10月半ばの祝日の月曜日。封切から3日目のタイミングで靖国通り沿いの映画館で観て来ました。不思議なことに、この映画と封切が1日違いの『天才たちの頭の中~世界を面白くする107のヒント~』は上映時間の組み合わせが全く一緒です。12時半からきれいに2時間刻みで6時半の回までの合計4回の上映が毎日行われています。『天才たちの頭の中…』が88分しかない映画なので、2時間刻みだと約30分後に次の時間枠が訪れます。その間に移動をして、2時半の回に滑り込みました。
この映画もなかなかマイナーです。関東でも10館、23区内ではたった2館しか上映していません。映像クリエイターと作品企画の同時発掘/育成を狙って行なう所が、他の懸賞型のファンドと異なるらしいTSUTAYA CREATORS’ PROGRAM FILM 2016で、本来存在しなかった審査員特別賞を創設させて受賞に至った怪作とパンフに書かれています。同じくパンフには脚本と監督、つまり、最初の持ち込み企画から作品の総てを規定した箱田優子というCMディレクターは本作で初めて長編映画の監督を務めることになったとあります。事実上、自分をそのまま投影したようなキャラが主人公で夏帆が演じています。
私はこの映画を観ようとかなり前から狙っていました。最初にこの映画の存在を知ったのは8月にこの上映館で『JKエレジー』を観た際にチラシを入手したことでした。東京のバリキャリ的なギョーカイ人がバーン・アウトしてふと実家の茨城の片田舎に帰る。そんな物語の構造に、観てみたいものが結構詰まっていると感じたのです。『JKエレジー』の感想にも書きましたが…
「後者の論点は、あちこちが地方都市化しているのが感じられます。首都圏でさえ最近の人口減少現象が山手線駅から私鉄の特急に乗ると1時間以内エリアに迫って来ています。若者は地方から人口集中地帯(実質的に東名阪でしょう)にどんどん吸い取られ、そうなると、生活が厳しくなるから少子化がより進む…と言った傾向などもよく論じられています。それが問題だとするなら、地方の方に若者を吸い寄せる魅力を作らねばならないことになります。ところが、映画に描かれる地方都市の疲弊感や行き詰まり感は「日常的」にさえなっていて、そこでどうすれば良いのかも分からずもがく人々が描かれるケースが多数派です。
最近の名作では『ここは退屈迎えに来て』などは典型的ですし、犯罪者でも良いから住んでもらって人口を増やそうという取り組みを描いた『羊の木』も問題作です。もっと前ならブラジル移民が多数根付いた地方都市の日本人の荒み方をガッツリ描いた『サウダージ』もかなりの問題作だと思います。
大ヒット作『君の名は。』を始め、アニメの世界では、なぜか地方都市で生き生きと生きる若者たちが描かれることが多いように感じられるのとは対照的です。先日見たばかりの『フレームアームズガールズ』も、市がPR経費を拠出しているのではないかと思えるぐらいに立川市が舞台として際立った位置にいます。タイヤ・メーカーのミシュランはタイヤをどんどん消費させるために、有名なミシュラン・ガイドを作ったという話ですが、多くのアニメ作品もファンによる巡礼を誘発する狙いもあって、地方都市の生活を好意的に描いているように考えられなくもありません。
いずれにせよ、人口減少が場所によっては急激に進む中、ビジネスの環境変化としてそれらを計算に入れなくてはならないクライアント企業も増えており、その具体的なイメージの材料を得るのも、この映画などの地方都市を舞台とした映画を観ることの理由です」
という風に感じています。それが単に地方の生活を舞台に描くのではなく、東京で暮らす人間の目から見た「自分を作った田舎」を描くのです。マイナーな映画であることも相俟って、観ない訳に行かないと何となく思えました。
さらに、トレーラーで観た(私の知らない)女優の妙にハイテンションで表情豊かな様子が印象に残ったのも、理由であったかもしれません。ただ、不思議なことにその女優の言っている台詞がどうもよく聞き取れないのです。そんなこんなで何か色々な意味で引っかかる所が多い作品として私の心の中に留まっていました。
