7月3日の封切から既にまる1ヶ月以上経って、「長澤まさみが死んだ目をしている」と話題のこの映画の上映館にも限りが出て来ました。8月上旬の木曜日、この日が最終上映日の歌舞伎町のゴジラ生首映画館に行って観て来ました。朝9時20分からの回で、まるで化粧が剥げたように色褪せた朝の歌舞伎町を歩いて映画館に辿り着きました。同じくTOHO系列の映画館でまだ幾つか上映を続けるところはあるようですが、この館ではこの日までです。1日2回の上映でした。
ずっと観に行くのを我慢して待っていたと言う感じです。通称「武漢ウイルス」をネタにしたオカミの脅しに屈した映画館らのぐちゃぐちゃの公開スケジュールで、本来なら既に封切っていてよいはずの作品の多くが見られなくなっています。たとえば私が原作の大ファンで公開を心待ちにしている『子供はわかってあげない』は、本当は既に公開されているはずですが、オフィシャル・サイトを見ると2021年公開という、超アバウトな状態になっています。同様に、監督が鬱になったなどと言い訳をしつつ、『シン・ゴジラ』を作って散々暇つぶしをした挙句に漸く公開の目途が立ちつつあった、エヴァ映画版の最終作も、現時点でいつが封切なのか全くわからない状態になっています。
そんな中で、観に行くべき作品群をそれなりにうまく調整しなくては、観たい作品が簡単になくなってしまう状態で毎月二本の劇場鑑賞のノルマを果たすというのは、なかなか至難の業です。この作品はそのような私のスケジューリングの関係で、どうしても8月に入ってから観たかったのです。
シアターに入ると、10人程度の観客がいました。女性は認識できた限りで3人で、2人連れが1組と単独客が1人です。女性客は皆20代か30代前半ぐらいの若い世代で、男性客は私も含めてほぼ全部単独客で、皆私とあまり変わらなそうな年齢層でした。
この映画を観に行きたかった理由は、単純に長澤まさみ目当て以外の何物でもありません。追っかけて公開された『コンフィデンスマン…』の新作での活き活きとした長澤まさみとの好対照を味わってみたかったことに拠ると言った方が正解かもしれません。
長澤まさみ演じるのは、カネを稼ぐことから徹底的に逃避し続けた女性です。カネの入りがない分、出も少ないのなら何とかなりますが、全くそうではありません。パチンコ好きで、煙草も吸い酒も飲み、何かと言えば食べ物もコンビニ頼りだったりするので、高コストの生活そのものです。元の夫らしき人物はまあまあそれなりに稼ぎがあるようですが、彼と別れてから、幼いひとり息子を連れて、生活保護を受けたりしながら暮らしています。実家も散々カネを無心に行って恫喝まがいのことを繰り返して親子の縁を切られます。ゲーセンで知り合った阿部サダヲ演じる男とダラダラ交際を始めますが、互いに金を使い倒すだけです。さらに阿部サダヲはかなり犯罪の域に踏み出すことにも躊躇がない人間だったので、どんどん深みにハマって行きます。
阿部サダヲのチンピラめいた男とは別れたりくっついたりを繰り返しているうちに、彼との間に女の子が生まれ、今度は子供を二人連れ歩くことになります。途中から転がり込んで来て復縁を迫る阿部サダヲを追って来る借金取りから逃れるため、行政の低家賃シェアハウスにもいられなくなり、当て所なく二人の子連れで路上生活に流れ出ます。それでもとうとうカネが尽き、実家のカネを強奪することを思いつきます。それはつまり自分の両親を殺害することでした。
この映画はそんな長澤まさみだけが主人公ではありません。むしろ、主人公と考えられるのは、一人息子の方です。一人息子の方は幼少の時代と10代後半で二人の子役が充てられています。この一人息子は、常に長澤まさみから命令されるばかりで、自分の意志を主張することは劇中でもほとんどありませんし、ほんの数回出てくるそう言った場面でも、彼の希望が成就することは全くありませんでした。
彼が幼少期にも、長澤まさみは近隣の移動に自転車を乗り回していますが、荷台もない自転車で二人乗りにするでもなく、息子は常に必死に自転車を追いかけて駆けずり回るだけの状態です。阿部サダヲとダラダラ酒を飲んでイチャついて忙しい際に、息子にカップラーメンを出せと言いつけ、お湯が止められているからできないと息子が答えると、夜の町のコンビニに行ってお湯も入れて来いと出かけさせます。
