちろん、この程度のねじれなど、たくさんの映画やテレビドラマの配役上、多々発生していることでしょう。しかし、のんの初めての三十路キャラがAとの「心理劇」でギリギリちゃんと成り立っているはずだったのに、どうも彼とみつ子が対峙すると、みつ子が年上には見えないのです。役柄上精神年齢が若いから自然とそう見えるので正解…ということかと、鑑賞中も考える自分が明確に意識できてしまうぐらいに、あからさまに違うのです。他に誰か適任者はいなかったのかと思えてなりません。

それらの気になる点や不満な点はいくつかありますが、全体的に(のんや前述の臼田あさ美はもとより、皐月役の橋本愛や、片桐はいり、そして私が初めて知った女性芸人で本人役で登場する吉住まで)女性陣の好演が目立ち、とても楽しめる作品になっています。DVDはもちろん買いです。

追記:
ネットの映画紹介記事などでは、「のんと橋本愛の『あまちゃん』名コンビが復活」的なキャッチが目立ちます。しかし、本作で橋本愛の出番は(冗長なと感じるぐらいの)イタリアでのシーンでしかありませんから、コンビ的に観たてられる場面は非常に限られています。また、『あまちゃん』のみならず、『告白』でも『アバター』でも二人は共演しています。私は全く観ていませんし関心も持てませんが『あまちゃん』人気にあやかろうという無理筋な販促感がアリアリな打ち出しが不自然で不愉快に感じられます。