4月後半の土曜日からの封切で、調べてみると、全国でたった1館の上映でした。場所は下北沢。おまけに、1日1回の上映で限定1週間です。さらに、週に一度休館日があるので、実質、全国でもたった6回しか上映されない、上映体制でした。下北沢南口の駅前商店街の外れにある映画館は雑居ビルの二階の一角だけで、渋谷や新宿のミニシアターに比べてもさらにこじんまりした場所でした。(東中野のミニシアターもかなりの手狭さですが、ここはさらにそれを上回って(下回って?)います。)
後でよくよくチラシを見ると、1ヶ月ほど前から、東京以外の地域も含め各所で転々と上映を重ねて来ているようで、多くの映画サイトにある4月後半の封切日も今回の下北沢だけの話を指しているようです。上映後に予定もなかったのに主演女優のみやび氏が単独で急遽開くことになったらしいトークショーでは、続いて上映予定らしい名古屋に監督が行っていて、トークショーに来られないという話が為されていました。
いずれにせよ、非常にマイナーな映画と言うべきです。自分のスケジュールの中でも、週明けの月曜日の晩に観に行くしかスケジュールが合わない状態で、このチャンスに気付くのが遅れたら、鑑賞機会がそのまま失われる可能性大でした。
この映画を観に行こうと決めた理由は、端的に最近大流行りの女の復讐劇であることです。ここ最近、ほぼ同時に上映されている中だけでも、『私は絶対許さない』、『女は二度決断する』、『ミスミソウ』など簡単に幾つも見つかります。これほど、類似テーマの作品が並行している状態は珍しいのではないかと思えます。特に、『ミスミソウ』と本作品はこれまた大流行のイジメが原因の復讐劇です。比較的最近、井上真央の最近の主演作を観たくてBOX借りした『明日の約束』もイジメ自殺がテーマで級友による復讐劇が中盤で展開されていました。映画などの映像作品が時代を映す鏡であるのは本当だなと思い至ります。
取り敢えず、4作ある「女の復讐劇」のうち、マイナーさで1作を選ぶことにしました。知られていない映画の中に何か差別化された、そして、有名作では色々な配慮から描けない何かが含まれていることを期待した結果です。後にDVD化されにくいことへの対応でもありますが、クラウド・ファンディングの真っ最中と言う監督の次回作の宣伝に大きく時間を割いたトークショー情報に拠れば、5月上旬にはDVD化が決定しているとのことでした。
小さな劇場の小さなシアターには50弱しか座席がありませんでしたが、時間になると、20人弱は観客が居ました。会場に15分前に現れた私が、到着時に廊下としか言えないようなロビーを見渡すと、先着の客はいませんでしたが、整理番号は9番でした。(正確には6番だったのかもしれませんが、手書きの番号がよく読み取れませんでした。入場時にこの曖昧さは特に問題になりませんでした。)
そして、開場までの時間をチラシ・ラックなどを見ながら潰していると、一人細身の若い女性が現れ、「今日はお越しいただき、どうも…」などと、チラホラと現れ始めた観客に挨拶をしていました。零細企業がホスピタリティを強みにしているのと同じ原理の、零細シアターのスタッフによるホスピタリティ策かと思っていたら、後にトークショーを行なう主演女優のみやび氏でした。
GW直前の月曜日の夜8時半。客層は男女比半々と言う所で、男性はなぜかやたらと高齢で、私が平均よりも若いように思えました。女性の方はほんの数人高齢と見えましたが、二人連れ二組も含めそのほとんどは20代後半から30代前半に見えました。このような客層の観客はどのようにしてこの映画を発見し、なぜこの映画を見に来ようと決めたのか非常に関心が湧きましたが、その疑問を解くことは全くできないままに今に至っています。
映画の舞台はクリニックというのは少々大き過ぎ、総合病院と言う風情の組織でもなく、比較的大規模の単科病院と言う感じの組織です。院長がオーナーで、全然知性の欠片も感じさせない粗暴で横暴な男です。イジメをされるとイジメをしたくなるという典型的心情に絆された人間ばかりで事務部門は満たされており、そこに医科系か化学系の専攻の学士資格を得て新卒で入社したのが主人公の女性です。入社して2年ぐらいを経て、周囲からの理不尽な扱いや周囲の全く合理性を欠く組織運営に疲れ、病み、ブチ切れて関係者全員の毒殺を図るという話です。
