『ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命』

 GWの最終日の日曜日、封切から約1週間のタイミングで、かなり久々に足を運ぶ渋谷のラブホテル街至近のミニシアターで観ることにしました。常に人が溢れる渋谷のこと、深夜にも上映する映画館でもないので、ギリギリGWの終わりのタイミングで空席があることを祈るような感じで訪れてみると、1日4回の上映の中の3回目、15時半から回は、まだ3割も席が埋まっていませんでした。

 シアターに入ると、その後、観客はどんどん増えたようで、ざっと数えて40人近くはいたように思います。性別構成はほぼ半々。やや女性が多かったかもしれません。年齢は、男性が30代後半から40代前半ぐらいに中心値があってばらついているのに対して、女性は年齢幅は男性と同じぐらいで中心値がやや若い方にシフトしているように感じました。カップル客はほんの数組で、単独客が殆どだったように思います。サービス業従事者も多い昨今、日曜の午後とは言え、勤務帰りと言う人はいるかもしれませんが、女性の方は大学生なのか何なのかよく分からない感じの風体が多かったように記憶しています。

 この映画を私が観に行くことにした理由は、いつもの如く、東京だからこそ観られるようなマイナーな映画を見ようということが一番大きいように思います。主人公ジェイン・ジェイコブズが居なければ、今の魅力ある都市ニューヨークはなかったと映画評やらチラシやらに書かれていて、主婦であり文筆家である彼女がそれをどうやって成し遂げたのかと言うことに少々関心を持てました。私は米国のオレゴン州の片田舎に留学していたり、サラリーマンになってから、お客企業の役員を接待旅行でアトランタ、ラス・ベガス、オーランドを回るツアーに引率したりしたことはありますが、東海岸に行ったことはありません。当然、ニューヨークも行ったことがなく、ウッディ・アレンや数々の監督により数限りない作品の中に描かれた、街の生活感を知るだけです。

 原題の気が利いているのも、関心を持った理由だったかもしれません。原題は直訳すると『市民ジェイン』です。勿論、往年の名作をもじったものと思われます。「おお、なるほど」とか頷かされましたが、実際に観てみると、別に何等類似点はなく、がっかりさせられました。日本人を見れば「カミカゼ」、日本語の歌を聴けば「スキヤキ」など浅学極まりない中で思いつく言葉を意味的繋がりを全く考慮せず口にする短絡的思考が、「エイ」の二重母音を含む単音節の名前の映画の主人公とくると、『市民ケーン』しか連想できないということなのかなと思われます。どうも、幼稚です。

 映画は、『ジェイコブズ対モーゼス ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』と言う書籍をもとに、第二次世界大戦前後より30年以上、ニューヨーク州・市の住宅造成・高速道路工事に大きな権限があったロバート・モーゼスと主人公が如何に都市計画を巡って争ったかという内容です。特に、主人公が有名なグリニッジ・ヴィレッジに住んでいた当時の、そこを掠めるように建設される計画が発表されたローワーマンハッタン高速道路の、計画中止に至るプロセスが山場となっています。主人公は劇中で逮捕歴まで持つ市民活動家として描かれています。その前の段階で、彼女は『アメリカ大都市の死と生』と言う彼女を一作で有名にした書籍を発表しています。それは、自動車移動が生活の一部となったアメリカの大都市が、その移動を前提とした住宅区域や商業区域などの各種セクターに分断された状態になっていることや、その中でも住宅区域までが高層団地群となっていて人間疎外の状況を生み出していることなどに疑問を持ち、当時、流行になっていたスタイリッシュで宇宙都市的な街づくりを全面的に批判するものでした。

 彼女の言う高速道路の(たとえ高架されていて道路下の往来が確保されていたとしても)街の分断感は、私も色々な店舗の商圏分析などの際に痛感させられます。『ぐにゃり東京―アンダークラスの漂流地図』という書籍に描かれる王子の高速道路の圧迫感や不気味さは、私もそれを何度か見たことがあり、心底共感できます。そして、近代的な高層型団地がブロック化されて立ち並んでいる、多摩センターや光が丘の街並みを見ると、そこに住む人がなぜこの街のこの生活を選んだのかについての想像半分妄想半分に耽ってしまいます。ウルトラセブンの何話目かに登場する宇宙人の基地となった高層団地群のように見えてなりません。

 20歳で上京するまで、北海道の田舎町二つに住んでいて、私は商店街というものの賑わいや猥雑さに特段何かを思うということがありませんでした。大体にして、北海道にはそのタイプの商店街が非常に希少です。東京に住むようになり、仙川駅前商店街や祖師谷大蔵駅前商店街などの面白さが、何か体に染み込むように分かるようになり、いつか死ぬ瞬間には、こう言った商店街から1丁入った古アパートの2階か3階の部屋が良いなぁとか思っていた時期も長くあります。ですので、私はこの主人公の言う「高層住宅がコミュニティを破壊している」と言う主張には、直感的に同意できますし、それが少なくとも映画館に来て(観る前に買った)パンフレットを読んでみた際の最大の期待ポイントでした。

