『ジョーカー』

 12月中旬の月曜日にバルト9の夜9時40分の回を観て来ました。記録的な大ヒット作で、10月初旬の封切なのに、今でもバルト9では1日5回もの上映です。大ヒットの要因が、その物語に内包されているテーマであり、米国では記録破りの大ヒットである一方で(市町村単位なのか、郡単位なのか、州単位なのか分かりませんが)上映が為されない場所もあるという風に聞いています。上映禁止や暴動・デモを誘発する映画と言えば、留学中に映画館で観た『最後の誘惑』を思い出しますが、そのような或る種の時代感覚は得ておくべきかと思い、観よう観ようと思っていました。日本でも何が良いと評価されたのか、冒頭で述べた通りの大ヒットです。映画がそれなりに好きなクライアントさんからも「観ましたか」、「観ましたか」とあちこちで尋ねられるので、答えを用意しなくてはならないという(職業的な)動機もあって観に行くことにしました。

 流石に終了が12時に近い終電時間枠になるだけあって、広いシアター内に20人ほどしか観客は居ませんでした。主演男優は超有名大物と言うことでもないものと思いますが、ややマニアックなファンが多いのか、女性客が圧倒的多数派で、単独客、二人連れ客などの20代ぐらいまでの若い女性が目立ちました。男性の方は全体の3割いるかいないかぐらいで、1、2組カップル客がいたように思いますが、いずれにせよ、若い層で、私はざっと見渡した感じで最老客であったと思います。

 私が知る米国社会は私が2年半暮らしていた人口1万人余りの非常に平均的な「村」のものですが、映画などで観るまでもなく、私が日本との行き来の途上で訪れたLAやサンフランシスコの街に必ず存在する疲弊しきった都市近郊の風景がこの映画では描かれています。そして、劇中中盤ぐらいで、自分達の生活を何も良くしない政治に対する不満が溢れだし、デモや暴動が始まります。確かによく聞く、ドナルド・トランプ支持層のプア・ホワイトの不満や鬱屈がそのまま投影されているのだと言われれば(現実に劇中の暴動に加わっているのは殆ど白人で)一応納得できますし、『割れ窓理論』の実験場となった街そのもののようにも感じられます。

 私が諸外国の暴動やデモを見ていていつも抱く二つの疑問があります。この映画でも、その疑問の答えは全く見出せません。

 一つ目の疑問は、「暴動の徒達は、なぜ私財を奪ったり、破壊したりして許されると思うのか」です。直接的な権力者個人とか自分達を抑圧する組織などへの攻撃ならまだ理解できます。まして、仇討ち的感覚で、自分に直接的に害をなした人間へ復讐するのも、感情論として十分理解できます。自分達を弾圧する組織への妨害として機能することが見込まれるという理由からの公的インフラの破壊も、たとえば香港の地下鉄駅施設の破壊のように、ギリギリ意義を見出せます。しかし、なぜ一般の店舗や路上の一般車を破壊して構わないと思えるのでしょうか。

 社会全般に対する怒りの表現だとしても、その表現の対象となっている人間も、自分達と同じどころか、もしかすると、自分達よりさらに恵まれない状態の生活をしている人間かもしれません。そして、社会への怒りと言うなら、自分達もその社会の一部を構成していることを理解すべきです。サッカーのファンが熱狂の試合の興奮をそのまま街へ持ち出し、暴徒と化しフーリガンと呼ばれるようになることがあるとよく報道されています。それに対して、日本人ファンは競技場では熱狂し、場合によっては敵に対して好戦的な感情を抱き、それに従った言動を取ることがあります。しかし、それを街に持ち出すことはありませんし、公共インフラの破壊に及ぶどころか、逆にゴミを拾って帰るなど、公共の場を守る行動をとることが、高く評価されていると、これまたよく報道されています。

 もう一つの疑問は、「この破壊者達は破壊した後の体制を自分達で創れると思っているのか」です。発展途上国でよく起きる軍部によるクーデターは大抵短命ですぐ次の動乱が起きますし、世界史で学ぶ市民によるフランス革命は結果的に皇帝ナポレオンを生みましたし、労働者のための労働者による世界の到来を描いた本一冊によって作られたソ連も中国も、共産党の独裁と貧富の格差を大きく生んだ結果に終わりました。これらを見ていると、壊すことの安易さと、創って維持することの難しさの対照を本当に痛感させられます。

