23区内ではたった11館ですから、それほど大規模な配給体制ではありません。それでも、新宿でたった一つの上映館のバルト9では、1日に7回もの上映がされていました。5月中旬の封切から約1週間経った木曜日の夜10時15分の回を観に行きました。木曜日を境に上映メニューを変更することが多いバルト9では、翌日の金曜日からはガクンと上映回数が減り、1日5回となるようです。
開場時間の数分前にロビーに到着し、売店を覗いてみると、数ある扱いパンフの中で、封切から間がないのにパンフが完売になっているのはこの作品だけでした。熱狂的なファンが多数存在してたった一週間の間にパンフを買い尽くしたと考えるには、私が入ったシアター内の観客数は、たかだか15人程度で少な過ぎます。多分、製作側の自己肯定感の低さ故のように思えてなりません。
(ウィキやその他の情報を読むと、「大人の物語」を作るために「仮面ライダー」のイメージを破壊するという製作側の意気込みがあちこちで語られていますが、それが大きな反響を生んだことについては何か戸惑いのような感想が語られていることがあります。端的に言うと、製作側が「こんなにウケるとは思っていなかった」と言う風に読み取れる表現が時々登場するのです。)
私はかなり入れ込んでいるファンだと自認していますが、『仮面ライダーアマゾンズ』は、奇妙な作品です。「仮面ライダーアマゾン」と聞くと、往年のアマゾン育ちの日本人が変身するトカゲベースの珍しい仮面ライダーの物語を多くの人が連想するようです。途中からわざとらしくたどたどしい日本語を話すようになるものの、日本語を解さないどころか、事実上、人語を解さない様子で、近代文明も知らない主人公が、大都会を彷徨しながら、無垢な子供などの指示を僅かに得る一方で、彼を疎外し敵視する多くの大人によって苦しめられる設定は、当時の色々なおかしなSF系子供番組の中でも「異色」を超えて「異様」だったと思います。
おまけに、主人公は人語を解さない様子ですので、当然ながら、「ライダー、キィーック!」などと技を明示してくれる訳でもありませんし、これから怪人をどのような戦法で倒すのかと言ったことも、全く開示しないまま、行き当たりばったりに見える行動をとり続けます。大体にして、ライダーキックなどの初期ライダー定番技(と言うよりも、ライダーの原点と言うべき技)をアマゾンは一切繰り出しません。劇中でも呼ばれていなかったように思いますが、一応(ネットのない)当時から雑誌などでは「大切断」と呼称されていた、腕ビレや足ビレによる切り付けか、(明確に見えませんが)ギザギザになっているはずの歯で相手を齧り倒すぐらいしか技がないのです。
歴代仮面ライダーのマシン面の面倒を看てきた立花藤兵衛の「おやっさん」がジャングラーと呼ばれるアマゾンを明らかにモチーフにした(しかし、大きく広がった尾びれ形状の部分のせいで、巨大な金魚に見える)バイクを作ってくれて、何かと言えば、移動する怪人をすぐ自分の足で追いかけてばかりだったアマゾンに乗り方まで徹底指導してくれて、漸く仮面ライダー的な要素を整えるという体たらくでした。後に「仮面ライダーブラックRX」のように四輪に乗るのに「仮面ドライバー」ではなく「仮面ライダー」を名乗る変な奴も登場しますし、さらに後には、何を考えたか「仮面ライダードライブ」なる、ride するのか、drive するのかよく分からないライダーも登場しましたが、登場時点でバイクの乗り方が分からない仮面ライダーはかなり異常でした。
私は子供時代にリアルタイムで『仮面ライダーアマゾン』を見ていましたが、全然好きになれませんでした。好きになれないのに、その異様さや異常さに驚かされ続け、時に呆れさせられながら、脳裏にその印象を刻んでいたように思います。仮面ライダーシリーズの次作『仮面ライダーストロンガー』は、まあまあ面白いと思ったにも拘らず、番組途中で飽きてしまい見るのを止めたのに比べると対照的な存在感です。
