『響 -HIBIKI-』

 9月中旬の封切から約3週間経った木曜日の午後。3時10分の回をバルト9で観て来ました。欅坂46の平手友梨奈の映画初主演作品です。新宿のマンションの敷地内にあるコンビニでは、原作のコミックがコンビニによくある分厚い再販バージョンで並んでいて、土曜日にたまに見る『王様のブランチ』でも平手友梨奈と北川景子の仲がやたらによくなっただのと話題になっていたりと、メディア露出が非常に高い作品であるはずなのに、3週間持たずに、バルト9では1日3回の上映になってしまっており、特にロビーのモニタでトレーラーを流すでもなく、完全に人気が去った状態に見えます。

 私がこの映画を観に行くことにしたのは、一応欅坂46への関心の延長線によります。欅坂46も特段ファンと言うほどに好きでもないどころか、あまり関心もなく、1年ぐらい前までは乃木坂46と欅坂46のコンセプトの違いも知らず、両方合わせても、現在でも単体で顔と名前を認識しているのはこの平手友梨奈ぐらいしかおらず、当然、CDも持っていなければ、DVDも持っていません。ギリギリ欅坂46に僅かに関心が湧いた時期がありました。昨年末の紅白歌合戦への欅坂46の出場です。

 独特の暗いイメージのグループ・コンセプトと曲・ダンスのコンセプトの一致具合が見事に思え、さらに司会のウッちゃんの参加バージョンがあったり、さらにそこでメンバー過呼吸事件が重なったりなどして、記憶に残りました。それでも尚、YouTubeで幾つか動画を見てみて、「ああ、こんな感じなんだなぁ」と先述のグループ・コンセプトを再確認したにとどまりました。

 それでも平手友梨奈の顔は何とか認識できるようになり、テレビで妙に健康そうで全然イメージに合わないヤクルトのCMを見て、「ああ、投げ売り状態になって来ているなぁ」とがっくり来ました。

 マーケティングでプロダクト・ライフ・サイクルと言う考え方がありますが、最初はコアなファンしか支持しない状態から始まり商品が売れ始めますが、それでは消費が広がって行きません。より大きな利益を上げるためにはより人数の多い層に売っていかねばならないため、ファンのコア度合いが薄まって行き、段々と誰にでも受け容れられるコンセプトに変容していくことが必然になってしまいます。欅坂46も早くもそのステージに到達しているように感じられます。

 グループ内ユニットを乱発するようになり、更にバラ売りが始まるのも、ハロプロどころか、おニャン子クラブの時代からのことで、多人数グループはその流れを歩むことを運命づけられているように思います。バラ売りもグループ・コンセプトから大きく逸れず、本人のコンセプトに合致しているようなもののうちはまだ何とかなりますが、取り敢えず多くの人々に見られ欲しがられることを優先すると、結局最も大切な核となる価値を失って行くことになります。そうなってくると、売り手の方が早々に次の商品の立ち上げに移行していきますので、現在のモーニング娘。やAKB48などのような往年に比べて見る影もない人気低迷状態で放置され、稼げるキャッシュを相応に稼ぎ続けることが期待されるだけの商品になってしまいます。このような商品をマーケティングでは「カネのなる木」と日本語で記述されていることがありますが、英語でマーケティングを習うと、それは「キャッシュ・カウ」と表現されていて、特段の追加投資もしないのに、絞ればキャッシュが出てくる先の見えた定番商品と言ったニュアンスになっています。

 ちょっと興味が湧いた経緯のある欅坂46の現在と平手友梨奈の現在を知るのも悪くないかなと思ったのが観に行くことにした最大の動機です。あとは、作家がモチーフと言うのも多少関心が湧いた理由として挙げられるかもしれません。『バクマン』のリアルな漫画作家の生活を描いた優れた作品もありますが、小説家の生活を描いた漫画を私は知らないように思います。原作はこの映画の情報が流れ始めた頃に掲載誌の表紙に平手友梨奈が現れていたので、売店の雑誌ラックで立ち読みをしてみました。売れ過ぎたせいなのか問題行動のせいかよく経緯が分かりませんでしたが、高校生活から逃亡して国外に潜伏している状態の物語が進行していました。外見的には全然似ていない横長系丸顔の平手友梨奈がどのようにこれを演じるのだろうかと言う関心があったのは否めません。