パンフレットが存在しないこの映画で、主人公の女性は24歳とチラシにも明言されていますが、主役のみやび女史は33歳のようで、作品中ではかなり若作りで違和感があります。しかしながら、その違和感は作品評価にほとんど影響がありません。なぜなら、この違和感が消し飛ぶほどの弩級の違和感が波状的に見る者に押し付けられていく作品だからです。
まず驚かされるのは、「天野友二朗」と言う名前の連発です。オープニングロール、エンドロール共に、監督、脚本から始まり、音響や小道具に至るまで、何度となく同じ名前が登場します。主人公の女性のカレシ(後に一時元カレ)で、高学歴フリーターとなった変な男もこの人物が演じています。殆ど何でも自分で済ませたということなのだと思いますが、オープニングロールとエンドロールの両方を合わせると優に30回は表示されているように思えます。特にオープニングの方は、書道で提出した作品を直すために用いる朱色の墨で書きなぐったような独特の字体ですべての文字が表示されるので、余計、何か下手な書道作品を延々見続けさせられるようで、神経に来ます。昭和の映画作品の何かへのオマージュなのかもしれませんが、少なくとも朱文字にする必要はなかったように思えます。
脚本のせいなのか、役者が何か慣れていない人達であるせいなのか、セリフも棒読み感満載で、素人の芝居を観ているように感じられます。これも、洋画で言うとエド・ウッドの一連の作品ぐらいに強烈なインパクトを持った棒読み感です。
イジメの様子も、非常にクリシェで驚かされます。「●●(苗字の呼び捨て)、今何時だと思ってんだよ。院長のスケジュールを知ってんのか。すみませんじゃないよ。本当にすみませんと思っているのか…」などなど、絵にかいたような因縁の付け方で、到底、主人公が追い詰められていくようなものとは思えません。「あの。子供じみたことを言うのはやめた方がいいと思います」と冷静に反論すれば事足りそうなぐらいに、アホらしく、馬鹿げた発言を繰り返すのです。私のクライアントの中小零細企業も質の高い人材を集めることが夢のまた夢と言う状況であることが殆どですが、ここまでバカな人間を集めるには逆方向にかなり意図的努力を払う必要があることでしょう。
このバカで満たされた組織を劇中では「馬鹿の工場」と呼んでいますが、これもよく分からない表現です。「バカを創り上げる工場のベルトコンベアに乗ってしまって、そう簡単に降りることはできない」と主人公の女性は言っていますが、創り上げる前からかなり極端なバカでなくては、このような状態にはならないように思います。そして、勿論、簡単に降りることができない理由も全く不明です。劇中では主人公の女性が人材紹介のコンサルタントの面接を受ける場面がありますが、それが不発に終わっている様子から、転職が難しいから簡単に降りられないということを言っているのかもしれません。
けれども、私も人材紹介を5年以上現場で行ない、その後もクライアントに紹介業や派遣業の企業を何社も持って来ましたが、劇中で言われるような転職動機を何度もバカのように聞き返すような場面は一度も(自分でもしませんし)見聞きしたことがありません。一応、主人公の女性は比較的優秀なリケジョだったようですから、人材紹介に当たらなくてもハロワか転職フェアでもかなり簡単に今時転職できそうなものです。
登場人物のほぼ総てがこのような感じの現実には考えられないような、変な言動を繰り返します。全く社会がどのようなことになっているのかを知らない人間が、「病院の事務所のイジメは斯くあるのであろう」、「病院の横暴な院長は斯くあるのであろう」、「人材紹介コンサルタントは斯くあるのであろう」、「高学歴で博士論文に失敗した男はバイト先で斯くあしらわれるであろう」などと妄想して作り上げたような、不自然な人物と状況の連続なのです。
