昨年末の封切から6週間ほど経った2月初旬の火曜日の夜8時30分からの回を、有楽町のビックカメラの上階にある映画館で観て来ました。1日1回の上映を新宿でもやっていましたが、時間が合わず、初めて行くこの有楽町の映画館の(こちらも1日1回の)回を観に行くことにしたものです。
古びた映画館に上映より25分程早く着き、パンフレットを購入したのですが、「『ヴィヴィアン・ウェストウッド…』のを」と言ったはずなのですが、なぜか帰宅してビニール袋の中身を見てみると、『天才作家の妻-40年目の真実-』のパンフレットでした。電話して確認してみると、『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』にはパンフレットがなく、店員は半自動的に販売中の『天才作家の妻-40年目の真実-』のパンフレットをそのまま売ったということのようでした。3日ほど後に、東京駅まで行く用事のついでに再び映画館を訪ね、(事前に連絡してあったのでスムーズに)返金してもらいました。
映画を観た当日、シアターに入ると、30人ぐらいの観客がいました。男女はほぼ半々ぐらいでしたが、老若男女取り混ぜた状態で、特に何かの属性に偏りがあるようには感じられませんでした。ヴィヴィアン・ウェストウッドのファッションに関心がある人間はいるかと思い、終了後に劇場から出ていく人々の外観を立ち止まって見渡してみましたが、少なくとも私が認識できるヴィヴィアン・ウェストウッド・ブランドの衣服を身につけている人物はいませんでした。指輪やネクタイなど小物も多数あるヴィヴィアン・ウェストウッド・ブランドですので、私のぱっと見があまりあてにならないものとは思います。
私はヴィヴィアン・ウェストウッド・ブランドがまあまあ好きです。あまりに一点々々が高価なので、年に一点も買いませんが、嫌いではありません。最初にヴィヴィアン・ウェストウッド・ブランドの商品を買ったのは、アーマー・リングです。当時、デビューしたての椎名林檎がしていたアーマー・リングがカッコ良いと思っていたのですが、なかなかアーマー・リングを売っている店が見つかりませんでした。そんな或る日、偶然、どこかのデパートでヴィヴィアン・ウェストウッドの店の前を通ったときに、光り輝くアーマー・リングを見つけました。なんと、ヴィヴィアン・ウェストウッドとスワロフスキーのコラボ商品でクリスタルが鏤められているものでした。実際に幾らだったのか忘れてしまいましたが、数万円単位の価格に一週間以上迷ってから購入しました。着けて行くところも着けて行く機会もそうそうありませんが、今でも「やった」感は鮮明に思い出せます。
私は、一時期メンズ・ファッションのブランドではルパートにハマっていて、一年半分ぐらいの各シーズンの新作の何かを買い続けてゴールド会員カードももらったことがあります。当初ルパートはエッジが利いたファッションで、ファッション素人の私は着るのにかなりの躊躇や違和感を伴うものが多かったのですが、徐々に一般に迎合した穏やかなデザインの製品の構成比が上がりつつありました。アイドルやミュージシャンなどのブーム同様のプロダクト・ライフ・サイクルの典型的な流れだと思いますが、ルパートもキャズムを超えたのだと思います。そうすると、特に冒険的な面白さが感じられなくなり、私のルパート買いは収束しました。落ち着いてきたルパートのテイストよりややラジカルな線に何とか踏みとどまりつつ、いつまで経ってもキャズムを超えてマイルドにならないでい続けているように見えるのが、ヴィヴィアン・ウェストウッドでした。
そのヴィヴィアン・ウェストウッド製品に着目することになったのは、クライアント企業のパチンコ店の店長の奥さんが強烈なファンであるらしく、その店長は何かしらいつもヴィヴィアン・ウェストウッド・ブランドの製品を身に着けていて、私がその存在を思い出したことによります。それ以降、年に一点弱ぐらい、気に入ったものを買う程度のブランド・ロイヤルティを維持しています。ヴィヴィアン・ウェストウッドのブランドについて、最も関心が持てるのは、ブランドとしてのエッジを長年維持し続けることができている(ように少なくともファッション素人の私には見える)ことです。
その謎を解くべくこの映画を観に行くことにしました。チラシや映画サイトの紹介文などで、ヴィヴィアン・ウェストウッドが実在の高齢の女性であることは一応知ってはいました。(逆に言うと、この映画の存在を知るまで、ヴィヴィアン・ウェストウッド・ブランドの成り立ちもデザインから始まる商品化のプロセスも全く知りませんでしたし、知ろうと思ったこともありませんでした。)
