『ふたりのJ・T・リロイ ベストセラー作家の裏の裏』

 2月中旬の封切から約2週間経った木曜日。もともと全国でもたった数館しか上映しておらず、23区内では新宿と恵比寿で各1館しか上映していない状態です。JR新宿駅に事実上隣接しているミニシアターのウェブサイトを見ると「3月上旬」に上映終了予定ということでしたので、実質あと1週間余りしか上映されないようでした。

 もともと、大人気映画と言われていて観に行こうと思っていた『ヲタクに恋は難しい』が、私が嫌いなミュージカル仕立てのシーンが多いと知りパスすることにし、さらに、次点だった『AI崩壊』もただ走り回るシーンが多い上に、私の好きな俳優も居らず、おまけに2時間超の尺と聞いて諦め、2月の劇場鑑賞ノルマ2本の達成が危ぶまれたので、この作品を観に行くことにしました。

 この作品を選んだ動機はあまり強くありません。単に、まあまあ好きなローラ・ダーンを久しぶりに見られると知り、さらに、ローラがローラを演じると知ってやや関心が湧いたような感じです。

 このブログの『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』の感想の中で…

「敢えて挙げるなら、トレーラーでちらりと見たローラ・ダーンがちょっと関心を引いたのは間違いありません。『ブルーベルベット』、『ワイルド・アット・ハート』、『インランド・エンパイア』の濃厚なデヴィッド・リンチ作品の印象が強く、『ランブリング・ローズ』の好演も光りますし、『デブラ・ウィンガーを探して』で吐露する自分自身の女優人生観も感慨を湧かせます。ジェニファー・ジェイソン・リーのような強烈なファンではありませんので、ローラ・ダーンが出ているからと言ってその作品を観たくなる訳ではありませんが、好きな女優の一人ではあります」

 と書いている通りです。多分、私にとってローラ・ダーンの“発見”は『マスク』であったろうと思います。当時18歳のハリウッド系の女優には当時珍しかったタヌキ顔の彼女が演じる盲目の少女には透明感がありました。その印象から時を経て彼女を“再発見”したのが『ランブリング・ローズ』です。自由奔放で少々おつむの弱い少女の愛くるしさが非常に印象に残り、当時24歳のローラ・ダーンが18歳のローラ・ダーンと私の頭の中でつながって記憶されたように思います。『ランブリング・ローズ』は私の洋画ベスト50には入っていないものの、今もかなりお気に入りの作品です。

 一方で、デヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』がベスト50入りの衝撃作で、(ネットもない時代に)そこにいるローラ・ダーンがそれまで認識していたローラ・ダーンとはなかなか重ならないぐらいでした。その後、映画館やDVDで『ワイルド・アット・ハート』、『インランド・エンパイア』、『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』、『デブラ・ウィンガーを探して』、『ジュラシック・パーク』と『ジュラシック・パークⅢ』などを観て、ローラ・ダーンは「おお。ここにも居た!」と親近感を抱くような程度の心理的な位置づけになってきつつ、今に至ります。これらの作品の中でも、白眉は前述の『デブラ・ウィンガーを探して』ですが、何十人となく登場するハリウッド女優のうちの一人ですので、それほど目立っている訳でもありません。そしてこれからDVDで見ようかと思っていた『スノー・ロワイヤル』にも出演していることを知っています。

 1日3回上映のうちの初回、10時からのシアターに入ると、観客は私も含めてたった5人しかいませんでした。全員単独客で、女性二人は30代ぐらいの背の低いぽっちゃり型体型。私を含め男性三人の残り二人は、一人が50代前半、もう一人は60代後半ぐらいに見えました。普段着そのままと言う感じ出で立ちでした。外では花粉が吹きすさび、さらに各種のイベントや飲み会や集会が新型コロナウィルス対策の政府のお達しで、どんどんキャンセルになるご時世を鑑みると、平日の朝の回はこの程度の動員でも上出来なのかもしれません。

 この映画は2000年代に起きた全米でかなり有名な芸能スキャンダルの実話をかなり忠実に再現した内容です。この作品のチラシでは、「アメリカ文壇に彗星のごとく登場し、世界的なセレブリティやアーティストから熱烈に支持された美少年作家J・T・リロイ。… カンヌ国際映画祭でも脚光を浴びた彼は、二人の女性が創り上げた架空の人物だった!? 2000年代半ばに一大スキャンダルとなったこの事件について…」などと紹介されています。私は全くこの事件を知りませんでしたが、かなりのインパクトがあった事件のようで、既に映画化はこの作品以外に1度行われています。

