『ホテルローヤル』

波瑠を観てみたいと思えたのは、多分『ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子』の影響です。結構ハマっています。『ON 異常犯罪捜査官・藤堂比奈子』の波瑠はサイコパスなので、無表情であることが多く、そのぎこちなさや不自然さな表情が際立っていますが、この作品でも、ラブホテルの経営者の立場をついでも尚、ずっと違和感を抱え続けている無機的な表情を、波瑠はここでも遺憾なく披露しています。

12月最初の木曜日の午前10時からの回を歌舞伎町のゴジラ生首ビルの映画館で観て来ました。11月中旬の封切から約4週間が経って、大分上映館が減ってきました。23区内では5館しか上映していず、新宿では勿論この館1館だけです。上映回数も1日1回で来週半ばには上映終了が決まっています。

シアターに入ると全部で10人ほどの観客でした。6人が男性単独客で年齢は私と同じぐらいにまあまあ集中しています。この作品のファンというよりも、歌舞伎町で過ごした夜の余韻やら惰性やらに浸っている人々と言ったイメージです。男女カップルも1組、結構高齢でそれなりに高そうな衣類や装身具を纏っている年齢相応の太さになったような感じのラブホテル明けと言った感じの二人でした。ラブホ明けなにラブホテルの映画を観るのだとしたら、余程ラブホテル体験に思い入れが湧いたのかもしれません。

単独客の女性は二人です。一人は20代後半から30代後半。店を通さない個人風俗系か、単なる家出女子なのか、かなりヤサグレ感と言うか傷んでる感があります。髪はやや赤がかったチャパツで、オレンジピンクのブルゾンのようなものを着込んでいます。そのブルゾン風の物体の表面の皺や汚れが地の色のせいでシアター内の暗がりでも明確なぐらいで、シアターのど真ん中ぐらいに陣取った彼女自身を目立たせていました。

もう一人の女性は30代半ばといった感じのトレーナーにコロコロのダウンジャケットを着こんだレスラー型の体型と言った感じでした。こちらは映画開始直前に入って来て、最後列に座る私の前を通って、最後列中央ぐらいに陣取っていました。やはり、この館だからこその客層を満喫できる時間帯です。

ラブホテルを舞台の中心に据えた映画はたくさんあります。『ラブホテル』というそのまんまのタイトルの日活ロマンポルノ相米慎二監督作品もありますし、『LOVEHOTELS ラヴホテルズ』というオムニバス作品もあります。二作とも嫌いではありません。『さよなら歌舞伎町』も比較的最近劇場で観た一本です。この映画は『さよなら歌舞伎町』同様、利用客ではなくホテル運営側の人々の物語です。『さよなら歌舞伎町』は私の好きな街である新宿の風景が出る点で楽しめはしましたし、南果歩の怪演も楽しめはしましたが、何かそれだけと言った感じの映画でした。結構詰め込み過ぎ感があって所謂「グランド・ホテル形式」の物語構成が辛い状態になっていたのが原因かもしれません。

それにくらべて本作は(原作は『ホテルローヤル』を巡る7つの短編集なのだとパンフレットに書かれていますが)波瑠演じる主人公を軸に短編の物語の多くが紡がれている形になっていて、物語の構成にパワーがあります。ラブホテルの物語と言うよりも、ラブホテルと言う職場でもある場所に吹き溜まり寄り添っている人々の心象風景を描いている作品である所が違うのだと思います。

色々な人々の物語が登場しますが、勿論、子供の頃から「ラブホの娘」とからかわれ続けて、美大進学でその生活から逃げ出そうとしていた主人公の若い女性がラブホテル経営者として仕事や職場を切り盛りすることの「当り前さ」に向き合っていくプロセスや、さらに、利用客が辛い日常から逃避する場としてのラブホテルの意義に気づいて行くプロセス、そして、それを生業として娘に残そうとした父親との和解のプロセスなど、丁寧に機微が描かれていて、物語全体の主軸を成しています。

この肌理の細かさは単に原作が直木賞原作作品で、かなり原作に忠実に作られた作品であることもありますが、やはり、極めつけの要因が原作者の体験をベースにしていることによって成立しているのは疑いようがありません。

ウィキには…

「「新官能派」のキャッチコピーでデビューした性愛文学の代表的作家であるが、人間の本能的な行為としての悲哀という描き方であり、過激さは低い。実家は理容室であったが、15歳のときに父親が釧路町に「ホテルローヤル」というラブホテルを開業し、部屋の掃除などで家業を手伝っていたという経験が性愛への冷めた視点を形成したという。代表作『ホテルローヤル』をはじめ、いくつかの作品に同名のラブホテルが登場する。」

