有楽町駅近くのパチンコ店上階の映画館で観て来ました。3月上旬の封切から1ヶ月近く経った水曜日の午後19時5分の回です。1日4回の上映をしていますが、23区内ではたった二館しか上映をしていない状態になっていました。もう一館は渋谷の同系列館です。少々前まではバルト9でも上映していましたが、動員状況に敏いバルト9は既に上映を終えていました。1日4回の上映も翌々日の金曜日からは2回に減じています。それでも、主だったプロモーションもないような作品としては、十分健闘している動員状態だと思います。
この日はこの映画館のサービス・デーで性別に関わらず1100円で観られました。そのせいもあってか、小さなシアターの座席は半数以上が埋まっていて、40人ぐらいは観客がいたように思います。観客の男女構成はほぼ半々。年齢層は私ぐらいが高齢側のトップ2割ぐらいに位置して、40代前半ぐらいに中間値がありそうな構成でした。有楽町の立地のせいもあってか、ややインテリ臭い(と言っても、週刊誌を読んでいて、時事的話題にはそれなりに理解があるというぐらいのレベルを指していますが…)人々が主たる観客であった気がします。
この映画は特異な映画です。大きく4つの点でそう呼べると思います。ひとつは、テロリズム的犯行のセミドキュメンタリーであることです。2011年7月22日にノルウェーのウトヤ島で発生した無差別乱射事件を描いたものです。同様の作品は『エレファント』などの名作が他にもあります。しかし、この事件は単なる個人的な鬱憤晴らしの場当たり的な乱射事件とは全く異なります。極右思想の犯人ブレイビクによる綿密に計画された政治的示威行為としての事件です。犯人はこの乱射事件に先行して首都オスロで車爆弾を炸裂させ、首都中心部のビルをかなり広汎に破壊することに成功しています。その後、40キロ離れたウトヤ島に移動し、そこに集まっていた労働党青年部の若者達を殺戮し始め、その後の調査で明らかになり社会的に糾弾された警察の初動ミスもあって、72分間もの長時間延々と若者を射殺し続け、合計69人もの世界史上単独犯による最大規模の殺戮に成功したのでした。
したこと自体が許されざることであるのは勿論ですが、単独に計画も準備も進め、単独で実行し、ここまでの(あくまでも計画に従ったという意味での)“成功”を収めることは尋常な能力ではできません。政治的信念の為せる業と言ってしまうのは簡単ですが、単なる自爆テロなどとは難易度が遥かに異なります。
二点目は、この映画と同一テーマを扱った作品がもう一つ、ほぼ同時に公開されていることです。その作品はそのまんまのタイトルの『7月22日』というもので、犯行そのものは前半で描かれていて、その後裁判の様子などを描く構成になっているようで、大量射殺の場面ばかりを抉り取った本作とは本質的に異なる作品に仕上がっているようです。(『7月22日』は役者が英語で話す海外向け映画となっているのに対して、本作は全員現実同様にノルウェー語を話しているのも大きな違いと言われています。)9.11に対しては数々の映画ができていますし、現実の事件をモチーフに複数の映画ができるということはあまり珍しいことではありませんが、それでも、ほぼ同タイミングに二作が発表されるというのは珍しいと思います。この作品の原題は邦題の意味そのもので“UTOYA 22. JULI”です。(実際にはOの字がノルウェー語の文字で、Oではありません。)タイトルのセンスさえ類似していることが分かります。
三点目は、この作品の殆どの部分は、72分間という信じられない長さのワンカットで作られていることです。映画全体では97分で、オープニングのクレジットやエンドロールを抜くと、冒頭に20分弱あると思いますが、それは、ブレイビクによるオスロでの爆破テロの遠景などです。そこから、いきなりウトヤ島のキャンプ場にシーンが移りますが、そこからずっと最後の最後、エンドロールの直前までワンカットなのです。よくドラマなどで出演者が特典映像のインタビューに登場して「長回しが多くて苦労した…」などと言っていることがあります。その場合も通常数分の単位であることが多いと思います。
