『GODZILLA 決戦機動増殖都市』

 5月半ば過ぎの封切から3週間弱経った火曜日の夜、9時50分からの回を歌舞伎町のゴジラ生首付き映画館で観て来ました。上映回数は1日4回。この前の7時台の回を観に行こうと思っていましたが、直前にネットでチケットの売れ行きをチェックしてみたら、私が好きな通路側の席が前3列以外全部埋まっていたので予定を変更し、終電時間間際に終了する一番遅い回にしました。ただ、7時台の回も席の稼働率は極めて低く、シアター全体では30席も埋まっていなかったように記憶します。

 この作品に関して予定を変更するのは二度目です。バルト9でも上映されていて、そちらで観に行くつもりでしたが、客入りに敏いバルト9では既に1日1回の上映になり、それも真昼間の時間帯の回で、近日中に観に行くこともできず、おまけにその次の週末には時間がたくさんありましたが、それ以外にも観に行きたいマイナー映画があったので、早めに消化してしまおうと考え、致し方なく全く好ましく思えないゴジラ生首映画館にゴジラ作品を観に行くことになってしまいました。

 本当にゴジラ生首付き映画館は腹立たしい施設です。私にとって好ましい点はぎりぎり地下に駐輪場があることぐらいで、それ以外でこの映画館から愉快な気分や充実した気分で出た記憶がほぼありません。何とか「恙無く鑑賞を終えた」ぐらいが最高のパターンだと思います。

 今回もご多分に漏れず、並び方が決まっていず、チケット販売自動機の順番はぐちゃぐちゃになっていて、割り込みが横行して非常に不快な思いをさせられましたが、近隣にボーっと突っ立っていたスタッフが何かをすることは一切ありませんでした。さらに、フード売場は壊滅的で、多数横並びにカウンターに並ぶレジのうち3台がスタッフがそこに立っているのに、なぜか使えないということになっていましたが、その表示は一切なく、客がどこに並べばよいのかよく分からない状態で放置される仕組みになっているのです。

 試しに端のレジに並ぶと、「こちらのレジでは只今使えないので、あちらにお並びください」とそこに立って隣のスタッフとくっちゃべっているスタッフが応えました。「あちらとはどこのことですか」と尋ねると、「あちらです」と大雑把に指さして言うばかりで、どこなのかさっぱり分かりませんでした。ちなみに並びの列表示やレジ番号などが書かれている訳ではないので、「あちら」以上指示しようがないのは事実です。このようなオペレーションが全くできていない状態で、よくも他の客もこの映画館に来るものだと思いますが、それが気にならない程度の客の質と言うこともあるのかもしれません。

 よく店の質が客の質を決めることは知られていますが、その鉄則がここまで可視化された店舗事例は珍しいように思います。チケットをチェックするちょっとした改札ポイントを通った際に、上階とは異なる位置にトイレがあるため場所がすぐに分からず、トイレの場所を尋ねましたが、日本人なのに日本語が通じないのか、「は。ええと、そちらの方の奥です」と、寝ぼけた返事をしていました。もしかすると、とんでもない過重労働を強いられていて、眠くてトイレの位置も忘れかけるぐらいだったのかもしれません。

 こうした質の悪い客と質の悪いスタッフが揃っている前提なのか、以前の私のように警備員はグッズ・ショップの商品を手に取ってみるだけで近寄って来て、POPのカードが固定されていずに引っかかって落ちただけで、横からすぐに「落とさないでください!」と客を叱りつけるというマニュアルになっていました。自分たちの質の悪さから質の悪い客が来ているという前述の原理があるのであれば、それに対してまた質の悪い対応を重ねると言う、負のスパイラルの結果なのか、低品質店舗ストア・コンセプトの徹底した見事な事例なのか、非常に判断に悩むところです。

 比較的ギリギリの時間に自転車で着いたように思っていたのですが、ロビーに上がってみると、上映20分前でした。しかし、ありとあらゆるオペレーションの悪さのおかげで、シアターに辿り着いたのは上映開始3分前でした。シアターに入ると観客は10人ほどでした。終電時間にかかる上映時間枠や金曜日でもない平日であること、そして、封切から大分時間が経ったことなどを考えると、まだ健闘している客入りと思えます。客層は主に私と同年代か少々若めの年齢の男性ばかりで女性は一人もいませんでした。全員単独客でした。

 終電時間帯とは言え、始発を待てるような時間枠ではありませんから、寝るために映画館に来たように見える客は一人もいませんでした。(ゴジラの咆哮やヘビメタ的な主題歌など大音量が色々と入る作品ですので、寝ることはかなり困難だと思いますが…。)

 この映画を観に行くことにした動機は、やはり前作の高評価が一番です。スタイリッシュな映像、手の込んだ未来世界設定、畳み掛ける戦闘シーン(巨大生物相手ですので、戦闘と言うよりも攻撃シーンと言うべきかもしれません)、緻密な人間ドラマ、エンディング一歩手前のストーリーの起伏、そして、既存実写ゴジラのオリジナル作品の各種前提の大胆な翻案。どれもが十分評価できるポイントだったように思います。

 第二作もこれらの魅力のパラメーターは全く変わっていません。ただ、既に見慣れているスタイリッシュな映像世界の魅力は僅かに褪色しているかもしれません。しかし、その褪色を他の軸の方が補って余りあります。手の込んだ未来世界設定も二万年後の地球に舞台を移しても健在で、地下深く集落を形成している人型生物の進化の形に対する数々の仮説が検証されたり、生態系についての議論が為されたり、科学的思想面からも味わいのある内容になっています。

