『BURN THE WITCH』

10月2日(金)公開の作品です。10月5日(月)の午後14時55分の回を新宿のピカデリーで観て来ました。1日5回もやっていますが、上映館は新宿でも1ヶ所だけで、関東圏でもあまり多くなく、23区内ではたった4館での上映です。ちなみに池袋の映画館では1日5回の上映が連日為されていますが、18日に早々の上映終了が予定されていると、映画紹介サイトには書かれています。

ピカデリーに着くと、平日で、特に祝日でもなく、特に学生の休みの時期でもないものと思いますが、大学生から若手社会人層とでも言った感じの20代の人々がごっちゃりとロビーにいました。1日6回から7回も上映している人気京アニ作品の『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のほぼ同時刻に始まる回を観る客と若手のその手の層の人々は二分されていました。グッズ売場でも、売り切れの表示が半数以上を占めていてほんの数タイプしか残されていない『BURN THE WITCH』のTシャツのカタログ・ページを指差しながら、ワイワイ言っている若者も数人ではありませんでした。

座席表で観た際にも、隔席対応のキャパシティに対して、7割以上は席が埋まっている状態でしたが、シアターに入ってからざっと見渡した感じでは、70人以上は居たように思います。

この作品のファン層はどのような人か分かりませんでしたが、モロにオタクという感じではなく、どちらかというと、ライト・オタクとでも呼ぶべきであるような客層に見えました。年齢層は圧倒的に20代が多く、30代以上は男性で(私も含めて)ほんの一部でした。男女はほぼ半々に見えましたが、女性の方は男性よりも若い層への偏りが激しいように見えました。男女共にカップルの片方か単独客か二人連れか…といったバリエーションがありますが、その中でも、同性二人連れは多く、逆に単独客の比率が比較的低いように感じられました。

作者の久保帯人は『BLEACH』の作者として有名です。累計発行部数1億2000万部以上のコミックの売上で全世界でアニメもゲームもヒットしたと言われています。私も10年ほど前に米国に1週間弱行った際に、オレゴン州の田舎のインター・ステート・ハイウェイ沿いのショッピング・モールのDVD店に行った際に、『BLEACH』のDVD作品がズラリと並んでいるのを見て、ギョッとした覚えがあります。『北斗の拳』ほどではないかもしれませんが、かなりグダグダ感が発生しながらもズルズルと連載が続いて、原作はギリギリ面白さを保ちつつ、終焉を迎えました。私はそれなりにこの原作コミックのファンであると思っています。登場人物を詳細に語れるほどのファンではありませんが、全74巻に及ぶ全編の大枠の筋を話せるぐらいには理解があります。ちなみに私が一番好きな『BLEACH』の登場人物は四楓院夜一です。

この原作のファンはかなり広い年代層に及んでいます。私の周囲でも現在56歳の私と、40代の知人の人々が結構盛り上がって『BLEACH』について語ったことも1度や2度ではありません。連載開始は2001年でもう20年近く前のことですから、原作コミックのファンと言うことであれば、現在30代以上の人々と言うことではあると思います。

その久保帯人が『BLEACH』連載終了後2年を経て、『週刊少年ジャンプ』に2018年に読み切りとして発表したのがこの作品です。私もこの作品を誌上で読みましたが、パンフに書かれているような「全世界で大きな反響を呼んだ」というような作品には見えませんでした。この作品のファン層はどのような人々なのだろうと思っていましたが、先述の通り、シアターに入ってみて、若い層に人気が大きいものと分かりました。このようなファン層を確かめてみるというのが、たった1時間の尺のこの作品を劇場でちょっと観てみたいと思った最大の理由かもしれません。

誌上で読んだ際にこの作品が今一つ魅力的に思えなかった最大の理由は、物語の設定にあるように思えてなりません。設定上の幾つかの問題があるように感じられます。一つ目は、『BLEACH』を知っている人間にとってみると、物語の設定がやたらに『BLEACH』と酷似していることです。その点は、この作品のパンフにきちんと表組みにされて説明されています。

『BLEACH』に登場する「尸魂界」の世界は、本作品では「リバース・ロンドン」の世界と構造上全く変わりませんし、『BLEACH』でズラリと個性豊かなキャラが登場する「死神」達は本作では「魔女/魔法使い」そのものです。さらに、『BLEACH』での初期の敵役である「虚」は、「ダークドラゴン」で、場合によっては結構似ている造形であることさえあるぐらいの状態です。それが、既に表にまとめられているのです。

