『それはまるで人間のように』

 9月5日の封切から1週間余り。全国でもたった1館。1日1回の上映しかやっていず、それが池袋西口の古い映画館だったので、そこに赴くこととなりました。上映開始は午後8時55分。映画館のサイトを見て、直前に『はぐれアイドル 地獄変』が上映されることを知り、かなり悩んだ挙句に、それとセットで二本連続での鑑賞ということになりました。

 二本梯子鑑賞のきっかけとなったこの映画を知ったのは、鑑賞作品候補が少なくて困ってしまって、映画サイトで上映作品をざっくり見渡していた際でした。タイトルの奇妙な響きにちょっと引き止められて、この作品の解説を読むこととなりました。

 最近名前が変わった元MovieWalkerによると…

「指一つで創造と破壊ができる能力を持つ鈴木と共に暮らすハナは、その力に頼り仕事をしない鈴木に窮屈さを感じていた」

とあって、それ以外の情報はあらすじの枠にも殆ど存在しません。そして、サムネイル画像は主人公らしき若い二人が夜の歩道橋の上で何か戯れているような様子の画像です。「ああ、これはきっと、日常感がバリバリに溢れた中のSFだな」と想像しました。たとえば、小説で言うと、私が中学時代から高校時代にかけて読み耽った多くの筒井康隆の短編小説のように、私は日常の中の「非日常」からさらに突き出してしまって「非現実」の世界にまで届いてしまったような物語の展開が嫌いではありません。

 それは映像作品でもそうで、変な幻想的な話に逃げず、日常的風景の中に異常な物語を埋め込んだような話がそれなりに好きです。流石に名画の『サクリファイス』はカットも極少でやり過ぎ感がありますが、当たり前の日常の中でほぼ全く特撮も使わず、描かれるSFの物語には、抑制のきいた面白さがあるように思えます。たとえば比較的最近観た中では、『散歩する侵略者』は名作です。あとは以前観た『幻肢』も名作ですし、ちょっと演出に難があるように思えましたが、『リアル 完全なる首長竜の日』もまあギリギリ範疇でしょう。『サクラダ・リセット』や、最近ハマった『SPEC』シリーズや『SICK’S』シリーズもまあまあこの路線の中にギリギリハマるかもしれません。

 SFというよりもサスペンスとか犯罪モノの色彩が強いですが、『不能犯』とか敢えて言うなら『DEATH NOTE』シリーズなどもこの延長線上にあります。両者ともに勿論特撮はふんだんに含まれていますが、少なくとも派手な爆発だのビルの倒壊だの、空中に姿を現す巨大宇宙船だの、そう言った分かりやすいSF要素もなく、一方で、等身大とは言え、薄汚い恰好をしてぎこちない動きを見せつけるばかりのゾンビが徘徊するとか、人狼だのグエムルだのが日常生活の中に現れて、なぜか軍隊も何も動員されないままに戦うことになってしまうような物語もわざとらしくてあまり好きになれません。

 しかし、これらの物語の主人公達を見舞う異変の根拠になる能力は、世界を破壊したりするような規模のものではない、若しくは、なかなかそういった規模の話に至らないかのいずれかであることが殆どです。そうでなくては日常生活の枠から早い段階で逸脱してしまいます。ところが、この作品はのっけから「指一つで創造と破壊ができる能力」が存在し、日常的に用いられている設定です。「指一つによる創造と破壊」という表現がまた、かなり大袈裟で、まるで涼宮ハルヒのような世界を丸ごと変えるような能力のように感じられます。そのサムネイル画像が先述のような暗闇の中の歩道橋であることには違和感が湧き、それが観てみようかという関心につながりました。

 ただ、仮に涼宮ハルヒ並みの甚大な能力であっても、涼宮ハルヒがそうであるように、主人公達は人間であるはずです。タイトルの『それはまるで人間のように』を見ると、今度はアンドロイドモノや何かのAI的なもの、若しくは、人間に擬態する生物やら宇宙人の物語などを連想させます。「創造と破壊ができた所で、人間は人間じゃないか。おかしなタイトルだ」と、そのおかしさを見極めてやろうとの変な関心も同時に湧きました。

 作品を観てみてまず分かったのは、創造と破壊の規模です。大きくても1m少々の規模感のものを、どこかの異次元なのかもしれませんが、瞬時にそこから自由自在のものを取り出したり、またそこに送り込んだりするような能力でした。例えば、『キューティー・ハニー』の空中元素固定装置は、多分核融合的な原理だと思われますが、どのような原子さえも瞬時に生成して、それを組み上げていくことで、自由自在に物を作り上げたり消し去ったりすることができます。しかし、たとえば同じ原理を用いた彼女の変身が、一旦全裸状態になることからも分かるように、創造と破壊には多少の時間経過を要するプロセスが感じられます。まさに創造と破壊を瞬時とは言え、ジワっと行なっている感じがするのです。

 しかし、この映画の主人公の男は、まるで古いタイプの蛍光灯の紐を引いて明るさの段階を変える際のような「ガチッ」というような音と共に自分の思い通りの物体を空間上に出したり無くしたりすることができます。これは想像と破壊というよりも異次元から出し入れしている感じに見えます。何でも出せるようで、紙幣も出せますから、生活には困りません。家に籠って何かを出して食べても、ゴミが出ることもありません。片っ端から包装紙だろうと何だろうと消してしまえばゴミにならないからです。同様に収納にも困りません。着たい服をその都度出して、着終わったらその都度消せばよいからです。見ている限り、1回の動作で1つのものを出し入れする能力のようですが、厳密にいうと、ペットボトルに入ったコーラにストローを差した状態で出して、途中まで飲んでから消すということもしています。グラスとストローと液体のコーラを同時に出し入れしている訳ですから、1回1品とも言えません。

