5月17日の封切から二週間少々。6月に入って最初の月曜日の晩9時40分からの回を、歌舞伎町のゴジラ頭ビルで観て来ました。正直、不人気作品だと思います。まだ3週間経たない段階で、23区内では5館しか上映していません。そのうちの一つ、ゴジラ頭の映画館でも、既に1日1回の上映になっていて、今週で終映予定と発表されています。この映画館での上映のラスト数回の中で観に行ったことになります。
本編107分の短めの映画ですが、終映時間は11時40分で少々遠隔地なら終電時間枠になっています。それでも、9時頃に私がチケット購入端末の画面で観た際には10人ぐらいしかいなかった観客が、上映間近にぞろぞろと多数入って来て、最終的には30人ぐらいになっていました。終電時間枠であっても、この程度の動員ができるのなら、まだ多少“延命”ができそうにも思えます。
観客層は圧倒的に男性が多く、7割から8割ぐらいかと思います。主演のキアヌ・リーブスは女性ファンが多いのではないかと思っていましたが、少なくともこの観客層からは、そう見えません。数人単位の女性は老若ばらついていましたが、男性の方は総じて年齢層が高めで、私ぐらいが平均値のように見えました。非スーツの中高年男性三人連れと言う珍しい組み合わせもいたりするなど、この映画館の立地の結果なのか、色々な面で予想の枠の中にない客層です。
映画館に行って、自動券売機に向かうと、料金が1900円になっていました。そのような発表はあったのは知っていましたが、その額を支払うのは初めてです。100円の値上げで映画鑑賞の頻度を下げる気はありませんが、値上げした分のこちらの効用の増加が何であるのかは見極めて行きたいと思っています。
また、シアター入場直前に飲み物を買いましたが、飲食品を売るカウンターは長い横一列で、幾つかのレジがある中、現金が使えるのは一台だけでした。残りはクレジットカードも含めたキャッシュレス対応のレジと言うことになっていました。バランスで行くと、現金のみが1台に対して、キャッシュレス各種対応は5台ぐらいはある感じでした。そして、前者は長蛇の列で後者はスカスカと言った偏った状態でした。前回来たのはいつだったか思い出せませんが、その際はこうなっていなかったように思います。キャッシュレスをどんどん推し進めビッグデータを築こうとする社会の見えない力と、現実のキャッシュレスの不浸透度合いのアンバランスを見られたように思います。
終映が近いことを知って慌てて観に行くことにしたこの映画に興味を持ったのは、最近読んだ『フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する(原題は The Future of the Mind で冠詞が苦手な日本人の英語力を反映した邦題だと分かります。)』という2015年に書かれた本を読んだことに拠ります。この書籍は、脳についての最近の発見から未来を考える類の内容ではなく、脳とのインターフェイス技術の進展とその可能性について説明している書籍です。その中には記憶の抽出とそれの他個体への移植などの技術もマウスの単純な幾つかの記憶では成功しつつあることや、人間が思い浮かべていることを脳に向けてのセンサを使って感知し外部のモニタに映し出すなどの技術開発の過程が描かれています。2015年段階でこのような状態なのですから、それが2019年の現在、さらにそれらの技術の確度や安定度、精度などが向上していることが想像されます。
この映画で出てくる技術は大きく分けて二つあります。一つは人間からロボットの「脳」への記憶や意識、人格などの総合的な移植です。ロボットはチタン製のボディでできた人型のもので、その頭部には透明なカバーに覆われた脳のような部分があります。イメージで言うと、完全に『人造人間キカイダー』に登場したハカイダーの頭部に鎮座した光明寺博士の脳のようなビジュアルです。映画の冒頭では、持ち込まれたまだ死んでから数時間と言う段階の遺体の脳から記憶を中心とする人格を抽出し、それをロボットに移植する実験の様子が描かれます。