 クーデターでも革命でもありませんが、日本でも散々自民党政府を批判してきた野党が政権を取ってみたら、全く頓珍漢な政治が始まり、おまけに東日本大震災が起きて、日本の政治経済外交を大きく後退させてしまったと私は思っています。また自民党が政権を取ると、国会で批判のための批判を繰り返し、どこぞの土地を安く売っただの、不倫しただの、花見をしただのと、国政にほとんど関係のない話をずっと繰り返し、批判のための批判しかせず、満足に説得力ある代案一つ出せないのが現在の野党のように見えます。それでも、これらの野党の人々は、自分の意見が通らなくても暴動を起こしたり、路上で暴れたりすることはありません。この作品の中にいる人々も、実際に、海外の報道でもよく見る、デモと称して一般の人々まで巻き込んだ破壊活動を重ねる人々は、破壊すれば勝手に何か新しくて自分に都合の良い社会が生まれると思っているのでしょうか。余りに考えがなくて驚かされます。

 荒れて荒んで不満が蓄積された国民を刺激しないように、この作品の上映を中止する国とは、少々日本は話が違うように思います。そのような人は個人単位では発生します。多分、秋葉原でトラックで人をはね回ったり、神奈川で寝たきりの人々を殺して回ったり、大阪の学校で児童を刺殺して回ったりするのも、基本的にこういう原理と捉えられるかと思います。それに対して、「そうだ。世の中がおかしいからだ。だから、どんどん周囲の誰かをターゲットにして、犯罪をみんなで犯そう」と呼びかけ、団結する人々は、この国ではなかなか見つかりません。

 敢えて言うなら、山本直樹の名作『レッド』に出てくる革命を夢見た高偏差値大学の学生達ぐらいが日本史上最後の、そのような人々なのかもしれません。

 色々な理由があるのだと思いますが、よく日本は民度が違うと表現しているのを見ますが、簡単に言ってしまうと、あくまでも平均値の話ですが、国民全般に日本では三つの事柄が海外の多くの国に比べて普及浸透しているからではないかと思えてなりません。その三つとは、「教育」・「努力」・「知足」です。

「教育」はやはりオールマイティの解だと思わざるを得ません。主人公はバットマンの父親に自分がその非嫡子であることを認めさせに行って否定され、母の精神障害と自分への虐待を知ります。それでも金が欲しいなら、選挙の対抗馬にスキャンダルを売りに行ったら良かったのではないかなと思えます。褒めたことではありませんが、日本でも、アイドルの元カレがハメ撮り画像などを流出させたりしていますが、バットマンの父クラスなら、かなりのネタになると思えます。非嫡子ではないことが事実だとしても、ネタの価値にあまり変わりはないでしょう。対抗馬は喜んでカネを出すのではないかと思えます。

 道化の派遣会社から契約を切られた際にも、この手のことを扱いたがる弁護士は絶対米国なら多々存在するだろうと思えます。けれども、主人公が思い至らなかった最大の金儲けのチャンスは、マレーが自分の動画を勝手に番組で使ったことです。わざわざ自分で撃ち殺しに行かないで、弁護士を使って肖像権や著作権の侵害を争えば、多額の和解金が入ったろうと思えます。おまけに有名人マレーに非を認めさせた人間として一躍有名になります。日本でもテレビ局の謝罪ニュースはよく登場しますが、あれらの“事件”の裏では大きなお金が動いています。事故や火事が起きると、救急車で運ばれて行く怪我人を弁護士が名刺を差し出しつつ追って来る国柄で、なぜそれをやらないのでしょう。理由は多分、主人公にはそんなことが思いつかなかったからでしょう。

 劇中の時代には便利な道具を皆が携帯していなかったかもしれませんが、電車内の三人のエリート・サラリーマンの愚行に対しても、単に撮影して、どこかにタレ込む準備をしてから何かのことを起こすなどの(後付けのアイディアでしかありませんが)方法も一応あったことでしょう。私は1980年代後半のオレゴンの片田舎のバーで、当時の言葉で言う「インディアン」の人々が深酒して、因縁をつけて来てかなりまずい状態になった時に、「日本に古来から伝わる人を殺す呪いの呪文だ。最後まで聞くと、本当に死ぬぞ」と言って、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を暗唱したら、事なきを得たことがあります。
 
 教育は社会と言う自分が強制的に参加されられているゲームのルールを教えてくれます。ルールを知らずに死ぬしか降りることのできないゲームに参加すれば、負けがどんどん込んでいくのは見えています。『無知の涙』という死刑囚に拠る文章がありますが、服役している間に『資本論』まで読むようになった著者の深い後悔が綴られています。主人公は、歪んだ社会の被害者として理解されやすい物語ですが、よくよく見ると、米国で常識の「自己責任論」で行くなら、自ら選んだ無教育・無教養によって面倒な犯罪者になっただけのことです。

