『ボヘミアン・ラプソディ』

 以前、『劇場版 コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』の感想で…

「恐ろしいほどのロング・ランです。私が劇場で観た中でここまで上映が続けられている状態が記憶されているのは、2008年に観た『崖の上のポニョ』ぐらいかもしれません。『崖の上のポニョ』は、観た時点で既に封切後20週以上が経っている状態で、あまりの大人気に「じゃあ、観てみるか」と思い立ったのでした。それに比べると、この『劇場版 コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』のロング・ランは、実質ミドル・ランぐらいかもしれませんが、かなり長いことは間違いありません。『崖の上のポニョ』は私が観た時点がかなり終りに近い段階でしたが、『劇場版 コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』は、23区内でもまだ20館以上で上映されていますし、観客動員動向に敏いバルト9でも1日2回上映されています。新宿ではピカデリーでほぼ同じ状況ですが、バルト9でもピカデリーでもシアターの箱サイズは小さくなっていません。まだまだ数週間ぐらいは引っ張りそうな気配を感じます」

と書きましたが、その『劇場版 コード・ブルー…』と2018年の興行収益の1、2位を争うこの作品も11月初旬の封切からまだ上映が続いています。年が明けて2019年の1月が終わりかけている水曜日の夜中1時からの回をバルト9で観て来ました。封切からまるまる2ヶ月半を過ぎても延々と続くロングランで、まだ1日6回も上映しており、新宿ではピカデリーでも上映が1日数回行われています。さすがに、鑑賞しながら一緒に歌ったり騒いだりする方の上映回はなくなったようですが、「異常現象」などとさえ呼ばれる空前の大ヒットは本当のようです。

 終電時間枠バッチリのこの回はロビー階の狭いシアターでしたが、それでも、4、50人は観客が居ました。男女は半々ぐらいで比較的若い層に年齢は偏っていたように思います。性別の組み合わせを問わず、二人連れ客が多いようにも見えました。

 私は一応クイーンのファンだと思います。ただ他のクイーン・ファンとはかなり好きなポイントが異なっている自覚があります。

 曲が好きかと言われれば、ベスト・アルバムに入っている曲を始めとして、まあまあどれも好きです。3枚目の『シアー・ハート・アタック』から『ホット・スペース』までは、(『フラッシュ・ゴードン』のサントラを除き)ほぼ全曲の歌詞を暗記しています。

 ライブと言わずコンサートと呼ばれていた頃に、北海道で一回、代々木の体育館で一回、合計二回コンサートに行っています。最初に行ったのは、丁度『ホット・スペース』が出た直後ぐらいだったように記憶します。LPレコードを就職して何度目かのボーナスをはたいて一気に全部そろえました。それまでは、カセット・テープのソフト(所謂「ソフト・テープ」)の『アンダー・プレッシャー』を収録したバージョンのベスト盤を繰り返し聞いていました。カセット・テープの紙カバーに「こんな美しいロックだってあるんだ」とキャッチが書いてあったのを今でも覚えています。

 当時の私はロックと言えば、ランナウェイズ、スージー・クアトロ、ホワイトスネイク、ヘッドピンズ、スコーピオンズというおかしな組み合わせのバンド勢に耽溺していたので、クイーンの大半の曲はソフト過ぎて、ロックには思えていませんでした。ですから、趣向を凝らした癖のある曲がたくさん入っているベスト盤としか思っていませんでした。LPをずらりと買い揃えてみて、ベスト盤収録曲以外の曲も合わせて各々のアルバム単位で聞いてみて、アルバムのコンセプトがどんどん変化していることに初めて気づかされました。

 各々の曲がとても好きと言うことでもなく、「まあ、面白い。変わっている」と言う程度で、むしろ、アルバム・コンセプトをコロコロと変えて、新たなものに常に挑戦し続けている姿勢に驚嘆し、その姿勢を堪能するバンドとなりました。私にとってのクイーンは、4人でメンバー変更も全くなく、過去の自分たちの作風を常に否定し続けることに一定期間成功した稀有で偉大なバンドとして鑑賞されているのです。

 特に各アルバムのA面・B面の最初の曲は鬼面人を威すような曲ばかりです。私の好きな『ホット・スペース』に収録された『ステイング・パワー』もそうですし、古い作品では名曲『ブライトン・ロック』も展開が全く読めないような曲です。圧巻は『ムスターファ』で歌詞カードにポツンと“(not in English)”と書かれていたことだけでも十分驚かされました。