私がワンカットの長さに辟易させられた映画は、タルコフスキーの作品群で、特に名作の『サクリファイス』には、十分程度のモノローグが同じ背景で同じ構図で延々続くというような場面があったように記憶します。しかし、この作品のワンカットの難易度はその比ではありません。長さが1時間以上に及ぶこと以上に、場所もどんどん移り変わっていくのです。つまり、72分間カメラは断続的な滞留を含みつつどんどん移動していくのです。その間、誰一人としてセリフや演技の間違いは許されません。綿密なリハが繰り返され、完璧となった状態で、毎日1度ずつ撮影され、4日間4作品が出来上がった所で、その中の最上の出来のものが選ばれて公開されているとパンフに書かれています。或る意味、犯人の人間業とは思えないほどの執念と集中に対して、映画の撮影手法そのものが執念と集中の面で凌駕しようとしているとさえ思えます。
映画やテレビの撮影に比べて、舞台芸術は高度な緊張を持たねば創り上げられないナマモノであることはよく知られています。しかし、それでも一幕が72分延々と続くのは、珍しいことでしょう。それをありとあらゆる不測の事態が起こり得る野外で膨大な数の被害者役の逃げ惑う人々を動員して実現しているのです。
四点目は三点目の信じられない野外での移動長回しの結果、必然的に発生することとも言えますが、ワンカットの間、概ねPOVの作品となっていることです。POVは色々と名作があります。代表的なのは、低予算で作られたのに大ヒットし「モキュメンタリー」という言葉まで生んだ『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』だと思います。私は元々ホラー作品があまり好きになれないこともあって、どちらかと言うと、その後に作られた『クローバーフィールド/HAKAISHA』の方がかなり好感をもてます。どちらのPOVも慣れない人が見ると、酔ってしまい気分が悪くなるという話をよく聞きましたし、現実に、「吐き気が止まらなくて映画館を出た」と言う知り合いもいますが、私は全然大丈夫でした。
本作も、林やらキャンプのテント群やら海岸線やらで逃げ惑う主人公の少女カヤをカメラが追い続けます。レビューにも「酔いが酷くなる」という内容が散見されます。しかし、『クローバーフィールド/HAKAISHA』では、登場人物のうちの誰がカメラを持っているのかが明確でしたが、この作品のカメラは撮影者が明確ではありません。人格がないのです。人格がないが故に、観客はVR映像のように、それが自分の目線であるかのように感じられ、没入して、頻繁に響き渡る銃声に狩り立てられる立場になって行きます。
おまけにこの無人格のカメラは、単に主人公を撮影しているというだけではなく、常に人間の目線のように振る舞うのです。主人公が直接カメラに向かって話しかけることはなかったように記憶しますが、主人公が独り言を呟いているときに、カメラは明らかに聞き手(つまり、独り言を耳にしているような人物の立ち位置)のように意識されています。また、息を殺し身を潜めつつ、出血多量で死んでいく少女に寄り添うカヤの腕に止って血を吸い続けても払いのけられることのない蚊をアップで注視したりするのです。さらに、銃声がすると身を竦めたり、木立の間から犯人の遠景が見えると、慌てて隠れたりします。インタラクティブ性のないVRとでも呼べる状態になっています。
考えてみると、インタラクティブ性など或る意味必要ないようにも思えます。圧倒的な暴力で命を奪いに迫る犯人に対して、反応できる事柄に多くの選択肢はありません。現れれば隠れるしかありませんし、銃声が遠のけばより離れられそうな方に身を屈めて移動するしかないのですから、「反応する」と言う意味ではインタラクティブであるのですが、反応した結果の行動は一つしかなく、実質、映画そのものがVRコンテンツとして成立しているように思えます。いずれにせよ、これほどに、殺戮現場で逃げ惑う人間としての没入感を引き起こす映像作品はそうあるものではありません。
