『SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬』

 5月19日の封切から最初の月曜日の午後、新宿武蔵野館の14時40分の回を観て来ました。23区内ではたったの二館のみの上映で、もう一館は(アート系のテーマなので非常に頷けますが)その筋の映画の上映が多い恵比寿の館でした。新宿武蔵野館では1日に3回の上映で、封切第一週の出だしの状態でこの小さな規模感ということです。

 シアターに入ると、100人余り入るスペースに半分弱の人がいて、平日の真昼間にしては、それなりの客入りと見るべきかと思いました。客層は老若男女ぐちゃまぜで、超大雑把なまとめ方をすると、教養としてのアートを嗜む(比較的中高年カップル客の構成比が高い)リッチ層男女か、比較的若い層に中心値がある雑でラフな格好の中央線沿線サブカルチャー文化圏の住人のような感じの男女かのどちらかと言う風に見えました。勿論、それも、無理矢理括ってみたモデル化の結果であって、色々な要素で外れている人が多数混じっています。

 ロビーには、背面にSUKITAのロゴ、前面には代表作一点が配されたTシャツが売られていました。上映館数の少なさに比して、力の入った販売体制で、既に名の通った人々の企画であることや、そのコアなファンの存在が窺えるように思えました。現実に、この映画に登場するのは、よく言えばその折々のリーディングアイコン的な、悪く言えばクセのある感じの有名人ばかりです。手っ取り早く、MovieWalker のストーリー紹介欄の冒頭の文章「デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、マーク・ボラン、YMO、寺山修司、忌野清志郎ら世界的アーティストの代表的なポートレートやアルバムジャケットを数多く手掛けてきた写真家・鋤田正義」を引用するだけで、この映画が概ねどのようなドキュメントなのかが分かります。

 ここに名前が挙がっている以外にも、鋤田氏のマーク・ボランの代表作のポスターを見て、ギタリスト人生を決めた布袋寅泰も、それなりの尺で自分にとっての鋤田氏を語っていますし、糸井重里やリリー・フランキーを始めとして、(私は知らない)多くの現役写真家など多数の人物が鋤田評を述べています。劇中でも何度も各地で開催される彼の作品展の盛況ぶりが紹介され、その主催者がこれまた鋤田氏との人間関係や彼の作品の世界観を語ってばかりいます。勿論、彼本人の語りによる半世紀に及ぶ創作活動の考え方もあちこちで登場するのですが、それらはどちらかと言うと断片的で体系化された価値観として受け止められない内容です。どちらかと言うと鋤田評を語られる横で聞いていて、「うん。そういえばそうだね」的な肯定を重ねる感じが殆どで、一人語りはほぼ全部が九州の炭鉱の町にある実家の縁側に座っている場面のものばかりです。

 もともとフィルムや感光紙もバカ高かった時代に、親に買ってもらったカメラで自分の周囲の親や犬や近隣の人々を丁寧に撮っていたことに、彼の写真家人生の原点があります。劇中の何人かの鋤田氏をよく知る人々が口を揃えて言っているのように、鋤田氏の作品群には時系列が感じられません。彼の作品群を全部ぐちゃまぜにして、どのようなコンセプトで並べ替えてみても、皆今の鋤田氏の作品と思えるほどに、どれも何かが共通して彼の作品としての主張をしているモノになっています。彼が「一人語り」の場面で明言する数少ない彼の価値観の一つに、「自分の作品群の中から一点最優秀作を挙げろと言われたら…」の答えがありますが、それは筑豊の伝統踊りに出掛けようとして縁側にいる編み笠を被った母の写真です。面白いことに、リリー・フランキーも始め数人、鋤田氏の作品群の中で名作として、その写真を挙げる第三者も存在します。

 私がこの作品を観に行くことにした理由には幾つかあります。いつもの如く、メジャーなどこのマルチプレックスでもやっている映画を極力避けて、東京でしか観られないような映画を意識的増やすようにしていることがまず背景要因としてあります。そして、近年観た個人を描くドキュメンタリーにはあまりハズレがないことも一つの背景要因です。写真家で言えば、比較的最近逝去した福島菊次郎の『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』は老齢の報道カメラマンの執着や執念を見事に描いていますし、動画ではありますが映像クリエイターと言う観点で言えば『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』が間違いなく私の中のベスト・ドキュメンタリーです。また、雑誌『Vogue』の編集長のプロ意識を余すところなく描いた『ファッションが教えてくれること』も学びが多くありますし、一人の企業戦士の静謐な死までの道程を描いた『エンディングノート』も誰に勧めても違和感が湧かない秀作です。事前に何度か見たトレーラーの中で、業界有名人が讃えるプロカメラマン鋤田正義の物語に関心が湧いたことは大きいと思います。

 また、私自身が、或る程度の写真好きであることも一応理由の一つに挙げられます。特に高価な機材を各種取り揃えたアド・アマのようなことは一切ありませんし、今時のスマホで周囲のものを撮ってはネットにアップするような習慣も全くありません。私は物心付いた頃から、既に画像記憶ができませんでした。自分が見た映像を映像は二度と頭の中で再現されることがありません。見たものの画像の記録を写真に収めておくということには、根本的にニーズがありました。

