11月8日の封切から4日目の月曜日。関東全域でもたった11館。23区内でもたった2館しかやっていず、致し方なく渋谷のかなり北のはずれにある映画館に足を運びました。ここは、交差点を挟んだ向かいのビルまで地下を通って行ける点では評価できるのですが、如何せん、駅から遠く不便な上に、何をどう気取った結果なのか分かりませんが、エスカレータやエレベータの構造がやたらに複雑で、ビルの上層に存在する映画館に辿り着くのに長い時間を要するという面倒な映画館です。
おまけに、上映館数の少なさと相俟って1日の上映回数も少なく、非常に不便です。たまさか横浜みなとみらいで午後に仕事があったので、その帰り道に上映時間の午後7時丁度より1時間以上早く現地に到着しました。面倒な上層階のチケットカウンタまで上がって、チケットを購入し、また降りてきて隣のビルに行って早めの夕食を取って戻ってきました。
小雨が降ったり止んだりの夜。チケット購入時点でも20人以上の席が購入済みでした。3つのシアターがある中で一番小さい60席の所だったと思いますが、上映開始の頃には、さらに観客が増えて、30人余りになっていました。女性が辛うじて過半数でしたが、年齢には偏りが大きく、女性は20代から40代前半ぐらいまでの比較的若い層であるのに対して、男性はオッサンばかりでほぼ全員40代以上に見えました。男女共に単独客が多く、カップルを含めた二人連れはほんの数組しかいないように見えました。
私がこの作品を観に行こうと思った最大にして、ほぼ唯一の理由は、二階堂ふみが主演であることです。厳密に言うと二階堂ふみが変な役をやる作品であることです。本人が敢えて選んでいるのかどうか分かりませんが、普通の役柄もあるにはありますが、全出演作品のうち、半数以上がおかしな尋常ではない人物像ではないかと思えます。以前の彼女の出演作の感想でも何度か書いていますが…
▲両親に絞首台を用意される女子高生(『ヒミズ』)、
▲連続爆破魔(『脳男』)、
▲ブチ切れて血塗れの殺人劇に至る極道娘(『地獄でなぜ悪い』)、
▲自分の父との肉体関係に溺れる殺人少女(『私の男』)、
▲酒を飲んでは吐瀉しまくるアイドル歌手(『日々ロック』)、
▲爆弾魔の母に感化されかける女子高生(『ふきげんな過去』)、
▲耳を削がれても悪態をつくイカレ女子学生(『渇き。』)、
▲見知らぬ家に押しかけるメンヘラ元風俗嬢(『四十九日のレシピ』)、
▲金魚(『蜜のあわれ』)、
▲埼玉を生理的に受け付けない男子生徒(『翔んで埼玉』)
▲死体を密かに何度も見に通う女子高生(『リバーズ・エッジ』)
などなど、おかしな設定の人間(+金魚)を演じるものが目白押しです。これらに比べると、クラスメイトがサイコパスの教師によって次々と銃殺される中で辛うじて生き残る女子高生役を演じた『悪の教典』でさえ、かなりまともに見えます。
或る日偶然どこかのミニシアターで観たトレーラーには、大きなユルキャラ縫いぐるみ(に見えるもの)を背負って坂道を登ったりする二階堂ふみが登場したのです。おまけに、映画のタイトルもズバリ『生理ちゃん』で、このピンク色の巨大なハート型(のように感じますが)をしたものが、女性の月経をそのまま具現化(≒擬人化)したものと、一目で分かる内容でした。月に一回、月経が訪れるというのを、まさに擬人化された変なユルキャラがのっそりとドアを開けて「来ちゃった」と現れ、月経期間中ずっと付き纏うという設定なのです。
このおかしな生理ちゃんに付き纏われる女性が劇中に数人(勿論、劇中の世界観では、すべての女性にこの生理ちゃんが訪れるということですが)登場しますが、その一人がバリキャリ系編集者の二階堂ふみです。巨大な生理ちゃんに付き纏われる二階堂ふみの話を観に行かねばと、コレクションのコンプリート狙いのような義務感から時間を投じました。
原作は現状で二冊単行本化されているコミックです。私は全くその作品を知らないままに観に行きましたが、生理ちゃんの設定が或る程度直ぐ分る展開の物語なので、ほぼ違和感も疎外感も抱くこともなく、楽しむことができました。面白い作品です。面白い所の一番は、生理ちゃんが月経の現象を上手く表現していることでしょう。
