『女と男の観覧車』

 変なタイトルの映画です。原題は『Wonder Wheel』で、ニュー・ヨーク市の南端にある嘗て賑わったリゾート・ビーチであるコニー・アイランドに今尚実在する観覧車の名前であると、ウィキに書いてあります。映画の冒頭でこのワンダー・ホイールはアップで登場します。このホイールは、ジョジョにもスタンド名で登場する「ホイール・オブ・フォーチュン」(本来タロット・カードの「運命の輪」)のように、劇中の人々の運命の象徴としてタイトルとなったのだと思われます。漠然と「運命」を象徴すること以外にも、上(幸運)にも下(不幸)にも行くのにも関わらず、結局同じところで堂々巡りを繰り返し、他のどこにも行くことのできない人生の行き詰まった状態の象徴と見ることもできるかもしれません。実際に作品を観ると、そのような含意が刷り込まれるように理解できますが、それと同時におかしな邦題の薄っぺらさにも気づかされるように思います。

 ネットや各種メディアで喧伝される多くのメジャー作品の蔭に隠れていて、知名度はイマイチだと思われますが、6月下旬の封切から既に6週間以上を経て、未だに上映が続いているという、かなりのヒット作品だと思います。それでも、遂に23区内ではたった3館の上映になり、その中には新宿の映画館はピカデリーでしたが、そこでの上映が終わったら、渋谷のアップリンクで上映が始まり、3館体制がギリギリ維持されていました。3館のうち1館は下高井戸のミニシアターで、ここの1日1回の上映を観に行こうかと思っていましたが、どうしても時間が合わず、多分行ったことがあったとしても20年以上ぶりではないかと思われる有楽町のデパートの裏側からひっそりと直通エレベータでしか行けない映画館で観て来ました。

 木曜日の昼12時10分からの回。広いロビーには、昔、化粧品のパッケージや雑誌の挿絵など、生活のあちこちで見ることができた東郷青児の巨大な絵が壁に掛けられていました。デパートの建物は1984年の平成ゴジラシリーズ第一作でゴジラが破壊し、この建物の脇で新幹線を破壊したら乗客の中のかまやつひろしも瞬殺された有名な場所です。その頃からの佇まいが今に残っている感じがしました。ここでは1日2回の上映が行なわれていました。

 数百人入る昔風のシアターにたった10人ばかりしかいず、寂しい状態でした。観客の平均年齢は高く、一組で全体の3分の1近くを占める女性三人組も全員60代前半ぐらいに見えました。カップルや私以外の男性単独客もいたように思いますが、20代や30代前半ぐらいまでの人物はいなかったように記憶します。(広すぎてパッと見で客層が把握できないほどのシアターの広大さと閑散さでした。)

 この映画を観に行くことにしたのは、最近、ウッディ・アレンの作品に再び関心が湧いて来たからです。昨年6月に観た『カフェ・ソサエティ』が名作だったのがきっかけです。その後、比較的最近、DVDで『教授のおかしな妄想殺人』を観ましたが、またもや満たされない凡庸な生活からの脱出に失敗する人々を描くアレン節全開の名作でした。ここ最近、ウッディ・アレンは年1作のペースで名作を生み出している様子ですが、『カフェ・ソサエティ』の1年前の作品が『教授のおかしな妄想殺人』で、1年後の作品がこの『女と男の観覧車』です。

 私はウッディ・アレンの映画が結構好きです。そして、このブログの『カフェ・ソサエティ』の感想にも、同じ文章から始めて、以下のような私にとってのウッディ・アレン作品について書きまとめています。

「私は、ウッディ・アレンの映画が結構好きです。多分、北海道の田舎町の映画館で中学生の頃に『アニー・ホール』を観たのが最初だと思います。その頃、昔日の繁栄が大きく翳ったその港町では4、5館あった映画館が全部消えてなくなり、DVDはおろか、ビデオも何もない時代に、車で1時間半かかる地域中核都市まで足を運んでは、その後の新作を何本か連続で観たように覚えています。今回の作品でも「ウディ・アレン」と表記されていますが、当時は皆、「ウッディ・アレン」だったと思います。

 インターネットもない時代、調べに調べて、ウッディ・アレンの著作『これでおあいこ』まで購入して、何度も繰り返し読んでいた記憶もあります。当時、毎月買っていた映画雑誌『ロードショー』で、頻度少なく登場するウッディ・アレンの記事も、クリッピングこそしていないものの、貪り読んでいたように思います。それほどに、初めて観た『アニー・ホール』は衝撃的でした。端的に感想をまとめると、「こんな話が映画になり得るんだぁ」と言う感嘆だったと思います。

 テレビでも何ででも、彼のマシンガンのような英語の台詞を聞いたことはありませんでしたし、こんなに登場人物が喋り捲る作品も知りませんでしたし、ハッピー・エンドにもならない代わりに、完全なサッド・エンドにもならない大人の恋愛劇も、まざまざと見せつけられたのは初めてだったかもしれません。さらに、主人公の二人が互いの過去を傍観してコメントを言うと言う、今から見てもやたらに唐突でSFとしてもイミフとしか言いようのない設定も、斬新で印象的でした。

