銀座のど真ん中の裏路地に面した初めていく映画館で観て来ました。封切から二週間少々。日本画などに多少なりとも知識のあるような趣味や教養のある人々の間ではかなり知られた話題作です。しかし、やはり一般的な知名度は低く、23区内で4館しかやっていません。この館数は封切時点から変わっていません。そのうちの1館は池袋の映画館で、私が『ありえなさ過ぎる女 ~被告人よしえ~』を観た映画館です。その際にチラシを見つけたのが、私が本作を知ったきっかけです。
4館のうち板橋の館以外は1日に4回から5回上映を行なっていて、私の行った銀座の館も1日5回の上映を行なっています。私が行ったのは金曜日の午後6時50分からの回で、予想通りそれなりに混んでいて、100人以上の観客がいたように思います。以前『不能犯』を観た渋谷の映画館のように、(通路側の席を取ろうとした結果)2階席で見ることになりました。2階席を見る限り、男女比は半々ぐらいで年齢構成は私と同じぐらいの年齢を中心として比較的ばらつきが少なかったように思います。カップル客も多く、銀座の場所柄もあるのは間違いないものと思いますが、やはり、絵画鑑賞を趣味としていてもおかしくないような身なりや雰囲気の観客が多いように感じました。
私がこの映画を観に行きたいと感じた最大の理由は主演が山崎努であることです。私はこの俳優が結構好きです。私の行きつけのバーのママも山崎努が良いといつも褒めていますが、彼女が見惚れた山崎努は『天国と地獄』の山崎努です。私もこの作品をDVDで観ましたが、やはり、私には私の強烈に印象が残る山崎努がいます。映画ではやはり『マルサの女』の裏金を溜め込んだ社長です。当選済みの宝くじに拠るマネー・ロンダリング手法など、裏金と言う概念自体を理解していなかった、当時24歳の高卒のNTT技術職には、社会構造の観点からも人間の業の観点からも、やたらに深いドラマで私の脳裏に深く刻まれました。何かの障害の残る足を引きずりながら歩き周り、裏金を溜め込んでは小躍りする社長の姿が、中小零細企業の経営者の考えを知るのが前提の商売をする今はとても身近に感じられますが、当時の私には突如突き付けられた社会の構造でした。
それに3年先立つ『お葬式』も喪服の下の青いシルクのパンティなど、喪に服す場のすぐ下に隠された毒々しい人間の姿が妙な後味を残す、当時の私には不思議な映画でしたが、不思議過ぎて山崎努が印象に残る度合いが少なかったように思えます。その後、私はテレビの映画番組だったか、出始めのビデオだったかのいずれかで、『お葬式』以前の『八つ墓村』を観て驚愕することになります。狂気の形相で桜吹雪の下を疾駆しては村人を惨殺していく山崎努は『マルサの女』並みの刺さり具合で私の中に留まりました。
そして、その際に、『マルサの女』、『八つ墓村』の2作の全く異なる山崎努を知ったことから、もう一つ遥か以前から私の脳裏に残っていた山崎努が同じ人物であることが分かったのです。それはテレビ番組『必殺仕置人』の一人「念仏の鉄」です。放映当時10歳だった私は、その4年後に58歳で亡くなる祖母に日常の面倒を見てもらい育ったため、テレビでは時代劇を見ることがそれなりにありました。『水戸黄門』など数々の時代劇がある中、今でも私の記憶に残っているのは、『伝七捕物帳』の伝七と『必殺仕置人』の念仏の鉄でした。その直前作の『必殺仕掛人』の緒方拳演じる藤枝梅安のファンでしたが、念仏の鉄のレントゲン画像付きの「骨外し」の技は、今尚最もスタイリッシュな殺人技のように感じられます。
しかし、このような私が好きな山崎努作品群の中で、山崎努は主演ではありません。その山崎努が13年ぶりの主役を務める映画と言うところが、私にとって最大の鑑賞動機でした。
この作品は実在の有名画家熊谷守一の池袋近くにあった自宅での1日を描いた映画です。描かれているのは1974年の1日。主人公が94歳になっていて、その逝去の3年前の時点でした。パンフレットによると、52歳の時に住み始めた家ですので、既に42年が経過していることになりますが、彼は死に至るまでの30年以上に渡って(たった1度だけ垣根伝いに玄関から勝手口まで道路を歩いた以外)外出したことない生活を送ったのです。彼の毎日の生活は、午前中に庭で草木や昆虫などの小生物を宛らビオトープか何かの観察のように、身じろぐことなく幾つかの固定したポイントで見つめ続けるところから始まります。午後は主に昼寝をし、夕食時間になると起きてきて食事後妻と碁を打ち、その後、夜半には彼が「学校」と呼ぶ古びた(アトリエには見えない)アトリエで創作活動をしていました。その毎日をずっと外界とは無縁の中で繰り返していたのです。
