『ザ・レセプショニスト』

 11月初旬の三連休最終日の月曜日。午後4時45分からの回を新宿の大塚家具に近いミニシアターで観て来ました。10月下旬の封切から2週間弱。全国でもたった4館でしかやっていない映画ですが、全部で80余席の1つしかないシアターには、20人ほどの観客が集っていました。テーマ的に女性には不評なのか、女性はそのうち5人ほどしかいませんでした。男女共に平均年齢は高めで、女性の単独客で一人、ペプシコーラ柄のカバンを持ち結構エキセントリックな風体の若目の女性が目立っていましたが、それ以外はほぼ平均からあまり分散の大きくない分布で、概ね50代以上に見えました。

 このミニシアターでは、他の作品が1日数回上映される中、この作品は1日1回しか上映されていません。何か、この作品の売り出し方を考えあぐね、扱いかねているような風に、パンフレットがないことや、作品関連の記事などの掲示もないことや、館内に貼られた上映作品や公開予定作品のポスター群の中にこの作品が含まれていなかったことなどから思えてなりません。

 私がこの作品を観に行こうと思った動機はかなり曖昧です。チラシの説明文章の冒頭が…

『台湾出身、英国在住の女性監督が提議する移民問題』というタイトルに続き「イギリス在住の女性監督 Jenny Lu の中国人の友人がヒースロー空港で自殺をした。後に Lu は、その友人が英国でセックスワーカーとして働いていたことを知る。アジア移民の現実を映画として世の中に提示するために、Lu はクラウドファンディングで資金を集め7年の歳月をかけて本作『THE RECEPTIONIST』を製作した」

という文章の中に、私の無意識の中にある色々なものが呼応したように思います。取り敢えず、観に行こうと思い立った後に、考え直してみると、多分、以下の数点が鑑賞の動機のサブ・パーツだったのだろうと思います。

 一つは、最近読んだ『西洋の自死』です。『ウトヤ島、7月22日』の感想でも書いたように、西欧諸国の移民問題は深刻で、伝統的な西欧文化を根こそぎ破壊する力がどんどん台頭しているのに、さらにまずいことに、それを抑制したり排除したりすることができない人々の心理構造があり、皆指を咥えて破滅を凝視している状態なのです。それは主に、イスラム教徒の移民による問題の話でした。その破壊力が猛威を振るっている大国の一つがイギリスだったので、別の移民の立場から描かれたイギリス社会をちょっと見てみたいと思ったことが挙げられます。

 私は基本的に旅行先で言葉が通じないのが好ましくないと感じるので、自動翻訳機の使い勝手が今より良くなっているという前提を度外視すると、いつか西欧に旅行に行くことがあれば、行きたいのはダントツにイギリスです。そのイギリスの人々の心象風景には相応の関心が湧きます。

 別のサブ・パーツは、海外で暮らすことの疎外感です。私も20代半ばに私費の貧乏留学をした際に、カツカツの生活費や授業料の支払いに追われながら、ただただその日、その月、その学期が過ぎることを目指して「生きて」いた経験があります。卒業したからどうなるという何かもなく、ただただ「日本最大の企業の幹部候補生を辞めてまで来たのだから、もう人生背水の陣。何が何でもこの卒業の形が得られるまではやり通すしかない」という想いだけに貫かれていた毎日だったように思います。そのような強い目的意識がなければ、海外で生きることに何の意義が見いだせるのかという疑問は強くあります。

 ただ、その前提にあるのは、自分の母国には何か安定なり安心なりが存在していて、わざわざ海外に暮らすことのデメリットもあるのに、それをおしても行く価値があるからそこに行くという構図です。仮に母国で命を脅かされるような環境や、どうやっても食っていけない構造があるのなら、「わざわざ海外に暮らす」意義も半自動的に生まれるものと思います。よく「ヘイト」という言葉に括られる人々が、「この国に満足することもなく、不満を言い、犯罪に手を染め、テロを起こすようなら、自国に帰ればいい」と主張しているのを耳にします。前述のような戻れない事情があるようなケースがあることとは思いますが、私は一応、この主張に一定レベルで賛同します。

 グローバル規模のPT(「永遠の旅行者」)的な生活を礼賛する声もありますが、PTが行った先の国々を支えることにほとんど貢献していないのであれば、それはそこに住む自国の人々の成果に対する「タダ乗り」行為に他なりません。その観点で見ると、海外に在住する人々には、「なぜここにいるのか」の答えが常にうっすらと求められ続けていると、私は感じています。

 そして、最後の主要なサブ・パーツは、中国人女性セックスワーカーの存在です。彼女達は現実に新宿界隈にも大量に存在します。数だけで見ると韓国人の方が多いのかもしれませんが、いずれにせよ、膨大な数であろうと想像されます。そして、劇中の一般住宅に住み込みで行なわれる隠れたマッサージ店とは異なり、看板を出した明白な店舗の業態で新宿界隈のそこここでマッサージ業を営んでいます。それ以外にマンションの一室で行なうケースもありますが、その際もそのマンションの外の路上に看板が出されているケースも多い状態です。