 パンフレットによると秋元康は、原作の映画化の話を持ち込まれた際に、主人公の響が平手友梨奈に非常に似ていて驚いたようです。本人が本当にそういう性格なら、かなり生きにくく、どう考えてもグループ・ユニット・デビューなどできなさそうに思えるほどに、原作の響は人間ができていない女子高生です。往年のヒット作家の顔面に蹴りを入れたり、執拗で横柄な取材態度のマスコミ人に掴み掛ったり殴りかかったりなど、枚挙に暇がありません。少なくとも、ウィキを読む限り、平手友梨奈がそうであるようには見えません。秋元康が平手友梨奈に蹴られたりどつかれたりしたということもなさそうです。

 確かに「Discord, discord」と唱え「僕は嫌だ」と叫ぶ『不協和音』の主人公の社会への態度は響のそれに重なります。しかし、それを平手友梨奈が歌ではなく演技で表現できるかはまた全く別の話です。その可能性を訴求した結果、映画は企画として成立して、当初一定の観客を動員することができたのだと思いますが、SNS全盛の時代、まして、欅坂46のファンを含む層はSNSの主要ユーザーでしょうから、あっという間にその無理な構造が世間に知られた結果の動員の失速であったように思われてなりません。

 それでも、原作にかなり忠実な言動を映画でも再現した結果、クリエイターとして妥協ない態度をとり続ける響の台詞も、そのまま平手友梨奈が吐くことになり、それなりに深く重く心に残ります。クリエイターと呼べるようなレベルでは毛頭ありませんが、私も今月で創刊19周年になるメルマガを隔週で発行し続けていて、全体コンセプトなどを維持しつつ、質の追求をすることのむずかしさを日常で感じていますから、響の言葉には頷けるものが幾つか見つかります。まして、いくつか書いた電子書籍の原稿作成の苦労などを思い返すと、少々感慨に引き込まれるぐらいになることもありました。

 また、ここ最近、あちこちで見かけ、DVDで見た『ジャッジ!』や劇場で観た『パンク侍、斬られて候』などで好演が光る北川景子は、平手友梨奈の“当て嵌め演技”を何とか見られる程度に支えることに成功しています。逆に言えば、安心感があるはずの北川景子を動員しても尚、素人芝居プラス・アルファ程度に収まった映画であるとも言えます。

 主人公が海外逃亡するような展開は流石に尺や予算に収まり切らなかったかもしれませんが、特段、メリハリが大きくある訳でもなく、主人公が踏切で電車を止めてしまい、パトカーで連れられていくときに、億単位で入ることが決まった印税で賠償金を払う算段をするところで、映画は唐突に終わるのでした。元々106分の短い尺の映画なので「何だったの?」と思う間もなく終わる感じですが、その終わりさえ待てず、暗がりのシアターを去る人が数人いました。

 全体では30人少々の観客は、男女半々ぐらいで、男性はどう見ても40過ぎが多く、女性は30代前半に平均値があるように見えましたが、彼ら・彼女らもどの程度この映画に面白さを見いだせたのだろうと訝らざるを得ませんでした。それでも、作品創造に関わるいくつかの卓見を確認するためにもDVDは入手するかレンタルして言葉をメモるぐらいのことはしても良いように思える作品です。

追記:
 エンディングでカラオケでは非常に歌いにくそうな字余りがずっと続く曲が流れ始めましたが、平手友梨奈が歌っているものでした。歌詞の内容としては作品イメージに共通させているようでしたが、如何せん言っていることが聞き取りにくく、歌詞以外に作品全体のイメージに合っている部分がないため、少なくとも私にはチグハグ感がかなりありました。嵐などのメンバーがバラ売りで主役を務める映画ができると、テーマ曲はグループ全体の曲になっているケースがありますが、同様に今回も欅坂46の曲にしてはどうかなと思えました。