 その“過去と同じことをしない”姿勢が頂点に達したのは、まさに『ホット・スペース』というアルバムです。どんなクイーンの解説書を見ても、「問題作」とか「ファンの間でも最も評価が割れる作品」などと書かれていますが、私はこのアルバムが最高に好きです。専ら黒人アーティストが演奏するようなイメージの強いファンクな曲をバリバリに(特にLPのA面において)やってしまっていますが、それでも、ブライアン・メイの緻密なギターが鳴くと、やっぱりクイーンの曲なんだなとちゃんと分かるようになっています。クイーンの曲で「好きな曲を一つ選べ」と言われたら、やはりこのアルバムの2曲目の『ダンサー』です。

 楽器素人の私には、まあまあ認識できるブライアン・メイの独特のギター以外に、歌詞の方にもかなり特徴が感じられます。歌詞の内容では、各アルバムに1曲以上悲恋の歌があり、2曲程度は自省と逡巡を重ねたような歌があります。後者は売れても売れてもどんどん精神を病んで行ったメンバー達の想いが刻み込まれていて、自分達の過去を乗り越え続けることの困難さを聞く者に想像させます。私も心に突き刺さってくるこちらのカテゴリーの曲が好きです。その真骨頂は多分“Was it all worth it”(邦題は『素晴らしきロックン・ロール・ライフ』とかいう間の抜けたものですが、)だと思います。

 私の印象では『ホット・スペース』を最後に、過去作品を乗り越えて常に新しい驚きを提供する姿勢がほとんど消えて、死を意識したフレディ・マーキュリーの遺言のような曲が殆どを占める代わり映えのしないアルバムが『ワークス』を分水嶺にして続くようになります。(専門家によるアルバム解説などを読むと、もちろん、各々のアルバムの特徴がきちんと説明されていますが、辛うじて『イニュエンドウ』に多少の意外性狙いのタッチが観られる程度にしか私には感じられません。それぐらい、『ホット・スペース』までの変遷が豪華なのだと思います。)『ホット・スペース』以降のアルバムで私が好きな曲は先程の“Was it all worth it”たった一曲だけなのです。

 そんな私が観たこの作品は、同じ人間が感激して何度も鑑賞し、さらに、口コミでクイーンを全然知らない人々まで呼び込み、観客動員が長く伸び続けたと言われています。一般的なクイーン・ファンには、フレディ・マーキュリーのあまり知られていない物語を知ることができる面白さであり、そうでない人々にとっては、最近関心が高まっているLGBT的な切り口の問題作として、話題が重なったということなのかなと思います。しかし、私には全然ピンときませんでした。感動のポイントがいまいちよく分からないのです。

 単純にバンドの物語なら、他にもたくさん名作があります。元々バンドは物語性をその活動と作品の中に含んでいます。たとえば、アルバム1、2枚を出すごとに「期」が変わっていく、ディープ・パープルやホワイトスネイクなどを見ていると、如何に各々の世界観やこだわりを持つミュージシャンを一方向につなぎとめておくことが難しいかが分かります。クイーンも実際には、何度も誰かが脱退するだの、皆で辞めるだのと言ったことが内部ではあったことは知られていますが、それでも劇中でも描かれているように何とか踏みとどまり最後まで同じ四人で活動を終えることができました。

 しかしそれさえも、フレディがソロ活動に行きづまりHIV感染の事実を知ったことから、残された時間をクイーンとして過ごすことを選び直した結果であって、敢えて言うなら、終わりが見えているから何とかなったことと言えなくもありません。その意味では、特に自己主張が強い文化が多い海外の数多のバンド内部のいざこざを描いたという観点で見ると、何も目を惹くモノがありません。このブログの中に感想がある『ランナウェイズ』や『JIMI:栄光への軌跡』、『アンヴィル! ~夢を諦めきれない男たち~』の方が、私には余程すぐれた作品に見えます。

 また、私はDVDで観た『R-18文学賞 Vol. 2 ジェリー・フィッシュ』と幾つかぐらいしか観ていませんが、最近高まっているLBGTへの関心なら、これまたたくさんの良作があると思います。同性愛を中心テーマに据えた作品ではありませんが、劇場で観た『美輪明宏ドキュメンタリー 黒蜥蜴を探して』では、若い頃の知人がゲイだと周囲にバレて責められて首つり自殺した姿を美輪明宏が見たエピソードが語られています。その事件から、美輪明宏は自分がゲイであることをカミングアウトし、世の中の偏見と闘うことを決意したと言われています。淡々と語られていますが、聞く者の心臓を鷲掴みにするような語りでした。