とありますが、この作品では性愛よりも、愛から始まった関係性がその後どのように変質していくのかを冷徹に描いているような気がします。

同じく直木賞を受賞した馳星周の『少年と犬』なども同様の扱いを受けていましたが、北海道出身・在住作家の作品の映画化とあって、札幌のローカルTV局の番組ではこの映画作品が紹介されていて、その中のインタビューで原作者は自分の人生を「ラブホテル経営から結婚に逃げ、その結婚の育児と家事から小説に逃げ…と逃げてばかりの人生だと思う」と自分の人生を評しています。原作者も物語の舞台の釧路出身で、親が床屋経営から億単位の借金をしてラブホテル経営に転向したのだと言います。そして、20代半ばの結婚まで、高校時代からずっとラブホテル運営を手伝っていて、自分がいつかこのラブホテル経営の事業を継ぐのであると思っていたと言います。

実際に、波瑠演じる主人公も大学受験に失敗した高校卒業時のタイミングからいやいや成り行き上、ラブホテル経営を手伝うようになります。そのきっかけは、単に受験失敗だけではなく、出入りの酒屋の若い男と母が不倫していて、とうとう家(=ラブホテル)を出て行ってしまったことです。オーナーである父も遊び歩いては、時たまパチンコの景品を山ほど抱えてふらりと現れたりします。

(酒屋の軽トラで去って行く妻を上下スエット姿で追い、とぼとぼとホテルの入口に戻る父は「情けねぇなぁ」と呟いています。怒りではなくそんな感情を持つのかと思っていたら、そのように思える創業の経緯がエンディング近くで描かれていました。詰まる所、この父なりにきちんと家族を大切にしているはずだったということなのです。)

グランド・ホテル形式ではありませんが、仏事を終えた熟年夫婦や高校教師とその女子生徒などの物語。そして、主人公の父と母が知り合い、父がその当時の妻を捨てて主人公を身籠った母と再婚し、漠然とビッグになるという野心の発露として、ラブホテルを建設し、母を女将の座に就かせる物語。そして、その幸せの象徴のような女将の座が、父がラブホテルに徐々に寄り付かなくなってくると、単なる砂を噛むような日常の牢獄と化して行き、酒屋の店員との泥沼の不倫に陥って行く物語。

主人公も松山ケンイチ演じるアダルト・グッズの営業担当者への結果的に成就する機会を逃したままの恋愛感情を抱いていたり、父との確執が父の死の床で初めて溶けて行ったりなど、さまざまな繊細な物語が織り込まれています。各々が先述の「愛」から始まった関係の変質のしようを丁寧に描いているのです。

色々なことを考えさせる内容です。自分の商売の話も考えさせられます。今、日本の少なくない数の中小零細企業は経営者が高齢で後継者もいず、利益が上がっていても廃業せざるを得ない状態に追い込まれています。当然ですが商売柄、零細事業の承継には関心があり、高校教師と女子高生の心中事件が引き金となって経営が急激に悪化したことはあるものの、波瑠演じる主人公が父から受け継いだこのホテルを手放して釧路の街のいずこかに車で去って行くエンディングは、残念に思えました。

ホテルの運営組織としてみると、まず創業当初からの二人しかいないパートのうちの一人に問題が発生します。札幌らしき大都市に居て左官をやっているはずの息子が、実は暴力団に入っていて死体遺棄で検挙されます。そのショックからこのパートが姿を消します。(劇中、関係性は続いていますが、その後、勤務しているシーンが見当たらなかったように思います。仮に勤務していても、頻度が大きく落ちているという状況であろうと思われます。)すると、今度は母が女将だったのに、いきなり駆け落ちでいなくなります。その穴を主人公が18歳で埋めます。父はパートが一人になり、母が去った当初は、それなりに現場で働いていますが、やはりまた元の生活パターンに戻ります。時々、切れた電球を取り換えるなど、用務員のような仕事をしていますが、心臓病のような胸の末期的な病気が進行し、命を落とします。これで波瑠と古参パート一名になってしまいました。