さらに、そのPOV性の演出も理由でしょうが、犯人がほとんど登場することがありません。見つかれば射殺されるのですから、隠れてばかりということになります。私が記憶しているのはたった二回だけ、それも遠くに人影として、各々0.5から1秒程度見えるだけのような状態です。逃げ惑う若者たちも多くは混乱していますので、不正確な情報ばかりです。遠くなったり近くなったりする銃声も、聞いたことのない人間には、「致死的な危険のある何かの音」ぐらいにしか想像が至りません。普通はあり得ない銃の乱射を信じたくない気持ちから、「銃声以外の何か」と思い込もうとしている気持ちも働いていることでしょう。
虐殺の状況の恐怖から、「犯人は複数いる!」と断言する者もいますし、「犯人は警察官だ。警察を呼んでも無駄だ。これは警官の訓練かもしれないんだから」と必死に言い募る若者もいます。犯人のブレイビクは警察官の振りをして島に上陸し射殺を始めます。警察官の服装をしているので、「犯人は警察官だ」は目撃情報としては誤っていません。しかし、合理的に考えれば、発狂した警察官でもない限り、ただの若者群を虐殺しないでしょうし、発狂ならいきなり複数の警察官が同時に同目的を果たすように発狂する可能性は非常に低いはずです。
この作品のレビューには、登場人物全体や、主人公カヤの行動の思慮の無さや愚行の数々を論ったり、「不自然な演出」と評しているものがあります。冷静に見れば、それらは正論です。カヤは切り立った海岸の崖の窪みに隠れている時に、一緒に隠れている男に請われて、シンディー・ローパの『トゥルー・カラーズ』を小声で歌っていたりします。「うちに帰ったら何をしたい?」などと互いに話し合ってもいます。今にも殺されそうな危機の中で、そんなことをするはずがないというのは正論です。
けれども、私はそう思っていません。体を貫くような恐怖が終わりなく続くとき、何とか平静を保とうとして、自然と請われるままに歌をぼそぼそと口ずさむことぐらい当たり前にあるものと思います。何とか現状から逃避したいという気持ちで心を安定させるために、そして生き延びる意志を持ち続けるために、帰宅後したいことを頭にイメージするのも、多分、非常に妥当なその場でできる対策の一つであるようにさえ思えます。
火事場のバカ力という表現がありますが、火事場から逃げ出てきた時になぜか枕を大事に抱えて出てきた…と言うような非論理的な行動を人間はいくらでもします。恐怖のみならず、様々な強い感情に押し流された時などは特にそうです。その観点から見ると、少女カヤは他の男女に比べてギリギリまで常に押し寄せる死の恐怖を抑え込むことにかなり成功しています。最後の最後、探していた妹の居場所の可能性を聞いた上に、自分が逃げることを勧めた若い少年が(「脱がなきゃダメ」と伝えた明るい黄色のパーカーを着たまま逃げて目立ったせいか)射殺された遺体を目にした時点で、湧き起る自責の念もあって、「もう耐えられない」と海岸線の開けた所に走り出してしまいます。そして、警察の小型艇が海岸線の生存者を救いに来るほんの数分前に射殺されてしまうのでした。歌を歌ってでも、政治家になる夢を語ってでも、あと数分恐怖と対峙できれば、生き残ることができました。
私は幼少期に数知れぬほどの疾病に罹患し法定伝染病も二つも経験して隔離生活も長く続きました。交通事故に巻き込まれたことも2度3度ではなく、首にギプスをつけた状態や松葉杖状態で合計したら2年近くを過ごしていると思います。自分の命の危機を自覚できたこともその当時でさえ何度もあります。さらに、20歳の時に初めての海外旅行で行ったソビエトで初めて背中に銃を突き付けられました。24で米国留学してからは、帰国途上に寄ったLAでは、2回行って2回とも銃撃に巻き込まれています。おまけに、知人が乗せてくれたセスナ機がエンジン・トラブルで高速道路に不時着したこともあります。若い頃から常に死は身近にありましたが、それでも、「ああ、これは死んでも不思議ない状況だな」と思える状態を冷静に捉えられるようになったのは30歳過ぎのことです。
