映画紹介サイトで何を観ようかと上映作品のリストを眺め始めて、最初のページの一群のサムネイルの中に、着物を着た色白の黒髪美人が目隠しをされている美しい画像を見つけました。彼女は和風建築の暗い部屋の窓枠の近くに居て、窓の木枠の外には生茂る樹木が見えています。これは、谷崎潤一郎の作品などの映画化作品かななどと思ってクリックしてみると、なんとその美人は人形でした。
この映画は人形劇でさらに怪獣映画なのです。その尺はたったの35分です。最近名前が変わった元MovieWalker によれば、単純に「巨大な怪物と人間たちの物語を人形劇と着ぐるみとミニチュアで描く佐藤大介監督の短編」と書かれています。私が見た中でも多分最も短い解説文です。おまけに映画のストーリー紹介の欄が、理由は分かりませんが、丸ごと空欄にされていて、全くストーリーが分かりません。そこで映画のPVを見てみることにしました。
衝撃の世界観です。先程の和服女性は琵琶を弾き、夜更けに湖畔で巨大怪獣に身を寄せる理解者です。屋外のシーンはほぼすべて夜ですが、花火が空を彩る下にキグルミの巨大怪獣は屹立し、村の建物を容赦なく破壊していきます。PVが圧倒的であるのは音楽の効果も非常に大きいものと思いました。音楽がまた美しいのです。この曲と映像の調和は、何かに似ていると考えてみたら名画『イノセンス』でした。
さらに調べてみると、本来10月31日の公開なのに、10月半ばの時点で上映されています。この映画の公式ウェブサイトを見てみると、「2020年 全国順次公開」と書かれていますが、公開に関する情報は10月10日からの横浜の1館での1週間余りの公開と10月31日からの下北沢の1館の約1ヶ月の公開だけです。映画紹介サイトに書かれている10月31日公開の話は少なくとも現時点では下北沢の1館だけのようで、現時点の「先行上映」もまた全国でたった1館なのです。俄然興味が湧いてきました。
そこで、早速この映画をウェブで発見した翌日、横浜駅から1駅の住宅街のど真ん中のような場所にある、多分、私が過去に行った中で1、2を争うほどの小規模の超ミニシアターに行ってみることとしました。遥か以前に商圏調査のエリアの辺縁の場所として一度だけ降り立ったことのある駅から、歩くこと約10分。水曜日の晩7時からの回です。ちなみに、その日は、『ゴジラVSビオランテ』が午後5時から1回、そしてこの『狭霧の國』が1回だけの上映で、それ以外はミニシアターで何も上映されていません。怪獣映画シリーズと言うことなのだと思いますし、一応山奥の湖つながりと言うことも配慮された結果であろうと思われますが、結構無理のある組み合わせです。
行く前にウェブで見ると、「客席数28席という日本最小を自負(笑)しながら…」とあり、さらに、通称「武漢ウイルス」の関係で隔席対応にしてたった15人しか入場させないとのことでした。これでは、行っても満席だったらそのまま帰ってくることになりかねないと思い、上映開始の1時間近く前にシアターに着き、早々に現金1500円を支払いました。私は最初の観客だったようで、ロビーにはシアターからビオランテと死闘を繰り広げるゴジラの咆哮が漏れ聞こえていました。結局シアター内に揃ったのは、私も含めてたった4人の観客で、全員男性単独客で、私以外はなぜかガタイの良いおっさんばかりでした。年齢は私が下から二番目であったように思います。どうも近隣の住人と言った感じに私には見えました。
『脱兎見!…』で人形劇映画は初めての登場です。人形劇と言うと、私は子供の頃にテレビで見ていた『連続人形劇 新八犬伝』とその後継番組の『連続人形劇 真田十勇士』のイメージが強く、大人になってから見るものではないように感じていました。これらの人形劇の物語も面白く、人形もよくできており、さらにその動きなども練られていましたが、それでも、わざわざ人形で描くことの意義が、当時の子供時代の私でも少々疑問に感じられていました。しかし、この『狭霧の國』の人形たちはPVで見た時点で見栄えがダントツに異なります。一つは特殊メイク用素材によって造られた顔面の生々しさであるかと思います。それともう一つの大きな要因は、往年の人形劇に付き物の人形たちの手を動かす支持棒が全く見当たらないことです。
おまけに人形達の動きが妙にリアルです。たとえば、オープニングは、フラグが立ちまくりという感じで、大八車を引いた村人が渓谷に渡してある吊り橋を渡って行くシーンで始まります。このシーンから既にカット割りも緻密で、背景音楽も良く、映像そのものがスタイリッシュです。ちょうど橋のど真ん中に来た辺りで、霧は深まり、その中から咆哮が轟きます。そして、その村人の横顔がアップになり、村人は大八車を止めてゆっくりと見てはならぬものを予期しながら恐る恐る霧の中空に視線を投げるのでした。
勿論、恐る恐るの表情変化は人形には(多分)ないはずです。単純に照明の度合いや首の微妙な回転だけのはずではないかと思えるのですが、本当に人間がやっているかのような精巧な「演技」です。想像された人形劇の人形のちゃっちさのようなものがほとんど気になりません。
また、時代はSLが走っている頃で舞台は大分であるとキャプションが出ていました。サムネイル画像で見た建物は土蔵で、着物の盲目の女性は少女で、そこに隠遁させられているのでした。舞台はかなり山深い村ですが、イメージだけで言うと、SLで一人の男性(彼女の従兄弟の若者)がこの村に都会から訪れるシーンから始まるので、何か私が大好きだったテレビの『古谷一行の金田一耕助』シリーズを彷彿とさせます。
短い尺の中に物語も濃密に詰め込まれていて、盲目の少女、多紀理(たきり)が因習をそのまま保つ村の束縛から解放される物語として完成しています。人物の背景要素を掘り込む対象を多紀理のみに集中させた所も物語がしっかりと構成された要因であろうと思えます。
因習の村からも家族からも死んだものとされて土蔵に蟄居させられている多紀理と巨大怪獣は、盲目であることと、誰からも存在を望まれていず、居場所がないという共通点を持っているものとして物語は始まり、因習にとらわれた人々の村を灰塵に帰して、巨大怪獣は最後に残された場所である湖に戻り、多紀理は「これからはどこにでも行ける」と従兄弟の若者との大きな自由を獲得して物語は終わります。
短い尺なのに物語もきちんと成立しており、人形は妙に生々しく、キグルミ怪獣は全く安っぽくなく、音楽も音響も非常に効果的で、絵はスタイリッシュそのもので、カットは細かく刻まれていて見てて飽きず、本当に優れた作品です。時間長あたりの物語の濃密度、劇中に描かれる世界観の完全さ、そういった点で見たら『シン・ゴジラ』が児戯に見えます。DVDが出るなら絶対に買いです。
追記:
この映画を観ることにして、「狭霧」という言葉はどういうタイプの霧の意味なのかと調べてみました。今まで私にとっての「狭霧」は艦コレの愛らしい駆逐艦では全くなく、『週刊少年ジャンプ』に連載していた『ゆらぎ荘の幽奈さん』のツンデレ少女忍者です。
調べてみると、狭霧の意味は「霧」とのことで、「さ」はほぼ無意味の接頭語とのことでした。敢えてこの接頭語の意義をネット上で追求すると「名詞・動詞・形容詞に付いて、語調を整え、また、語意を強める」とのことで、やはりほぼ無意味です。他に同様の「さ」がつく言葉を探すと「さ夜(よ)」がありました。「さよ」は漢字なら「小夜」だと思われますが、「さぎり」はなぜ「狭霧」なのかはよく分かりません。