さらに魔女や魔法使いは技を出すために、名詞句の羅列の呪文を言わなければならないようですが、それは死神達が用いる「鬼道」とほとんど変わらないように見えます。死神達は熟達してくると、呪文も言わず、単純に鬼道の技の番号を言うだけで技を発動できる状態になり、「詠唱破棄」と呼ばれる技術とされています。きっと、本作でも連載が続けば、そのような技術を魔女や魔法使いが使い始めるのかもしれません。(現実に、後述するように、本作品の主人公達の上司は呪文も言わず『幽遊白書』の霊丸のような技をいきなり発動しているように見えました。)

他にも、死神の世界には複雑な役職構成の組織があり、出世も強く意識されていて、部署間や部隊間に軋轢や共闘があったりします。これも、まだ組織がきちんとたくさんの尺で描かれていないものの、明らかにそのようなものが本作の魔女・魔法使いの世界にも存在します。このように、本作品は見ようによっては、『BLEACH』のまるまるパクリ的な世界観です。勿論、見かけ上の世界観はロンドン市内が舞台となっていて、登場人物達の服装なども、そのようになっていますが、その舞台装置は主に建造物ばかりで、たとえば、ロンドン名物の二階建てバスや各種のロンドンをビジュアル的に連想させるような存在はあまり見当たりません。世界観の充実度合いも、このように『BLEACH』を知っていると、今一つで、どうも優れた点が見当たらないのです。たとえば、井上雄彦が『SLAM DUNK』で一世を風靡した後、『バガボンド』という全く別世界を広げたことなどに比べると、全然驚きも魅力も変化も欠けているように思えてなりません。

原作コミックが今一つ魅力的に思えなかった理由は他にもあります。主人公の女子二人が、どうも魅力的ではないということです。ニニーとのえるの二人です。基本的に『BLEACH』でも、主人公クラスに近い所で女子は存在しますが、男女共に登場人物数が膨大で、一人ひとりがあまり詳細に描かれません。一応キャラ立ちし個々の魅力がそれなりにはあるのですが、特に女子は男性陣に比べて精彩を欠くキャラばかりです。この『BURN THE WITCH』の劇場アニメでも原作コミックのセリフは多くの場合そのまま転用されていますが、原作のネームに表出する女性のキャラ形成が、私には元々あまり深みが感じられません。

ニニーは典型的なエヴァで言うアスカキャラですが、特に(少なくとも現時点の物語の展開の中では)何かの闇を抱えている訳でもなく、何かの想いがありそうでもなく、今一つ、人格に重層感がありません。私はエヴァでもアスカが大嫌いなキャラですので、それより深みがないニニーは全く好感が持てませんでした。

のえるは淡々とした冷静な対応がウリの子ですが、一般にこの手のキャラは、私の認識では、細身のショートのヘア・スタイルの子が一般的です。少々非人間的なレベルまで行ってしまっているものの、カテゴリー分類だけで言うと、たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門有希とかオリジナルのエヴァの綾波レイなどが同カテゴリーと一応言えるかと思います。このカテゴリーにおいて、のえるは体型は明らかに豊満系ですし、髪は腰にはぎりぎり届かないぐらいのかなりのロングで、スカートは太ももまるだしの超ミニです。その上で、久保帯人得意の不愉快顔か無表情かのいずれかが殆どのキャラです。映画ではラストでワン・シーンだけ唐突に恋愛劇を演じさせられていますが、どうもとってつけたような感じで、久保帯人の女性キャラの限界を感じないではありません。

元々久保帯人の人物描画では女性が艶やかさが生まれないという風に解釈することもできます。綾波レイが名言の「あなたは死なないわ。私が守るもの」を抑制の効いた口調で言うと滅茶苦茶に痺れます。同様のセリフをのえるも保護対象の男に向かってぼそりと呟くシーンがありますが、これだけ過剰に女性性を強調したような外観でいて、尚、全くゾクリと来ないのは、一体なぜだろうと考えさせられます。古くは桂正和、もう少々後なら河下水希などの描く女性像などの言動の深みも艶も感じられない中で、ニニーとのえるの女子バディモノに、どうも魅力が感じられないのです。

『BLEACH』の魅力を語る時、死神達の個性豊かなキャラと、その愛用の刀(斬魄刀)にも存在する名称と個性、さらにその卍解と呼ばれる形態変化とその漢字だらけの名称など、覚えるべき個性と名称が山盛りで、それがファンの間での『BLEACH』を極める「道」となっています。この作品は、先述のように『BLEACH』と同構造が見え見えの設定であるのに、そう言った記号論的な面白さがほぼ皆無であることも、色褪せて見えることの大きな理由かもしれません。