この実験の先頭に立っている天才科学者がキアヌ・リーブスです。いつもの如く、何をしても何が起きてもあまりハッピーそうに見えない根暗臭いキャラです。そして、実験を終えて休みになって出かけた家族旅行で交通事故に遭い、妻、娘二人、息子一人を一気に亡くしてしまいます。そこで、家族を失うまいと必死な彼は、家族四人の遺体から人格を抽出して記憶媒体に収納するのでした。それをロボット四体に移植するのかと思いきや、さに非ず、ここでいきなり第二の高度な技術が登場します。
主人公が属しているバイオ・ケミカル系の(と言っても、実質軍需産業化しているのですが…)会社のもう一つの研究分野であるクローン技術で、失われた家族四人のカラダを復元する技術です。人体のクローンの話はよくSFなどでも登場していますが、遺伝子上は全く同じ個体ができる所までは良いとしても、極論すると、一卵性双生児を量産しているのと同じですから、同一人格は勿論、当然、記憶まで元の個体と同じになる訳がありません。その辺が今までのSFでは曖昧にされていることが多く、エヴァンゲリオンの綾波レイのように、定期的に水槽の中で記憶のバックアップを取っておくというような措置作業が必要となっているなどの設定ができて、漸く辻褄が合った感じでした。
この作品でポッドと呼ばれるちょっと大きめの熱帯魚の水槽のようなもので遺伝子から人間のクローンを創り上げています。そして、先述の第一の技術の方で、いきなり人格を移植して、目が覚めると、元の日常の生活にいきなり戻るという奇跡を起こすのです。水槽の水は薄めのカルピス・ソーダのような感じに濁り、泡立っていますが、その中で壁面に近づいてきた腕やら足やらがじわじわと見えるようになってくる所には、かなりリアリティが感じられます。そして、17日間の成長を経て、ポッドの水を抜くと、いきなり素っ裸の妻が気絶した状態(だと思われます)でゴロリと出てくる様も、やたらにリアルなのです。この経緯を看ているが故に、人格を移植した翌朝に、彼らがいきなり普通に起きて今までの日常を送っていることに対する主人公が抱く違和感がとてもよく分かるようにできています。
技術的に見ると、第一の技術は、『フューチャー・オブ・マインド』によれば、100年以内に実現しそうということになっています。劇中では「人格のドナー」の遺体の眼頭にセンサの針を深く打ち込み、そこから脳のネットワークの情報を収集して人格情報を電子的に記録することになっています。『フューチャー・オブ・マインド』によれば、ネットワークの各部のニューロンの主要なモノだけでも個々に接点を持つ必要が出るので、カテーテルのような技術で、血管から脳に膨大な量のナノチューブのセンサを送り込み、細かく脳の状況をコピーするような想定だと言われています。流石に頭蓋骨を経て集める電磁的な情報ではピンポイントの脳のケミカル状況などを把握することが困難であろうと、私も思います。
ただ、作品では、人格を集める側はセンサを脳に打ち込む形になっていますが、人格を受け容れる側の方はヘッドギアだけです。この辺にも結構アバウトさが出ています。
第二の技術の方はさらにアバウトさがあります。ポッド内の液体の組成や温度などが細かくメンテナンスされなければならないとか、17日間の予定を過ぎてクローン体を放置すると、どんどん老化が進展するとかの様々な注意事項が主人公に対してこの分野の研究に従事する同僚から告げられています。しかし、その注意事項以外を守ること以外に特に大きな支障もなく順調にクローン体は育っています。それも不思議なことに、主人公が狙った年齢のカラダでポッドから出てくるのです。それも何かの詳細な設定がされているフシが科学者同士の会話の中に多少存在しますが、それにしても少々安易過ぎるようには思えます。一歩間違えば、娘や息子より幼い母親ができても不思議ない感じに見えます。
