12月15日の封切からまるまる1カ月半。2月1日金曜日の午前中9時45分からの回を新宿駅東南口に事実上隣接しているミニシアターで観て来ました。この映画館に朝に行くのは初めてであるような気がしますが、9時20分ごろに着いたら、ドアが閉まっていて9時半開場と言うことのようでした。上映開始まで15分の時間的余裕がないのは慌ただしく感じます。
マイナーな映画だと思いますが、それでもよく1カ月半持ったものだと思います。この日が終映日で、前週に気づいた時には既に1日1回の上映になっていましたから、最終上映回で観てきたことになります。小さなシアターに入ると、7割ぐらいは埋まっているように見えました。開場前の道路脇の行列では、老若男女ぐちゃぐちゃの混じり加減でしたが、特に女性客の方は30代前半ぐらいに年齢のばらつきの焦点が定まってきたように感じました。男性はもう少々上の年齢層が目立ったようには感じますが、定かではありません。
私がこの映画を観に行った理由は、フランケンシュタインの作者の年齢を知ったことです。私は作者が女性だということは知っていましたが、18歳の女性であるとは知りませんでした。
私にとってキャラとしてのフランケンシュタインは、幼稚園時代などの遥か昔、半世紀ぐらい前から、『怪物くん』のサブキャラ三人衆の一人のフランケンでしかありませんでした。残り二人の吸血鬼や狼男に比べて、不明な経緯で生まれ不明な経緯でモンスターに仲間入りした最も影の薄いキャラで、関心が全く湧きませんでした。それから時をあまり経ずに、ネットのない時代の北海道の田舎でも、ユニバーサル社が1931年から発表を続けた元祖とも呼ぶべきフランケンシュタイン映画の存在を知り、そのキャラが『怪物くん』のフランケンの元ネタであることを確認しましたが、関心が湧くこともなく、DVDどころかビデオもない時代に何とか観てみたいという欲望が湧くようなことは全くありませんでした。
その後、ロバート・デ・ニーロが主演でケネス・ブラナーが監督と出演を兼ねた怪作『フランケンシュタイン (1994年)』を観て、この作品の原作が持つ深い意味合いを知ることになりました。この作品の原題は『Mary Shelley’s Frankenstein』で、原作に忠実な物語がどのような奥深い世界観を持つのかと共に、女性作家の手によるものだと知ったのです。しかし、醜い人造生物として甦った自分を呪い嘆き焼身自殺するヘレナ・ボーナム・カーターの慟哭など、平常心では見ていられないほどの物語展開に、DVDは入手したものの、何度も見直すということがありませんでした。(しかし、それでも、私はこの作品がロバート・デ・ニーロの出演作のベスト10には間違いなく入るものと思っています。)
その作者の物語はパンフに拠ると『ゴシック』など幾つも存在するとのことですが、私はそのような存在とその価値に気づくことはありませんでした。映画サイトを昨年12月にめくってみていて、墓石に寄りかかって座る美少女の幻想的なサムネイル映像をクリックして偶然この作品を知ることになりました。
著者のメアリー・シェリーは、政治学者で後に文筆業(+書籍販売業)に転じるウィリアム・ゴドウィンと女性権利拡張論者にして政治活動家のメアリー・ウルストンクラフトの子供として誕生しますが、母はその出産で命を落とすことになってしまいます。著作で高名になっても困窮したまま書店経営を行なう父が再婚し、継母に疎まれて、ロンドンからスコットランドの父の友人の館に預けられるところから物語は始まります。
主人公のメアリーは早くから父の影響で書籍に親しみ、広い知見を元に自分も文筆業を意識するようになっていますが、継母はただの16歳の娘として、家業の労務を単に分担させようとして諍いとなっています。メアリーの亡き母と父は自由恋愛主義者としても知られていて、結婚という形や一夫一妻制度にも疑問を呈していたようです。結果的にそのような急進思想に憧れ、革命さえ仄めかす詩人パーシー・シェリーとスコットランドで知り合い、急速に恋に落ちて行きます。しかし、パーシー・シェリーもその時にまだ21歳で貴族である父からの仕送りで生計を立てている身であり、妻子ある身でもありました。
メアリーは16で妻子ある男と駆け落ちしたことになりますが、自由恋愛主義者のパーシーは、離婚を積極的にしようとするのではなく、婚姻関係をそのままに子供の養育費さえ払い続けて責任を果たせば、後は恋愛感情の湧くままに女性との関係を追求して行けば良いものと考えていました。実際、メアリーの継母には連れ子でメアリーと同じ年の娘がいて、文学の才はないものの、メアリーの駆け落ちに同行することとなりました。この全く血の繋がっていない義妹(妹とどうして決められたのかよく分かりませんが)クレアともパーシーは肉体関係を重ねています。