勿論、『闇金ウシジマ君』などを見ても、おかしな人間はバンバン登場しますし、そのような人間が現実に存在することも私は知っています。しかし、おかしな人間にはおかしな言動をする必然性を感じさせる先天的、後天的な背景条件や環境があり、それらが一貫性を持って表現されていなくてはならないように思えます。この作品には、それが全く見当たらず、唐突に誰もがおかしな言動を棒読み台詞で展開するのです。
唐突と言えば、復讐代行業者も唐突に登場しますし、その業務内容も復讐の代行ではなく、どちらかというと支援サービスで、業態名と実態が乖離していますが、そのようなことが全く気にされているようには見えません。多分、これまた、「復讐代行屋は斯くあるのだろう」という妄想の産物と思えます。大体にして、これまた唐突に主人公の女性も元カレも各々に科学実験装置を大量に備えて、何の必要があるのか分からないガスマスクをして白衣を着て化学物質をビーカーで混合したりする場面が何度も登場します。それらはどうも自宅のようです。そんな科学実験を重ねる資力・労力があるなら、むしろ、復讐代行屋など頼まず、周到に対象者を毒殺できそうなものです。この実験のイメージも、まさに素人が「毒物の開発の科学実験は斯くあるのだろう」と言う貧困で稚拙なイメージそのもののように見えます。
科学実験が唐突に何度も登場して、主な登場人物二人が自宅の一室でそれにハマっている様を見ると、どうも普通のアパートの一室で核開発をしていた教師の犯行を描く『太陽を盗んだ男』を思い出します。あの映画の非現実さをさらに上回る妄想感度合なのです。
映画のチラシには、「事実に基づく物語」と書かれていますが、どこがどう事実なのか全く想像がつきません。人物像にも場面にも、素人考えの表層的な記号をベタベタに貼り付けて見せてみただけの子供染みた学芸会がダラダラと続けられるだけなのです。どんな事実に基づいたのかさっぱり分かりませんが、ベースとなった事件をもっときちんとトレースしてくれるだけでも、この驚愕の陳腐さを脱することができたのではないかと思えてなりません。実際の有名犯罪に或る程度基づく比較的低予算の秀作では、私が大好きになった『ひかりをあててしぼる』もあります。この二作を取り敢えず頭に浮かべるだけで彼我の乖離の大きさが分かるというものです。
事実関係でも、かなりおかしなことが連発します。雇う必要性が全く疑問な復讐代行業者のあからさまな殺人活動のありようにも、「いや、今時、ヒーロー戦隊モノでも、こんな現実社会無視な設定はないでしょ」と呆れさせられます。主人公の女性が犯行を思いつくプロセスも、KJ法か何かをベースにしているのだと思いますが、無数の付箋に各種のキーワードを書きつけては壁一面に貼り俯瞰したりしています。こんな意味のない成功確率の低く、何が目的だったのかもよく分からない集団殺害を行なうのに、なぜこのような高次元な思考が必要となるのかも全くよく分かりません。KJ法のアプリもあって、PC上でキーワードの整理や俯瞰はかなり簡単に行なえることを、この映画の主人公に本当に教えてあげたくて仕方なくなりました。
さらに主人公の女性が自分の思考を纏め上げるのに、別のツールも存在しています。キーワードを書き溜めた一冊のノートです。そのA5サイズぐらいの大学ノートがまたお笑い草です。見開き全部を使って、「水曜日の午後は、下の階は早く帰る」などと太いマジックで書きなぐってあるだけなのです。「一応高等教育を受けていて、博士号取得を目指す男とベタに付き合っていたのだったら、今時、マインドマップぐらい使おうよ」と、普通誰しも思うでしょう。
本当に事実に基づく毒殺劇であるのだったら、(それでもかなりファンタジー色を強調されてはいましたが)『タリウム少女の毒殺日記』の方が、数段から十数段上の作品だったと思います。
主人公の女性が妙に目立つ帽子を被ってマスクで顔を隠して夜のトンネル道で元カレを襲撃し、何故か股間に金槌で一撃を喰らわせるだけで去って行きます。死体を寸断され溶解された他の被害者とはなぜ扱いが大きく異なるのかもよく分かりません。さらに、分からないのは、この一撃で、元カレの男は全く不能になるのです。局部の神経でも切断されたのかもしれません。化学だの生物学だのの世界で博士論文を目指したはずの男なのに、病院に行って治療するようなこともなく、ただ、射精ができなくなったことへ苛立ちを蓄積し、大量のED薬を飲んでは、ペニスを扱き、出血が甚だしいぐらいになってしまっています。物理的な障害が起きて勃起しなくなったものをED薬で治せると思う方がおかしいですし、仮にそれを試すのだとしても、数十錠の単位で飲むなど全く非現実的です。普通心臓の方がイカレてしまうだろうと思われます。