第一の技術の方が第二の技術よりもかなり現実味があります。映画後半に、実は悪の組織っぽかった主人公の勤め先が三体のクローンを処分しに迫ってきます。主人公はかなり抵抗し、最後は、この技術を世界の富豪相手に販売するビジネスを組織に逆提案し、それが受け容れられ、彼と三体のクローンは家族として生活する環境を手に入れるのです。その際、彼のみが体験的にすべてを知っている状態になった第一・第二の技術の暗黙知をビジネスの中で安定的に供給する必要があるため、主人公は第一の技術を使って、自分自身の人格(+記憶その他すべて)を植え付けたチタン製ロボを作り上げます。例のハカイダー型のロボットですが、繊細な生物としてのカラダを持たない分、技術的には安定していそうに見えます。技術レベルはだいぶ異なるかもしれませんが、生前の言動のデータからAIによって再現された言動パターンをPepperくんのようなロボに植え付けることは既に技術的に可能になりつつあることを踏まえても、かなり現実的な技術と言えるだろうと思います。
ちなみに冒頭に登場するロボへの遺体からの人格植え付け実験は失敗しています。人格植え付け後、ロボは普通の人間のような言動をし始めますが、すぐに「これは何だ。私は誰だ…」と機械の姿の自分を見てパニックになって暴れ出し、収拾がつかなくなってしまうという失敗でした。この原因を克服するために主人公は映画の中盤、やたらに苦悩した上、ふとした気付きから、解決の糸口を見出します。脳は思考や言動のような分かりやすい処理を司っているのみならず、内臓を始めとする体全部の制御も行なっています。ロボには手足や視覚聴覚などの感覚器は備わっていますが、心臓もなければ消化器一つありません。ロボに植え付けられて起動した人格はその断絶を感知して、自我として成立し得ないことから暴走するのだということでした。
ココロとカラダの関係性は脳の研究が進むにつれて、よりよく分かるようになり、身体知などの言葉もより正確に定義されつつあります。また、記憶も単に概念を暗記すると言ったことではなく、カラダの各種のセンサからの情報が組み合わさって一つの記憶情報となり、さらにそれが脳の各所の専門分野に分割されて保管されていることが分かって来ています。結局、カラダがなくては脳がまともに動かないというオチでした。この点も、非常に科学的で、現実の科学技術の研究成果を強く反映したストーリーラインが実現していると思えました。
このように、クローンの生成に関してかなりアバウトさが目立つものの、科学技術の実際にかなり立脚した物語構成になっていて、アパートの一室で核兵器を作る『太陽を盗んだ男』の教師などの設定とは隔世の感があります。ただ、一方で、家族を失って必死だったからということで片付けるにはあまりに稚拙な事柄で主人公は色々と下手を打ちます。
たとえば、本来死んでしまった家族は四人なのにポッドは三つしかなく、一人を再生できないという事実に主人公は直面します。もともと、この家族は豪雨の中の交通事故で大惨事となったのですから、その事実をそのままにして、一人がそこで亡くなったことにしてしまえば、それで済んだように思えます。また、17日間で人間ができ上がると分かっているのですから、さらに17日間かけて三つのポッドのうちの一つで残った一人を作ればよいだけのことです。亡くなったのではなく、瀕死の重態で入院中だとして時間を稼いでも良かったでしょう。ところが、彼はわざわざ誰を再生せずに済ませるかを「地獄の判断」の如くくじ引きで散々の懊悩の末決めて、幼い次女を再生しないこととします。
その結果、クローン体三人の記憶を改竄して次女が最初から居なかったことにしたり、家の中から次女が存在したすべての痕跡を消去するなどの作業が発生することになります。この作品はその作業を泣きながら進める苦悩の主人公を「懊悩男」を演じたら右に出るもののないキアヌ・リーブスに長い尺を費やして演じさせています。しかし、上述の理屈は普通に見ていてすぐ気付くので、この全く無駄な懊悩シーンが馬鹿げて感じられてなりません。
