『さよならテレビ』

 年始早々の公開から1か月近くが経っています。東中野のミニシアターで観てきました。関東でもたった5館。23区内では2館しかやっていません。このミニシアターでは1日に5回もの上映をしています。1月最後の木曜日の真昼間、12時半からの上映の回を観ました。

 この映画館は建物は小さくても、102席もあるので、ミニシアターと少々言いにくい規模です。そのシアターに入ると30人余りの観客がいました。女性は2割ぐらいで、男女ともに年齢は高い層に偏っています。私でもトップ1割の年少者層に入っているように思えました。

 私がこの映画を観たいと思った理由は、この映画が東海テレビのドキュメンタリー劇場というシリーズの一つであるからです。このシリーズは既に12作が存在しています。第1作は私が好きな邦画トップ50にも入れた『平成ジレンマ』です。戸塚ヨットスクールの実態を抉るように描いた怪作で、収録期間中に生徒の一人が飛び降り自殺を図るようなことまで起きているのに、カメラは怯むことなく収録を続けています。

 第8作は、これまた問題作の『ヤクザと憲法』です。謳われているヤクザの日常生活上における理不尽を描くという大テーマが少々ピンボケに終わり、山口組の顧問弁護士の苦悩が語られる場面に随分尺が使われているなど、やや不発感があったものの、国民の一部であるヤクザの不当な人権侵害というテーマへの挑戦は、今回の『さよならテレビ』でも何度も使われる言葉“ジャーナリズム”の迸り出る凄みを持っています。

 そのようなシリーズの新作がこの『さよならテレビ』です。ドキュメンタリー作品を撮るテレビ番組がテレビ番組制作の現場を対象にするという斬新な試みであると話題になっている様子です。私はこの作品をチラシで観てから関心を持ちましたが、当初テレビ番組として中部地区でしかオンエアされなかったこの作品は、瞬く間にテレビ業界、メディア業界内で話題になり、裏ビデオの如く、ダビングにダビングを繰り返し、日本中に広まって行ったとパンフに書かれています。

 作品の冒頭に近い所で、朝礼の傍らで紙切れ一枚にまとめられた企画主旨を監督が読み上げて撮影対象となっている報道部全体に撮影開始を周知していますが、その後、部員の机の下面にはマイクが仕込まれたり、どんどん撮影のカメラが不用意な人々の姿を捉え始めると、部全体にストレスが溜まり始め、不満が爆発する様が描かれています。その際に部長などの管理職が口々に、「マイクで何でも録りっぱなしにしたり、会議の様子を了解もなく撮影するのはおかしいじゃないか。何のために撮っているかの理由にだって、こちらは了承した覚えはない」などと激昂して文句を言います。しかし、テレビ取材の場面ではこのような形の事柄がそれなりの頻度で発生しているはずであり、それを起こしている当事者が文句を言う身勝手さがいきなり描写されるのです。

 その後、視聴率を中部地区の他の三局と常に競い合うことに執心したり、覆面座談会の合成された覆面が万全ではなく大謝罪ネタになったり、部長が告げる「働き方改革」への対応に幹部が「そんなんで数字を取りに行けるか!」と不満を述べたり、求められていた派手な役割を拒絶するうちに看板ニュース番組からキャスターが降ろされたり、アイドル・オタクの清潔感に乏しい若い男性派遣社員が契約を切られたり、色々な事件が起きます。その流れの中で、段々と報道部の中のニュース番組キャスターと清潔感不足の派遣社員、そして、新聞記者から転職してきて、ジャーナリズムを熱く語る50代の契約社員に話が集中していきます。

 いつもの如く、このシリーズの作品の一つとしての発想の斬新さを感じます。しかし、その内実は全然斬新ではないことに私はかなり落胆しました。落胆と言うよりも、「まあ、そうだよね」というような「平凡に対する無感動」と言った方が良いかもしれません。