私はコミック作品から入ることが多く、それで十分に知っている作品のアニメはあまり見る気が湧きません。声優の声の質がこちらの持っているイメージに合わないことが主たる理由です。たとえば、『ジョジョの奇妙な冒険』は、かなりファンである方だと思いますが、全くアニメに関心が湧きません。まず一般に人気と言われている第三部がそれほど好きではないということも理由ですが、それ以上に、特に承太郎の声が私にはあまりにも低すぎるように感じられるからです。

あとは、効果音や何かの戦闘技が炸裂する際のエフェクトなども、違和感が湧くこともよくあります。たとえば『鬼滅の刃』も私は結構初期の段階からまあまあ展開を語れるほどの理解をしていますが、アニメのPVを見た瞬間に、主人公ら三人の声を聞いて湧いた違和感が非常に大きかったので、全く関心が湧かない状態でした。さらに、PVをどこかの店頭のモニタで少々観ていたら、剣術の技がコミックのコマの中で静止画で演出される場合では問題を全く感じませんでしたが、アニメで観て波やら風やらが実際に迫ってくる状態の演出にはかなり無理を感じました。

こういうことがどうも気になるので、コミックでそこそこ好きになった作品のアニメ作品はあまり見る気がしません。寧ろ、実写化作品の方が余程乗り気になりやすいと思います。そういう意味では、今回の作品を観る気になったのは、或る意味例外的ですが、幸いにしてこの作品はまだ『週刊少年ジャンプ』での掲載回数も少なく読み込むほどの量でもなく、その結果、キャラクターのイメージも明確に私の中にでき上がっていませんでした。

アニメになったこの作品を見て良かった点も幾つかあります。一つはリバース・ロンドンの街並みは、かなり美しい背景映像となって描かれていて、コミックの際に比べて世界観がより鑑賞に足るように思えました。さすがに、『まどマギ』のような芸術性はないものの、背景風景の美しさは十分あります。

もう一つ、アニメで観たメリットがあります。少なくとも私には連載で読んだだけでは細かい設定がが拾いにくい内容でした。たとえば、シンデレラと呼ばれる伝説のドラゴンが遠目に見ると羽から鱗粉のようなものをまき散らすと、それらが大爆発を起こすこととなっています。ところが遠目に見た鱗粉のようなものは、実際には結構サイズが大きく、スマホ大ぐらいあります。誌上で読んだ際には(私があまり注視していないということが主要因とは思いますが)その辺のサイズ感が分からないままでした。つまり、私には遠目でシンデレラが鱗粉をばらまき周囲で大爆発が起きているのと、何かスマホ大の塊が主人公達の鼻先に飛んで来て、主人公達が大騒ぎをしているのが、関連のある出来事の様子には見えなかったのです。それが今回のアニメで明確にその攻撃の構造が分かりました。

主人公達の上司は昼行燈のようなおっさんですが、実際には視認さえ難しいような離れた所から問題のシンデレラを一撃で打ち倒せる『幽遊白書』の霊丸のような技を繰り出せます。本部の建物の中から、ガラス窓を貫通してシンデレラを仕留めます。この昼行燈風のおっさんはその実力を隠しておきたいようで、そのガラスには弾痕が小さな穴になって残っていて、そこになぜか分かりませんが付近にあった段ボール箱を積んで穴を誤魔化しておきます。コミックでは、おっさんの後ろに窓脇の段ボールが見えるだけで、それが何を指しているのか分かりませんでした。アニメでは、その段ボールを避けて弾痕が発見されるシーンがきっちり盛り込まれているので、ここでも私は「ああ。そういうことだったのか」となりました。

他にも、登場人物達がぼそりという伏線めいた一言なども、かなりの量が私にはイミフなままに掲載作品は通り過ぎていたように思います。それらの殆どは今回のアニメを観て氷解しました。「ああ、こういうことだったのか」が観ている間に10回近くあったように思います。週刊誌で描かれていた話の内容がそのまま映画化されて、それ以降の話は現状で週刊誌上に登場していません。今回の映画の人気度合いで今後が決まるのかもしれません。私は、行き掛かり上、買った『週刊少年ジャンプ』にこの作品の今後作が載っていれば惰性で読むと思いますが、特に好きになりそうには思えません。ただ、アニメ化されれば、今後劇場で鑑賞する価値はありそうには思えました。けれどもDVDは不要なように思えます。