『ロマンスドール』

 1月24日の公開からほぼ1週間経った木曜日の午後4時10分の回をバルト9で観て来ました。上映館は関東全域でも37館。23区内でも10館しかありませんが、ネタがネタであるせいか、若しくは、そのネタに人気俳優らしく、最近漸く私も名前を記憶することができるようになって来た高橋一生が挑んでいるせいか、上映館での上映回数はそこそこ多く、機に敏いバルト9では異常に多い1日6回です。

 入ったシアターはバルト9ではまあまあ大きい方で、ウェブで見ると250余りの座席数ですが、観客は50人少々でかなり空いていました。女性は概ね4割ぐらいで、殆どが20代であるように見えました。残りの男性客は殆どがかなり高齢で私と同年齢程度に平均値がありそうに見えました。二人連れ以上の客もそれなりにいましたが、見た所、1、2組しか男女のカップルがいなかったことが印象的です。これもやはりネタの為せる業であろうかと思います。

 この映画を観に行きたいと思った理由はたった一つだけで、上述のネタそのものです。つまり、主人公の高橋一生の職業がラブ・ドールの造形師であることです。アダルト・グッズの会社を舞台にした映画作品はそれなりに存在します。邦画ならまんまのタイトルの『大人のおもちゃ』や『OMOCHA オモチャ』などを私もDVDで観ましたし、洋画ならちょっと古い時代を描いたもので『ヒステリア』もDVDで観ました。

 私は日本で最大規模のアダルト・グッズ・メーカーをオモテ稼業のクライアントとして9年ほどお付き合いしていたことがあります。日本のアダルト・グッズ市場の最も大きなセグメントは男性のマスターベーション用のオナホールです。TENGAの登場によって知名度も大きく伸びましたが、それ以前からそれより大型でより快感度も高い商品群が豊富にあったのがこの市場です。ところが、上述の映画の多くはなぜか(素人により知られているからと言う理由かもしれませんが)バイブレーターを扱うことが多いようです。そんな中で、オナホールでもなくバイブレーターでもなく、ラブ・ドールを扱った点が際立った特徴の物語です。

 私はアダルト・グッズ・メーカーの仕事の中で、ラブ・ドールのようなマイナーな商品群は殆ど関わったことがありませんでした。空気を入れるタイプのビニール製の、劇中で「ダッチ・ワイフ」と紹介されている製品群や所謂「抱き枕」の挿入可能なタイプなどは関わったことがあります。因みに、ビニール製の人形を「ダッチ・ワイフ」と呼んでラブ・ドールとは異なると劇中で定義していますが、ラブ・ドールも間違いなく「ダッチ・ワイフ」と過去には呼ばれていました。肌感を始めとしてリアルな人間に近いものになったため、ラブ・ドールと言う名称が定着しただけです。また、ビニール製のものに入社時の素人段階の高橋一生が言及すると、社員のおばはんが「いつの時代の話?」と言って、ビニール製のダッチを古いものとして扱っていますが、市場規模で言えばまだまだビニール製のダッチは幅を占めています。

 ラブ・ドールの美しさと艶めかしさは、実物を見ると圧倒的で、秋葉原の大人のデパートに専門フロアがありましたが、そこで彼女たちに囲まれその深い視線に晒されると何か異次元に引き込まれたように感じます。オリエント工業と言う会社のラブ・ドールの質はとりわけ有名で、(最近はやや廉価の中国製も増えたと聞きますが)肌の質感が抜きんでています。そのオリエント工業が特別協力までしているのがこの作品です。パンフでは、2017年にオリエント工業が40周年記念展『今と昔の愛人形』を渋谷で開いた際に、若い女性が長蛇の列を為したと原作者で本作の脚本監督タナダユキが述懐しています。若い女性達はジョーク・グッズとしての「ダッチ・ワイフ」としてではなく、女性の裸体をモチーフにした美しい造形物として認識しているのではないかと彼女は書いています。観客に若い女性が多かったのは、高橋一生が主役であるからと言うこともあるのでしょうが、実はそのような背景もあったのかもしれないと考え至りました。