 それ以降、『インテリア』、『マンハッタン』、『カメレオンマン』、『カイロの紫のバラ』、『ハンナとその姉妹』、『ラジオ・デイズ』など、ガンガン映画館に通って観ました。これらの多くが、今でも私の洋画ベスト50に入っている名作です。『インテリア』の晴天下の荒い波打ち際。『カイロの紫のバラ』の寂しい遊園地。『ラジオ・デイズ』のダイアン・キートンの詠唱など。印象に残るシーンが明確に存在します。

 この中の『カメレオンマン』で、はたとウッディ・アレンがコメディ作品を演じられる人間であることに気付き、遡って『スリーパー』などを観ましたが、やはり、私にとってのウッディ・アレンは、ままならない人生に真正面から向き合った末、自身の無様さを諦め哂いつつ、歩を進めるしかない大人のほろ苦い愛憎の物語の最高の語り手であったと思います。

『ニューヨーク・ストーリー』、『ウディ・アレンの影と霧』を観た頃、私は東京から札幌、そして、米国へと生活場所が転々としていて、映画を安定的に見る機会が失われる一方で、以前のウッディ・アレン作品の洗練された美しさと面白さを作品に見出せなくなって行きました。映画はそれなりの本数観ていましたが、ウッディ・アレン作品が鑑賞リストの上位に来ることがなくなっていたと言う感じかと思います。そして、かなり長いこと、ウッディ・アレン作品から遠ざかっていました」。

 そして、主演のジェシー・アイゼンバーグに釣られて久々に観たのが『カフェ・ソサエティ』だったのです。『カフェ・ソサエティ』は名作でした。ブログの記事には、

「限られた人生の時間の中で、過去に成就させられなかった想いが、決して成就しないままに、そこにあり、それをずっと墓場まで持っていく(覚悟でさえなく)諦め。これが、ウッディ・アレンが『アニー・ホール』以来、磨きに磨いた大人の恋愛の姿なのかもしれません。それが『アニー・ホール』とは異なり、きらびやかなシャネルが彩る社交界にあるが故に、有り余るほどの財も、何事をも憂う必要がないような人脈も、欲しいままになった二人でさえ、満たされない想いを秘めながら生き続けなくてはならない構図が、余計に際立つのです」

 とまとめています。この息の詰まるような責任や人間関係の縛りから逃れて、外のどこかにあるはずの何か素晴らしいものを追いかけようとして、惨めに失敗する大人たちの姿を描く残酷な物語を、時に深刻に、時に面白おかしく、時にハチャメチャに、時に芝居がかって描くのがウッディ・アレン節の真骨頂です。

 上述のように、きらびやかで何もかもが表面上満たされているような社交界の中にあって、逃げ場のない寂寥が続くであろう主人公達をくっきりと描いたのが『カフェ・ソサエティ』でした。『教授のおかしな妄想殺人』は、まさに妄想から殺人を犯す、腹がボンと出た中年過ぎの哲学教授の、哲学的な閉塞からのカタルシスの物語でした。アメリカにはあまりいない知的態度を持った人物にのめり込むように惹かれて行き、自分も退屈な大学生の彼氏との関係から抜け出て行きたい女子大生にエマ・ストーンが扮しています。殺人に至る件はかなり突飛で少々無理を感じます。それでも、哲学的な悩みの説明が延々続き、そこに目を丸くして少女のように強い好奇心でどんどん踏み込んでいくエマ・ストーンの好演も被さって、この作品も『カフェ・ソサエティ』ほどではないにせよ、上質なアレン節を奏でています。

 それらに作品に比べて、『女と男の観覧車』は少々見劣りがします。一つは場末の物語であるが故に、華がないことです。おまけに知的な人種も登場しないので、『アニー・ホール』に代表されるような、知的ユーモア全開のマシンガン・トークも存在しません。さらに、揺れる主婦にケイト・ウィンスレットです。自分を愛してくれたドラマーと結婚して子供も設けて、幸せの絶頂に居た舞台女優だったのですが、芝居上でキスを重ねるうちに相手役の男と不倫に走ってしまい、最愛の夫は去って自殺をしてしまいます。そこから転落人生が始まり、愛はないけれど自分を支え求めてくれた遊園地のメリー・ゴーラウンド要員の中年デブ男と再婚して、コニー・アイランドの遊園地の近くで射的場の発砲音がやたらに五月蠅い部屋に住んでいます。そして、カフェの(その場末感や時代背景から、ウェイトレスというよりも)女給を安い時給でやっているのが彼女なのです。

 私は名作と名高い『タイタニック』がどうも面倒くさく感じられて、観ていません。噂は十分聞き、ネットや雑誌の記事は十分読み、おまけに宣伝映像も十分観たので、「もう十分かな」と思っています。なので、私にとってのケイト・ウィンスレットは、やはり、秀作の『エターナル・サンシャイン』です。この時の彼女の役がどうしても、ケイト・ウィンスレットの私のイメージのほぼ全部になってしまっています。この時の彼女は29歳のスレンダー気味な女優でした。私はこの作品のテーマも好きで、登場人物たちの英語の台詞もなかなか日本人には思いつかない表現が多く、「おお~、こういう風に言うのか」と思う部分が幾つもありました。そのセリフを吐く一般には見ない髪の色をした若い子であるケイト・ウィンスレットが私にそのままに焼き付けられています。