映画を観て、この77歳の女性が一貫してパンク系のファッションの創造を推し進めていることを知りました。パンク系というのは寧ろ失礼で、彼女こそがパンク・バンドのセックス・ピストルズを事実上プロデュースした一人であり、パンク・ムーブメントの生みの親ともいえる存在であることを知りました。また、世界に店舗網を広げる現在でも尚、(あくまでも本人の弁によれば)全商品が彼女の美的センスによる入念なチェックを受けており、彼女が気に入らないものを彼女の名の下に売ることはないということのようです。一応、これで謎は解けましたし、その意味で、私のこの映画を観る動機は満たされたことになります。
ただ、あくまでも「一応」の話においてです。劇中に登場するヴィヴィアン・ウェストウッドがチェックしているのは、ファッション・ショーの出し物の作品群の話です。次々と過去のファッション・ショーの映像も登場するので、いつがいつの分かよくわかりませんが、毛皮風のコートをまとった女性が実はどこかの道路に立っている変質者よろしく、コートの中はほぼ全裸で、股間を隠すように小さな毛皮のパッチのようなものがつけられているようなファッションも登場しています。つまり、到底、デパートで売られているようなヴィヴィアン・ウェストウッド・ブランド製品ではないのです。実際に、ヴィヴィアン・ウェストウッドの店舗に行くと、そこには靴だのネクタイだの時計だの、ありとあらゆる衣服以外のファッション・アイテムが売られています。それらの商品についてヴィヴィアン・ウェストウッドが何かの創作作業をしている場面は劇中に登場していないように記憶します。そして、ヴィヴィアン・ウェストウッドの店舗を頻繁にチェックしている訳でもないので、全くその記憶に自信はありませんが、少なくとも私が見たことがあるようなアイテムも、私が買ったことがあるような僅か数点の製品も、そしてそれに類するようにみえるデザインの商品も劇中には登場したようには見えないのです。
巨大な組織となってしまった自分の会社のマーケティング部門のトップに対して、「私は、あなた方がやっているというマーケティングということがどういう作業を具体的にしているのかさっぱり分からない。何度説明されても、言っている言葉からしてさっぱりわからない」などと苛立ちを見せている場面もあれば、明らかにそれなりに偉い立場にいる管理者とその下のデザイナーらしき黒人女性に向かって、「私の古くからの友人の■■から、『この前に会ったお宅のデザイナーはまったくファッションを分かっていない』と言われたわよ」とダラダラと詰問している場面などもあります。
今や多国籍企業になっている組織のトップがやることではありません。これではただの老害のイカレポンチです。現実に、店舗の製品ではなく、ファッション・ショーの出し物でさえ、前日ぐらいの段階で彼女のお眼鏡に叶わない作品が続出し、彼女を打ちのめしています。そして、「なんで、こんなに醜い服ばかりできるのかしら」のような言葉で嘆かせ、さらに「どうやって、こんなに大きくなった仕事を終わらせればいいのかしら。今すぐ、もう辞めたい。けど、辞めれば、全部終わってみんな仕事をなくしてしまう」などとボソボソと25歳年下の三番目の夫に向かって吐露させています。ニューヨークかパリかどこかの大型店のオープン当日に現れて、いきなりBGMがダメだと騒ぎ立てている場面もあります。クリエイターとして、職業人として、組織人として、明らかにやるべきことを誤っています。見様によっては「組織はその人間が無能になるまで昇進させる」というピーターの法則の非常に顕著な事例です。
そんな風になるなら、自分の直接のブランドと自分が“アドバイス”するだけの量産ブランドを分けてしまって、自分の名前を冠した100%自分のものとしたいビジネスを小さな範囲に収めておけばよいだけのことでした。現実に、そのチャンスは何度もあったのです。最初の夫との子供が、自分と一緒にやる小規模ビジネスの仕事を取るか、拡大路線をひた走ろうとするカネの亡者のようなアラブ系のCEOとどちらを選択するのかと彼女に迫ったことがあります。彼女は、息子を選ばず、「な!」と各英語の文章の後に必ず挿入するおかしな方言のアラブ人をビジネスを任せられる相手として選択したのでした。
さらに、軌道に乗った量産ビジネスにアルマーニからの出資話が来て、いよいよビッグビジネスになりそうな時に、セックス・ピストルズのプロデュースを一緒に手掛けて以降存在がただ忘れ去られていた男が、過去から放置されていた利権を元にビジネスのシェアを求めてきたようで、出資話も破綻し、イタリアの工場さえ失い、ほとんど無一文から小さな店屋で営業を再始動する場面もあります。それでもファンもいれば、ただ働きさえ厭わないようなデザイナーも何人か現れ、徐々に名声を取り戻していくのです。その過程の中で、巨大化すれば、すべてを自分が管理できないことは、常識的に分かることです。それを無責任に拡大しておいて、単に偶然目の前に現れた巨大組織の中の気に食わない部分のほんの一部に一々糾弾を繰り返すのは正常な人間のやることではありません。
