3月1日の封切から1ヵ月半経った土曜日に、錦糸町まで足を延ばし観ることになりました。マーベルのものの寿命は長いのかと思っていたら、前の週の段階で突如上映館が激減し、23区内でも5館ほどしかやっていない状態になりました。新宿から乗り換えもなく最も簡単に行けるのが錦糸町だったので、仕方なく錦糸町駅の北側の一度も行ったことのない映画館に足を運ぶこととなったのです。上映回数は1日たったの1回です。そこまで回数が少ないなら、さぞスカスカなのであろうと、夜7時前の回の15分前に、なぜか空き店舗スペースがやたらに存在するショッピングセンター風の施設の中の映画館に着いて券を購入しようとしたら、なんと満席でした。この需給バランスの悪さに非常に腹が立ちましたが、致し方ないので、翌日もたった一回しかない20時50分の回の席をその場で購入することとしました。
偶然、秋葉原にも用があり、そのついでに行った形だったものの、雨の中錦糸町くんだりまで行き、さらに、(駅の南側の映画館とは異なり)駅から数分とは言え歩かされ、辿り着いてみたら、この需要無視の態度です。頭がイカレているとしか思えない上映体制だと確信します。おまけにこの時点でパンフも売り切れていました。尋ねると、その週の木曜日までは上映が決まっていて、その先は分からないとのことでした。それも全部1日1回とのことです。満席で諦める客を続出させておいて、この体制です。不治の病はあるものだとつくづく痛感させられます。
何年やっているのか分かりませんが、需給バランスが全く読めない無能は翌日行ってみるときちんと証明されていて、夜の11時過ぎに終わる回でさえ満席でした。全く馬鹿げています。観客は多数い過ぎて趨勢がよく分かりませんが、概ね100人余りの全体層で何となく若い層が多かったようには思えます。男女構成は6:4ぐらいかと思います。
トレーラーの上映に混じって、「錦糸町の映画観が一つになります」と言う告知も行われていて、先述のように、駅の南北に一つずつある映画館が何か改装のようなことを各々で行なう予定で、その結果一つになるとのことでした。一つになるのなら、なぜ物理的に離れている二つの館が改装しなくてはならないのか全くイミフです。需給バランスが読めないだけではなく、日本語も満足に使えない可能性さえ窺われました。
この映画を観ようと思った動機は、一応、マーベル・シネマティック・ユニバースの中で待機中の大作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』につながる部分が大きい可能性を感じたからです。ブラックパンサーは『アベンジャーズ』シリーズの前作にもチラリと登場していますし、次作の方は、マーベル系のヒーローを総動員した戦いの様相ですので、ブラックパンサーも招集されることはほぼ間違いなさそうです。とすれば、つながりを見ておくのも悪くないかなと思いました。
マーベル作品のここ最近のストーリー展開の単調さと見所の貧困にはかなり飽きてきましたので、ヒーロー総動員の総集編のような次作を最後にマーベルものは観なくても良いのではないかと考えていますので、そこまでで一旦自分の知識を完結させるためにも、一応ツナギは理解しておこうと考えたということです。マーベルもので、私の一番好きなキャラはミズ・マーベルですが、それより余程知名度が低いと私には思える『ドクター・ストレンジ』や『アントマン』、さらに、全く聞いたことさえなかった『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でさえ2作も登場しているのに、映画化の噂一つないことには、本当にゲンナリ来ます。『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を最後に、ミズ・マーベルが登場しない限り、わざわざ劇場で見る価値はないかなと思っています。
もう一つ、見てみようと思った小さな理由は、主人公のヒーローが黒人であることです。黒人ヒーローは流石1960年代まで激烈であからさまな人種差別をしていた国のコミックネタだけあって、非常に限られています。それはDCコミック側でも同じで、先日観た『ジャスティス・リーグ』でもサイボーグとか呼ばれている変な奴は黒人ですが、多分、登場するヒーローの中で最も目立たたない立場に置かれています。そんな中での黒人ヒーローの扱いに少々関心が湧いたのです。
観てみると、全体にほぼ見るべきものがない作品でした。まず、ストーリー展開は、新たなヒーロー単体作品の第一作の常として、そのヒーローの身内ネタばかりになります。マーベルで言うと、DVDで観た『アントマン』は十分本人の世界観を超える事件性がある出来事が描かれていましたが、『マイティ・ソー』はただのお家騒動でしたし、『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』でさえ、何か精彩を欠くストーリーです。次作の『…ウィンター・ソルジャー』でさえ、ブラック・ウィドーが出ていたので楽しめましたが、構図はただの仲間割れです。外見的に全く魅力を感じなかったので、『インクレディブル・ハルク』は見てもいません。『スパイダーマン:ホームカミング』はDVDで見てみたら、それなりには楽しめましたが、既に『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でそれなりに露出した後なので初作とは言えないように思えますし、サム・ライミのスパイダーマンが最高と感じる私には、あくまでも「それなり」の評価でしかありません。