 そのように言うと、多分、主人公は緊張すると笑いだすトラウマ性の障害があるのだから、やはり憐れむべき人物だという意見もあるかと思います。しかし、ヒプノセラピーのメッカの米国で、このような症状を治せない訳がありません。百歩譲って仮に治せなかったとしても、『五体不満足』でさえ散々不倫を重ねながらテレビに出続ける人間もいるぐらいなので、芸のタシにすればよかったのではないかと思います。もともとコメディアン志望なのですから、『グレーテスト・ショーマン』の世界に行けば良いだけですし、韓国のように、身体障害者や病人を笑いものにして舞い踊る習慣のある国までありますから、少なくとも生計を立てる選択肢はそのままでもあり得るようには思えます。

 結局は、以前私の出版社勤務時代の先輩が言っていた言葉ですが、「無知は犯罪を構成する」がそのまま当てはまる事例でしかなく、「教育」が絶対の“解”として働きそうに思えるのです。

「努力」は非常に重要な要素です。日本とは異なり、欧米では努力は普通の人間がすることではないと思われているフシがあります。格差社会で選ばれたエリートだけが努力を必然だと受け止めています。だから、“普通に暮らしたいだけなのにそれができないのはおかしい”と努力なしで平然と抗弁してくる人間がたくさんいます。『下流志向』を読むと分かりますが、成果を受け取る人間が期待したもの以上の、余剰のある成果物を提供しなくては、報酬も評価も上がらないどころか、次の仕事が来なくなりやすいのが、世の中の常識です。その方向に努力はなされるべきであって、成果を受け取る側にとって「余剰」が生まれないような、たとえば、闇雲なハードワークなどは、ただ体力や精神力を擦り減らす結果にしかなりません。

 主人公はコメディの技術をお客目線で研究していて、その地道な努力は評価できますが、その前段階の「仕事を取る」ための“正しい”努力が少なくとも劇中で見当たらないのです。就活に頑張っても面接一つ実現しない学生の“頑張り”の中身が、相手の会社のことをよく調べもしないでエントリーシートを量産して大量送付するだけであったりするようなものだと思います。その正しい方向の努力を自分のものとするのにも、単純な偏差値的なモノとは質の異なる「教育」が必要であるかもしれません。

「知足」は夢を持つことへのアンチ・テーゼです。自分が抱く「真・善・美」の基準を他者に押し付けることは、詰まる所、傲慢だということかと思います。劇中の暴動を起こしている不満分子の人々は、自分の生活が儘ならないと思っています。主人公も、上述のようなことをしつつ、カネを稼ぎ、訪れたチャンスをきちんとモノにし、それを積み重ねて行けることの“幸い”で満足すれば良かったのではないかと思えてなりません。素晴らしいオペラを素晴らしい衣装を着て鑑賞している劇中の金持ち連中も、社交的にニコニコしていますが、必ずしも毎日ハッピーである訳ではないでしょう。上を見ればキリがなく、下を見てもキリがないのが人生ではないかと思えます。

 それは構造主義で言う社会の「構造」の認識不足とも言えますし、「感謝」の不足でもあると思います。最近、日本でも、自省もほとんどせず、青い鳥を追いかけたり、ポジティブ一番とばかりに夢ばかり具体的努力もなく追いかけて、どんどん道を外れる人が目立つようになっています。「好きを仕事に」は大抵大間違いで、「お金をもらえることを仕事に」が鉄則です。「貧乏から成りあがった」という華々しい有名人達は「好きなことを仕事にしている」とよく言っていますが、大抵は嘘です。「仕事にしたことを一所懸命やったので、どんどんできるようになってやる気が湧いたり、好きになったりした」だけのことです。日本で、少なくとも、暴動を起こして破壊行為に打って出る人間が少ないのは、そのような本当の構造を分かっている人が多いのか、単純に「知足」の心境に至っている人がそれなりに多いのかのいずれかに拠るのではないかと思えてなりません。

 色々なことを考えさせてくれる映画です。しかし、ほとんど共感するところのない映画でした。パンフレットにも参考作品として紹介されていますが、満たされていない人間に拠る狙った人間へのヒロイックな復讐劇と言う観点では、『タクシー・ドライバー』の方が格段の名作だと思えました。それは、ジョディ・フォスター演じる幼い娼婦を救い出すための破滅的な自己犠牲が物語の軸になっているからだと思います。その主人公を演じたロバート・デ・ニーロはいきなり顔面に銃弾を受け射殺されるマレーをこの作品で演じてどう思ったのかなと思い至りました。

 唯一主人公に共感できたのは、高揚した気持ちがダンスを誘発することです。ロケ地になったニューヨーク・ブロンクス地区にある階段が観光名所になったとのことですが、あの階段のダンスには圧倒的な美があるように思いました。高揚の理由が何であれ、主人公の歪んだ開放感の愉悦にはちょっと共感できるので、DVDはギリギリ買いかと思います。