 今で言うLGBT系のテイストを絡めた母親から性的虐待を受けた少年の物語が出版され、大ヒットしましたが、その作者のローラがその物語の主人公が自伝として書いた物語として、(つまり、少年を著者として)発表したため、その公に現れることのない著者に関する情報が強く求められる状態になりました。ローラは自分の夫(映画では同居中の交際相手風に描かれています。)の妹がボーイッシュ(/ユニセックス)風なルックスであったため、この義妹を男装させて著者として写真撮影や取材対応をさせると言う展開になったものです。当然、この“しくみ”がバレることになってスキャンダルに発展したという話でした。

 確かに劇中でそれなりの騒ぎになっているのですが、その騒ぎのありかた自体に何か違和感が湧きます。匿名の芸能人や、フルフェイスのお面や濃いメイクで顔を出さない芸能人は全く珍しくありません。また俳優で芸名と本名が違うのは全く珍しくありません。生放送にあまり登場しないことで、嘗て、「大黒摩季実在しない説」が流布したことがありましたが、だからと言って、大黒摩季を皆が追求した訳ではありません。

 それどころか、たとえば、デーモン小暮閣下やピコ太郎などのケースを見ると、そういうキャラ・人格として周囲が認めることが既に存在の前提になっています。そのような事例を考えると、この“J・T・リロイ事件”がなぜこのような事件になったのかが、寧ろ、よく分からない感じに思えます。

 その違いを突き詰めると、マネジメントの存在と言う風に考えられます。そこに芸能プロダクションなどが入っていれば、何等の問題なく、J・T・リロイは架空の人物として普通に存在し続けられたのではないかと思えるのです。芸能人ではないケースで似たケースを考えると、イザヤ・ベンダサン論争ぐらいしか私は思いつきませんが、それでさえ、「スキャンダル」というほどのことには発展していなかったように思います。(寧ろ、書籍の中身に対する議論の延長線上に、訳者と思われていた山本七平が著者と言う話が重なって、色々揉めた…的な朧気な記憶があります。全然記憶が確かではありませんが…。)

 その疑問と違和感が拭えないままに、1時間半に満たない時間は過ぎてしまったように思います。田舎町から都会に来て一人暮らしを始めたばかりの主人公が、カンヌ映画祭に至るまでの様々な場面で、有名セレブからチヤホヤされる「超セレブ」扱いにハマってしまい、のめり込んでいく様子は確かによく描かれていると思いましたし、それが実現している要素の一部には、今度再リメイクされる“チャリエン”の一人になるクリステン・スチュワートの肌理の細かい演技があったようには思います。そして、かなり忠実に実話に基づいているという話なのに、まるでつくられた物語のように、安易にことがどんどん進んで行ってしまう不気味さも、或る意味、うまく表現されていると思います。しかし、それでも尚、先述の疑問と違和感は、この映画の価値を何か大きく毀損するものであるように思えるのです。

 ローラ・ダーン以外にメジャーな俳優が見当たらない作品ですが、一人、遥か以前から知っている名前がチラシの中に見つかりました。コートニー・ラブの名前を見て「どこで(/何で)観たんだっけ?」とちょっと考えて、『シド・アンド・ナンシー』であることを思い出しました。ウィキに拠ると、自らがロック・シンガーで、自殺した「ニルヴァーナ」のカート・コバーンの妻だったことなどでも知られるとのことでしたが、私は単に「ああ、シド・アンド・ナンシーの主演女優」としか認識していません。ただ、画像記憶がほぼできない私でさえ、劇中の登場と共に、「あ。ナンシーだった女優だ」とすぐ理解できたのは、それだけ『シド…』のインパクトが強かったということだと思います。

 ローラ・ダーン演じる、別人格を含めた虚構の世界観を、虚言癖と作話の間を行き来しながら紡ぐ少々メンヘラ気味の女性は、なかなか迫力がありました。ここ最近の所では、到底、マクドナルドを拡大した野心家の男に捨てられる妻の様子とは全く異なり、ローラ・ダーンの安定した演技力が際立っています。

 しかし、それでも、どうも、疑問と違和感が募る一方で、「おおっ」と驚かされることのないままにダラダラ時間が過ぎる弛緩した物語でした。DVDは必要ないように思います。

追記:
 J・T・リロイが書いた小説のタイトルは“Sarah”ですが、『ターミネーター』シリーズのサラ・コナーを連想させます。そして、J・T・リロイは Jeremiah “Terminator” LeRoy です。このようなネーミングがされている著者と作品の組み合わせを見ると、こんなネーミング・センスの相手に、著者暴きに熱中する人間も人間と言う気もしないではありません。