『日日是好日』

 10月13日の封切から4日目の水曜日に新宿ピカデリーの夜9時10分からの回を観て来ました。100分の短い映画ですが、予告などを入れると11時ぐらいの終了時間で地域によっては新宿駅の終電が危うくなる時間枠ですが、シアターにはざっくり数えて50、60人ぐらいは観客が居ました。特に大々的な宣伝もしていませんし、上映館数も(23区内では13館、新宿ではピカデリーだけの状態で)所謂ロードショー的な扱いの大作に比べると非常に限られていますが、人気作品だと思います。

 人気と言うよりも、「話題」と言うべきかと思いますが、その原因はやはり樹木希林の他界であろうと思います。私もこの作品が樹木希林の遺作かと思いましたがパンフを見る限り、そのように書かれていませんでした。公開タイミングの違いなどで最終の出演作品が先に公開されているのかもしれません。私が観ていない海外でも評価の高い『万引き家族』やちょっと前に観た『モリのいる場所』もかなり後の方の作品と思っていましたが、ウィキで見ると、更にもう一作未公開の『エリカ38』と言う作品があるようです。

 この映画を観に行くことにした最大の理由は、やはりその樹木希林の存在です。『モリのいる場所』のこのブログの感想の中でも…

「樹木希林の名演も間違いなくこの映画の重要な要素です。老境の夫婦の関係性をとても肌理細やかに表現しています。私は樹木希林のファンではありませんし、特に印象に残る役柄を過去に記憶していません。子供の頃、リアルタイムで見ていた番組の中で、いきなり自分の名前を売ると言う極めて特異な発想を発揮したことや、何かの座談会的な番組で、貧乏役者の若者が「芸術活動に対して、公的機関がもっと支援をするべきだ」と自分たちの窮状を嘆いたのを聞いて、「そんなことをしていい芝居を作れる訳がない」とあっさりと切り捨てていたことなど、色々な場面で表明されるまっとうな見識の方が、私の彼女についての脳内イメージを作る構成要素になっています」

と書いていますが、その後も『万引き家族』関連の報道や他界の報道を見聞きして、より彼女の人生観などに関心が湧くようになっていました。元々、何時までも別れない夫の内田裕也もロックンローラーとしてではなく『水のないプール』や『十階のモスキート』の主役としての衝撃的な記憶が残っていて、そこからのつながりで樹木希林へのインフラ的関心が湧いたということもあります。

 もちろん、樹木希林自身の出演作でも名画の『ツィゴイネルワイゼン』や『さびしんぼう』は辛うじて彼女の役柄を覚えていますし、『リターナー』や『駆込み女と駆出し男』の影の実力者的役回りも『海街diary』の世俗的おばはんも、そして『モリのいる場所』の画家の老妻も明確な記憶ではありませんが、安心感があったように思います。むしろこうした脇役の方が光る女優さんで『あん』は悪い物語では決してありませんでしたが、少々間が持たない感じが無きにしも非ずでした。

 この脇役が特に光る感じは、私が当時の写真用フィルム業界関係者として馴染みあるフジカラーのCMでも、当時北海道在住者として多少注目はしたピップエレキバンのCMでも活きていると思います。また数少ない私がガッツリ見たTVドラマ『寺内貫太郎一家』でも「ジュリー~!」と悶え叫ぶエロバーさんはそう簡単に記憶から消えるものではありません。

 先述の役者としての仕事観もそうですが、女性の人生などについてのコメントも非常に深いものが多く、具体的に細かく記憶していませんが、岸田森との4年の結婚生活の後に、内田裕也と再婚しますが、すぐに別居状態になって内田裕也との裁判劇を経てもずっと結婚生活を続けるという、不倫や離婚をことのほか醜聞として取り上げるメディアのトレンドの中にあって、毅然とその状態を維持し続ける価値観自体に魅力を感じます。

