11月初旬の三連休最終日の月曜日、『ザ・レセプショニスト』を観終って、20分後の午後6時55分からの回を新宿武蔵野館で観て来ました。移動が5分でできるような2館の場所の関係で助かりました。先月半ばの同じく祝日の月曜日に『天才たちの頭の中~世界を面白くする107のヒント~』を観て以来、再びの来館です。そして、再びのドキュメンタリーです。
この作品の封切は10月半ば過ぎ。既に3週間近くが過ぎています。多分、封切当初から変わっていないものと思いますが、全国で9館、23区内でも3館でしかやっていない映画です。1日2回の上映ですが、シアターが3つあるこの劇場の状況を考えると、多い上映回数ではありません。
11月中旬までの上映とネット情報にはありますが、村上春樹ファンもそろそろ息切れをし始めたのか、観客は当初15人ぐらいしかいませんでした。老若色々な男女ペアの客が目立ち、5組程度は居たように思います。残りは多少男性が多いぐらいですが、平均的には比較的中高年層よりの年齢分布でした。トレーラーの上映が始まってから、ぽつぽつとなぜか単独男性客が増え始め、最終的には20人余りに増えました。そういう思い込みで見ているからかもしれませんが、カップル客のうち若い組は大学生か新社会人のようですが、如何にも文系に見えました。残りのカップル客は、どこかの中高年が集う読書会のメンバーのような白髪交じりの頭にメガネと言った風体の人々です。遅れてきた男性単独客は、どちらかというと業界人臭い風体でした。
この作品は、村上春樹作品のデンマーク語翻訳を多く手掛ける女性、メッテ・ホルムのドキュメンタリー映画です。私は村上春樹作品を何一つ読んだことがありません。それ以前に、30代を過ぎてから20年余りの間に読んだ小説は多分10冊を超えない程度の、或る意味、小説嫌いです。村上春樹作品について私が持っている知識は、文学論のジャンルで私が読んだ数少ない書籍の一つである『女の子を殺さないために: 解読「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」』の中で触れられている、川端康成らの作家から村上春樹に至る作品中の若い女性の記号的位置付けの分析ぐらいです。ですので、村上春樹作品に全く関心も湧きませんでしたし、この映画を観た後の現在でも、読んでみたいなどとは全く思えません。
そんな私がこの作品を観に行きたいと強く思ったのは、翻訳者のドキュメンタリーであること一点に拠ります。私は留学前に何か英語関係のバイトをしてみたいと思っていたことがあります。取り敢えず、高卒の最終学歴を上げたいと思い、ビジネス専門学校にでもNTTを退職して行くことを検討していて、辞めた後に専門学校で学びながらする生活費稼ぎのバイトとして、翻訳などの何か英語関係の仕事をしようかと思っていたのでした。在職中にその準備として、英検一級受験講座に当時住んでいた札幌市で通うことになり、そこで、講師を務めていた福原教授に留学することを薦められ、唐突な提案にいきなり乗ることになって人生の軌道を大きく変えることになりました。
翻訳には関心がありましたが、それで身を立てて行くほどのレベルを目指す気は毛頭ありませんでした。なぜなら、それが原理上不可能なことに挑戦する仕事であることに、自分には手に負えない遠大さを感じていたからです。
留学直前に私が久々に参加した松本道弘先生の英語道場主催のセミナーで、松本先生は日本語の世界観と英語の世界観は全く隔たっていることを参加者に告げ、その上で、私達が英語に堪能になっていくことは、二つの世界観の間にある塀の上に向かって階段を上がって行く行為だと説明しました。一旦塀の上に上がってしまうと、どちらの言い分も理解できるようになる。しかし、この二つの世界がどうやっても交わり通じ合うことができないことも分かる。片方の主張を聞けば、それに賛同する傍ら、それに対する反論も湧き、逆側の主張を聞いても、逆方向に同じ現象が起こる。そうなってしまったら最後、二度と塀を降りることはできないと言ったのです。そして、その覚悟が持てないなら、今の段階で英語道を進むことを諦めるべきだと先生は迫りました。
「そんなバカな話があるか」とセミナー会場で私は感じました。「自分がそんなレベルに至っている訳がないし、全然関係のない話だ」とも思っていました。けれども、心の奥底に、塀の上に上がって一生を過ごすことに対する何か深く暗い恐怖のようなものが芽生えたようにも思います。その警告された状態は留学してほどなく発生して、二度と後戻りできない状態にあっさりなってしまいました。そして、大学で学び、英語を否応なく使いこなす立場になればなるほど、その認識は揺らがなくなったのです。
今から振り返って見て、当時の私が翻訳に潜在的な関心を抱いていたことは、高校時代から翻訳者のエッセイなどを何冊か書籍で持っていたことなどの記憶からも裏付けられます。そしてその著者も、表現こそ違え、言葉の持つニュアンスまで完全に含めた中で、単語の持つ意味を適切に一対一対応で翻訳する単語は別言語に存在しないということに言及していました。それが後に聞く二つの世界を隔てる塀の話が私の中にじわりと染み込んだ最大の理由だと思います。