現実に、壁に飾っている写真などから次女を排除することはそこそこ簡単にできますが、再生したクローン体の家族が家の外に出れば、顔見知りとの会話の中で次女のことが話題になることが頻繁に起きますし、彼らのSNSのアカウントにも当然次女についての何らかの言及があって不思議ありません。日本のように戸籍がない米国においても、次女の学校の籍はあるでしょうし、何らかの公的記録はたくさん残って居そうに思います。単純に事故で死んだということにしないことで、より大きな矛盾をたくさん生み出してしまっているのです。(実際、物語の終盤、悪の組織と妥協を図った主人公は、それも条件に入れていたのか、次女も再生して家族に付け足しています。その次女を母親としてクローン体の妻が抱きしめて喜んでいますから、それまでに、最初に再生したクローン体三体の記憶に再度次女の存在を植え付けたということなのかもしれません。)
さらに、主人公のおかしな判断は続きます。クローン生成の技術を伝授してくれた同僚に、自分の家族四人の遺体処分を一任するのです。「とても自分にはできない。頼む…」と言った調子で簡単にお願いします。勿論、彼にはその際にやらねばならないことが山程あり、解決しなくてはならない技術的難問もガッツリ存在しました。おまけに職場では冒頭の実験の後処理と今後の研究をどんどん進めねばならない立場にあり、大変であるのは間違いありません。それであれば、せめて数日でも、ドライアイスか何かで腐敗を防ぎつつ保管し、自分の手で人知れず処分すべきでした。もしかすると失敗するかもしれない家族再生計画のために肉体のせめて一部でも保管し続けるリスク・ヘッジの意味でも有効だったかもしれません。いずれにせよ、そんな変なことを同僚に依頼してしまい、何とかやり遂げようとした同僚の生化学者のアタフタ様子から、会社に主人公のやっていることが露見してしまうのでした。
最先端の科学の粋を物語の基軸に絡ませている割には、かなり人間的なというか、浅薄な判断による愚行に、それなりの尺を割いてしまっているのが残念な所です。
それでも、この映画は、それなりに倫理的な問題をガッツリ突きつけることに成功していると思います。死んだ人間を生き返らせる技術ができたら、人口問題はどのようになるのかとか、それ以前に不死が実現したら、社会も個人もそれをどう受け入れるのかなど、色々と答えが現状見つからないし、考えてもスッパリ答えが出るとは思えないような問いを映画は同僚の口から一部語らせています。使える科学技術を動員して、必死の人間が人類全体に覆いかぶさる倫理の枠を踏み越えてしまうのは、フランケンシュタインなどから綿々と連なるテーマです。従来の作品は、その禁忌を犯した人間に対して重いしっぺ返しを用意することが常であったように思います。しかしこの作品は違います。主人公の判断と行動を肯定して終わりますし、疑問を抱いていた同僚は死を迎え、そして、主人公に対する最大の貢献者であったはずなのに、再生されることがないのです。
死んだ妻はかなり腕の立つようである医師で、夫の研究を「本来人間が踏み込んではいけないところに踏み込んでいる」と批判していますし、「自分なら蘇らせてほしくない」と暗に言っている場面まであるのです。クローンとして蘇った後、自分の記憶や体調などに違和感を持ち、夫に詰め寄り、妻は事実を知らされ愕然とします。多分、自分だけが蘇ったのなら自殺したのではないかと思えます。しかし、子供たちもセットで蘇っているものを殺す訳にもいかず、どうせ殺してもまた夫が蘇らせる無限ループが始まるだけにも思えます。勿体ないことに、この妻の心中をきちんと語らせる場面を映画は用意していません。次女の存在消去工作に無駄な尺を割くぐらいなら、妻の心境をガッツリ描き切ってほしかったように思います。日本のアニメなどなら、絶対にこの部分に物語のフォーカスを持ってくることでしょう。
細部でグダグダな物語設定が馬鹿らしく感じられるものの、倫理を犯した主人公を支持する斬新なストーリー・ラインや、先端技術の原理を無理なくふんだんに取り入れた設定など、興味深い作品だと思います。そして、(ややその才能が無駄に費やされていますが)懊悩男や孤独男、そして、目的に向かって無表情に猛進する男を演じたら、キアヌ・リーブスは最高ですが、それが堪能できる作品でもあります。DVDは買いです。