主人公の女性達が、仕事などに打ち込んでいたり、仕事を終えて帰ろうとしている日常の中で、「ハッ!」と立ち止まると、ドアの向こうや道路の反対側の歩道などに生理ちゃんが立っていてこちらを無言で見つめているのです。何をどうしていても来るときは来る、理不尽さが絶妙です。さらに生理ちゃんは、訪れて早々、月経の数々の症状を具体的な作業としてもたらします。下腹部の痛みは定番で、「それでは、いつもの…」などと言って、マジンガーZの大車輪ロケットパンチよろしく腕をぐるぐると回し、対象の女性の下腹部に向けて、「生理パンチ」を放ちます。
パンフレットがないので、仕方なくコミック二冊を購入して読んでみましたが。原作では生理ちゃんはさらに細かな芸当をこなします。たとえば、クロロホルムを含んだハンカチを女性の口に当てて眠気を催させたり、注射器で血液を吸い取り貧血を起こさせたり、顔にビンタを張って顔を浮腫ませたり、ハタ迷惑千万な行動を重ねます。映画では、注射器は登場しますが、具体的に使用されている場面が存在しない(はずな)ので、生理ちゃんが注射器を持ち出す理由が私には分かりませんでした。
コミックではあまり具体的に描かれていないのに、映画ではかなり綿密に描かれている生理ちゃんの迷惑行為もあります。なんと生理ちゃんは身体の症状を具体的に付き纏った犯罪者のように起こすだけではなく、本棚や机の上のものをわざとに散らかして、女性をイラつかせるという芸(?)までこなすのです。
さらに生理ちゃんの設定が秀逸なのは、生理ちゃんは膨らんだ身体のサイズで、月経の重さを表現しているのです。月経が軽い症状の女性はせいぜい小型の犬ぐらいのサイズ感の生理ちゃんが足の辺りに纏わり付いているだけだったり、さらにスマホ程度のサイズでポーチに入れられていたりします。それに対して、月経の重い二階堂ふみの生理ちゃんは、下手をすると二階堂ふみよりもサイズがでかいぐらいで、こなき爺のようにおんぶしてすごさなければならない時もあれば、(現実にどうしているということなのか、かなり疑問が湧きますが、)リヤカーに載せて引っ張らなければならないこともあります。
劇中でも「症状が辛いこと以上に、仕事や予定に支障が出ても、生理のせいにできないことがもっと辛い」と何度か主人公達が口にしますが、こんな物体(?)が纏わり付いていては、仕事をするどころか日常生活も儘ならないのは当然であろうと、男の私が観ても、ストレートに理解できるのです。このように月経の症状をまるで妖怪の仕業のように表現する手法として、生理ちゃんを用いている設定は、激烈な表現力を持っています。
ところが、映画を観ていると、どうも、生理ちゃんは月経の症状を表現しているだけの憑依型の妖怪もどきであるだけではありません。コミックの生理ちゃんは、社会の中に溶け込んでいて、男女関わらずその辺にゴロゴロ居る状態なのを皆が普通に認識して特段気にも留めていない状態のように見えます。女性から「どうせ私は一生ボッチなんだから、来る必要ないじゃん。もう来るな!」と拒まれた生理ちゃんは「けど、そういうカラダになっちゃうからね」と言い残して寂しげに去って行きますが、去った後は、パチンコをして時間を潰していたりします。
ところが、映画の方の生理ちゃんは、基本的に女性にしか見えていないようです。そして、鈍感で生理に無理解な男性上司には、例の「生理パンチ」を喰らわせて悶絶させます。しかし、最初から最後まで、この男性上司には生理ちゃんが見えていません。これは事実上、『ジョジョの奇妙な冒険』の第三部以降ずっと採用され続けるスタンドの概念と一緒です。それもかなり手の込んだスタンドで、二階堂ふみが慌てて出かけようとした際に、先に路上に出てタクシーを拾って待たせておいてくれたりもします。さらに、落ち込み悩む二階堂ふみや、妄想に囚われ一喜一憂を重ねるもう一人の主要登場人物のサブカル・オタクのビル清掃員たちに対して、単に付き纏うだけではなく、寧ろ寄り添い、傾聴し、的確なアドバイスを言葉少なに語ったりするのです。立ち位置的に見ると、寧ろ、『デスノート』の死神のような感じにも思えます。
コミックはかなりあっけらかんとしているタッチですし、変に深く考えても仕方がないのかもしれませんが、このような生理ちゃんの設定上の能力を考えると、どうも生理ちゃんは月経の症状を引き起こす憑依型の妖怪ではなく、もっと別の奥深いものとして解釈すべきでしょう。敢えて言うなら、女性の「無意識」や「本能」と言ったものかもしれません。(ここで言う「無意識」は、感情や思考を司るだけではなく、身体全体の各種制御をも司る広義のものです。)