シアターに入ると相応の混雑でした。50人以上は観客がいたように思います。男女は半々ぐらいの構成だったと思いますが、男性は若手と高齢者の両極に分布が分かれていて、女性の方は概ね若い方に偏っているように思えました。どうしてこのような構成になるのかがよく分かりません。こう言った構成であるからとも考えられますが、単独客ばかりで二人(以上)連れの観客が少ないように感じられました。
パンフには箱田監督の「あとがきのあとがき」という文章が書かれています。読むと、本当に自分のことを描いた作品だということが分かります。
「2016年の秋口。33歳の私は仕事とプライベートと、その隙間もないぐらいに忙しくしていて、目の前に降りかかる事案に打ち勝つことに必死だった。思えば学生の頃から総じて、「優秀であることに」にずっと固執していたように思う。何様だと思うが、バカが嫌いだった。優秀であればどんな辛い事があっても上手く乗り越えられると信じていた。選ぶを積み重ねて今、好きな仕事にも就けている。収入だってそこそこ。寄り添ってくれるパートナーもいる。努力して勝ち取ってきた現状に何の不満もないはずなのに、次の日の朝が来る度なぜか軽く絶望していた。どうしようもない孤独に、寂しくてしょうがなかった。それが何なのかはわからなかった。贅沢病だ、なんて言われそうで誰にも言えなかった。どうにか誤魔化すように、誰かに甘えたり、騒いだり、笑うと何だか悲しくて、より「サミシイ」が際立つだけだった。」
「ある晴れた日、自宅窓から差し込む光に、また胸が詰まった。うっかり涙がこぼれないように喉をぐっと締め付けると、一人息止め競争みたいで、急に色々バカらしく思えた。
誰のために何を我慢しているのか。今何がしたいのか。がむしゃらに生きているようで、色んなことに蓋をして変化を恐れているだけないのか。バーカバカバカ。どうしようもねぇ。」
夏帆演じる主人公も番組撮影現場裏で代理店に対して悪態を電話越しにつき、大物俳優には太鼓持ちになり、仕事終わりには愚痴と怒声を重ねる飲み会でしこたま飲み、カラオケの二次会では「犬のおまわりさん」を叫び歌い、家の前の道路脇のベンチで寝込み、路面に転がり落ちるような状態で、撮影関係者のユースケ・サンタマリアとはセフレで乾いたセックスを重ねていながら、家にはやたらに優しいだけが取り柄に見えるような若い旦那が待っている。
その様子から十分に読み取れる心情が、パンフでは見事に文章化されていることに驚かされます。そんな主人公砂田が、病状がやや回復した祖母を見舞いに足が遠のいていた茨城の実家に行こうとすると、いつも事あるごとに一緒にいてくれる「秘密の友達」である清浦が持ち前の自由奔放さで、双葉マークの危なっかしい運転で連れて行ってくれることになります。
隙なく考え振る舞うスタイルで憂鬱さに押しつぶされて笑いの少ない砂田に対して、清浦はちょっとドジでも好きなように振る舞い、何でも笑い飛ばすぐらいの勢いでどんどん突き進んでいく妹分のような存在です。この清浦の言葉がトレーラーで聞き取りにくかったのは、若者言葉全開の早口であること以上に、演じる女優シム・ウンギョンの韓国語訛によるところが大きいと見始めてから気づきました。今時アニメにしか出てこないような奔放で明るい表情と言動が、セリフに耳が慣れてくるにつれてより楽しめるようになってきます。
私は映画サイトのストーリー紹介の末尾に「一日と始まりと終わりの間に一瞬だけおとずれるブルーアワー。そのブルーアワーが終わる時、清浦との別れが迫る……。」と書かれているのを見て、何か大きな悲劇が清浦を見舞うのだと思っていました。ところが、映画の設定は大きく異なりました。清浦は砂田が子供の頃の一人遊びの時からずっと存在し続けた、空想の「秘密の友達」で実在していないのでした。