 いずれせよ、私も過去に関わった分野の中の非常に珍しいモチーフを扱った映画であることが私がこの映画を観に行くことにした動機です。観てみると、前半のラブ・ドールづくりの実工程や、オナホールにも通じる素材の質感調整のプロセスなどは、非常に関心が持てました。特に最後に向けて、後述のように蒼井優のラブ・ドールが創り上げられる件(クダリ)がありますが、本当に蒼井優にそっくりの顔と体つきで、マダム・タッソー館の人形群の再限度を軽く凌駕しています。

 また後半の癌に侵され死に行く妻がラブ・ドール造形師の夫に「私を作って」と依頼し、夫はそれを引き受け、残された僅かな日々の中で、妻とセックスを重ねては妻のカラダを覚え、職場で人形として再現するという過程は鬼気迫る執念の物語に仕上がっていました。この後半の二人の物語は、死に行く側がどうやって生きた証を残すかと言うテーマとして捉えれば、『愛のコリーダ』のような観点で幾つもの力強い作品が思い浮かびます。敢えて言うなら、『僕と妻の1778の物語』などもこの類だと思います。また、夫の最高の仕事のために妻が命を懸けるという展開の観点では、『華岡青洲の妻』などが近いように思います。どれも観る者の心を鷲掴みにするような作品群です。この後半の夫婦の姿がこの映画の価値をグンと高めていると思います。

 ただ、残念なことに、どうもこの二人の役者が私には適切な選択に思えませんでした。夫の方の高橋一生は、以前『嘘を愛する女』の感想で…

「意識不明になる謎の男の役は、私には「そう言えば、『シン・ゴジラ』の対策チームにいた男だったけな」ぐらいしか認識できない役者ですが、かなり有名で『NHK連続テレビ小説』か何かで主役をやったぐらいに有名なのだそうです。台詞が少なく棒読み感がある人でしたが、特に瀬戸内での優秀な外科医のキャラと、長澤まさみとの同棲中のキャラ、そして長澤まさみの回想シーンに出てくる東京で知り合った頃の呆然自失状態に近いキャラ。この三つの同一人物の心情の大きな変化を演じ分ける巧みさは秀逸です」

と書いています。その後、DVDで『九月の恋と出会うまで』なども観ましたが、名優とは思うものの、今一つ線が細過ぎるように思えてなりません。激しい感情に揺さぶられ続けたり、必死に何かを追い求める役には、よく言えば抑制が利いた表情や言動ですが、悪く言えば地味過ぎてマッチしていないように思えるのです。

 さらに相手の蒼井優の方は、30代になっても何か『ハチミツとクローバー』の辺りや『人のセックスを笑うな』、さらに『花とアリス』の頃の変にモジモジしてはっきりしない、よく言えば純真さで、悪く言えばガキ臭さが、いつまで経っても抜けていないようで、癌で死に向き合う覚悟や諦念を表現しきっていないように感じるのです。

『彼女がその名を知らない鳥たち』の感想では…

「蒼井優の方は、特に好感を持っている女優ではありませんが、比較的私が好きだと思える映画作品に登場していることが多い女優でした。「でした」と過去形なのは、何やら結婚しそうな熱愛だと年の離れた男優との間で騒がれ、その後、捨てられて、相手の男優は自分とそっくりの若い女と即結婚しただのと、ネットでバンバン書かれて大変だった頃の以前の彼女の出演作が比較的観ることが多かったという意味です。

 ネットやら映画評やら、共演者のセリフなどからでは、この一連の騒ぎの頃から、彼女の演技に艶や蔭が出るようになって、単なる不思議系の可愛い女の子ではなくなったと言われています。私が最も印象に残っている蒼井優は『花とアリス』の不思議ちゃんで、紙コップをつま先に充ててガムテープでぐるぐる巻きにして即席のトウ・シューズを作って、オーディションでバレエを披露する役です。自分の優れた部分をドーンと押し出すことで、不思議ちゃんがいきなり羽化したような、美しい場面だと私は思っています。踊りで言うと、『フラガール』も印象に残る作品ですが、あれはどちらかと言うと、教える側の松雪泰子の物語とみるべきだと思います。