私にとっての『仮面ライダーアマゾン』は、そのような存在で、直接活用することをしていないことも相俟って、「アマゾン」と耳にすると、私の頭に一番に浮かぶのは、巨大通販サイトではなく、「仮面ライダーアマゾン」の方です。娘に「伝説の異色作」である『仮面ライダーアマゾン』の話をし、改めてDVDの第一巻を数年前に観直したことがあります。改造手術は妙な呪い師のおっさんが木べらで主人公の身体を突っついたりするだけのものだったり、主人公は日本に貨物船で密入国したのであったり、蜘蛛怪人の吐く糸が梱包用のビニールテープそのものだったり、怪我をするとどこから出したのか分からない薬研でその辺の雑草を練って作った薬を塗ったりと、あまりのチープ感に笑い転げ、一枚目だけで鑑賞を終えました。
そんなアマゾンがリメイクされているというような情報を、ネットの片隅で見たのはかなり前です。ちょっと気にはなっていましたが、特に何等アクションを起こすことはありませんでした。ところがネット上の広告の小さなサムネイルを見ると、アマゾンズと名称が複数形になっていて、深紅のアマゾンと若葉色のアマゾンが何とか見てとれて、「これは、リメイクではないな」と思い至りました。そこで、ウィキを見ると、既にファン・サイトかと思うぐらいに情報がアップされていて、後に本編を見て知る独特のスタイリッシュな映像美は全く窺い知ることができないものの、そこに熱狂的なファンが多数いることが十分に感じられる詳細な説明が見つかりました。
ネットのアマゾンの方の専用ドラマとして作られたとのことですが、あまりの残虐シーンの多さ故に、DVD版でなくてはオリジナルが見られないという話です。(バルト9の帰りのエレベータの中に、大学生らしき3人のオタク臭のする男達が居ましたが、一人が「テレビで見たぐらいでは、アマゾンズは分かったとは言えない。DVDを見なくては絶対にダメだ」と力強く、周囲の私も聞き飽きるほどに繰り返し力説していました。)DVDからいきなり入った私はラッキーでした。『仮面ライダーアマゾン』と『仮面ライダーアマゾンズ』は全く別のものの物語であることが分かり、さらに、それは、「アマゾン」と呼ばれる新種の人喰い人工生物の総称であることを知りました。
人間に本質的な恐怖を与えるのが、ただ殺されるのではなく「喰われる」ことであるためか、最近、SF系のネタでは人喰いがテーマになることが多いように私には思えます。『進撃の巨人』の本質的な恐怖も、『GANTZ』の最終エピソードに登場する構造的に酷似した巨人による人喰いです。コミックでも大ヒットしている『東京喰種』もそうですし、『寄生獣』もまさにこのジャンルです。最近ヒットし始めているコミック『約束のネバーランド』も、鬼と呼ばれる人型生物群に食品として育てられている人間の子供の物語です。
人間に擬態することもできる人工人喰い生物アマゾン。それが数千体街に解き放たれてしまったことから『仮面ライダーアマゾンズ』の物語は始まります。アマゾンを見つけ出し狩る人間の部隊が登場する一方、その発生を手掛けた科学者がアマゾン細胞を自らに植え付けてアマゾンを殺戮して廻るようにもなりますし、研究者の女性は自分の卵細胞にアマゾン細胞を植え込んで新種の生物である主人公の一人を創り上げたりもします。アマゾンの戦闘力を兵器化するための量産手段として、人間の死体にアマゾン細胞を植えて、アマゾン化する方式にまで話は広がります。
さらにシーズンを跨いで、アマゾンと人間の混血種も登場し、病気のように人間に感染するアマゾン細胞まで登場して世界観が広がっていくのです。そのように事態がどんどん複雑に広がっていく中で、アマゾンの方にも社会化が進み、狩りに協力するものや人間に敵対するものや、中立を模索するものなど立場が入り乱れて行きます。しかし、どのような立場にせよ、野獣であるアマゾンの本質がある以上、残虐な人喰いは終わり無く繰り広げられるのです。
吸わせるだけでアマゾンだけを選択的に溶解できるガスなどの登場によって、2つのシーズンの物語の末に、ようやく事態はほぼ終結します。そのアフターストーリーがこの劇場作品です。そして、ほぼ壊滅状態となったはずのアマゾンを、「ただ駆逐するだけでは能がない。動物タンパク質を人間に提供する家畜として、(人を喰わない)草食のアマゾンを量産しよう」と言う試みがなされている設定になりました。
