『酔うと化け物になる父がつらい』番外編@清水

 緊急事態宣言が全国に拡大され、自分達の事業の補償も満足にする気もない政府の法的根拠に乏しい「要請」に従って、自分達のサービスは不要不急のものであると、自虐思考に全員右習えで陥って、一斉に営業を見合わせた上で、やれ「クラウド・ファンディングで何とかしよう」とか「映画文化の灯を消してはいけない」などと本末転倒の愚論を展開している映画館業界は全く恥を知らない輩だと思っています。

 補償もせず、自主休業を迫るという政府の非道なやり口に屈せず、名前の公開も「悪名も有名のうち」と引き受ける覚悟の多くのパチンコ店を見習えばよいものと思えてなりません。

 そういうと、小池劇場に踊らされている人々は「挙国一致でStayHomeなのに、何を言うか、この人殺し!」とヒステリックに叫ぶという話を聞きます。通称「武漢ウイルス」は勿論なめてかかるべき病気ではありません。一方で、ワクチン、検査薬、専用治療薬まできっちり全国津々浦々の医療機関に揃っているインフルエンザでさえ、毎年数千人の死者を防ぐことができません。その通称「武漢ウイルス」は感染しても9割の人が無症状でそのまま過ごせると言います。実際の大本営発表の感染者数は検査を抑制しているので圧倒的に少ないのは本当でしょう。おまけに発症前にも感染するという感染力を持っているのですから、事実上、誰もが少なくとも感染したことがあるが、免疫力によって何事もなく過ごし、その結果、不完全でも免疫を得つつある…と言った状態にあると考えるのが普通の理解です。

「感染する!」、「感染者が出た!」とニュースも連呼していますが、感染して発症する1割の中でも重篤者はほんの僅かで、その中でも死者は、70歳以上の高齢者や免疫力が弱っている人や、三密状態に浸って大量のウイルスを取りこんで免疫では防ぎきれなくなった人かのいずれかに集中しています。それ以外の人々は、「呼吸が大変だ」とか「高熱が出た」などとSNSに投稿したりしていますが、『風立ちぬ』などに出てくる、いつ死んでもおかしくない不安と恐怖に苛まれる中でサナトリウムで過ごす結核患者などに比べると、アビガンが投与されるようになって、相対的に楽でいられることでしょう。本当に瀕死であればSNSにもなかなか投稿できないものと思います。

 私も幼少時に二つも法定伝染病で長く隔離されたことがあるので、その辛さはトラウマ級に知っています。だから、何でもないと高を括って通称「武漢ウイルス」を気にしない訳ではありません。勿論、罹らないに越したことはありませんし、うつさないに越したことはありません。ただ、それは毎冬流行するインフルエンザだって同じことです。ならば、通常のインフルエンザ以上に騒ぐ意味が事実上ないと考えてよいものと思っています。ですので、選挙対策にガンガン都税を蕩尽して、毎日のように殆ど無意味な内容のテレビ出演を重ねる都知事の話に耳を貸す気もありません。基本的によく食べよく寝て免疫力を維持して、あとは、知らない人に会う機会・話す機会をまあまあ減らし、三密状態は避け、嗽手洗いをバリバリ励行するという例年のインフル対策以上のことは一切する気がありません。もともと出不精ですし、病弱な一人っ子でしたので、家で一人でいることにストレスを全く感じません。

 私の『脱兎見!東京キネマ』は毎月二本の劇場鑑賞をノルマにしていますし、それを読むことで私の考えや気づきを得ようとしてくださる方も、ありがたいことにそれなりに存在します。なので、映画の劇場鑑賞は非「不要不急」の業務です。鬱陶しいオカミの要請を容れてノルマ以上に鑑賞しようとは思いませんが、私から税金と言うカネを貰っている側から法的根拠乏しく指図される謂れもありません。

 今月の二本目の映画は何にしようかと考えていたら、緊急事態宣言で関東圏の映画館が軒並み恥知らずにも休館を決め込みました。余程自分達のサービスは人々に必要とされていない確信があるのでしょう。緊急事態宣言前から「隔席対応」などが為されていましたし、私には全く興味の湧かない「絶叫応援上映」などでなければ発話する人もいず、向き合った姿勢になることもなく、おまけに広い空間で強力な空調で換気を行なえば、どう考えても三密は崩れています。さらに、シアターの入替え時にアームレストなどを消毒すれば、何等の問題もないことでしょう。あとは、お決まりの「熱のある方、体調の悪い方は…」を徹底すれば良いだけです。映画館に比べれば、通勤電車で吊り革を一人が手を放すたびに消毒するなどは不可能ですし、満員に近い状態でマスクをしていてさえ至近距離でくしゃみや席をされればかなり危険性が高いものと思います。(原理的にはパチンコ店も映画館と同様の安全性の高さです。)ですので、映画館が「要請」でカネももらえないのに客を締め出すというのは、完全なる愚行だと私は考えています。