そう言った状況に無謀にも挑戦し、存在しない答えに最善の近似解を用意するような、翻訳者の作業の本質が、2度ほど観たこの作品のトレーラーで容易に見て取れました。こんな論点にいきなり映像で肉薄しようとする作品は私の知る限りでは他に存在しません。それが初めてのデンマーク語映画に挑む最大の動機でした。
パンフには…
「翻訳家は作家ではなく他人の言葉や考えを再構築する仕事だという。そのため作家の周辺知識が必要になり、メッテは過去の作品を読むだけではなく作家の人生や背景まで徹底的に探り言葉の使い方について考え抜いている」
と彼女の翻訳姿勢について書いてあります。また彼女が村上春樹の翻訳の行き詰まった点について相談したノルウェーの翻訳家は…
「村上春樹の翻訳で難しいのは決して翻訳のテクニックではなく、彼の期待にどう応えられるかだ。難しい文章をどう翻訳するかではなく、ムラカミが醸し出す雰囲気をどう伝えるかだ。日本と同じような感覚で自国でも読まれるように翻訳も原作に忠実である必要がある」
と述べています。所謂、中高で私たちが習った英語教育の範疇で考えられる英文和訳や和文英訳の域を超えた、そして塀を挟んだ二つの世界観の隔たりを当然のものとして受け止めた翻訳の定義であろうと思います。
これを日本語作品に対する海外翻訳者の立場の人々の言葉で知り、堪能できることにこの作品の類例のない価値があります。主人公は日本に旅行し、作品中に登場する場所(や類似する場所)を訪ねて回り、それについて日本人や同業者の意見を求めています。またピンボール・ゲームも実際にプレイしつつ、詳しい人からの説明を受けて、プレイする人間の心情についてまで取材しています。当然、村上春樹の育った環境も追跡し、その見たものや、その時代背景などを吸収しようと試みています。これは翻訳と言うよりも、或る種のプロファイリングに近い作業と受け止めるべきに見えます。
ただ、一方で、コペンハーゲン大学で日本語学の修士を得ているのにしては、私から見て、あまり次元が高くない論点で右往左往している場面が見受けられるようにも思えました。「ばたんばたん」の訳語に困っている際も、日本語に豊富に用いられるオノマトペのニュアンスの難しさを理解はするものの、彼女の質問に応じるその道のプロらしき日本人女性の説明も的を射ていませんし、その拙い説明を受けた主人公の解釈も明らかにずれたままで劇中の場面は終わっています。私も一年間の日本語教師養成講座を朝日カルチャーセンターで受けていた際に、オノマトペのニュアンスを伝えることにも、動詞の活用形のパターンを教えることにも、悪戦苦闘しましたが、この「ばたんばたん」の対応については、劇中の状況より、もう少々マシな展開ができそうに思えます。また、読んでも楽しい分厚いコロケーション事典を英和版で私も使っていますが、そのような事典を使って表現の探索を行なっている節もありませんでした。
海外で上映された際に必要になる説明シーンなのかもしれませんが、日本語の世界観の中で、主人公にとって理解し難いとされている事例として、わざわざイラストまで導入して漢字の意味合いを紹介する場面が、やや唐突に挿入されています。「人がもたれ掛る姿勢で木の隣に置かれると『休』む」。「木が一つだと『木』で、二つになると『林』。そして、三つになると…」のような説明です。そして、このようなイメージの広がり方はあまりに母国語と異なり主人公にとって難解だというのです。
けれども、ここ最近の有名なベストセラーである『語源図鑑』(正・続)の二冊の書評には、英単語の語源を知ると、まるで漢字の偏や旁の組み合わせのように見えると書かれていますが、私も全く同感です。そのような発想で漢字や単語の意味の広がりの一部を捉えることが演繹的にできていないことの、何か発想の貧困さのようなものに驚かされます。
また、分かりやすさを追求した結果でしょうが、事例として登場する漢字事例も小学校低学年で習う漢字ばかりで、複雑な漢字になれば、同様の説明は非常に困難になることでしょう。「薔薇」という漢字を同様に説明しようとする者は多分いません。日本語学の修士まで取得している人間が考えていることには見えないのです。
主人公は、20歳前の一時期渡仏し、フランス語に関心を持ち、フランス語を学びます。そこで、ホームステイ先の書棚にあった仏語訳された日本文学に接点を持った所から日本語の世界に傾倒するようになります。彼女が最初に引き込まれたのは川端康成の『眠れる美女』でした。私もこの作品を最初に映画(原田芳雄主演の邦画)で観て、その妖しい魅力の虜になりました。そして、学生時代に買って読んでいたはずの文庫本を読み返し、文字で書かれた『眠れる美女』の世界観が数週間ぐらい勝手に頭の中で反芻されるようになりました。『眠れる美女』に惹きこまれた点でも、先に書いた翻訳作業の意義や位置付けに対するもの同様に強く共感することができました。
たった60分しかない短い作品です。その尺で主人公の思索の世界とその探究の姿をゆったりと描くことに成功している優れた作品だと思います。村上春樹作品のファンなら、各々の作品の内容に通じる場所や物品や表現を多々見出して何十倍も楽しめるのだと思います。映像として登場する日本語探究のシーンの中には前述のように稚拙に感じられる部分も幾つか登場するものの、知的刺激に溢れる作品だと思います。DVDは買いです。