ここまで不能状態が極まっているはずなのに、なぜか、エンディング少々前で彼女と元カレは言葉を交わすこともなく復縁し、セックスを完遂しています。この男のEDの原因は何で、出血はどうしてしていて、なぜ数十錠のED薬を飲んでも全く平気でいられて、なぜ突如普通にセックスできるようになったのか。合理的な説明が全く見つからないのです。
さらに、この映画は描写の時系列がぐちゃぐちゃです。メモでも取りながら見直せば、或る程度整理して理解ができるのかもしれませんが、突然回想のような場面に移行して見たり、そこから前触れなく現実に戻ってというような、よく分からない乱れた時系列になっています。『マルホランド・ドライブ』など、幻想世界が交錯して完全理解に私が至れない作品は、幾つかありますし、『インセプション』のように意識の階層が幾重に重ねられて複雑になっている話もあります。しかし、この作品は、そのような話でもなく、単純に場面間の前後関係がよく分からないのです。おまけに、今は冷え切ってしまっている主人公とカレシの関係も、頻繁に回想で濡れ場が登場して、話を混乱させます。おまけに彼女が回想しても、カレシが回想しても同じアングルの同一の回想シーンなので、余計分かりにくいのです。
20代前半で初監督作品の事実上の自主制作を敢行した天野友二朗なる人物に、命でも救われたことがある人ばかりが観客なのか、たとえ何をどのようにしていようと、主演女優みやび嬢が好きで好きでたまらないような熱狂的ファンが観客であるのか。そのようにでも仮定しなければどうしても説明がつかないほどに、帰り際の観客のぼそぼそ聞こえる感想に落胆は無かったようでした。
みやび嬢は私の好きなタヌキ顔系で、スクリーン上で見ると、(テレビでもよくあることですが、実物よりも太って見えるので)横長丸顔がボブカットにより映えて見えました。彼女の私的PVとして見れば、十分価値がある作品ですが、当日現地で発売していた彼女のミニ写真集を購入したので、DVDは全く不要です。なぜこの作品のDVDが来月には発売され、私が定期購読している『DVD&動画配信でーた』にも告知が載っている状態であるほどに、プレゼンスが認められているのかが微塵も理解できません。
ここ最近、あまり見ないハズシようの作品でした。製作者は意味深なテーマを扱ってみたつもりなのだろうと思いますし、そのように、終了後のトークショーでみやび女史も語っていましたし、さらに、彼女が読み上げた監督からのメッセージにも、そのような主旨が含まれていました。現実には、A級の問題作を目指して、B級の枠を掠りもせずに奈落に堕ちてしまったような作品だと思います。
追記:
「幾つになっても表現の夢を諦めないで映画を撮ろうとすることが大事…」といった主張を監督はみやび氏にトークショーで代読させていました。確かに夢を見ることは勝手にどんどんやる自由があって良いでしょうが、せめてどの程度イカれた夢であるのかは、判断する材料を事前にカネを払う人に提供していただきたいものだと思います。
追記2:
上映終了後、みやび氏を捕まえて延々一方的に話し込んでいる中高年女性が居ました。「私も職場で受けたイジメが、ホントにこんな感じだった」との熱弁でした。凄いこともあるものです。職場の全員が自分に向かって暴言を棒読みで言う環境は非常にレアだと言えるでしょう。「本当に耐えられなかった」と彼女は力説していましたが、もし、そうなら、その状況をスマホか何かでこそっと録音して、ユニオンにでも、労基にでも、今時やたらにいると聞くパヨク系弁護士にでも持ち込めば、速攻現金が得られたのではないかと思えます。もしかすると、「本当に(色々な意味で笑いが止まらなくて)耐えられなかった」と彼女は話していたのかもしれません。