 ですから、20歳のGWにTシャツにジャージ姿で貧乏旅行した京都や奈良も、まさに寝食を忘れて写真を撮っていました。地域の食べ物を堪能するのでもなく、ただただ写真を撮り回っていたように思います。同じ年の夏休みに行った当時のソビエト旅行でも、その数百枚の単位で写真を撮ってきました。29の時に4ヶ月出張でいた香港でも2、3週間に一度、香港のあちこちの街を徘徊する時間を作っては、写真を撮っていて、今でも残っている分だけで数百枚のスナップがあります。私がその場で見たものの記録としての撮影であるので、自分が写真に含まれていることは滅多にありませんし、出来事のエピソード記憶がしやすい周囲の人物の優先順位は低く、殆ど路地裏の風景やバスを待つ現地の人々の列とか、寺社や近代ビルの姿とか、訪れた地域全体の遠景とか、そう言った写真ばかりです。

 私は30過ぎになってから、写真用フィルムのマーケティング担当の職に就いたので、プロの写真家(複数人)にそれらの写真を見てもらったことが、「上手いとか下手とか、そういう物差しではなく、何かのコンセプトと言うか想いで貫かれたような作品群」と皆一様に言っていました。特に街の風景は、極力1枚のフレームの中にその風景の遠近や水平・垂直の広さが収まるように心がけられていると指摘されました。確かに、建物は必ず左右のフレーム線上に配置されて、全体が写真の中に収まっていません。はみ出て写っていない部分を写真から想像できるようにするためです。遠景の写真を撮るのでも、多くの場合、手前の木の枝や電柱の端などがフレーム外から侵入しています。遠近の深まりが明確になるようにしているのだと思います。改めて、プロの写真家のコメントを聞いて、自分の写真に(出来の良し悪しは別として)スタイルがあるということを認識しました。

 この風景の広がりをフレームに収める手法を私は勝手に気付いたら採用していましたが、パリの風景を描いた画家として有名なオギスの作品は、ほとんどがこの構図になっていることを後で知りました。今ではオギスの画集を二冊も持っていて、時々捲って見ています。この映画の中でも、鋤田氏は飛行機ではなく極力新幹線で遠距離移動をすると言っていて、その理由を、窓枠から見える風景が写真の構図のように見えて、色々な発見があるからと答えています。そこに新幹線の車中の楽しみを見出したことが私にはありませんが、感覚としては非常に共感できます。

 鋤田氏の人生観や職業観を第三者が語る時、そこには何か「強烈な愛情」と言った要素が頻出します。それは、写真と言う表現手法への愛情でもあります。彼は次々と新機種を試し、デジタル処理などの新手法を取り入れ、写真と言う表現自体への理解をどんどん深耕して行っていると言われています。銀塩写真のざらつきの良さを語る写真家も現実によくいますが、かなり早い段階から鋤田氏はデジタル写真を採用していたと映画監督の是枝裕和氏が語っています。

 もう一つの愛情は、言わずと分かる被写体への愛情です。YMOのメンバーを始めとする多くの人々が、鋤田氏の撮影作業に対して自分たちが全く違和感を持たなかったことについて言及しています。カメラを向けられると、それが有名人であったとしても、何某かの緊張感は湧くものですし、その結果、撮影結果の表情やポーズなどもどんどん不自然なものに変わってしまいます。鋤田氏は撮影以前から撮影場所に自分の存在を溶け込ませてしまっているとの評もあり、被写体とその世界に対する没入が撮影前にまずあることが窺えます。

 映画監督ジム・ジャームッシュは鋤田氏を高く評価し、映画『ミステリー・トレイン』の撮影と並行して鋤田氏に撮影現場を撮影することを依頼したと言います。その際、通常であれば、撮影現場の空気に融け込んだ鋤田氏が現スチと呼ばれる写真撮影を行なうと普通は考えますが、ジム・ジャームッシュは、一旦映画用に役者に演技をさせて完成テイクを取った後に、鋤田氏のスチール写真撮影用に再度テイクを撮ったのだそうです。この作品群は写真集としてまとめられていて、ジム・ジャームッシュ自身がこんな取り組みは後にも先にもないと言っています。

 その撮影の際に主演の永瀬正敏が既に親しくなっていた鋤田氏に取ったばかりの写真を見せて貰おうと近づくと、鋤田氏は慌てて(しかし、さりげなく)「あ、これは見なくて良いやつ」と何枚かの写真を隠したと言います。人物の動画を撮影してコマ送りすると分かりますが、ポートレートに残るような整ったものは何十分の一、何百分の一の確率でしか生まれません。撮影上で必ず不細工な表情や白目を剥いているような表情が発生しています。鋤田氏は主人公の俳優に自分のそのような表情を見せたくないと考える鋤田氏の細やかな配慮を永瀬正敏は賞賛しています。これも鋤田氏の被写体に対する愛情の一つの形でしょう。

 プロとして一つの分野に情熱を傾けて走り続ける姿を描いたという意味では、先述の『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』にも共通する部分がありますが、愛情を持って被写体の人物の美しさや本質を引き出すという意味では、多くの部分で『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』に共通点が見いだせます。学びの多い作品だと思います。DVDは買いです。