彼の清貧に無理なく甘んじ、恬淡と自然の中で生きる生活は、今時のどこか資本主義・市場主義が塗されたエコだのロハスだの言うような中途半端な生活を完全に超越したものです。それを樹木希林演じる18歳も年の離れた老妻が見守る。そんな、主人公が息をひそめいずまう小さな森の自然を、舞台装置どころかデーンと中心に据えて描き、その中に主人公や妻、そして数々の来訪者の姿が混じり込んで描かれているのが、この作品なのです。
樹木希林の名演も間違いなくこの映画の重要な要素です。老境の夫婦の関係性をとても肌理細やかに表現しています。私は樹木希林のファンではありませんし、特に印象に残る役柄を過去に記憶していません。子供の頃、リアルタイムで見ていた番組の中で、いきなり自分の名前を売ると言う極めて特異な発想を発揮したことや、何かの座談会的な番組で、貧乏役者の若者が「芸術活動に対して、公的機関がもっと支援をするべきだ」と自分たちの窮状を嘆いたのを聞いて、「そんなことをしていい芝居を作れる訳がない」とあっさりと切り捨てていたことなど、色々な場面で表明されるまっとうな見識の方が、私の彼女についての脳内イメージを作る構成要素になっています。
熊谷守一の画風は「モリカズ様式」と呼ばれる独特のもので、庭に居る猫や蟻などをモチーフにして、単純な構図と色遣いで知られています。一人で「学校」に籠って創作活動をしていたので、熊谷守一の描く姿を知る者は居ず、その状況自体に敬意を払い、劇中でも絵筆を握る姿は一切入っていません。ただ、庭で時を過ごし、自然を凝視し続ける主人公の姿を見ると、パンフレットにある画風もそうでなくてはならないものと思えてくるぐらいに、この映画は熊谷守一の再現に心血を注いでいます。
山崎努は現実に熊谷守一のファンであるらしく、監督に熊谷守一の美術館を訪れてみるように最初に薦め、一連の映画製作作業の端緒を作ったのも山崎努であるとパンフレットに書かれています。その山崎努が主人公を快演しています。歯が悪いのか髭の都合なのか、サイズが大きいウィンナーなどの食べ物を食事中にもいちいち箸をおいて鋏で切っては(表情も変えず)食べていたり、木の切り株の上をせわしなく行列して歩き回る蟻の群れを横になってじっと凝視したり、はたまた、彼の日常生活を切り盛りしてくれている老妻をかあちゃんと呼び、仄かな親愛をにじませる言動など、セリフが極端に少ない役柄で、緻密に丁寧に演じ切っています。
米国などには極端な自然生活を指向して、電気も使わないで暮らすような人々もいますし、国内にも二酸化炭素排出量などお構いなしに、単にペットボトル回収やレジ袋不使用などを自然に優しいと称するなど偏ってトチ狂ったエコ心情を振り回してみたりする人々もいます。ハイブリッド車を乗り回してガソリンを使わないことにしても、そこに使われている蓄電池の開発のためのリチウム採掘は自然に大きな負荷をかけていることはよく知られています。どうも、現代生活でよく耳にするエコ生活やロハス生活は、概ね近視眼的か到底万人が納得することができないほどの極端かのいずれかであるように思えます。この映画に描かれる(私も訪れたことのある)神奈川の古民家でロケされた小さな庭の中に埋没した生活は、無理のない自然と調和した生活を強く提示しているように思えます。
庭からあの世の遣いのような人間が現れたりする幽玄的場面や、当時流行のドリフのコントへのオマージュで、主人公が文化勲章を「そんなものを貰ったら、たくさん人が来るようになってしまう」とあっさりと辞退する場面で唖然とした人々の頭上から落ちて来る数々の金盥などは、少々やり過ぎ感があり、普通に普通の1日を描くだけでよかったのではないかと私には思えます。特にファンタジー的な展開の方は、やるならもう少々現実の主人公から乖離する覚悟で、たとえば『蜜のあわれ』の老作家となった室生犀星が過ごした金魚の化身とのエロティックな日常などのレベルにするぐらいでなくてはいけなかったのではないかと思えるのです。
主人公は頻繁に昼寝したりしますし、主人公の各種のエピソードを盛り込もうとしたためか、看板を描いて欲しい信州の旅館の主や近隣のマンションを建築するオーナーや主人公の生活を記録している写真家など、目まぐるしく人が訪れたりしますので、どうもこの映画全編が1日の出来事には見えにくくはなってしまっています。名作と名高い『八月の鯨』なども自然の中で暮らす老姉妹のたった1日分の生活を恬淡と描いていましたが、そう言えば、この作品同様に1日を細かく丁寧に描いたために、随分時間が経過しているように感じた記憶があります。そのようなものかもしれません。
老いや日常の刹那に塗された幸せ、自然と調和した人間の生活など、色々と考えさせる作品です。当然、DVDは買いです。