 働き方改革の対応も別にどこの企業でも起きていることです。派遣社員切りも全く珍しくありません。おまけに派遣社員は、先述の通り、清潔感ほぼゼロで、言動から知性が感じられず、部屋は汚部屋一歩手前状態で、何かを集中的に勉強したような気配が全く感じられない人間です。路上取材も食レポも頓珍漢か愚鈍かのいずれかにしかなりませんし、「ブームから1年。ポケモンGOの今を…」と言った企画をとうとう採用されたのに、取材対象者の顔出しの確認をせずクレームが発生し、放送直前でボツになったりまでします。まあ、当たり前のことです。この程度の人材を送られたら、派遣会社にクレームを入れて人材の「チェンジ」か単純に契約解除のいずれかを普通の企業ならすぐに迫るのではないかと思えますから、寧ろこの東海テレビ報道部はやたらに温情的であるように感じます。

 キャスターの降板も、求められた感情労働ができなければ降ろされるのが当然です。わざわざ「お前をこの番組の顔としてドンドン押すからな」と全体の方針を部が決めているときに、「分かりました」と引き受けておいて、後から、「ドンドンしゃしゃり出て自分自身を出すようなキャスターは、報道を歪めることになるんじゃないか」などとグチグチと逡巡するのは、大人のやることではありません。馬鹿げています。

 その辺の“良心(/ジャーナリズムへの忠誠)の呵責”のような感情を先述の元ブンヤの契約社員も散々口にします。彼らの逡巡は大きく分けて二つあります。一つは、視聴率至上主義により本来のジャーナリズムの役割を放棄しているというもの。もう一つは、取材する対象をきちんと掘り下げず、分かりやすいモノや面白いモノに勝手に歪めてしまって、ジャーナリズム足り得ていないというものです。そして、テレビというメディアが徐々にその信頼を失い視聴者を失っているのは、これらが理由ではないかと彼らは常に逡巡し続けるのです。

 私はこの青臭さにウンザリ来ました。まず、私はテレビがジャーナリズムの体言度合いを大幅に改善させていったとしても、視聴者がどんどん増えるとは思っていません。ほんの微かな相関がある程度のことではないかと思っています。視聴者が減ったのは、人口が減ったことと、テレビしかない時代に育った人々の構成比も徐々に下がったこと、さらに、他の情報収集と時間消費の選択肢が爆発的に増えたこと。この3つの理由があると思います。

 くだらないゴシップを見たがる人は一定量常にいますし、面倒なことを考えたくない低読解力の人々も人口の過半数居ることが分かっています。ジャーナリズムの役割は、「事件・事故などの情報を広く伝えること」、「弱者を守ること」、「権力を監視すること」と執拗に劇中で紹介されます。これらをよりよく満たすようになったとしても、到底視聴率が鰻登りなどと言う事態が起きるとは思えないのです。

 勿論、これらの3つの役割が全く無意味だと言っているのではありません。現実に、ネットのニュース記事や、SNSの政治経済などの分野についてのコメントなどは、多くの場合、新聞かテレビが情報ソースになっています。新聞を買う人が減り、テレビを見る人が減ったのは、カネを掛けず時間拘束をされないようにしながら、間接的に新聞やテレビに依存する人が増えた結果であるように私には思えるのです。であれば、どれだけジャーナリズムを磨いたところで視聴率は上がりません。しかし、視聴率追求だけをやって、「報道色」を殆どゼロにしたら、ケーブル・テレビや衛星放送の娯楽チャネルと同じになってしまいますから、地上波のテレビの存在意義そのものが無に帰すぐらいの事態にはなるでしょう。

 事実や現実を編集してしまい、企画意図に当て嵌めてしまうのは間違っているというのも、全く馬鹿げた青臭い妄想です。私はビジネス誌の編集部に在籍していた時、特集記事の企画から取材まで一人でやるように入社後1ヵ月で言い渡されたことがありますが、その際に辣腕編集長が言ったのは、「特集記事は幕の内弁当のように作る」でした。つまり、取材情報が食材で、それを料理して適当な量を用意して、幕の内弁当全体のコンセプトに合うように詰め合わせるということです。世の中に事実などありません。誰かの五感を通じて脳に入り、その脳から言語の形で発信された時点で、情報は「処理済み」になって、オリジナルの状態から明確に変質してしまっています。なぜそんな分かり切ったことで大の大人が寄って集って悩み続けるのか全くイミフです。単に自分達が悩み深い高尚な仕事に取り組んでいると言う妄想を維持したいだけであるようにしか思えない場面さえあります。