この畜産アマゾンは、山深い村の修道院か何かのような施設で育てられています。皆、人間の子供のような外見ですが、興奮して理性の箍を外すと獣人のような姿に変異します。当然、人語も解しますし、思考もします。寧ろ、一般的な人間の同世代の子供よりも理性的にさえ見えます。本来、興奮してアマゾン体そのものになれば、仮に人を喰わない習性であっても、怪力で暴れ回れるので危険極まりない存在です。そんな彼らを、自らが「人々に幸せを運ぶ天使」と認識させ、「死は生の一部。第三者の生を支えるために自分の命を使うために生まれてきた尊い存在」と自分たちの存在を位置付けて納得させているのです。全員聖歌隊のような服を着て、彼らには「旅立ち」と称されている「出荷」の日まで、まさに修道院のような生活を送っています。
人間ではないアマゾンを宗教によって従属させる。それは、まるで現在の発展途上国、以前の第三世界と呼ばれた地域で、スペインなどの当時の列強が植民地支配として行なった手段そのものです。私の好きな映画に『ミッション』と言う映画があります。南米で1753年に勃発した「グァラニー戦争」という戦争をモチーフにした、イエズス会の活動の隆盛と壊滅を描いた名作です。その劇中のキリスト教が原住民に深く浸透している姿を彷彿とさせるのです。
畜産アマゾン達は、番号で管理されていて、物語の転機を招くのは69番の少女です。69番なので「ムク」と皆から呼ばれています。(一の桁が1だった場合、「い」と発音しているのかなど、その規則性には色々と疑問が湧きます。37番は「さな」でしょうが、「51番は「ごい」なのか。名前っぽくないな」などと鑑賞中にも少々考えました。)ムクは国府田聖那と言う2002年生まれの女優(と言うよりも子役の方が定義的にあっているかもしれませんが)が演じていますが、その快演は注目に値します。
当初、教えらえた教義を最もきちんと理解している様子に見えるムクは、まさに純真無垢なイメージで、「自分のために生きるのは、醜くて、おぞましいことです」と言い切っています。しかし、彼女と同じ出荷先に一足先に行った男子のただの残飯に変わり果てた姿や、尊い命を尊い別の命に替えたなどと言う神聖性などは全くなく、「男はまずかった。次は女にしよう」などと去っていく、如何にも俗物的な高齢男性の言動と、テーブルの皿の上に大量の残された肉片を見て、ムクの価値観は大きく揺さぶられ、そのショックのあまりリスアマゾンに変態して、その場にいる調理人などを全員惨殺するのでした。
施設の秩序を維持しようとする新型アマゾンライダーに瀕死の重傷を負わされたムクは、同じく新型アマゾンライダーに倒された主人公のアマゾンライダーに、自らを食べて復活を果たし、仲間の畜産アマゾンの命を救ってくれるよう願うのでした。やはり、一筋縄ではおさめない物語展開です。レギュラー出演陣が多数存在するため、出演者のクレジットとしては、かなり目立たないように感じますが、私にはこのムクが実質的に主役と言って良いぐらいの存在感に見えました。
そのレギュラー登場人物たちも、テレビシリーズの世界観を高い整合性で引き継いでいます。唯一4Cと言う組織の局長だけがアマゾン畜産計画が破綻して狂乱する最後を迎える際に、やたらにはっちゃけていて、少々イメージが違い過ぎ、私にとってはこの作品の唯一の汚点に見えますが、それ以外は、全く文句の付けどころがない作品に思えます。
新登場のムク以外にも、見所は多数あり、その中での一番の見所は、深紅のアマゾンライダー「仮面ライダーアマゾンアルファ」の獣じみた暴虐的戦闘シーンが大画面で堪能できたことだと思います。元々、食人シーンなど残虐なシーンが多々含まれることの多い本作ですし、アマゾンが受けた傷から噴き出る黒い体液の描写は非常に特徴的ですが、アルファの戦闘は自ら受けるダメージで体液が迸ってばかりの中で、相手を貫通したり切断したりする暴虐ぶりです。人間体の際の個性的なキャラと相俟って、多分、ファンの間でも一番人気ではないかと思います。(第一シリーズから「最強のヒモ」などとあだ名がついていたと言います。)
そのような見所がたくさんあり、DVDは絶対に入手しなくてはならないと思っています。発売が非常に愉しみです。
追記:
テレビシリーズの際からそうですが、「他の命を犠牲にして自分の命を永らえる構造」を執拗に考えさせる名作だと思います。高校時代に読み耽った安部公房の短編集の中の名作『人肉食用反対陳情団と紳士たち』を思い出しました。