 札幌に移動した際に札幌で週末に見ればよいかと思って、金曜日に上映スケジュールを確認していたら、大丈夫でしたが、いざ行こうとして土曜日の朝にウェブを見たら全部休館になっていました。そこで、比較的最近購入した中古のiPadにさらに最近インストールした『ぴあ』のアプリで映画を検索したら、新宿から96キロ離れたところにたくさん映画をやっている映画館が存在することを知りました。約100キロの距離はどこだろうと調べたら、新幹線三島駅近くのサントムーンという商業施設内の巨大な映画館でした。調べてその営業に気づいたのは4月半ば過ぎの火曜日の夜半。そして、ウェブ情報に拠れば、この映画館も大本営の圧力に負けて金曜日からGW明けまで休館にするとのことでした。水曜日は午後4時からアポがあり、木曜日は午後2時からアポがあったので、いきなりスクランブル発進のようなつもりで、水曜日の朝極力遅く出掛けて、午後4時前に新宿に戻れる枠の中の上映作品を探すこととなりました。

 遥か以前、20歳で初めて上京した頃、世の中にはネットもなければ、DVDもなく、漸くレンタルビデオ屋がちらほらと社会に登場した時代でした。そんな中、私は雑誌の『シティロード』の映画情報を観ては、観逃した映画を遠い映画館まで観に行くことがありました。乗換案内もない中、自分で概ねの移動時間を予想して、遠くは辻堂などまで京王線沿線の仙川から赴くことがありました。そんな気分を味わいつつ、最遠劇場鑑賞記録を伸ばしたぞと意気揚々観に行くことにしたのが、この作品『酔うと化け物になる父がつらい』です。

 初めて降りた三島駅の南口に出て、いきなりサントムーン行きのバスがあったので駆け込みました。昔、「太陽とシスコムーン」というグループがハロプロに居ましたが、そんな風に、「『Sun と Moon』な訳はないよな」と思っていて、現地に着いたらロゴマークが、まさに太陽と月をあしらった「Sun と Moon」でした。バスの車窓から見た三島の駅は、人力車などを不自然に走らせるような気合の入れ方のない、市全体の昔ながらの町のように見えて好感が持てましたが、地方に行けばどこにでもあるような一塊ドカンとブランドショップ・パッケージのショッピング・センターではないサントムーンにも好感が湧きました。

 この映画は3月初旬からの封切で既に1ヶ月半が経過しています。シアターが12もあり、合計で2000席余りある巨大な映画館では、100席規模のミニシアター級のシアターも半分程あり、多数のマイナーな作品や他館ではもう上映していない映画まで多種多様に上映していました。この作品は1日に2回の上映となっていて、私は11時25分からの回に行きました。わざわざ新幹線に乗って行って仮に満席(隔席状態なら尚のことその可能性が高まります)だと困るので、多分、初めての席予約を前日晩にしてからシアターに辿り着きました。広いロビーには私一人しか客が見当たらず、満席はあっさり杞憂に終わりました。予約の場合の入場のしかたをスタッフに教えてもらってから、コカコーラ・ゼロをコンセッションで注文したら、なぜか「コーラは無料となっています」と言われました。

 通称「武漢ウイルス」の影響もあるでしょうし、元々比較的マイナーな作品で封切1ヶ月半の段階と言うこともあるでしょうし、平日の午前中の時間枠など、色々な理由が複合していると思われますが、シアター内には私と後から来た私よりも年上の男性一人しか観客がいませんでした。

 私はこの作品を、映画サイトで観るべき作品を選んでいた際に軽く調べたことがあります。3月から4月は観たい作品が非常に少なく、堤真一推しで広瀬すずに好感が持てないにも関わらず、致し方なく『一度死んでみた』を観なくてはいけないかと思っていた際に、検討の俎上に上がったのでした。しかし、(映画紹介欄ではそのように表記されていないものの)実質的にアル中の父に壊されて行く家族の話であり、私が好きになれなさそうな物語であったのと、ともさかりえぐらいしか名前から顔が分かる俳優がいず、『一度死んでみた』を選ぶことにしていたのです。しかし、今回スケジュール的に、この作品しか観ることができなかったので、「ええい、ままよ」と言う感じで観てみると、非常に優れた作品でした。