 それ以外でも、『鉄人28号』、『亀は意外と速く泳ぐ』、『ハチミツとクローバー』、『クワイエットルームにようこそ』、『人のセックスを笑うな』、『FLOWERS -フラワーズ-』、『るろうに剣心』シリーズなど、名作として人に勧めることはなくても、好感をもって思い出せる作品群を、フィルモグラフィーを見ることなく列挙することができます。パンフを見ると、最近は「闇を抱えた女性を演じることが多い」と本人も阿部サダヲとの対談で言っていますし、著者も「蒼井さんの今までのイメージをやすやすと壊してしまう力に驚きました」と書いていますが、先述のようなスキャンダルを経て、「やすやすと壊してしまった」のではなく、「壊れたまま自然に演じた」のではないかとさえ思えます。

 では、自然に演じられて凄かったのかと言うとそうではなく、少なくとも、阿部サダヲが演じる男が人生すべてをかけ、その他二人ものそこそこイケメンの男が遊びでも声をかけたくなり、さらに、マグロ状態のセックスのはずだったのに金持ち老人が「どうしてもまた寝たい」と騒いで(結果的に)殺人事件を引き起こすような魔性性が全然見当たらないのです。

 普通のだらしないその辺にいそうな女です。ウィキでみると、彼女の両親は大阪出身で娘を宝塚に入れたいと思っていたが、本人の顔を見てやめたと書かれています。何度も登場する濡れ場も、「まあそうでしょうね」という感じで、わざわざ頭の弱い女性のセックスの様を想像してこういう風にしているのかなという感じも漂います。艶や蔭が出るには、もう少々くっついたり離れたりが実生活上で必要な女優さんなのかもしれません。

 また、デパートに散々クレームを入れるモンスター消費者であり、自分に尽くしている男を結果的に踏みつけにしていても、気にしないでいられる(妖艶さというよりも)ズボラさを体現しているかのような関西弁も、何か板についていない気がします。よく関西人は関西弁の真似を他の地域の誰かがしているのを聞くと、「そんな感じではない」と強く否定すると言われていますが、彼女のこの作品中の関西弁はどのように聞こえるのか、機会があれば、誰かに聞いてみたいものだと思います。(ウィキでみると、両親は大阪出身ですが、彼女は福岡出身ということのようです。)」

と書いています。今回も全く印象が変わりませんでした。敢えて言うなら、上の感想を書いた後にDVDでみた『東京喰種トーキョーグール』で、「へぇ~。こんな役もやるんだなぁ。これが “闇を抱えた女性” の一例なのかな。けれど、“女性” と言っても、まあ人間じゃないし…」と気づいたことがあるぐらいです。本作の中盤の夫婦生活が倦怠してくる様子は、間延びして退屈に感じられます。脚本はよくできていて、妻が夫が隠してきた職業に気づくプロセスも、浮気に気づくプロセスもスッキリと削除しても尚、話が問題なく進んでいます。告白から結婚に至るプロセスも殆ど描かれていません。それでもすんなり受け入れられる展開です。それほどに含蓄を高めた出来映えの脚本なのに、中盤で飽きてくるのです。