10代後半になって造園業に零細企業に親子三人住み込みで暮らし始めた際にも、最初は長澤まさみは、息子に給料の前借を命じますが、それもできなくなると、事務所からカネやPCなどを盗むように指示し始めます。さらに、それがバレて社長から親(=長澤まさみ)ごと叱責されると、今度はその社長を長澤まさみはカラダで籠絡します。
個人的に私は長澤まさみの骨太体型そのものには、あまりエロスを感じることがなく、アンダーアーマーのビキニで暴れ踊る広告を見ても、それを確信させられるだけでした。その長澤まさみに籠絡されるラブホテル経営者や造園業社長に私は全く共感できません。しかし、それ以前に、どこにおいても、路上生活者か路上生活者一歩手前ぐらいの不潔感やだらしなさの風体の長澤まさみを抱こうと思う男に、何か非現実感しか抱けませんでした。もちろん、人の好みは人それぞれですし、そういう女性でも抱きたくなる男がいても不思議ではありません。ただ、もともとそう言ったエロスが感じられない長澤まさみなので、かなり無理を感じました。
息子はそんな母のありようを全部知っている状態でずっと人生を送っています。そして、自分がいなくては母は暮らしていけないという想いを歳を重ねるごとにどんどん積み重ねていきます。世の中のすべての人々が自堕落でいい加減な母を見捨てて行く中で、どんな無理難題であっても、母の言いつけに従順であろうとするのです。この映画は実話に基づいているという風にパンフにも書かれていますが、このような流れの結果、母に迫られ、自分の祖父母を手に掛け、命を奪い、12年もの懲役に服することになるのです。
高い知能を持っていて、学習意欲も高いことが、フリースクールに通っている中で見出されていて、たった一回、逃避行に出ようとする阿部サダヲと長澤まさみに対して、「学校に行きたいから、一緒に行きたくない」と反抗してみる場面があります。それでも、結果的に長澤まさみに押し切られますし、結果的に(昔で言うなら)尊属殺人にまで手を染める結果になります。さらに、裁判では、母からの強要を全く証言せず、罪を一人で被ろうとするのでした。
もともと小学校さえ行っていない設定ですし、常に長澤まさみや阿部サダヲに言いつけられ、詰られ、強要されるばかりの立場ですから、彼のまともな発言がほとんど存在しないのは仕方がありません。しかし、もっと彼の方に焦点が合わせられた物語であった方が、より鮮明に彼の葛藤が描けたのではないかと思えてなりません。一方で焦点が正確に合わせられていて、長い尺を使って描かれる長澤まさみの方は、一所懸命、人間のクズ足り得ようとしてますが、やはりどうも、映画評で有名になった「腐った目」や「死んだ魚のような目」がアップになるだけで、クズになり切れていないように思えるのです。
たとえば、底辺の人々やクズの人々が散々登場する『闇金ウシジマくん』などの作品群に比べると、登場する人物は長澤まさみ以外ほとんどがまともな人で、ギリギリ阿部サダヲが犯罪にさえ手を染める人間として登場しますが、そんな阿部サダヲでさえ、何度か「お前とはもう無理!」と長澤まさみを見捨てるほどです。阿部サダヲのキャラは最終的に借金取りに追い詰められて、命をなくしてしまったようですが、そんな阿部サダヲにさえ、追い縋って常に思いを寄せて行こうとする、酷いクズ状態です。そんな長澤まさみがまともな人々の中に一人ぽつんと存在するような、何か違和感が湧く構図です。
その阿部サダヲが立ち去ると、「私にはアンタしかいないんだよ」と今度は息子に泣き縋ります。両親や妹にカネをせびりにだけ面と向かっているのとはかなりニュアンスが違う縋りつきようです。単に業火のような承認欲求に身を焦がしているだけで、それをどうやって充足すべきなのか全く分からずに人生を場当たり的に送ってきた長澤まさみのありようが、周りの人間がほとんどまともな人間であるが故に、妙に非現実的に見えるのです。この違和感や非現実感は、例えば、誰一人として例外なくうっすらとおかしな価値観を抱えていて、それが噛み合うことなく破局に向かっていく『葛城事件』などの劇中の構図の自然さと比べると、非常によく分かるように思えます。
やはり長澤まさみの新境地を開いている作品であるという価値は大きく、DVDは取り敢えず買いですが、本来描きたかったことが描き切れないままに終わっているような不発感は間違いなくあるように感じました。