 そして、その問題に考え至ると、一つの謎は、なぜそうであるのかと言うことです。なぜ、(劇中でも、ニューヨークのハーレム、スラムと呼ばれる地域の映像と南アジアのどこかであろう来街者でごった返すバラック風のマーケットなどが描かれていますが)洋の東西を問わず、人々はそう言った街に魅力を感じるのかと言う問いの答えを知りたくなります。ジェイン・ジェイコブズも、彼女を有名にした処女作を発表する前に、幾つかの当時の理想と思われた居住地区開発を取材し、その後を期待を持って見ていたら、皆、スラム化したと言った顛末を“学ぶ”プロセスがあったようです。先述の謎は彼女をも捉えた謎であったということになります。

 映画上映後にチケット・カウンタもグッズ売場も全部一緒になったカウンタの上を見てみると、ジェイン・ジェイコブズに纏わる数冊の書籍があり、手に取って見ると、彼女は、その謎の自分なりの答えの用意に成功していることが分かりました。読み込んでいくと、パンフレットにさえ、その簡単なまとめが書かれています。

●街路は幅が狭く曲がっていて、各ブロックが小さいこと。
●再開発をしても、古い建物をできるだけ残すこと。
(古い建物は家賃が安く、低収入者の居住を促進し、多様性を引き上げる)
●各地区には必ず二つ以上の働きを持たせること。
(多様な人々が多様な目的で、様々な時間にその地区を訪れるようになる)
●各地区の人口密度が十分に高いこと。

などとあります。書籍を見ても、どのようなパラメータがどのような基準数値であればよいのかなどについては言及されていませんので、このまとめの彼女の書籍中の該当部分でさえ、かなり主観的と言えば主観的です。それでも、一応の目安にはなっており、少なくとも…、

「多様な人々が密集して互いの存在を意識し合いながら多様な目的の多様な行動を共有する場に、各地区がなっているようにする…」

と言ったような原則論は浮かび上がっているようには思えます。

 これは、単純な都市の設計と言う論点に留まらず、たとえば、現在日本でよく話題になる限界集落の問題などの一つの処方箋のカギになる考え方のように見えますし、商店街の再興など、語られてもなかなか実現しない各地の取り組みの大きなヒントにもなっています。よく言われる「コミュニティ型の社会」や「コミュニティ型の生活」の議論のベースにも核の部分となりえるように感じられます。それぐらいに、社会生活のあちこちに顔を出すような重要な考え方を、意識的に文章に初めてまとめたのが彼女であると考えられるのです。

 ところが、映画館ではそのような彼女の業績を再考したり検証したりする書籍群がカウンタに並び、パンフにまでそのようなことが書かれているにも拘らず、劇中では、先述の四要素でさえ殆ど語られることがありません。1度(だったと思いますが)路地が短く、曲がっていて見通しが悪いこと…のような話が登場するだけです。あとは、後世の建築家や都市計画立案者が登場して、「自分は彼女の考え方を現代活かす仕事をしている」などと語る場面もあります。四要素のような考え方の存在は示唆されていますが、具体的にそれに言及することはありません。

 では、映画は彼女の何を描いているのか、と言うことになります。単なる市民活動家として描いているのです。ロバート・モーゼスが次々と繰り出す都市改造計画の主なものに市民を巻き込んで反対し、彼の独裁的な都市計画推進を押し留めたという評価ばかりが、延々と描かれます。そこに、ジェイン・ジェイコブズの思想や思考は殆ど登場しません。

 またここでも、おなじみの西欧的な「権力はすぐワル乗りするから、市民が活動して自分たちを守らねばならない」と言った、巨悪と戦う市民の勧善懲悪物語が展開しているだけなのです。本来、ジェイン・ジェイコブズの狙ったことは、巨悪である公権力と戦うことではありません。彼女の考える望ましい街づくりを実現することです。たまさかロバート・モーゼスと言う権力に対する執着がハンパないおっさんが登場したので、その構図になってしまっただけでしかありません。仮にロバート・モーゼスがジェイン・ジェイコブズが指摘する遥か前から、先述の四要素のようなことを考えて街の設計をしたらどうなっていたのでしょうか。私には、それでも、公権力のやることは気に食わないと市民運動が立ち上がり、今度は、ジェイン・ジェイコブズの思考抜きで、活動は盛り上がらないままに終わるように思えます。まるで、「パヨク」と揶揄される、ただただ政府のやることにいちゃもんをつけるだけで、具体的で実効性ある対案を全く用意できない日本の一部の人々の活動のようになっていたでしょう。

 劇中で描かれるジェイン・ジェイコブズの姿は、かなりパヨク的です。なぜなら、彼女の優れた直感的洞察による街づくりの考え方が殆ど描かれることがないからです。その点で、この映画は、羊頭狗肉状態との評価が妥当だと思われます。私にとっては、中小企業診断士の仕事の一角に登場する商店街診断や商圏分析の一つのカギとなる考え方が、ジェイン・ジェイコブズによって形成されている事実が、それなりの収穫でした。しかし、その内容に言及してない映画を見直す必要は感じません。DVDは不要です。帰りがけ、大ボリュームで読むのが一苦労になりそうな、名著『アメリカ大都市の死と生』の購入は、いつでも買えそうなので見送りました。35人もの異なる分野の筆者が各々の考えるジェイン・ジェイコブズを書いた『ジェイン・ジェイコブズの世界』と言う本の方が、全体を貫いて精読する必要がなく、(おまけに『別冊 環』となっていて、後日の入手が困難になりそうな気配だったので、)代わりにこの場で購入することとしました。取り敢えず、拾い読みするだけでも、相応の知見が一定の形で見つかりそうな本です。