 アル中の話を一般論で私が好きになれないのは、自分が酒があまり飲めず、アル中の人物に共感できないという話ではありません。私はどちらかというと、どうしても何かに囚われてしまったり、どうしても本能的な何かに逆らうことができない人々のありように共感ができます。そうではない人間の姿の方が無味に見えます。

 私が見るに堪えないのは、アル中の家族として暴力などの被害に耐え続ける家族の方です。通常、彼らは被害者として悲劇の主人公のように描かれます。しかし、現実に問題のアル中者を捨ててシェルターに行く人々はたくさんいますし、アル中ではなく普通に認知症などになった高齢の親族を介護する人々に対して『もう親を捨てるしかない介護・葬式・遺産は、要らない』という書籍まで売れる時代です。なぜアル中者の家族が被害者で居続けなくてはならないのかが、どうしても納得できないのです。また、家族の方がアル中の原因の一部を作っていることさえあるものと思います。言い換えるなら、単純な加害者と逃げられずただ耐えるだけの被害者の単純すぎる構図が嫌いなのだと思います。

 私が観たアル中者を主人公とした作品で非常に優れているのは『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』です。この作品では浅野忠信演じる主人公がアルコールに溺れて、暴力をふるい数々の醜態を晒します。そして、永作博美演じる西原理恵子は二児を連れて離婚するのです。主人公が死に至るまで、西原理恵子は元夫を完全に見捨てた訳ではなく、同居もせず、暴力も受けない、微妙な距離感の中で関係性を保っていたように描かれています。この立ち位置の取り方に、私はとても納得できました。元々浅野忠信も永作博美も演技が練り込まれている人々なので、安心して楽しめた作品でした。

 今回の作品がアル中映画の中でも好感を持って見ることができたポイントは幾つかあるように思います。最大のポイントは、アル中の父が(主人公である長女を突き飛ばした場面と、圧し掛かって首を絞めた場面が各一度ありますが)基本的に家庭内で暴れたり、刃物を振り回したりすることがほぼなかったことです。父は泥酔して帰宅して前後不覚で玄関口で寝ていて、床に入れようと引きずると、多少抵抗したりする程度です。寧ろ、アルコールが入る前から、麻雀仲間を家に引き入れて酒を飲み始めることや、飲んだ翌日に二日酔いで娘とプールに行く約束を平気で破ったりすることの方が、家族に対して破壊的なストレスを与えています。

 ともさかりえ演じる母は新興宗教にハマっており、胡散臭い教祖の顔写真のついたチラシなどを街頭で配り、家では「仏壇」(ではないはずですが)と呼ばれる祭壇に向かって経典を朗読したりします。二人の娘に愛を注ぎつつ、夫との距離感を近づけたり離したりしつつ模索している様子が窺えますが、徐々に限界を迎え、娘達を置いて家出をし娘の電話口の声に絆されて帰宅したりします。夫は酩酊状態でテーブルに向かって座らせると、所謂「舟を漕ぐ」動きを始め、テーブル面に頭部が倒れ込みますが、テーブル面やテーブル上の何かが軌道上にあると、その直前で頭部の動きを止めるという、家族が「寸止め」と呼ぶ特技があります。思いつめた妻は寸止めを繰り返す酩酊夫の頭部の先に無表情で包丁を置こうとしたりもします。

 そして、限界が来て、夫の誕生日に首を吊って自殺するのでした。その時、主人公の長女は女子高生で、次女も高校生か中学生です。

 父の仕事は中堅以上の規模の会社の人事部門管理者です。「人事の仕事は何をやっても人から恨まれる仕事」と言っていますが、確かにその通りだと思います。酒は殆ど飲めなかったはずの彼は、若い頃から、人事部門の業務のストレスと、また人事面での相談に訪れる者との酒を通した密談などでどんどん酒への依存を強めて行ったようでした。劇中、彼の同期であり大親友の営業担当者でさえ、片道切符で出向させ、事実上、出世の道を断ってしまいます。半狂乱で親友に責められても無言で耐え続ける場面さえあるのです。

 それが正当化に十分な理由であるかどうかは別として、父には父の辛い仕事という酒に溺れる理由があります。母が新興宗教に嵌ったのはいつのことか分かりませんが、既に子を設ける前から夫の酒乱状態に嫌気がさし、別れようと思ったことがあると娘に聞こえるように呟いています。父の常連の飲み屋の飲み仲間が、「大人の付き合い」として頻繁に麻雀に押しかけてきて、「奥さん。ビール下さい。奥さん、灰皿替えてください」などと仲居のようにこき使われるのにも疲弊して行きます。