「フレディの苦悩が…」と言うのも、映画評ではよく言われていることのようですが、別に分かれた嫁さんの「恋人ができた」だの「妊娠した」だのの一挙手一投足に動揺するぐらいなら、単純にカミングアウトしなければ良かっただけの話のように思えます。劇中でも、地方をライブして回る“巡業”に頻繁に出掛けては行く先々で男色を繰り返しているのですから、ただそれを継続していれば良かっただけのことです。彼女が去ることが当然想定されるのに、単純バカ丸出しに自分に正直にいたいなどと考える所が、妙に稚拙です。自分に正直にあろうとして、余計大きなものを失ってしまっています。その愚行の結果に身を焦がしただけのことのように私には見えます。

 映画では一回しか登場しないものの、大金をかけたバカ騒ぎはフレディのみならず、4人がかりでかなり頻繁にやっていたはずで、そこまでやり続けなければならないほどのプレッシャーに押しつぶされそうになって、狂気の域に入っていて作れたのが『ホット・スペース』までのアルバムだと思います。売春婦も大道芸人もバカみたいに呼んで、気が狂うほど騒いだかどうかは別としても、金銭目当ての創作活動は精神を蝕むというのは、ミュージシャンに限らず、アーティストにはほぼ共通と言って良いように思います。

 普通の神経ではビートルズの「私達は黄色い潜水艦の中に棲んでいる」などと思いつかないことでしょう。日本でもクスリに手を出すミュージシャンが多いのも、よく言えばアイディアが湧いて出るからでしょうし、悪く言えば現実の重圧から逃避するためでしょう。劇中では、フレディだけがイカレポンチのようであるように描かれていますが、ブライアン・メイが後の取材で、「自分もロジャーも結婚して子供ができていたから、ギリギリ普通の自分の面を残すことができた」と言った趣旨のことを答えているのを読んだことがあります。「普通の自分の“面”」を残せたということは、狂気の面ももう発現してしまっていたということでしょう。

 しかし、劇中では、フレディが「アルバムを作って、ツアーに出て、アルバムを作って、ツアーに出て…。同じことの繰り返しでそこから抜け出ることができない」と不満をぶちまけてソロに行こうとする場面で、ブライアン・メイはしたり顔で、「それがバンドのすることなんだから、当たり前じゃないか」のようにたしなめるような発言をしているのです。そのように考えると、この映画は、フレディだけを懊悩の人に仕立て上げて物語を成立させていることが分かります。それが悪い訳ではありません。演出は必要ですし、ドキュメンタリーでなければ許されない訳でもありません。しかし、曲単位で好きなのではなく、クイーンの一定期間を貫いた挑戦の姿勢自体が好きな私には、分かりやすくまとめられ過ぎた感じが妙に目立つのです。

 そんな紙芝居のような分かりやすい展開に「ふんふん」と頷きながら感動もなく観ていましたが、それでも、色々な発見は一応楽しめました。シンセができてからも超絶ダビングにこだわり、「シンセを使うのが上手いバンドだ」と誤った批評が出たのに腹を立て、「ノー・シンセサイザー」と使用楽器の一覧の中にわざわざ書き込んだことも有名な話ですが、その時代のアルバム作りの技術が分かって、「ああ、こうやって作っていたのか」などと面白く観ることはできました。また、「『ガリレオ~』と言っていたのはロジャーだったのか」とか、「ジョン・ディーコンは結構ボーっとした感じに見えていたけど、もしかすると、最も冷静な人間だったかも…」などと、ちょっとしたトリビアも分かったことは、小さな楽しみではありました。

 分かりやすく、しかし、薄っぺらくまとめられた物語の展開のせいで、じっとスクリーンを見つめる余裕ができました。じっと観ていると、4人の役者達が、比較的最近初めて訪れた新宿のものまねショーレストランの役者のように見えてきます。取り敢えず、DVDは不要のように思えます。

追記:
 この作品のテレビCMか何かで『ウィー・ウィル・ロック・ユー』の場面を強調して「ドン、ドン、パッ」と文字をあててクイーンの代表曲として紹介されていたりします。しかし、私はメロディアスなスピード・ロックの曲が大好きなので『ライブ・キラーズ』の冒頭に収録された“We will rock you (fast)”だけが最高にカッコよくて大好きで、他のバージョンのこの曲はスピード感もなくブライアン・メイのギターもなかなか登場せずで、私は全然好きではありません。
 劇中では、この曲を「ドン、ドン、パッ」にしたのは、楽器のない観客が床を踏み、手を叩くことで音楽に参加できるようにするため…というブライアン・メイの発想によるものだとされています。それを期待する人々に、いきなりライブの冒頭、参加させないバージョンを披露して肩すかしを食らわせたクイーンは流石だと思います。