それでいて、パンクの血が騒ぐせいなのか分かりませんが、環境アクティビストとしても活動したがり、「経済のシステムが世界をダメにしている」などと散々森高千里の『ストレス』の歌詞のようなことを叫んで回ってみたりします。自分がその活動に執心し、全くかまけることができないままになっているファッション・ショーの準備でてんてこ舞いのスタッフに、くだらないデモの巨大な横断幕を5枚だか10枚だか急いで用意しろなどと、横暴な指示を繰り返したりするのです。経済のシステムのかなり大きなピースとなって資本主義の手先となり、資源をそれなりに無駄にしているのは自分の会社であるということからは目を背け、派手なネタばかりをほじくり返しては寄付を大量に募るだけのグリーンピースの活動にまでどんどん与して行っています。北極の氷の解けている様を見て、地球温暖化の防止をギャンギャン叫び、今となっては子供でも知っているような、誤謬だらけの地球温暖化二酸化炭素原因説を恥ずかしげもなく主張して回ってもいるようです。本来、こんなオーナーは経営者として評価されるべきでもありませんし、寧ろ更迭されて然るべきです。
大体にして、彼女の最初の結婚は、彼女自身も回想している通り、恵まれたもので、彼女は何不自由なく主婦業に専念できるはずでした。本人も当初はそれを望んでいたということが語られています。ところが、彼女は離婚に踏み切るのです。理由は「自分の知的好奇心がどんどん膨らんで、結婚生活ではそれが満たされないと考えたから」であり、「外の世界をもっと知ろうと思ったから」だと言うのです。知的好奇心が聞いてあきれます。以前会った自称スピリチュアリストの女性が「「波動の原理(=引き寄せの法則)」を理解するために私は量子力学をきちんと学び直した」と言っていたのを聞いたので、色々会話を進めたら、高校物理で習うプランク定数さえ彼女は知りませんでした。その臆面もなく「量子力学を勉強した」と言える知的態度に驚愕させられた覚えがありますが、ヴィヴィアン・ウェストウッドの知的好奇心発言はそれに匹敵します。
パンクの話で言うと、ロックの殿堂入りを「権威からの評価」として拒絶したのがセックス・ピストルズです。彼らを事実上プロデュースした一員で、自分もライブには過激な格好や過激なメッセージを身に纏ってステージ上に姿を現していたのが彼女なのに、女性の爵位である“dame”を喜んで受け取っているようですし、イギリスのデザイナー・オヴ・ザ・イヤーに唯一二年連続で選ばれたデザイナーとして表彰式にも喜々として登場しています。こうしてみると、彼女にとってパンクの権威否定や無政府主義・過激主義への傾倒はただ目立つための手法であって、全く思想を伴っていないもののようにしか感じられません。
だからと言って、彼女のブランドの商品のファッション性の高さに対する評価が損なわれるものではありません。しかし、この作品に描かれているのがこのブランドを世に送り出している組織の中心の現実であるなら、このブランドもこの組織も先が長くないように感じられます。なぜなら、本人も吐露している通り、この組織では経営の大前提であるゴーイング・コンサーンが全く配慮されていないように見えるからです。
ファッションに関わるドキュメンタリー映画で言うと、『ファッションが教えてくれること』に登場する『ヴォーグ』編集長のアナ・ウィンターの仕事の姿勢から学べることの100分の一の学びもこの映画には存在しません。老害オーナーに振り回されて存続が危ぶまれる多国籍企業の幼稚で理不尽な現実を克明に描いたという意味では、非常に優れたドキュメンタリーですが、一度見れば十分その愚昧さが理解できるので、DVDは必要ありません。
同じ自分の名前を冠するブランドを背負う人物を描いた映画なら『セックス・アンド・ザ・シティ』で一躍有名になった靴のブランドの創始者を描く映画『マノロ・ブラニク トカゲに靴を作った少年』をこれからDVDで観てみようかと思っていますが、この作品の方が余程学びがありそうな気配がします。また、まだ観ていない『ココ・アヴァン・シャネル』も面白そうに感じます。少なくともトレーラーで見る限り、主人公たちが売名的意図で衝き動かされていなさそうなだけで好感が格段に異なるように思えます。
追記:
この追記は2022.12.30に書かれています。ネットのニュース記事で「29日、ロンドン南部で家族に囲まれながら安らかに息を引き取ったと、自身のブランドの公式ツイッターで公表されました。81歳でした。」と報道されていました。ご冥福をお祈りいたします。