 そして、二人の娘は、そんな両親をずっと見続けて大人になって行きます。次女の方は父をダメな肉親として自分の価値観の中に包摂することに成功しています。しかし、主人公の長女の方は、父が母を死に追いやったと責める気持ちも、母が自分達の存在を無視して死んだことの自己肯定感の毀損も、そんな母を助けることもできなかった無力感や自責も、すべてを飲みこんで、自分の殻に閉じ籠って、イラストの世界に没入して現実から逃避するのでした。父に食事の際に進路相談をしても、父はテレビのクイズ番組に夢中で聞く耳を持たなかったりします。完全なネグレクト状態になっていますが、長女はそれに対して「期待しないこと」や「父への無関心」を決め込むことで適応しようとするのです。

 高校時代からの親友の紹介で現役東大生の小説家志望の男と交際を始め、結婚寸前に至りますが、交際時点での束縛や過剰な自尊は甚だしく、「愚劣な漫画描きも辞めろ」と主人公に迫ります。折角家を出る機会と思われた結婚ですが、「これでは母と同じになってしまう」と諦め、家でイラストや漫画を描く仕事をしながら、父を無視し続け、30歳を迎えます。そして嫌悪していた父の唐突な死へと物語は急加速します。

 重い罪悪感を抱きながら吞まずにはいられない父。それを耐え続けることができなかった母。その両親を見続け、愛されることに飢えて彷徨い始める長女。父の苦悩の理解者として振る舞いながらも、結局酒の世界に安住させようとするスナックのママと麻雀仲間たち。それぞれにそうならざるを得ない想いや人生観があり、それに向き合うことも殆どなく、それを理解することも殆どないままに、時間が徒に経って行き、結局死がすべてを奪った後でしか、娘達は“大人だった人々”の人生に思いを馳せることができないままでした。

 悲しく残念な、しかし、そうなってしまわざるを得ない業のようなものを描いて見せる作品です。それでも、この映画が辛うじてどんよりとした死臭を放つ作品にならずに済んでいるのは、先述の「寸止め」やそれ以外の各種なコミカルな場面描写が存在すること、そして、主人公の長女の考えが若く純粋で簡潔な言葉として吹出しに書き出される演出、さらに、その長女を演じた松本穂香と言う女優の抑制された感情表現の冴えによるものであるように見えます。

 この松本穂香と言う女優は、原作の漫画の長女にルックスそのものが酷似していますが、DV男と化した東大生とのセックス・シーンからパラパラ・マンガ描きに没入する高校の教室の休み時間のシーンまで、どこにもきちんとそこに居そうな感じで収まっています。高校生から30歳までの10年以上を演じ分ける快演だと思います。ウィキで見ると、2015年に「担当マネージャーが有村架純と同じことから「有村架純の妹分」のキャッチフレーズで女優として本格的に活動を開始」したのだそうで、その後、NHK連続テレビ小説『ひよっこ』に有村架純とセット出演して有名になったとの話でした。

 テレビを殆ど見ない私はそのようなことを全く知らず、この映画で初めてこの女優を知った気になっていましたが、ウィキで見ると、『ガールズ・ステップ』、『恋は雨上がりのように』、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』、『チワワちゃん』、『君は月夜に光り輝く』などの私がDVDで観た作品群に出演していると知り、かなり驚かされました。正直全くその役柄を思い出せません。それほどに自然だったのかもしれません。唯一、「げっ。あのおかしなスペック・ホルダーのおかしな嫁か!」と気づくことができたのは、最近私が嵌っている『SICK’S 恕乃抄 ~内閣情報調査室特務事項専従係事件簿~』ぐらいでした。今後の作品が出たら、一応要チェックかなと思っています。

 父を演じた渋川清彦も、「あちこちで見るよなぁ」と思ってウィキを見たら、最近劇場で観たものでも『パンク侍、斬られて候』があるなど、DVDで観たものを含めると無数と言っていいぐらいに出演していました。この映画を観た晩、DVDでレンタルしていた『神と人との間』を観たら、いきなり主人公であったのには驚かされました。

 私の邦画ベスト50にはちょっと及びませんが、現代人の業ややるせなさをギリギリ重くならずに描き切った快作だと思います。DVDは絶対に買いです。

追記:
 劇中で一つ違和感を持ったのが、DV男とのラブホテルのシーンで主人公が「処女じゃない!」と糾弾されることです。観客として見ていて処女じゃないことに幻滅した訳では全くありません。自閉症一歩手前まで殻に閉じこもり、愛すること・愛されることに飢えていて、そのような相手が出てきたら、いきなり依存してしまいそうな主人公に思えます。だとすると、その初体験を伴う恋愛経験はなぜ描かれることがなかったのかが、少々不思議に思えました。何か物語としての整合性を欠くように感じる一点です。