それでも、この作品にあるようなじわじわと1時間以上晒される死の危険では正常でいられない可能性が高いと思います。今でも月に5、6回は乗る飛行機が一瞬で数メートルは落下したろうと思えるような激しい揺れが続く状態になることがありますが、「ああ。これは死ぬ。これで終わりでもしょうがないな」と思っていられるのは、20分ぐらいが限界で、じわじわと「死の瞬間の前に続くかもしれない苦しみや惨たらしさ」が湧き出して恐怖に少しずつ変わってくるのが分かります。死そのものには諦念のようなものを抱いていますが、一瞬で死ねない場合の滲み湧いてくる恐怖は感じてしまうのです。
ウトヤ島の死の鬼ごっこが続けば、1時間ぐらいで、私も「あ~。もうさっさと殺してくれ」という気持ちが湧き起りそうにも思えます。そうなったときは、少しは考えて、デマばかりに翻弄されている他の仲間達にも役に立つような死に方をできるようにするかもしれません。たとえば、じわじわと犯人に近寄って見つかって射殺されるまでの1、2分の間に、「犯人は一人しかいないぞ!」、「ライフルは自動式だが1丁しかないぞ!」などと大声で正しい情報を叫び残しながら射殺されるとか言ったことでしょうか。
69人も殺害されたことが強調されていますが、実はその人数は島にいた若者たちの1割程度に過ぎません。逆に言えば、約600人が逃げ延びています。あくまでも思考実験レベルの話ですが、どこかで誰かが多少なりとも冷静になれば、命を代償に情報を積み重ね、命を代償に犯人の戦力を実効的に削ぎ落としていくことは、可能であろうと思われます。極端に言うと、40、50人で、一人3、4個ずつ大きな石を持って犯人に駆け寄り、一気に投げつければ、数人は射殺されるでしょうが、それなりに大きなダメージを与えられるものと思います。
犯人のブレイビクは、非常に緻密な計画と周到な準備と確実な実践を実現できていて、射殺する対象には、確実に仕留められるように2発ずつ打ち込んでいたと言います。そんなブレイビクがリスクの高い接近戦を仕掛けられやすい場所に踏み込んでくるとは考えにくいので、狭い建物の中や木々の密度の高い森林地帯に潜んで夜を待つというのは妥当な戦略であったと思われます。(勿論、その判断をするためには、相手が単独犯で武器はライフルのみと分かっていなくてはなりません。また、警察か軍か何かの制圧が数時間は為されないと言う前提も必要です。)「恐怖は無知から来る」というのはここでも鉄則であると分かりますが、現実の場でその恐怖を抑え込んで考えを実践することの極端な難しさも分かっているつもりでいます。
10代がほぼ全員と言う若者達の中には、スマホを持って逃げ惑っていた者も多く、オスロのテロに翻弄されていたであろう警察へ連絡が殺到しましたが、さらに、家族への連絡もかなり頻繁に行われており、電話口で自分の娘や息子が惨たらしく殺されて行く様子をほぼリアルタイムで聞かされる親の心中は、どれほどのものだったかと考えると胸が痛くなります。
ただ、それとは逆に、私はこの犯人の動機と信念には感服する部分が大きくあるのも事実です。私がこの作品を観に行くことにした理由は、一冊の本『西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム』を読んだことです。この本に拠ると、反移民的な言動は「人種差別主義的である」として封じられているのが、西欧の多くの国々の現実です。先進国として移民に対する寛容主義を採って、西欧全体で1日に5000人単位の移民をアフリカや中東から受け入れてきた結果、西欧社会は大きく変質してしまいました。寛容な態度で受け容れ、その自由を尊重していたら、受け容れた相手には全く不寛容で自由を全く尊重しない人々が多く含まれていたからです。
受入国の言語を話せる訳でもなく、相応の教育を受けてもいない移民が押し寄せても、労働力として活用できる余地は少なく、移民政策を支える労働力不足解消の大義名分は全く体を成していません。さらに、移民で押し寄せる多くのイスラム教徒は自分達の元々の文化や宗教観を全く変えず、異教徒に対しては敵愾心を持って振る舞い、女性に対しては伝統的男尊女卑の価値観で臨んでいるのです。