 高齢の女性で或る種のオピニオンリーダーとなっている芸能系の人物に瀬戸内寂聴がいます。幾つかの作品群は私も好きです。その不倫肯定までは十分理解できますが、自分の不倫を含めた恋愛体験を躊躇も含羞もなく語り、売り物にする開き直り的な姿勢から、主張が只管に幼い政治活動などにまで出てくるなどしては、樹木希林のシンプルで磨かれた人生観に比べることさえできないぐらいに堕してしまっているように私は感じています。この映画を観に行くのと前後して、樹木希林の人生観などをもっと知ってみようと思い立ち、書籍を探してみましたが特に見当たりませんでした。(それはそれで樹木希林の役者として掘り下げた人生の「表現しないことによる表現」の一つのようにさえ感じられますが…。)そこで『樹木希林と一緒』と題された長い特集記事が掲載されている『SWITCH』という雑誌をネットで中古で買いました。定価の10倍以上の価格になっていましたが、それだけの価値があるように思えました。よく噛んで丁寧に食べるように、ちょびちょびと読み進めています。

 もう一人、樹木希林ほどではありませんが見てみたいと思った役者がいます。多部未華子です。元々、以前AVメーカーのクライアントさんがいた当時、そこの制作部長と制作方針などについてよく議論をしましたが、彼が好きな女優が多部未華子で、AV女優の容姿や(非濡れ場の)演技のスタイルなどを語る際に多部未華子が言及されていました。その主旨をくみ取るために、当時私は多部未華子の画像や発言などをネットでリサーチした覚えがあります。私もPCのWiMAXの関係で契約があるUQのCMでの彼女がメディア上で長く印象に残っていましたが、偶然DVDで観た『源氏物語 千年の謎』で少々好感を抱き、『あやしい彼女』でその好感が増しました。

 私の母が「この人は最近いろんなところに出ているよね」と私のパンフを見て言っていた主演の黒木華には、私は全く関心を持てません。理由はほぼ完全に顔だちを中心とする容姿だと思います。大きく縦に長く眠い感じの顔が基本的に好きになれないのです。寺島しのぶに対する印象とほぼ同じ理由です。多部未華子と並んだ時の黒木華の妙にデカいガタイも悪印象を私に抱かせます。黒木華は雑誌の映画評のコラムを書いている人との認識が強いのですが、特に面白い文章として読む込む気は湧きませんし、特に動く彼女を見たいとは全く思っていませんでしたし、実際にみてみても、特に好演とは感じられませんでした。

 シアター内の客層は性別を問わず高齢の方に偏っており、女性はそれなりに姿勢がよく、シートに埋まる感じがない座り方の人が(少なくとも上映前の段階では)多かったように思います。その多くは茶道の経験者なのであろうと思います。茶道がテーマの映画と取り敢えず捉えるべきだと思います。茶道を通した20年に及ぶ一人の女性の人生を描いた人間ドラマと見てももちろん成立しています。ただ、後者の魅力だけで動員された観客は、やはり少数派であろうとは思います。

 茶道を嗜む現代人を描いた映画を私は他に知りません。それぐらいに茶道の要素がこの映画の屹立した魅力になっています。茶道と言われる大きな概念の中には、劇中に表現される要素として多種多様なものが包含されています。

 トレーラーにも多く紹介されていますが、当然、茶道のお作法の習熟プロセスがコミカルに描かれている部分が前半の核となっています。その中にも、「意味が分からない動作の型に従わなければならないのは形式主義的だ」と納得できない多部未華子に対して、「若い人にはそういう風に見えるのかもねぇ」とあっさり受け流している樹木希林の言葉や、「重いものは軽々と、軽いものはどっしりと…」と(言った台詞だったと思いますが)持つモノの重さに拠らず運ぶ所作が同じようになるための心掛けなど、「そういうものなんだなぁ」と、茶道にはド素人の私が学べるものが多々存在します。