劇中では、一人ぽつんと酪農家の離れに住んでいて、未明の「ブルーアワー」になると、薄暗い田舎道を走り抜けに出掛ける少女の映像が再三割り込んできます。その際に少女は「待って下さいよ~」、「早くしなよ!」などと一人で二役をしながら会話をし続けているのです。人形やぬいぐるみとこのような会話のシチュエーションになることはそれほど珍しいことではありません。しかし、そのような別人格の対象がないままに「秘密の友達」が存在している様子には、少々違和感があり、それが意味することとストーリーとの関連性に気づくのにかなり時間がかかりました。
実際にストーリー上、砂田と清浦が二人で茨城の田舎に訪れていて、砂田の家族も田舎の人々も二人を二人として認識していますので、現実にはどのようなことが起きていたのかがよく分からないのも、なかなか気付けなかった理由の一つです。或る意味、有名な『シックス・センス』のようなどんでん返しがラストで待っていると言えるのですが、『シックス・センス』と異なり、ラストから全編を振り返っても、二人を二人と認識しているままの物語の各場面は辻褄が合わないままに放り出されてしまっています。実家に帰っている事実は本当ですから、所謂「夢落ち」でもありません。
二人が訪れた茨城の田舎は、砂田が「なんにもない」と嫌悪する状態そのもので、地場の人々が集まるスナックも、猥談をしながらカラオケで騒ぐオッサンと場末感アリアリのママとホステスらを尻目に砂田はただ酒を飲んでいます。実家は実家で、南果歩演じる母は加齢と共に難聴と関節痛に悩まされつつ、家業の酪農をかろうじて維持する毎日を送り、楽しみと言えば、流し台の上に据え付けた小型モニタで馬鹿げたテレビ番組を見ることぐらいです。料理も「誰も食べないから」と遥か以前に作ることを止め、中がぐちゃぐちゃの冷蔵庫にコンビニのおにぎりを突っ込んでおいて、自分はカップ麺をすすっています。
「死にたい、死にたいと思っていたけど、いざ年取ってみると、死ぬのもおっかなくて、生きてたいと思って。人間って勝手なもんで…」と疲れた顔で笑っています。夫のでんでんは、酪農作業を遥か以前に放棄して妻に任せ、どう見てもロクな価値のなさそうな骨董品を買い集め、家でゴロゴロしながら毎日を過ごしています。中学校の教師をしている兄は事実上のひきこもりに近い状態で、まともに会話もできない様子です。母が女子生徒に性犯罪を犯す教師のようだというぐらいに異常感が漂っています。
入院している年老いた祖母は、砂田のことをきちんと覚えていて、まあまあ会話が成立する限界のような状態でいます。砂田に久しぶりに会えたことを喜び、千円札を一枚ティッシュペーパーに丁寧に包んで、渡してくれるのでした。砂田はその爪を切ってやるうちに、自分を思ってくれている祖母の存在の有難味や会いに来ることもなかったことの後悔などに打ちのめされて落涙するのでした。
ブルーアワーが終わって夜が包み込んだ高速道路上の車中で助手席の砂田が運転している清浦に目をやると、そこには砂田がハンドルを握っている映像で映画はふっと終わります。そこで初めて、カットインしてくる少女の二役相手がやはり清浦であること、そして、それはずっと別れていたものの、実家の現実とそこに繋がった自分自身を認め受け容れたことで、二人は相互に発見し融合し得たようであることが分かるのです。
それでも、先述のように、二人として存在していた際に実際がどうであったかが分からない部分が、どうも腑に落ちないというか、納得いかない気がして、砂田が子供の時に思い描いた「秘密の友達」に偶然非常に合致する人格の清浦が実在人物として登場して、その後、交友が続いている…という設定ではどうだろうなどと、悪あがきして、見終った後も色々考えてみてしまいました。むしろ「夢落ち」だった方が、すんなり納得ができるような気もします。