 そのサービスは、マッサージが一応主たるものですが、高額なサービスの方を選ぶと、本番こそないものの射精産業のそれになります。私はあかすりサービスとマッサージの組み合わせがある店としてたまに行きますが、ほぼ必ず「お客さん、リンパのサービス、密着にして、延長しようよ」と勧誘されます。英語も日本語もかなり片言で、私の広東語は会話レベルでも少々厳しい上に、大抵これらの中国人女性は非広東語圏の出身なのでコミュニケーションも儘なりません。その状態で、手だの口だので射精させてもらうことにカネを余計に支払うことにメリットを感じないので、勧誘は断っています。

 彼女達はなぜ日本にいるのかという大きな疑問は常に私の中にあります。「稼げるから」が答えであるなら、「同じことを自国内で行なうことはできないのか」という次の疑問が発生します。仮に「日本で日本語を習得することで、人生の可能性を広げる」ということが答えなら賛同はできますが、それなら「セックスワーカーとして働く必要があるのか」という疑問も発生します。自国内にはない可能性を求めて、日本に来てまず日本語をマスターする必要から学校にも行くが、その間にカネが無くなるので、手っ取り早く比較的大金を手にできる性的サービスに就くというのが、一つの主たる流れで、そこに、それを安易に実現できるようにしている業者やらヤクザ系の人々やらがまとわりついているようなイメージなのであろうと思われます。(手っ取り早くカネと言う手段としてのセックスワークは、日本人女性が国内で行なう風俗バイトでも、援交でも、副業愛人でも、パパ活でもほぼ構造は変わりませんから、外国人女性だけの話では決してありませんが。)

 それを日本国内のケースではなく海外の中国人女性セックスワーカーのケースで見る機会がこの映画にはあることも大きな理由です。

 終劇後には「アンナに捧ぐ」という文字が現れ、実際に劇中で死に至る内向的で暗い印象の新人セックスワーカーもアンナと言う名前でした。そのアンナが来るのは、デブで大柄の中国人女性ボスのリリーが営むマッサージ店とは名ばかりのセックスハウスです。そこには主人公のティナが受付担当(レセプショニスト(中国語で「接線員」らしく、この映画の原題です。))として勤め始めたばかりでした。セックスハウスには、ササとメイという中国人女性が働いており、ほぼ100%本番プレイを伴うようなサービスを提供しています。観ていると、幼児プレイやかなりSM的なプレイも適当にその場の流れで提示される追加料金でどんどん行われるようで、或る意味、日本で所謂「風俗業」として営まれるタイプの業種にはない、より自由で、いわば原始的なセックスサービスの形と見ることができます。

 ササはイギリス人と交際して妊娠している状態で来英して結婚を予定していましたが、直前に男に捨てられ、産んだ子供との生活を支えるために、このセックスハウスで働いています。かなり知的な女性で、小説をよく読み、愛読書は『存在の耐えられない軽さ』です。その知性を抑圧しつつ、カネ稼ぎにしか関心のないリリーと、英語学校の生徒ながら学校はほとんど行かずセックスワークに明け暮れる所謂「バカに明るい子」のメイと、住み込みで生活しているのです。

 ティナは英国大学に留学して文学をまなび学士を得て卒業したようで、その後、どうやっても仕事が見つからず、おまけに同棲しているイギリス人男性もほぼ同じ状況で、賃料も払えない状況になって、この仕事に「レセプショニストとしてなら」と就きます。リリーからは、「あんたも客を取りな」と散々薦められますが、頑なにそれを拒みます。観ている限り、単純なモラル的な理由ではなく、寧ろ、自分が学位も取れた知的な女性であることから、売春稼業を見下しているという理由と、客たちの異常な情欲を受け止める器になることに恐怖しているという理由の二つがあるように見えます。そんなティナと実は知性派のササが互いに反発し合いつつ共通のものを見出していくことからセックスハウスに「理性」や「社会常識」が持ち込まれるようになり、セックスハウスの組織風土は大きく変質し始めます。

 作品中、最初に上げた『西洋の自死』にあるような移民問題が垣間見られることはありませんでした。登場する移民(もしくは、単なる滞在者と言うことだと思いますが)は全員中国系で、基本的にセックスハウスの中にいる名前の分かる人物しかいません。中華街のような景色がチラリと登場することはありますが、特に中国系移民のコミュニティメンバーのような人間が多々登場することはありません。犯罪行為に訴えて出て来るイスラム教原理主義の一部のような人々のように、何かの信条を掲げて、本来の英国民に何かのアクションを起こすこともありません。ただただ彼らはそこで生き残ろうとしているだけです。寧ろ、それを取り囲む英国人の態度方のがかなり歪んでいると言えます。

 大家は普通の中国人家庭に家を貸しているだけだと思っていて、セックスハウスだと分かった途端、自分がこの後住んでいくために立てた夢が壊れたと騒ぎ立てて、警察沙汰にして退去を迫ります。勿論、セックスハウスが望ましい使い方ではないでしょうが、特に家が壊れた訳でもありませんし、家賃(は滞納していたようですが)がまともに払われるのであれば、安定した収益と考えれば良いように思えなくもありません。