 それ以外にも、茶器の鑑賞の作法や掛け軸の鑑賞など、各種の見える要素に加えて、樹木希林の電話応対にまで現れる師弟関係にさえ茶道を深めた結果の慮りが見え隠れしています。パンフに拠れば、樹木希林はかなりアドリブを入れているとのことですが、ピップエレキバンやフジカラーのCMに登場するようなちょっとした軽妙な言葉が愛すべき茶道の師匠の像を創り上げています。

 この作品の原作は『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ 』と言う書籍で、著者の実体験に即した物語になっているようですが、原作が著者の実体験にかなり忠実であるように、映画も原作にかなり忠実であるようです。まだきちんと読んでいませんが、登場人物名や作中の長い時間経過も同様であるように見えます。15のしあわせの中には、「頭で考えようとしないこと」、「「今」に気持ちを集中すること」、「見て感じること」、「たくさんの「本物」を見ること」、「季節を味わうこと」、「五感で自然とつながること」、「今、ここにいること」、「自然に身を任せ、時を過ごすこと」、「このままでよい、ということ」、「自分の内側に耳をすますこと」などが含まれています。

 これらはまるでマインドフルネス瞑想の宣伝文句のようです。

「一日一回服用すれば不安を軽減し、満足感を増強する薬に関する記事を読んだとしよう。あなたは服用するだろうか? さらに、その薬にはさまざまな副作用があるが、それらは自尊心や共感、信頼感を増強するなど、良いことばかりであると想像してみよう。記憶力さえも改善する。そして最後に、その薬はすべて自然なもので、お金はまったくかからない。さて、あなたは服用するだろうか?」

 とJ・ハイト博士は『しあわせ仮説…』という書籍の中で書いていて、この文中の薬は「瞑想」です。書道や茶道を英訳するときに、「Zen」と言う言葉を関して表現することがある理由がここにあると再認識させられます。劇中でも何度も描かれる茶道のお点前のプロセスは、実質的に瞑想と同じく心に安寧を生じさせ、自分の中と外のことを調和させるトランス状態のことです。

 樹木希林が言う「頭で考えるのではなく、手が勝手に動く」と言うのも、無意識の処理に任せて最高のパフォーマンスを引き出すフローやゾーンと同じで、これもトランス状態のことです。それは、ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルが大正時代に来日し、日本文化の神髄を学ぶために、弓術の大家である阿波研造から指導を受けた際の様子が彼の著書『弓と禅』のほぼ全体を貫く考え方です。多部未華子以上に非形式主義的・合理的な考え方のヘリゲル教授には長らく耐え難い考え方であり続けました。

「正しい弓の道には目的も意図もありませんぞ! あなたがあくまで執拗に、確実に的にあてるために矢の放れを習得しようとすればするほど、ますます放れに成功せず、いよいよ中(あた)りも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意志的な意思を持っていることが、あなたの邪魔になっているのです。あなたは、意思の行なわないものは何も起こらないと考えていられるのですね」。

 ヘリゲル教授を指導した師匠の言葉ですが、弓から矢が勝手に離れていくという考え方は、尋常ではありません。しかし、それが勝手に起こるように感じられる状態にまで到達しなくてはならないのです。

 意識の数十万倍の処理速度を持つ無意識に身を任せることによって肌理細かで精度の高い所作を実現する。これが日本の歴史上多くの道の世界に見出される原理だと、映画で明確に示された例は非常に少なく、その意義だけでも、この作品のDVDは買いです。

追記:
 30近くまで、「出不精」と言う言葉を「デブ症」とでも書くデブになりやすい体質と理解していた私は、この作品のタイトルになっている言葉を「ヒビコレコウジツ」と読むものと長らく思っていました。今回これが「ニチニチコレコウジツ」と読むと認識しました。パンフにも同じ間違いをしていたと書いているコメントがあって、少々安堵しました。