 私は所謂「ネット民」の言う「集合知」も全く信じていませんので、ネットの中の意見に正しいものが多く、マスコミの言うことは偏重が酷く、そんな連中は「マスゴミ」だとかいう議論にも全く与しません。先述のように報道でさえバイアスが掛かるのは当たり前のことなので、寧ろ、高学歴のお歴々が一定のバイアスを常に掛けながら報道してくれた方が、規格が全く不統一で、ソースも分からなければ編集方針もよく分からないことが多いネットのニュースより余程望ましいように思っています。

 一方で、この作品を観て、一つ胸を打たれる場面があります。それは、東海テレビ社内で設定された8月4日の「放送倫理を考える日」です。これは、“セシウムさん”で有名な「不適切テロップ事件」によって、2011年に東海テレビが大バッシングに曝され、会社の存続さえ危ぶまれるほどに追い詰められたことから、毎年この日に全社集会を開いて反省を反芻しているのでした。これだけ誠実に会社の事業に向き合っているのであれば、後はプロとして適切に判断をすればよいことではないのかと、先述のような報道倫理だのジャーナリズム議論だのに振り回されている様子が余計に馬鹿らしく見えます。

 この映画のラストは衝撃のどんでん返しだと言われています。何が起きるのかと思っていたら、このドキュメンタリー自体に各種の“テレビ番組制作”的な仕込みや演出があるのが暴露されるのでした。或る意味、この作品制作の側が同僚である報道部の人々の“テレビ番組制作”的な姿勢を散々暴いたことに対して、懺悔や禊として、自分達の“テレビ番組制作”的な姿勢を晒して終わったと見ることができます。

 ただ、これさえも、作品の画像を見ていれば普通に気付くような演出ばかりです。例の劣悪な質の派遣社員が職場を去る前に経済的に困窮していて、この作品の監督が数万円を自分の財布から出して、こっそりと休憩室のようなスペースで渡している場面があります。この場面が撮影されていることを二人は知っているのは当然で、寧ろ、仕込んでこういう場面が発生したと考えるべきです。(そうでなくては、こっそりやっていることにカメラが偶然居合わせることは稀と考えるべきでしょう。大体にしてカネを貸しているのは監督です。それをカメラが偶然捉えた訳がありません。)

 先述の契約社員の“燃えるジャーナリスト”のような男が、自分が共謀罪の取材をした被疑者の人物に法律に関わるセミナーで偶然会った体で、無罪確定を祝福する場面もあります。「あ。●●さん」などと話しかけていますが、その時点で両者にはマイクがつけられているようで、音声がきれいに録れています。こんな馬鹿なことが現実に起きる訳がありません。すべて演出です。そういう演出は他にも色々あることに見ていれば気づかされます。映画は最後にこれらの幾つかについて演出の打ち合わせをしている場面を無機質に流して終わるのでした。

 これが衝撃的かと言えば、全編の中で最も衝撃的であるのは間違いないでしょうが、他の衝撃が非常に小さい中での団栗の背比べに感じられます。この場面はほぼ音声だけの不明瞭なものですが、この作品の冒頭の数分にも用いられていて、最初に流れた音声の謎解きを最後で行なうという、これまた“演出”にもなっているのです。「テレビの裏は演出だらけであることを暴いたこの作品も演出だらけ」と、ツラッと種明かしして終わるのは、悪くはありませんが、特に驚きも何も感じませんでした。テレビ局や新聞社の内実を描いた映画作品だってたくさんあります。テレビ局の視聴率に追われる世界を描いた『ネットワーク』は秀作です。それと同様のモノだと思えば、別になんだということもありません。

 妙に青臭いだけの作品です。それでも、『ヤクザと憲法』同様にテーマ設定そのものに新規性は一応あり、話題作ではあるので、DVDはギリギリ買いかなと思います。