 この程度の物理的規模感の創造と破壊では、世界を変えてしまうことなど簡単にできそうにありません。戦術核ぐらいなら弾頭と起爆装置ぐらい出せるのかもしれませんが、それで世界が簡単に変わる訳でもないでしょう。せいぜい気合の入ったスペックぐらいのレベルに見えますから、「まるで人間のように…」ではなくて、色々なSF作品に出てくる人間の特殊能力の範疇に収まっていて、全く問題なさげに感じられます。

 ところが、物語が進むに連れて、この映画の物語設定の深遠さが全貌を現し始めます。この映画はバビル二世とかスペック・ホルダーとかのような特殊能力の問題を扱う映画ではなく、寧ろ、『マトリックス』とか『インセプション』のような世界観の異常さを“楽しむ”作品だったのです。発端は、「自宅警備員」のような状態から彼女(ハナという名です)に請われて仕事に行くことになった男の留守中に、部屋を掃除していたハナがメモリ・チップを見つけたことです。PCで中を見ると、たくさんのフォルダには男が作った女性の各々の写真と名付けた名前、そして発現した性格や性的嗜好などが克明に記録されていたのでした。つまり、男は同居人の女の子も次々と作っては消していたことが判明するのです。

 ハナはそれを見て、自分も主人公によって作られた存在であることをすぐさま悟ります。自分は「生きたオナホとして作られたのか」と主人公を詰る場面もあります。ところが、その事実の発見と前後して、ハナは無意識のうちに、男と同じ能力を発現させていることが分かってきます。この能力がどのように湧くのか分かりませんが、少なくとも男にもハナにもそれがあることが分かるのです。絶望に打ちのめされた時、ハナは自分にも特殊能力が備わっていることに気づき、それを操作できるようになるのです。彼女は最後に男に会いに行き、男を高ぶった感情のままに消してしまうのでした。

 ここで一旦物語は終わります。その後、彼女の出勤風景が登場します。行ってくるねと彼女が声をかけてハグを求めた先には、ベッドの端に腰かけた、どうも盲目になったように見える男がいるのでした。当初メモリ・チップが見つかった際に、ハナは『ブレードランナー』のレプリカントのようなものと分かり、「ああ、自己のアイデンティティを求める彼女の焦燥が物語を作るんだな…」と思わせられるのですが、ハナが能力を自覚した所から、まず男が(多分今まで作った女の子とは異なり)ハナにも自分と同じ能力を持たせたという可能性に気づかされます。

 それは多分、タダの言いなりになるだけで、ゲームの登場人物のようにリセットしたら幾らでも新しく好み通りに作り直せる女の子ではなく、男と対等の立場で当たり前の彼女として付き合える存在としてハナを位置づけるために自分と同じ能力をも持たせたのか…と考えさせられます。しかし、口論の場面から、どちらかが相手を消す可能性のフラグが立ち、ハナが男を消してしまいます。ここで、もしかしたら、ハナの方が男を作り上げて、世界を作っていた可能性も湧いてくるのです。

 男かハナかのどちらがどちらを作り上げたのかが分からなくなってしまいます。もしかしたら、相互に相互を交互に作り上げ合っていることさえ考えられます。生体組織でできている生物としての人間そのものであっても、仮に二人とも能力によって作られた存在であったなら、確かに「まるで人間のよう」な存在であるだけで、人間とは言い難いでしょう。おまけに、たとえば日常生活圏にいる人間ぐらいなら、勝手に作ったり消したりもできるはずです。(消しても、少なくとも消した側は、その消した対象に対しての記憶を失ったりはしないという設定のようです。消された側は再度同じように作られても、以前の記憶は失っているようです。)

 その意味で、この能力は物理的空間としての多元宇宙の一つぐらいを出したり消したりするような強大な能力ではありませんが、実質的に、仮想人間の認識される世界という意味で、巨大な仮想世界を作ることさえできるものだったのでした。決して「創造と破壊」は大袈裟な表現ではなく、また、登場人物は確かに人間とは到底言えなさそうな存在であることも分かりました。

 とても面白い作品です。物語の進行とともに色々な可能性に気づかされ、考えさせられます。メインの登場人物二人は、演技が上手いようには見えず、何かちぐはぐ感が常にぬぐえず存在しているように思えます。もっとカメラワークも台詞回しも、カッコよく仕上げられたのではないかと思えて残念です。けれどもこの作品の世界観は十分評価できるものだと思えました。

 シアターには8人ぐらいしか人がいず、たった一人の20代に見える女性以外は私と同じような年齢の男性ばかりで、この作品を非常に面白いと感じてどんどん口コミしそうな人物は見当たりませんでした。面白い作品であるのに、あまり広く知られないままに、私が観た後、数回で公開終了になるのはもったいないように感じられます。出るならDVDは買いです。

追記:
 今回映画紹介サイトでこの作品に出演している奇妙な名前の「ユミコテラダンス」という人物に気づきました。地味で極度にコミュ障な清掃員の役で出演していて、花のない役といえます。ところが、ネットで検索すると、ダンサーとしてはかなり活躍している人物のようでした。なぜそのような人物が全く彼女の持ち味を生かすようには思えない役に配されることになったかが全く分かりませんでした。