パーシーの結婚は元々略奪婚であったようですが、今度はその結婚関係さえ見捨てたことで、家族から愛想を尽かされ、仕送りを断たれてしまいます。その瞬間からメアリー、パーシー、クレアの三人の生活はドヤ街の安アパートのような場所の生活とちょっとした収入を使い果たすまでの一軒家生活、そして、クレアが肉体関係を持ってその後妊娠までした詩人バイロン邸での客人生活を頻繁に行き来することになります。その間に、パーシーの正妻は川に身を投げて自殺するし、クレアはパーシーともバンバン寝るし、パーシーとの間にできた娘クララは生後間もなく、借金取りに追われた雨の中の逃避行中に熱が出て命を落としてしまいます。
16歳のメアリーが女性として娘としての縛りからの自由を求め、自分の才能への承認を求め、すべてを捨てて得た生活は、惨めで無残なものでした。そんな絶望やら嫉妬やら良心の呵責やら怨恨やら憤怒やらをすべて注ぎ込んで書いたのが、『フランケンシュタイン』(正確には『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』)だったのです。
幻想的な中世ヨーロッパの面影を残したままの美しい映像の中に、社会の縛りや偏見に翻弄されるメアリーの人生が描かれています。映像だけで観ると、ロバート・ダウニー・Jrが主演した『シャーロック・ホームズ』シリーズやジョニデが大活躍した『スリーピー・ホロウ』の時代背景を(厳密には色々違うと思いますが)さらに幻想的にした感じがします。その幻想感を支えているのは主役メアリーを演じたエル・ファニングの透明感であろうと思います。最近では『ビガイルド 欲望のめざめ』をDVDで観て、私も彼女の存在には気づけるぐらいにハマっていましたが、何か時代に抑圧された清楚な女性を演じるにふさわしい透明感があるように思います。
最近、橘玲の『言ってはいけない』や続編『もっと言ってはいけない』などを読み、人間の形質どころか、性格や言動、そして結果的に選び繋ぐ人生に対する、遺伝と環境の影響について考えることがあります。メアリーの18歳にして自分が体験した惨めな生活を透徹した物語に封じ込めることができる能力は母からの遺伝なのか父からの教育環境なのかと、考えさせられました。
一方で、イノベーションの発生の仕方にも考え至らせられました。TEDのスピーチでも有名になったノンフィクション作家のスティーブン・ジョンソンは著書の『イノベーションのアイデアを生み出す七つの法則』の中でイノベーションの発生プロセスを「ゆっくりとした直感」と呼んでいます。「直感」を辞書で引くと、「説明や証明を経ないで、物事の真相を心でただちに感じ知ること。すぐさまの感じ」とあります。意味の中の「すぐさま」が「ゆっくりとした」という修飾語と矛盾している、変わった表現です。
「ゆっくりとした直感」は、『イノベーションのアイデアを生み出す七つの法則』の中盤で章タイトルとして登場しますが、実はこの本全体の主題です。冒頭からダーウィンが南海のサンゴ礁を見て、進化論を思いつくエピソードが紹介されますが、驚くことに、メモ魔(正確にはノート魔)であったダーウィンは、自分で進化論の結論に至ったと考えているタイミングの数十年も前から、ノートの走り書きなどで、進化論の考え方を記述しているのです。
同様にメアリー・シェリーの心と頭の中に、あらゆる人間関係の残酷さが刻み込まれて行くと同時に、子供の頃から傾倒していた怪奇小説の内容も堆積して、最後に死んだカエルの筋肉を電流で動かす公開実験から世間に流布した「死者をも甦らせる最新科学の可能性」の衝撃が引き金となり、狂乱の詩人バイロン邸で創作作品のフレームが得られたことで、一気に『フランケンシュタイン』が大ヒット小説として形作られて行く様子が見て取れるのです。
比較的最近観た『ボヘミアン・ラプソディ』に続き、創造・創作に勤しむ者の支払う対価について考えさせられる名作だと思います。美しい映像の中でそれが観る者に衝き付けられていく構造は秀逸です。DVDは買いです。
追記:
義妹のクレアを演じる女優をどこかで見たことがあると思ったら、最近観たピンボケ作品の『マイ・プレシャス・リスト』の主演女優ベル・パウリーでした。DVDで観た『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』でも戦勝に湧くロンドンの街をエリザベス王女と一緒に徘徊するおきゃんな妹マーガレット王女の役でした。どうも一人ではどうしていいか分からないおきゃんなわあわあ自己主張する女子を演じるのが得意であるようです。