『ポップスター』

 6月5日の公開から1週間経たない木曜日の午後3時5分の回を、JR新宿駅に隣接ビルの地下のミニシアターで観て来ました。上映館は非常に限れていて、都内では23区内に3館しかありません。そのうち、2館は新宿で、今回私が行った映画館以外には、例のゴジラの生首ビルの映画館で上映されています。

 私がこの映画を観に行くことにした背景には、未だに馬鹿げた法的根拠も乏しい顧客無視の休館体制の余波が残っていて、さらに新作の供給体制も覚束ないままなので、観たいと思える作品が非常に限られている中で、ギリギリ観たいと思える要素がある作品を今月のノルマ消化のために選んだ結果です。そんな中、「まあ観てみようかな」と思えた理由は主演がナタリー・ポートマンであることです。

 それほどのファンではありませんが、ナタリー・ポートマンは役の振れ幅が大きくまあまあ好きな女優です。その好印象は2011年に発生した、後年私が「ナタリー・ポートマン・インフレ」と呼ぶほど、並行して多くの作品が上映されている状態の中で、そのうち三作を観たことです。その一本、ヘビメタ狂いのイカれた男と荒んだセックスをするレジ係の女性を演じた『メタルヘッド』の感想では…

「『水曜日のエミリア』、『マイティ・ソー』、『ブラック・スワン』、そして私も見た『抱きたいカンケイ』と出演作が『メタルヘッド』も含めて、同時に五作も公開されているナタリー・ポートマンが、比較的マイナーな監督の本作の製作にも参加したのも、多分にこの面白さ故でしょう。そのナタリー・ポートマン演じる、何事もうまくいかないワーキング・プアのレジ係は、本当に貧乏臭さ全開で、おまけにたいした相互理解の機会があったとは思えない段階で、いきなりヘッシャーとセックスしてしまって、少年の淡い恋をぶち壊す荒み具合です。『抱きたいカンケイ』でも、かなり濃いセックス・フレンドを恋愛対象にしてしまって計算が狂う女医の役でしたが、製作サイドにも打って出るほどのナタリー・ポートマンであるなら、そのような役柄の選択も計算づくであろう筈です。何が起きているのか、インタビュー記事でも読みたくなるような多作状態です。」

と書いています。しかし、実は、ナタリー・ポートマンはそれほど多作の人ではありません。これらの5本もウィキで見ると、『水曜日の…』が2009年に彼女が主演した3本のうちの一つでしかありませんし、2010年には『メタルヘッド』と『ブラック・スワン』しか出演していません。そして2011年にも3本しか出演作はないのです。特に大作で、事前に1年ほどバレエを猛特訓することになり、9キロも減量したと言われる『ブラック・スワン』は傑作として知られ、数々の賞を彼女にもたらしましたが、それほど制作に打ち込む中で多作ができるはずもないように思われます。何等の根拠がある訳ではありませんが、「ナタリー・ポートマン・インフレ」は、もしかすると、話題作『ブラック・スワン』の公開時期(と敢えて言うなら、マーベル肝煎りの『マイティ…』)に合わせることで、話題を盛り上げようとした結果なのかなと思っています。

 2017年にも私にとっては「プチ・ナタリー・ポートマン・インフレ」が発生しました。『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』、『プラネタリウム』、そして『アナイアレイション -全滅領域-』です。ただ、『アナイアレイション…』は日本未公開作品で、その映像美と哲学的な内容で話題になった作品で、DVDになるのを待ってすぐに観たので、劇場で観たのは2本だけです。しかし、この際も…

「パンフに拠れば、事前に膨大な時間をナタリー・ポートマンはジャッキーの記録のリサーチに費やしていたようですが、単なる一人芝居としての演技の質の問題に留まらず、或る意味、米国の多くの人々が今尚個々に持つであろうジャッキーのイメージを裏切ることがないほどの成り切りを見せたナタリー・ポートマンの怪演の様子から目を逸らせない1時間半です。」