 畳み掛ける戦闘シーンは、前作以上にオリジナルの実写ゴジラの世界に近くなっているように思えました。平成ゴジラ以降の実写ゴジラのほとんどの作品で、自衛隊の各種作戦がゴジラに対して展開されるくだりが描かれています。そのほとんどに技術的な制約があり、特定の条件枠の中でしか有効にならない切り札的な攻撃をギリギリに使い回してゴジラに挑む人類…と言った構図です。このギリギリ感は前作よりも本作の方が圧倒的に高く感じられます。

 緻密な人間ドラマも、前作ではまるで『伝説巨神イデオン』のソロ・シップのように宇宙を流離う宇宙船の閉鎖空間内の人間ドラマの緻密な設定が楽しめたのに対して、本作では、地上に残ることを決意した人々の間で、ゴジラと戦う意義や運命についての認識の相違から確執や葛藤や対立が複雑な構図で発生しています。

 エンディング一歩手前のどんでん返しも一応健在で、またもやゴジラの予想を超えた力によって、勝てる予感の中にあった人間側が打ちのめされるエンディングにうまく創り上げられています。ただ、今回のどんでん返しは、そう言った戦いの趨勢の逆転劇にとどまらず、主人公の価値観の大転換にも見られる二重構造です。

 第一作から「地球の持ち主としての人類の復権」に執着し、ゴジラ打倒に執念を燃やす主人公が、作戦直前に愛情を表現してきてキスまでした女性部下が、自らの意志で参加した危険な作戦の犠牲になるのを避けるため、ゴジラを打倒できるチャンスを見過ごす選択をするのです。元々、彼女がその特攻的チームに入ったのも、主人公を愛し、主人公に認めてもらいたいがためでした。或る意味、当然と言えなくもない死の訪れでしたが、人間としての価値観に従うと決めた主人公が、ゴジラ打倒の可能性として残ったカミカゼ攻撃を否定し、彼女を救う道を選ぶのでした。しかし、物語はそんな彼女の命を奪って帰結します。もちろん、物語の展開を見ると、仮にカミカゼ攻撃を仕掛けてもゴジラを絶命させられるかどうかは甚だ疑問に見えます。或る意味で優れた撤収の判断と見ることもできますが、それはあくまでも結果論であって、主人公が今まで背負ってきたあらゆるものを脳裏に浮かべながら反射的な判断をしたということがよく分かる、所謂フラッシュバック的な映像を重ねる的確な描写が連なる場面でした。

 そしてオリジナルの実写ゴジラシリーズから翻案も、本作で一気にその世界観が姿を見せる感じがします。ゴジラによって蹂躙された当時の地球には地球人以外に二つの宇宙人が公的に移住して来ていました。彼らの母星も文明が発達した結果、倒すことのできない怪獣が生まれ、彼らは結果的に地球に移り住むことになったのでした。その宇宙人に種のうちの一つは宇宙宗教のようなものを心の拠り所とする種族ですが、その伝説の悪魔として口にすることもまがまがしく不吉であるとされている怪獣の名前が呟かれます。それが「ギドラ」なのです。映画のエンディングでティーザーが流れて、そこでこの「ギドラ」が明らかになるのですが、その後、イメージ映像のような形で、三本の金のモール・ワイアのようなものがクロスする場面が描かれます。当然、キングギドラの襲来が第三章として続くのだろうと思います。

 また地球に残った元始文明のような社会と習俗を持った人型生物はどうも人間の生き残りではなく、蛾のような昆虫が進化したものと劇中で推定され、皮膚の表面は常に薄い鱗粉の被膜で覆われています。彼らの伝承の中で、彼らの神はゴジラと戦ったが敗れ、今は地中に卵を残すのみ。しかし、卵は奉じても何も語らない…、と言われています。そして、彼らの言葉を直接脳に何らかの波動で伝えて来る媒介となっている少女が二人、双子でいるのです。現時点でそのような作品中の言及はありませんが、これはもう間違いなく「モスラ」を奉じる種族です。

 しかし、これらはゴジラシリーズを知っていれば、「おお、こういう風に繋いで行くのか」と言う程度の感慨しか呼びません。翻案の程度で言うと多分今回の第二章が多分最高の出来栄えになることだろうと思われます。タイトルにある「決戦機動増殖都市」は都市そのものがメカゴジラなのです。元々ゴジラが地球を最初に蹂躙した際に、例の地球在住の宇宙人のうち先述の宇宙宗教を唱える一種族以外の方の宇宙人は非常に高い科学力を持ち、その核となる技術に「ナノメタル」がありました。彼らはゴジラを制圧するための機械メカゴジラを製造していましたが、完成後起動直前のタイミングで開発基地へのゴジラの襲撃を受け、メカゴジラは戦うことなく破壊されてしまっていました。

 このナノメタルは生物のように自己増殖することができ、おまけにメカゴジラの処理脳部分がほぼ無傷だったため、ナノメタルの残骸からメカゴジラ製造基地そのものを二万年の歳月をかけて再現していたのでした。コンビナートが立ち並ぶような無人都市が忽然と(ゴジラ細胞と同一化した植物群が)鬱蒼とした太古の森に忽然と登場しますが、そこは、都市全体がメカゴジラで、主人公たちはその生き残っていた中枢部分にアクセスし、まるで高性能の3Dプリンタのような原理でナノメタルから要塞を築き上げていくことになります。メカゴジラそのものが再生される訳ではなく、都市の全体がメカゴジラであるという発想は、とても飛躍的で秀逸だと思います。たとえ、この後、キングギドラやモスラが登場しても、経常的にこれほどオリジナルから乖離した設定にはなり得ないのではないかと思えます。

 色々な魅力が詰まった作品だと思います。劇場の鑑賞体験が想定通りの低質なものだったので、DVDの買いはマストですし、当然第三章が封切になったら劇場で観なくてはなりません。もちろん、その際は、極力、バルト9で観たいと思います。