『マイ・プレシャス・リスト』

 10月20日の公開からまるまる20日間たった土曜日に有楽町のパチンコ店の上にある映画館で観て来ました。12時40分からの回です。まあまあ晴れた日。休日の有楽町駅の山手線の外側の広場は何の用があるのか分かりませんが、色々な種類の人々がごった返していました。封切からのこのタイミングで23区内では上映がたったの4館になっていて、その中でも最も1日の上映回数が多いこの館でも1日3回、他の館では1日1回と言う状況も発生していました。知名度もそれほど高くなく、その後に何かダントツに動員を伸ばすような要因も見当たらないままに今に至ったと言う感じでした。

 ところが上映開始時間の15分前の段階でチケットを購入しようと座席の空き具合を見ると、ざっと見で30人以上は観客が居ました。休日の有楽町とは言え、なかなかの動員と見るべきだと思います。シアターに入ると、外の広場同様に客層はバラバラで、概ね男女比は半々に近いように感じました。年齢層は外の広場よりも(乳幼児などがいない分当たり前と言えば当たり前ですが)それなりに上方にシフトはしていますが、偏りと言うほどの傾向はパッと見では見当たりませんでした。

 この映画の原題は「CARRIE PILBY」です。何の意味かと言えば、主人公の19歳のハーバード飛び級卒業天才女子の名前です。彼女は実家がロンドンにあり、母が数年前に亡くなった後、父はロンドンに残りそのまま生活しています。父は天才の彼女を精神年齢が近い人間と交流できるようにしようと、14歳の彼女を異国のハーバードに送り込んだということのようです。彼女は無事卒業しますが、天才故に理屈っぽく、その上、妙に幼稚で「清濁併せ飲む」ことなど全くできず、友人もできず、卒業後は引きこもり状態になっています。

 金銭援助をしてきた父も流石に苦しくなって来て、勝手に法律事務所の文書校正係の仕事を知り合いの伝手で見つけて彼女を就職させるのでした。父は古い友人らしいセラピストを彼女の面倒看役に用意していて、どうも週一ぐらいで彼女はこのセラピストに面談に来ているように劇中では見えます。そのセラピストがニートでコミュ障の天才女子に「幸せな人生を送れるように」と提示したのが表題となっている「リスト」なのです。端的に言って、愚題だと思います。このリストが劇中でどれほどの意味付けを持っているかと言えば、「まあ、一応、作品中で何回も話題には出るよね」と言う程度のもので、存在はしていても特段の「機能」を果たしていないからです。かと言って何かの含意があるというほどのこともありません。単純なリストです。贔屓目に見ても、彼女にとって「プレシャス」な位置づけを持っているかと言えば、全然そう見えません。

 私がこの映画を観たいと思った理由は、漠然とした二つの想いです。一つは、日本よりも露骨な階級格差のある欧州社会と、日本よりも露骨な収入格差のある米国社会の両方における一応富裕層側の天才少女が見る世界観を期待したことです。もう一つは、今まで劇場で鑑賞することを逃し続けてきた、「死ぬまでにしたい●●(数字)のこと」的な作品群を「死に」はしないものの、劇場で観てみたいと思ったということです。

 結論から言うと、これらのどちらも満たされず、私には単なる凡作に見えました。第一の期待は、根底から無視されています。天才少女が投げ入れられた大人の社会は、言い訳ばかりの取り繕いとご都合主義ばかりを繰り返す信用に足らない恋愛中毒の馬鹿ばかりで出来上がっています。大学時代にどうも初めてらしいセックスを許せると思えた文学系の大学教授は、同じ役者が『ワンス・アポン・ア・タイム』でもフック船長をやっていることからも頷ける、ご都合主義の女たらしで、単純構造で見て、遊び相手としか思われなかったので、彼女の恋愛観とセックス観は多いに乏しいものとなってしまいます。

 一応、唯一の肉親であるらしい父は自分を全くの異世界に無責任に放逐した主犯で、おまけに経済的支援は削ると言い出し、さらに、彼女の知らないところでロンドンの子持ち女と再婚話を進めていました。頼りのセラピストは、彼女のことを「幸せではない」と決めつけ、意味不明のリストを勝手に作り押し付けて来て、実行を迫ります。しかし、裏側では既婚女性との不倫関係を深めています。さらに父の紹介の職場に行くと、変人オトナ二人(男女一名ずつ)が一応彼女の友達になりますが、男性は完全にただの変人で、女性の方は口も満足に利けないようなバンドマンのチンピラとくっついたり離れたりを繰り返している恋愛中毒者です。

 これが物語の開始時点から中盤に至るまでの主人公の認識による周辺環境です。この状態を幼稚な善悪の物差しや倫理の物差しで測れば、彼女にとって付き合うに値しない人々ですから、付き合わないで引きこもっている方が「幸せである」と定義しても多分問題ないでしょう。それを「幸せではない」と断じるセラピストには、「それは私の価値基準と違う」と決然と応じればよいだけのように見えます。天才少女にもその考えは少々あったようですが、なぜか、くだらないリストを受け容れます。

 また、リストを受け容れた後も、天才少女は全然リストの各項目の持つ効用を調査検討しようとしません。たとえば、「(1か月後に迫った)大晦日に誰かと過ごす」項目の効果効用を自分なりに考えると言ったこともしませんし、「ペットを飼う」項目で飼うことにした金魚二匹のうち一匹を早々に死に至らせ、残り一匹を返品してあっさり挫折しています。本当にリストを受け容れたなら、文学やらありとあらゆる教養知識を身に付けている訳ですから、リストの各項目の自分にとっての効用や効果を分析検討できるように思います。その辺の知的展開や哲学的展開などは一切なされず、「デートをする」を全うしようとして不倫セックスに挑んでみて自己嫌悪に陥ってみたり迷走を重ねます。

 詰まる所、天才であることや彼女のニート生活の満足感とかはそっちのけで、リストにもない不本意な就職やリストにあるいくつかの項目の淡い効果の重なりによって、何となくドタバタが起きるうちに、天才少女が、父やセラピストや恋愛中毒の同僚などに、「ダメな所ばかりではないのかも…」ぐらいに思い直すだけのストーリーなのです。

 死に行く人のやることリストの重さはたとえば『エンディングノート』(では頭の中のリストだけだったと記憶しますが)などのリストに比べると、切実さでは10分の一もないように思います。さらに天才少女の属性も欧米の文化差異や格差社会の構造などもほとんど意識されることはありません。正直、必ずしも美人と言えないニート少女がただ自己主張と勘違いの恋愛ドタバタを重ねるだけの作品に堕してしまっているように思えます。

 もしかすると、一旦は知ったのに忘れていただけかもしれませんが、今回この作品を観ている中で、「死ぬ前のやることリスト」を英語で“Bucket List”と呼ぶことを知りました。死ぬことを「首吊りの際に台のバケツを蹴って死ぬ」ということから、“kick the bucket”と表現することがありますが、その延長線上の表現なのかなと思いますが、「死ぬ前のやることリスト」と言う概念が、これだけ一般的な名称がついているぐらいに何か比較的世の中に一般的なことであることが、或る意味新鮮でした。

 それでも、上述の通り、見るべきものが私にはほとんど見当たらない作品でしたので、当然、DVDを入手する必要はありません。