この腑に落ちない部分を棚上げしてもなお、この映画には観る者の心を掴んで離さない強烈な力があります。一般的な「観る者」全員ではないかもしれません。多分、地方から大学進学や就職のタイミングで上京して、それなりに東京生活を余裕をもって成立させたというプロセスを経た「観る者」すべてです。そのような「観る者」も、いつかは老い、バリバリ稼ぐこともできなくなり、それ以前に、地方に置いて来た親達はどんどん老醜を曝け出していきます。自分の生まれ育った町も記憶の中のものとはどんどん異なって行き、三浦展の言う「ファスト風土化」したり、単純に過疎化したりして、醜怪さを増していきます。それは、それを捨てて街に向かった者たちにとって、或る意味で、過去からの呪縛であることでしょう。それを受け止めることのできなかった砂田が、漸くそういう自分に気づくことができたカタルシスが、長く分かれて存在した清浦を砂田に戻したのかもしれません。
自らの老醜と変わり得ない家族との日常生活を受け容れて、それと共に生きることを選んでいる老母を演じた南果歩の姿は、(勿論、おどろおどろしいイメージではないのですが)鬼気迫るものがあります。以前、『葛城事件』の感想で…
「 また、南果歩は、私にとっては『帝都物語』・『帝都大戦』の二作の印象が非常に強い女優さんだったのですが、先日観た『さよなら歌舞伎町』では、いきなり、ラブホテル唯一の日本人社員の中年女性で、実は時効まであと40時間に迫った潜伏中の強盗傷害犯と言う役柄でした。時効直前に不倫でラブホテルに訪れた警官二人に発見されて愛人と逃避行を始めます。凄い役どころですが、DVDで観た『家族X』でも、本作同様、念願のマイホームを手に入れた後に家族が徐々に崩壊して行く様の真ん中に位置する主婦の役でした。
ぽよ〜んとした印象の風貌は、若い頃は清純で無垢な感じの表現の材料だったのでしょうが、最近はまともな思考をしていない中年女性を演じる材料になっているように感じられてなりません。いずれにせよ、極端な役柄が増えているように思います。ラブホテルの風呂場の拭き掃除を効率的に行なうために四肢の先に雑巾を持ち、四肢ばらばらに動かす、もの凄い技を淡々と作業として行なう様子には感嘆させられます」
と書きましたが、『葛城事件』も『家族X』も軽く飛び越えてしまった感があります。
箱田監督も、パンフに『何者にもなれなかった、わたしへ』という本音全開の文章を寄せている真船佳奈という福島県出身のテレビマン兼漫画家も、思春期の自分を作り上げた「何もない地方」の生活を否定し拒絶することで現在の自分が成立しているように感じます。だからこそ、この作品は真船氏も含む様々な人の心を掴んで離さないのでしょう。
私の実家は北海道の当時でも人口3万ほどの市で、私も「何もない町」そのものだと思っています。そして、自分の人生のターニング・ポイントとなった留学をして2年半を過ごしたオレゴン州の田舎町も、人口が1万少々の米国には非常に有り触れた「何もない町」でした。私は箱田監督や真船氏のように上昇志向もなければ、優秀であろうとする意欲も本当にありません。「何者にもなれなかった田舎者」という心の奥底に押し殺した認識もありません。病気と怪我に寝込んでいたとんでもない時間量を越えて、単に生きているだけでも不思議なぐらいの人生なので、「何者かに成ろう」となど端っから思っていないからです。ただ、田舎町にいては東京よりも喰っていくことができなさそうという確信が持てるが故に、その町に住まない選択をしています。私自身は、「ファスト風土化」したり、人口激減に苛まれたりする町を見ても、嫌悪感は全く湧きませんし、否定も拒絶も湧き出ません。ただ、そこに自分がいないままになっていることに、寂寥が湧くのは間違いない事実です。
このように監督の想いに100%共感できている訳ではありませんが、その描くものがやたらに先鋭的で観客の心を貫くものであることは十分理解できます。腑に落ちない展開はあるものの、DVDを買うには十分な価値のある秀作だと思います。
追記:
この日に何の特別性があるのか分かりませんが、この日行った二つの映画館の外では、クリップボードを持った調査員が映画の感想を尋ねていました。『天才たちの頭の中…』では、終了後の慌ただしい移動が待っていたので対応できず、『ブルーアワー…』でも来館した際にはいたので、鑑賞後に答えようと思って出てきたら、いなくなっていました。