 妻が夫に秘密を持っているということがパンフでもトレーラーでも強調され、夫婦の在り方に力点を置いた作品だと言われていますが、その話がこの二人の様子では、全然大問題そうに見えません。脚本で唯一私が不満な点ですが、映画冒頭で妻が夫に騎乗位でセックス中に絶命するシーンがドーンと登場してしまっています。そしてすぐ10年前に時間軸を巻き戻して、物語が始まるのです。妻の死、それも多分癌などの重病に拠る予測されていた死が、このシーンで理解できます。それで中盤過ぎまでその話題が出てこないのですから、当然、妻の秘密は彼女の命が消えていくこととすぐに推察できてしまうのです。妻の数日の無断外泊も、夫は浮気旅行を疑いますが、妻が「そうじゃない」と否定した時点で、「ああ、入院していたな。漸く死にそうになって来た」と分かるだけです。分かることが悪いのではなく、そんなことまで推測を重ねる余裕があるほど、中盤は観ていて頭が暇になって仕方ないのです。ダラダラと夫婦ごっこを続けられると、観ていて「早く死に向き合えよ」と苛立ってきてしまいます。

 おまけに終盤のセックス・シーンも、パンフには「大胆なベッドシーンも決して生々しくなく、美しく切ない情景となってスクリーンに描き出される」と書かれていますが、前半の生々しくないのは間違いなく本当ですが、後半の美して切ないのは、どうもそうは見えません。陶酔感も貪りも愉悦も乏しく、なんとなくベッドで体を重ね続ける感じに見受けられます。刻々と迫ってくる死の影は、セックスを重ねるたびにつないだ指から指輪がどんどん落ちそうになっていくことで生々しく描写されますが、残された時間を燃やし尽くすような情念がなく、スルッと「じゃあ、今日もセックスしようか」という感じに見えるのです。

 この辺がどうも辛い映画です。名演で言うなら、暗い過去の重みと小心者感の絶妙のバランスで先輩造形師を演じたきたろうや、完成したラブ・ドールの胸を真顔で揉みしだき商品価値を冷徹に測る元警察官の社長を演じたピエール瀧の方がかなり良い味を出しています。(ピエール瀧は見納め感があるので余計そう感じるのかもしれません。)

 配役と中盤のダレには不満が残りますが、DVDは間違いなく買いです。

追記:
 この作品に一番最初に注目したのは、もしかしたら最近比較的着目している新木優子にチラシの蒼井優の顔が酷似していたからかもしれないと、ふとその画像をパンフで見直してみて気づきました。

追記2:
 奇しくも、テレビでは沢尻エリカの裁判開始のニュースが流れ、彼女が職業を尋ねられ「無職です」と答えたと報じられていました。私は、仕事の成果と本人の倫理観などを結び付けることに基本的に同意できません。政治家が不倫をしようと本人達の問題でしかなく、ミッテランのように女性問題について記者から尋ねられて「それが何か?」と応じることでさえ、私は不必要なことであろうと思っています。
 まして、芸術系の職業にあっては、トランス状態がその冴えを生むことはよく知られています。大麻や覚醒剤など、他人に迷惑を掛けず他人に知られない範囲で使用して創作に臨むことがあっても、結果が素晴らしいものであれば良いのではないかと思えます。
 娘と以前カラバッジョ展に行って感銘を受けたことがありますが、カラバッジョは殺人者です。被害者なき犯罪どころか、殺人者の絵画を展示して良いのですから、沢尻エリカやピエール瀧の出演作の放映自粛など全く馬鹿げた行為だと思えてなりません。

追記3:
 パンフで対談をしているみうらじゅんとリリー・フランキーは共にラブ・ドールを持っていることから、使用者側の感覚を語っています。自分が最愛だと自覚する女性のラブ・ドールを作って、それを量産して数多の見知らぬ男達にセックスされるようにする…と言う発想に共感できないと、彼らが指摘しています。この物語はフィクションのようですが、私も確かにその点には疑問符が付きました。エンディングで夫が言う「皆は貞淑で清楚だと思っていたが、私は知っている。スケベで良い奥さんだった」の感覚から、自分しか知り得ない妻を知っているという優越感からそれを公開した…と考えられないでもありません。また造形師として美しい妻を再現できたことで満足で、あとは量産製品というコピーがどう扱われようと知ったことではないということかもしれません。しかし、私もみうらじゅんとリリー・フランキーの違和感に共感できます。