と『ジャッキー…』の感想に書いている通りの怪演と、第二次大戦に突入して行くフランスを舞台にして、社交界に持て囃された降霊術師姉妹の姉を演じる(フランス語の台詞も要求される結果になっている)『プラネタリウム』、そして先述のような未公開なのに知名度の高い『アナイアレイション…』とどれも一筋縄ではいかない作品群で、とても多作を並行して実現できるような入れ込みようではありません。2017年の「プチ・ナタリー・ポートマン・インフレ」の際に、漸くそれなりに彼女の存在そのものに関心を持てたので彼女のウィキを読んでみて、(日常会話程度ならこなせるという日本語を含まずに)6ヶ国語に精通しているハーバード卒の才女で、4歳からダンスレッスンで多くのアクション・シーンをノン・スタントでこなす身体能力を持っていることを知りました。

 ただ演じるだけに留まらず監督や制作などの分野にも進出している様子を見ると、関係する作品群を厳選するプロセスができている可能性が高く、その結果、私が観たいと思えるクセのある作品群に比較的頻出していて、今回のような映画館に作品が供給されていないような状態や、彼女が超話題作を何か創り上げた際のインフレ状態になると、私が彼女の関わった作品を観る可能性がぐんと上がるということかもしれません。

『アナイアレイション…』に至っては、私は『未知との遭遇…』や『ザ・フォール/落下の王国』、若しくは『2001年宇宙の旅』、『サクリファイス』などの品質の高いSF作品に含められるぐらいだと思っていますが、私がこの作品をDVDで心待ちにしていたのは、私が海外女優で一番好きなジェニファー・ジェイソン・リーが出演しているからでした。彼女も自分が出演する作品を厳選していることで知られる女優です。そのジェニファー・ジェイソン・リーと、異星人によって作られどんどん膨張し始めた結界のような世界に徒歩で踏み込む女性科学者二人を演じるナタリー・ポートマンの説得力ある演技力がなくては、陳腐な自己満足型B級SF作品に堕してしまう可能性もあったような、危険な映画でした。かなりそのような方向に傾いてしまった惜しい作品の事例としては『メッセージ』があります。

 それでも、ウィキにも「自他ともに認める」と書かれている貧乳のせいでもないものとは一応自覚していますが、それほどの彼女のファンではない状態が続いています。日本での彼女の知名度向上に大きく貢献した『スター・ウォーズ』シリーズ作品も、『スター・ウォーズ』シリーズそのものが好きではないので、全く観ていません。『ブラック・スワン』も、バレエ関係の映画は『ベジャール、そしてバレエはつづく』や『バレエ・カンパニー』などのドキュメンタリー系の作品を何本か観ているので、それ以上にバレエ・ダンサーを主人公にした物語を観たいと思えないという理由から、DVDでさえ観ていません。こうした、日本で彼女の知名度向上に大きく貢献した作品群を見ていないことも、ファンになっていない大きな理由かもしれません。

『ブラック・スワン』は、余程日本の映画好きには浸透した作品であるようで、この『ポップスター』のポスターなどの一部には「バレエの次は、ポップ・ミュージック」のように大きく謳われています。それほど、ナタリー・ポートマンの人気は強く、そのナタリー・ポートマンの代表作として『ブラック・スワン』は広く認識されているのだろうと思います。

 この『ポップスター』は6月に公開とされていますが、日本での公開は非常に遅れていて、世界で見ると公開年は2018年です。『マイティ・ソー』からのしがらみでナタリー・ポートマンがチョイ役で登場している、日本でそれなりに話題作となっていた『アベンジャーズ/エンドゲーム』よりも1年も先に公開されているますから、国内の公開順が完全に逆転しています。そして、この『ポップスター』は、ナタリー・ポートマン自身が製作総指揮にあたり、さらに主演まで務める、かつてない入れ込みようで作った作品です。(実際には主演は当初、ルーニー・マーラが務めることになっていたようですので、ナタリー・ポートマンが主演することになったのは、緊急避難策であったのかもしれませんが…)

 観てみると、本当にナタリー・ポートマン全開の映画です。米国の地方都市の高校で発生した銃乱射事件を辛くも生き延びた少女が、もともと音楽系の関心や能力があったことから、乱射事件の追悼式典で自作の歌を歌い、それが全米で話題となって一躍スターになります。しかし、スターになり行動は制限され、周囲の目に晒されることで精神的に病んで行き、ヘビメタバンドのメンバーが父であることも社会的に明かさないままに娘を出産し、さらに、(誤飲なのかもしれませんが)酒代わりに消毒用アルコールを飲んで片目を失明したこともひた隠し、その結果、交通事故を起こして被害者に一生続く障害を与え、覚醒剤にハマるようになり、スキャンダルに塗れて落ちぶれて行きます。再起を狙った出身地から始まるツアーを開催しようとしたら、クロアチアのビーチで楽しむ人々に向けた銃乱射が発生し、その複数犯全員が彼女がPVで付けていた銀色の金属的な素材のマスクをつけていたため、関連が疑われ、またもやスキャンダルが覆い被さってくる話…ということになっています。