たとえば、三砂ちづるの有名な『オニババ化する女たち…』で詳述されている女性の身体性などはまさに生理ちゃんが表現しているように感じます。それ以上に、福岡伸一が『できそこないの男たち』で描く、 ヒトという生物のデフォルトの形である女性の複雑さと、その女性達が環境適応の目的で優れた遺伝子を相互に取りこむために創り上げた「遺伝子の運び屋」としての男性の馬鹿げたシンプルさを、生理ちゃんの言動は浮かび上がらせているようにさえ見えるのです。
コミックの方で、登場人物と付き合っている男性が生理ちゃんに、「嫌がられても毎月来なきゃいけない生理ちゃんも大変だね」と言ったことを話しかける場面があります。すると、生理ちゃんは「楽しい仕事ではありませんが、いつか、そういうこともひっくるめて、良い感じになればいいなと思っています」的なことを応えるのです。生物として本来のあるべき姿の女性には、生理ちゃんの存在をも受容して生きる前提があります。それは、人間が後付けで創り上げた社会の仕組みにも変えることができない、あるべき姿です。
歴史的に見ると、女性をその価値ごと虐げ、本来の生や性を抑圧し、男性中心に真理や理性を頭の中で構築してそれを現実に投影し続けた西洋文明(というより、一神教文明だと私は思っていますが)は、複雑系の現実世界を前にして、結果的に行き詰まってしまいました。結局人類は構造主義が露わにした「構造」の中の操り人形のようなものでしかないと漸く気づきかけています。
橘玲がここ最近多くの著書でずっと、(事実に支えられた)理性と(遺伝子的に決められている)本能の対立構図を描き、「多くの先進国は本能との矛盾を乗り越えて個々の人間の幸福を追求するリベラル思想に傾倒しているが、日本はいつまでも本能に振り回されて周回遅れになっている」との主張を繰り返しています。しかし、人間も生物である以上、本能に従った言動をするのはデフォルトです。個の主張や自由よりも集団全体の社会構造をより重視しがちなのも、太古の祖先からの生き残る術です。集団の一定の幸福なくして個の幸福は長期的に実現することがないでしょう。それに無理して逆らい、ありとあらゆる矛盾を露呈させることが、なぜ人間として進んでいる文明の形と見做されるのか私には分かりません。
生理ちゃんは本能そのものです。それと付き合いながら生きて行かざるを得ない女性の姿が、本来の人間の姿であるはずです。日本は本来、無意識による複雑系の文化(詰まる所、あるものをあるがままに受け容れる文化と言って良いと思います。)を維持してきました。西洋文明の物差しで日本を「女性蔑視文化」と論う勘違い者も多数存在しますが、そんなことはありません。日本には天照大御神を始めとして女性神は数々存在しましたし、女性天皇も早くから存在し、女性の為政をも広く認めてきた国です。(ヘレニズム文明圏の殆どすべての国に奴隷も性奴隷も存在しましたが、日本には性奴隷はおろか奴隷制度がそもそも存在せず、職業者としての娼婦がいるだけです。)そんな国で忘れられかけている女性の身体性の象徴として、マンガで生理ちゃんが生まれたのは、何かの文化論から長い論評でもできそうなぐらいに深淵なテーマを含んでいそうに私には感じられました。
二階堂ふみ目当てに鑑賞に赴いた作品でしたが、原作のコミックは一話ずつ設定が大きく異なり、登場人物もその都度新たに登場します。二階堂ふみの編集者ももう一人のサブカル・オタクのビル清掃員も、コミックの幾つかのエピソードをつなぎ合わせて詰め込む形で人物像が構成されています。バリキャリ編集者のそれよりも、清掃員の人物像の方が私にはかなり魅力的にでき上がっているように思えます。この清掃員を好演しているのは、ハスキーボイスが印象的な伊藤沙莉(いとう・さいり)と言う女優です。コミュ障独特の小声の早口台詞などをキッチリなり切ってこなしている所に好感が持てます。バリキャリ編集者よりも、生理ちゃんとの関係性も濃密に見えます。
ウィキで調べると、芸達者さで定評がある女優のようですが、現在25歳にして、芸歴15年。子役から女優へと見事に転身を遂げることができたのも、芸達者さ故と言う評価のようです。経歴を見て驚いたのは、『女王の教室』で(K-POPにも拘らず、K-POPが騒がれる前の段階であったことも在って、例外的に私がまあまあファンである)BoAの『DO THE MOTION』を熱唱している小学生や、つい最近観たばかりの『ブルーアワーにぶっ飛ばす』の田舎のスナックのカラオケ熱唱チーママが、この伊藤沙莉だったことです。
伊藤沙莉のサブカル・オタクの熱演を観直すのも、女性の身体性を絶妙に表現した生理ちゃんを観直すのも楽しそうなので、DVDは買いです。