 客はどちらかというとステータスの高めの人々が蔭の快楽を求めて集っています。基本的にセックスハウスの人々を人間としても見ていませんし、自分も含めた社会に必要な「部分」としての扱いや認識があるようには見えません。「肉便器」という表現がありますが(、厳密には、便器に好んで射精する男性はあまりいないものと思いますので、寧ろ「肉オナホ」などの呼称が適切に感じますが…)、カネを払って自由に使える「(無機的な)道具」として彼女達を認識しています。近隣の人々は、ただの害虫レベルの扱いをしています。こうして見ると、『西洋の自死』に現れる移民の姿とは全く被ることがありません。そして、このような状況の中、それを感じる理性や知性を持った登場人物の間では、前述の二点目で挙げた「疎外感」は耐えられないものに膨らんでいきます。

 前述のアンナは帰国を決意し、フラフラと(多分、病に冒された状態で)空港に辿り着き、呆然としている所で警備員らしき男二人につまみ出され、次のシーンでは路上に投げ出されると同時に死を迎えます。死因はよく分からないままです。主人公のティナも、セックスワークに直接従事していると勘違いした同棲相手の誤解を解くこともできず、部屋を追い出され、セックスハウスに短期間済みこむようになった後、英国にいる意味を見失って帰国し、台風で大被害を受けた故郷の復興に勤しむことになります。

 ササは劇中で台湾に帰国するに至っていませんが、警察の摘発でセックスハウスが解体された後にも帰国したティナと文通を重ね、英国に留まる意味を問い直すようになっています。ドンであるリリーと脳天気語学留学生のメイはどうなったのか分かりませんが、英国にいることを、その意味を全く問わないままに、選び続けるのだと思います。詰まる所、理性・知性を持っている人々は、自らの属する社会と自分のアイデンティティとの調和を必要としているという結論なのだと考えられます。

 セックスワークに関しての辛さや惨めさは、やはり受容している文化の違いを大きく感じました。勿論、『闇金ウシジマくん』に登場するような悲惨なセックスワーカーの世界観は一般的ではあろうと思うものの、一方でセックスワーカーを「…嬢」と呼ぶような文化があり、AV女優でさえ「セクシー女優」と持て囃される余地がある日本とは、かなり扱いが異なるように思えました。当然周囲のそのような認識は、本人達の自己認識にも反映されます。やってはいけない犯罪行為を生活のために仕方なく続けている悲壮な立場を自分のものとして受け容れて行きます。よく言われる「思考は現実化する」は、こういうところでも発揮されるのかもしれません。

 ただ、それさえも、カネのためと総てを割り切れるリリーにも、あっけらかんとただの行為として受け止められるメイにも全く当てはまっていません。それは、(もしかすると、非常に高いお客様満足度管理の取り組みの結果なのかもしれませんが)私が新宿の幾つかの店舗で知る中国人マッサージ嬢にも共通しています。「日本語学校に行っている」と現実に話していた「嬢」も数人出くわしたことがあります。

 この作品を観て、一つ、予想の範疇にはない、もともと多少の問題認識と関心を持っていた点が見事に描かれている点を見つけました。それは英国の就職難の状況です。新卒採用市場の存在しない日本以外の先進国では、大卒新卒は、スキルとして評価されるインターン経験やアルバイト経験を積んで、それを職務経歴書に表現しつつ、中途採用市場の中で就活を普通にするしかありません。その結果、スキルも職業的知見も経験も不足している若手は圧倒的に不利な立場に置かれ、若手人材の失業率だけを見ると、二桁が常識と言う状況が発生することを情報としては知っていました。しかし、今回の主人公ティナもその同棲相手も、全く仕事が見つからず、職業斡旋所でも木で鼻を括ったような対応の中で、どんどん追い詰められていきます。この実際の苦悩と絶望の姿をリアルに見せていることが、日本人には大きな発見であるかもしれません。

 結局、物語は中盤で劇中のセックスハウスの泥濘で足掻く知性・理性ある女性に焦点をシフトさせ、彼らが母国に自身の生きる場を求めるようになる心情変化を丁寧に描写します。それは逆に言うと、本来描く対象となっていたアンナの姿とその死に至る背景から、目を逸らした結果になっていると見ることもできます。なぜどのようにしてアンナは追い詰められていったのか。そしてなぜ命を失わなければならなかったのか。そこが描かれていないことが残念な点ではあります。その形を追求するならドキュメンタリーの名作『ダーウィンの悪夢』のような冷徹な観察眼をアンナの半生に当てて欲しかったようにも思いました。それでも、英国の外国人セックスワーカーの実態をカチンカチンの精緻さで描いたことに大きな価値があるように思いますので、DVDは買いです。

追記:
 主人公ティナは台湾に戻った後の野良仕事姿が描かれています。そこには、逃げることができない「老い」と向き合うナマの家族親族の姿があります。或る意味、幻想の世界である都会のOLが、故郷に自分を結びつける鎖を再認識する…という構図は、つい最近観た『ブルーアワーにぶっ飛ばす』に酷似しているようにも見えました。