収益的にどのような状況であったのか分かりませんが、何かかなり早い段階から手が打たれるべきでした。働き手の余剰を或る程度確保しておくべきでしたし、コンセプトをもっと明確にした上で(と言っても、各部屋を世界の年のイメージにするとかいうようなそういうことではなく、組織のミッション設定のようなコンセプトです。)何らかの売上向上策も実施されるべきでした。コンセプトが明確になれば、余計なことは逆にしなくてよくなりますから、何らかの合理化による経費削減も可能であったのではないかと思われます。

時代背景や場所も違うので比較が成り立ちにくいですが、マルサが入るような儲かり様の山崎努演じる『マルサの女』のラブホテル経営者とは雲泥の違いがあります。そのような経営の選択肢を実現できる人間を、自分はオーナーでありつつ、経営者として招き入れると言ったことも可能であったのはないかと思えます。

心中もその二人の関係が関係で、おまけに田舎だから大ニュースになりますが、それさえも、今時、長くネットに載り続けることはありません。ましてホテル側に非はなく、寧ろ営業を妨害されている被害者の立場ですから、広報戦略をきちんとすれば長期的な問題にしないことはできたでしょう。資金余力を山崎努の経営者の10分の1でも作っておけば、そこに融資などを追加して、いっそ心中事件を機会に建て替えをしてしまうということもできたかもしれません。業態転換などをしてしまうこともできたでしょう。

映画の冒頭で廃墟になったホテルに写真撮影に来る二人が登場してプロローグの物語となっています。つまり、この美しい釧路湿原を見渡すラブホテルは廃業してかなりの長い間、廃墟として打ち捨てられているのです。繰り返しになりますが、何かが為されるべきだったものと思えてなりません。経営は単純で当たり前の行為の積み重ねからできていますが、それは常にお客様目線の変化を積み重ねることで、それ以外の積み重ねはどれほど真面目にどれほど誠実に行なおうと、淘汰の波が寄せて来ます。それが分かっていない普通の人の起業は、現代ではかなり危険と言わざるを得ません。それがモロに表現されている作品でもあるのです。

エンディングで主人公は車でホテルを後にし、若い頃の両親が夢に溢れて新生活を始めた釧路の街の風景を観て回り、いずこかに去って行きます。そこに何度も繰り返しカバーされている往年の名曲『白いページの中に』が流れて、パンフに監督が書いている通り、この何もすることができない現状からの逃避をやたらに眩しく前向きなものに思わせることに成功しています。それはその通りですが、単にラブホテルの経営と所有を切り離してしまい、自分はオーナーとなっていればありとあらゆる悩みもわだかまりも自分のものとして背負わなくてよかったのではないかと思えてならないのです。

パンフレットを見るとホテルローヤル開業は1990年となっています。2009年に波瑠がホテルで働き始める頃、テレビでは昔ながらの千秋庵の山親爺のCMが馴染み深い歌と共に流れていたりします。北海道で長く暮らした経験がある人間には懐かしい風景がそれ以外にもたくさん登場します。原作者は釧路を舞台にした物語を書くことが多いようですが、釧路を知っている人間なら余計のこと、エンディングに近い所での街の全景以外にも多数の既視感溢れるシーンが含められているのだと思います。原作者は結婚後夫の転勤に伴って、私が育った街、留萌も含めて北海道のあちこちを転々としたようですが、その原作の持ち味を映画は忠実に再現しようと努力していて、北海道の過去数十年単位の生活風景が細かく描かれているように思えます。秀作だと思います。DVDは間違いなく買いです。

追記:
 教師と心中する女子高生を伊藤沙莉が熱演しています。やはり、演技が上手過ぎて目立ってしまいます。劇中で同様の芸達者は父親役の安田顕で、私は『ファブル』以来の好演だと思っていますが、残念ながら伊藤沙莉と安田顕がセットで出る場面はなく、二人が拮抗するようなことがないので、各々がその場面で妙に輝いていて、レリーフの絵柄のように浮上がって見えます。伊藤沙莉は『生理ちゃん』でまさにその状態で、今回もそうでした。余りにチョイ役の『ブルーアワーにぶっ飛ばす』では気付けませんでしたが、最近、メルカリや東京ガスのCMでさえ、すぐ彼女が認識できるレベルになりました。ネットニュースでさえ、彼女が比較的最近交際相手と分かれたという記事のサムネイル画像が、パッと見で目に飛び込んでくるようになって、特にファンでもないのですが、名優として自分の無意識に書き込まれていることを自覚させられます。
 考えてみると、この作品のPVにも伊藤沙莉は登場しているので、この作品を観たくなった無意識的理由になっているのかもしれません。この追記を書いていて気付きました。