 銃の乱射事件に巻き込まれてから、売れに売れて、浮かれている時に出演するステージ脇で知り合ったメタルバンドの男とヤクをやりながらセックスして子供ができる所ぐらいまでは少女役の役者が演じていますが、そこからスキャンダルでボロボロになったヤク中スターをナタリー・ポートマンがずっと演じています。110分の尺は長い方ではありません。その前3分の1が終わった辺りから彼女の出番なのですが、やたらに存在感が大きいのです。なぜそうであるかといえば、先述の物語で書いた多くの要素(たとえば、出産の経緯や消毒用アルコールで失明した話や交通事故の話など)やさらに、事実上、楽曲制作を大きくサポートし、さらに娘の面倒を殆ど押し付けたままになっている姉が、信用できると思っていたマネージャーとデキていることが発覚したことなどから確執が如何に大きくなっていくかなど、数々のエピソードはほとんど劇中に登場しないのです。

 それらは、私もその(声の)出演を観始めてから知った、私の好きな男優の一人ウィレム・ダフォーがぼそぼそと、しかし、重苦しいナレーションで語って聞かせてくれるだけです。ですので、メタルバンドの男に口説かれる辺りで、ボロボロのヤク中になった(外観のイメージは『ヴォーグ』を歌っていたころぐらいのマドンナのような)ナタリー・ポートマンがいきなり登場するのです。そして、ありとあらゆるスターダムの裏側を背負った状態の生活を、ガンガン演じてくれます。

 時間は守れませんし、プレッシャーがかかるとすぐヤクに逃避しますし、自分が社会から正当に評価されていないと悪態はつきますし、一般人とも口論になったりもすれば、パパラッチどころか通常のインタビュアーにも不貞腐れてみたり激昂したりしてみたりで、(本来「ジュード・ロー」なのに誤った発音表記のままの)ジュード・ロウが地味に演じる例のマネージャーに対しても、泣き叫び喚き暴れ抱き付き、一緒にヤクに耽りセックスにも耽り…となかなかやってくれます。

 私が好きな先述のジェニファー・ジェイソン・リーの名作に『ジョージア』があり、酒とヤクに溺れて行くドサ回り専門の落ちぶれた歌手の物語で、ここでもまたジェニファー・ジェイソン・リー演じる主人公が姉と確執を深めるのですが、そのドロドロ感を(知名度などで全く違うスター「芸能人」の役回りであるはずなのに)この作品ではナタリー・ポートマンがガッツリやらかしてくれる感じです。

 少し前に流行した携帯小説原作映画のパターンなら、スキャンダルに塗れて落ちぶれていく過程を、各々のスキャンダルを描きつなげていくことで、(たとえば、レイプされたり、交通事故に遭ったり、希望をくれた恋愛相手が急死したりなど)イベント満載で物語を創り上げると思います。それがこの映画では全く逆です。

 冒頭でも休み明けの高校の教室の日常風景が描かれ、教卓に位置した女性教諭がクラスに現れる学生達に親しげに接している風景が、うらぶれた冬の東部の(ように私には見える)町の教室の中に辛うじて保たれているまともな人間関係として、妙に長く描かれます。このうらぶれ感、若しくは寂寥感は、これまた私が好きなジェニファー・ジェイソン・リーの名作『黙秘』などにも丹念に描かれている典型的な情景です。そんな雰囲気の中の教室の教卓付近がほとんど固定ショットで描写されます。そこから、突如授業開始直後に遅れて入ってきた学生がその女教師を射殺し、乱射を始めて暗転します。それ以降、常にこの突如襲い来る無機質で理不尽な暴力の陰が、常にこの映画の画面を支配しているように感じられます。それなのに、それ以降、主人公が落ちぶれて行く過程はすべて言葉で語られるだけで、登場するのは自らが招いた数々のスキャンダルに徹底的に蹂躙され尽くした後の主人公の姿なのです。