その結果、ミサの最中に教会牧師がイスラム教徒に斬首されたり、イスラム教徒に批判的な出版活動を行なった出版社は焼き討ちされたりするなどの事件や自爆テロが西欧で頻発するようになりました。有名なケルンの大規模集団暴行事件も男尊女卑的な思想の発露と見ることができます。なぜなら、“保護者のいない女性は自由に保護(=好きに)してよい”のがイスラムの男性だからと、『西洋の自死…』では説明されています。さらに、アフリカのイスラム教徒が持ち込んだ女性器切除の風習も西欧に広がり、白人女性にまで対象はどんどん広げられていると書かれています。これも元々そのように意図されていたことのようで、移民の大多数は若い男性で女性は殆ど存在しないと言います。持ち物である女性は現地調達するという理屈であったのでしょう。
こうした一方で元々西欧におけるキリスト教の褪色はどんどん進んでいましたから、急激に西欧はイスラム化を進める結果になっています。そんな状況に対して手を拱いているどころか、事実を指摘する者を「差別主義者」や「ファシスト」と迫害するばかりの政府。そして、生産に与せず、フリーライダーとして福祉制度を貪るばかりの移民集団。おまけに、移民を送り出している側のイスラムの宗教家は、「移り住んだ先に根を張り、その地をイスラム教に染め上げよ」と扇動していることさえ『西洋の自死…』で言及されています。その状況を見て(、ブレイビクの採った手段を肯定する訳ではありませんが)、危機感を抱かない方が不思議とさえ思えます。西欧のそのような偏った報道に則って、日本でも極右の政党の台頭を危険視するスタンスの報道が目立ちますが、実態は全く異なっていることが、イギリスの高名なジャーナリストの著書によって暴かれているのです。
ブレイビクや多くの極右政党に属する人々の危機感は理解できるとして、私はなぜブレイビクが移民達を狙うのではなく、白人の若者達を狙ったのかが分かりませんでした。パンフレットを読むと、ウトヤ島にいた労働党青年部は与党労働党の支持母体であり、日本では、一時期の共産党配下組織と見えるSEALDsぐらいしか似ている組織はないのかもしれません。いずれにせよ、主人公のカヤが議員に将来なりたいと言っているように、現役の与党の幹部も多くがこの青年部の出身であるらしく、そこに本来来るはずだった与党幹部を、ブレイビクは当初狙ったものの、その幹部の到着が遅れたため、若者達を虐殺することに予定を変更したとのことでした。
キリスト教原理主義者のブレイビクは自分の犯行を「最後の審判の始まり」と位置付けているようで、死刑制度のないノルウェーで、移民政策を止めなければ、何度でも同様のことを繰り返すつもりであると意志表明しているとパンフに書かれています。崩れかけている自国とその文化。それをどんどん推し進めようとする狂った政府と将来それを支えるであろう極悪人たる若者達。彼らが浮かれキャンプで和む場を徹底的に破壊し、その罪を自覚させること。それがブレイビクを駆り立てた使命感だったのでしょう。そしてその目的はかなり達成されたように思えます。
『西洋の自死…』では、西欧社会に順応しようとするイスラム教徒を原理主義的な他のイスラム教徒が殺害するという事件も頻発していると書かれています。寛容な社会は不寛容な集団にも寛容であった結果、どんどん内部に不寛容を抱え込み、自壊しているようです。イスラム教徒が互いの文化姿勢を巡って殺し合う構図が、今度はキリスト教側でも互いに不寛容な者がそうでない者を殺すという構図に伝染したと見ることができます。
この作品は『7月22日』と合わせて鑑賞すべきだとパンフには何度か書かれています。しかし、それよりも、『西洋の自死: 移民・アイデンティティ・イスラム』を読んでから観る方が、カヤたち若者が迫られている判断と、彼女が死なねばならなかった理由について、間違いなく学びの多いアプローチであろうと思えます。当然、DVDは買いです。