 そのケイト・ウィンスレットがただの鬱陶しい強面支配者おばさんになって、『ダイバージェント』に登場した際には、かなりげんなり来ました。設定も今一で役者は他にメジャーな者が居ず、話の展開も何かまどろっこしく、到底続編(・さらに第三作完結編)を見る気にはなれない作品でした。この中のケイト・ウィンスレットはスーツ姿の面倒なおばさんでした。ところが今回の実年齢42歳の彼女は、元女優のプライドから抜けられないため、ボロアパートのような部屋で舞台衣装を身につけて懐古に浸ったりします。年下の愛人との逃避行を夢見て、場末のおばさんなりにタイトなワンピースを着たりします。すると、私が好感を持てない骨太体型の寸胴ウェストの顔のでかいおばさんに成り下がってしまうのです。

 比較材料の二作には知性がありますし、夢破れた主人公達が戻る先には、退屈でも平凡でまあまあ満たされた日々があります。ところが、この作品のケイト・ウィンスレットには、酒に溺れかけている中年太りのオッサンとなった夫や自分の連れ子の放火癖どんどん嵩じさせるバカ息子が厳然と存在する、薄汚れたアパートの生活しかないのです。束の間の夢を齎す年下の不倫相手も演劇を大学で学んでいて修士課程に進もうとしているという貧乏学生の優男で、ビーチの監視員をしています。その彼から演劇の話を聞かされ、甘い言葉を掛けられ、海外を貧乏旅行した際の美しい楽園の島々の話を聞いて、逃避行を夢見るようになるのでした。

 楽園の島、ボラボラ島に逃げれば、なぜ楽園生活を送れると思うのか。そこではそこで、面倒な新生活や慣れない文化習慣が待っているはずで、それに憧れること自体が、典型的能天気欧米人型思考とも取れますし、無知の為せる業とも解釈できます。アメリカ映画を見ていると、何かと言えば、メキシコやカナダに国境を超えて逃亡する話が登場します。その次の第三の逃避行先が今回のような南の島かもしれません。いずれにせよ、逃げれば、何か新しい生活が始まり、それが今より良くなるという何の根拠もない盲信には、本当に嫌気がさします。仏教でいう「知足(足るを知る)」など全く学ぶ機会がないのでしょう。

 格差がそれなりには広がってきた日本で、或る種の来世思想の変型判なのか、生活保護を受けるレベルの貧困状態の人々に少なからずスピリチュアル系の世界観にハマるケースがあるようですが、たとえ彼らが見るものが前世からのカルマなどであったとしても、それが投影された現在の生活から彼らが完全に目を逸らしている訳ではありません。それに対して、この映画にも登場する逃避行パターンは、あまりに安易で、しかし、あまりに頻繁に欧米の映画(特に米国の映画)に登場する、馬鹿げたモノに見えて仕方ありません。それが、私がアレン節全開でもこの作品を好きになれない最大の理由かもしれません。

(最近、米国に残ることとなった彼女との将来の人生を選ぶことで、主人公が国境越えの逃避行を諦め、服役するというパターンを発見しました。『ベイビー・ドライバー』です。DVDで観て、それなりに感動しました。)

 この作品の狂言回し的な位置付けにいる不倫相手の大学生監視員は、ウッディ・アレンが投影されています。そして、ウッディ・アレンが本当に好み、現実に敬愛する舞台劇作家などについても多くの台詞が語られています。また、遊園地やボロアパートの映像も少々舞台のように大雑把なつくりになっていたりしますし、場面によっては、まるで演劇のように長い台詞を延々と登場人物たちが語る場面があります。その観点で見ると、この作品は、まさにドラマティックな演劇的人生から零れ落ちてしまった人々が、再び夢破れて惨めで退屈な現実に引き戻される演劇なのであると考えられそうに思えます。或る意味、メタ演劇的な設定と言えるかもしれません。その容赦のなさは特筆すべきです。

 再婚相手のデブのオッサンの先妻との間にできた娘は、ギャングのボスとのスリルにあふれた恋愛に憧れて勘当されていましたが、その犯罪塗れの日常に脅え遊園地の父の下の退屈な生活に戻ってきます。しかし、まるで、過去の過ちのツケを払わされるが如く映画の結末で唐突で残忍であろう死が待ち受けています。ただ、そんな意表を衝く物語をもってしても、場末の貧乏ブサイクおばさんが虚妄に浮かれ、不倫に走った挙句に間接的に殺人さえ犯して、現実世界に引きずり戻される様には、到底好感が持てないため、如何にアレン節全開であっても、DVDは必要ないかなと思います。

追記:
 この映画のクレジットに「アマゾン・スタジオ」と言うロゴマークが登場しました。初めて見る名前です。当然、アマゾン傘下の会社が作った映画と言うことを言っているのでしょうが、アマゾンが映画を作っていることが、ちょっとした発見でした。