 理不尽な暴力性が再び登場するのはビーチでの乱射シーンですが、登場人物の話題に上るたびに、二度、三度と繰り返されます。しかし、そこに主要な登場人物がいた訳ではないので、他人事として無機質な陽光溢れるビーチの殺害が描かれるのです。その事件を受けて、急遽、主人公はツアー前の記者会見を開くのですが、そこで犯人を挑発するような発言をしてしまいます。そうすると、冒頭から続く不穏な空気がスクリーン上に充満しているので、「これは再起のツアーが乱入してくる乱射犯によってぶち壊される…と言う展開かな」と予想させるのですが、全くそんなイベントも起きません。(勿論、ビーチは多分、主人公もどこか地図上で指をさせないクロアチアなので、同じ犯人がライブ会場に来ることは有り得ませんが…、模倣や同調した人間が来ることは有り得るでしょう。)

 この映画は、冒頭の日常を理不尽な銃撃が破壊し尽くす映像のあと、ありとあらゆる「あったはずの」大問題の出来事を一切排除して、その結果のクズのようなポップスターの本質を描ききり、そこに再度他人事の無機質な暴力を登場させ、最後に、延々と全体の尺の2割ぐらいを充てて、煌びやかな主人公のステージを、まるで本物のアーティストのライブ映像作品かと思えるぐらいの演出で見せつけます。そこでは、主人公の裏を知り抜いて確執が全く消えることのない娘も姉もマネージャーも歓喜してステージに見入る…。そんな情景で唐突に物語を終えるのです。

 結局、主人公に降りかかってきた災厄は冒頭の乱射事件だけです。そこから、ずっと荒れる主人公の姿の背景を不穏な空気が満たし続けますが、何も起きないのです。そして、大団円の圧巻のライブシーンの煌びやかささえ、確執を抱える周囲の人々のステージに向かった際の涙や微笑さえ、全部、塗り潰すぐらいの空虚さを観客に叩きつけて、この映画は終わっています。もしかすると、そんな彼女を追い続け注目し続けるファンの日常も含めて、そして勿論登場人物の日常も含めて、すべての人々の抱える承認への渇望や人生の時間の空虚さを、映像そのものではなく「構造」で描いた作品と考えるのが良いのかもしれません。

 自他共に認める貧乳で小柄のナタリー・ポートマンが光溢れる舞台狭しと踊り歌うポップスターを演じるのには、客観的に見ると少々無理がある気がしないではありませんが、そんなことさえ、少なくともスクリーンを見つめている間には、全く気にする余裕さえ生ませない、圧倒的なパワーを持つ作品です。スターの人生の光と影を描く作品はここ最近たくさんあります。空前のロングランとなった『ボヘミアン・ラプソディ』や話題作『ロケットマン』などです。しかし、これらとこの作品が全く次元を異にする“芸術作品”となっているのは、物語のどこにも本当の意味でのカタルシスがないことと、架空の人物を描くことで現実に存在する物語の枠組みから解き放たれていることだと思います。

 すごい映画です。私以外に観客でいたのは私と同じような年齢層の男性がたった2人と、シアター内が暗くなってから入ってきた40代に見える事務職系の感じの女性1人でした。「バレエの次はポップ・ミュージック」のナタリー・ポートマン推しをしても、この程度の動員であるのは残念ですが、秀作だと思います。DVDは当然買いです。

追記:
 圧巻のステージ・シーンでナタリー・ポートマンが(パンフでも確認しましたが)ナマで歌っているので、帰途、接客水準が驚異的に高い新宿タワレコに行ってみましたが、サントラは配信で販売をしているだけでCDはないとのことでした。

追記2:
 原題は「VOX LUX」で、ラテン語で多分「光の声」といった意味だと思います。なのでなぜこんな邦題にしてしまったのかには疑問が残ります。この主人公のような存在を日本では「ポップ・アーティスト」と呼ぶことはあっても、「ポップスター」と称することはあまりないように思います。どうも、パンフやポスター、映画サイトの項タイトルを見ると、インスタント・ラーメンのCMソングが頭の中で再生されてしまうのが、この凄い映画の私にとっての最大の難点です。