本作も『マイティ・ソー』同様に、お家騒動そのまんまです。王家出身のヒーローはどうしても権力の座を巡る内紛劇を制さなければ、他の敵を相手に戦ってはいけないルールでもあるのでしょう。それも比較的こじんまりしたアフリカのどこかの部族争いの様相に堕してしまっています。
その部族間闘争の描写も何やら黒人文化をコケにしている感じが満載です。もちろん、過去の作品に時々描かれてきたように、そして、MovieWalkerでも「アフリカの秘境にある超文明国家ワカンダは、すべてを破壊してしまうほどのパワーを秘めた希少鉱石・ヴィブラニウムの産出地だった。歴代のワカンダの王はこの鉱石が悪の手に渡らないよう国の秘密を守り、一方でヴィブラニウムを研究し、最先端のテクノロジーを生み出しながら、世界中にスパイを放つことで社会情勢を探り、ワカンダを世界から守っていた」と書かれているように、登場するアフリカの小国は、実はとんでもないハイテク立国です。
それでも、そのハイテクの生活をしつつ、アフリカのかなり未開の部族の習俗やら儀式をステレオタイプ的に描いたような生活もしています。他の作品では、このような二つの局面(表向きの様相と実態)は、たとえば、SFテレビ番組の傑作『謎の円盤UFO』で表向き地球防衛組織の人々は映画制作会社を装っていて、基地に入ると突如として地球防衛組織そのものの感じに人間関係から組織運営形態までそっくり入れ替わるケースが多いものと思います。ところが、この『ブラックパンサー』では、この二つが渾然一体となっています。乾いた大地で放牧を行なう国民の頭上をどう見ても重力を制御して飛行している様子の乗り物が飛び交っているのです。
このアンバランス感は、劇中に登場するアフリカの民族的習俗の演出を陳腐なものに見せる結果になっていて、王位継承の儀式で見ている者が全員そろって木の杖で大地を衝き音を立てて、儀式の進行役の呼びかけに応じているシーンなどは、ふざけている様にさえ見えます。まあ、ぎりぎり『ジョー、満月の島へ行く』よりはマシと言ったぐらいでしょうか。
ハリウッド映画に登場する日本の習俗は、大抵イカレていて、最近ですと『ウルヴァリン:SAMURAI』などに、知能が疑われるようなアホまるだしの日本のシーンが執拗に登場します。多分、この作品の中に登場するワカンダも、アフリカの人々から見ると、そのような感じに見えるのではないかと想像します。
おまけに、祭祀役のフォレスト・ウィテカーの英語はわざとらしく訛っていること甚だしく、「ブラックパンサー」でさえ、「ブレク・ピアンサ」のようなおかしな発音になっています。多分、北海道の人間が聞くと、あり得ないように感じる『北の国から』の北海道弁ぐらいに、現実から乖離して滑稽で非現実的に誇張されているように描かれているのではないかと思えます。
(現実問題として、留学中に、私は南アジアやアフリカ出身の学生の英語の訛りが酷くほとんど聞き取れませんでした。その意味では誇張ではないのかもしれませんが、それにしても、フォレスト・ウィテカー一人だけが、ぐちゃぐちゃな英語発音をしていることには違和感が湧きます。)
大体にして、ワカンダ王国の神話に登場するのが神獣らしき黒豹です。なぜ祭祀を含め、王族の人々はそれを英語で「ブラックパンサー」と名付けているのか、全く分かりません。神話の時代から、英語文化に侵略されていたとしか説明がつきません。
本作の物語を経て、正式に王位を継承した新王は、これまた如何にも米国的な幼稚な判断を幾つも重ねていて、これも米国的単純バカ的バイアスだと思えます。たとえば、新王は死後の世界に行って自分の父も含む歴代の王と対峙します。そして、なんと彼らの価値判断を否定し、決別して現世に戻ってくるのです。古いものは何でも悪く、過去を振り返ることは女々しく無意味なことで、新しいものを追い求めようとする単細胞的米国的価値観の発露でしょう。そこで、伝統を守り伝えることの意義が語り合われ確認し合われた様子は全くありません。
さらに新王は、国連か何かの演説の場で、全世界に向かって自分たちのハイテクの情報や技術を供与すると宣言してしまいます。こんな先進技術が国際的なテロ組織に渡ってしまうリスクを考えたら、米露中辺りが間違いなく戦争を仕掛けてくることでしょう。若しくは、CIA的な政権転覆のアプローチかもしれません。いずれにせよ、核兵器でさえ扱いかねている世界各国の現実を考え合わせると、情報は開示されるべきで、貧しい人々は救われるべき…と単純に大味で考えてしまう典型的米国的価値観を、なぜかアフリカの現実の中に生きる新王が持ち合わせているとしか思えませんし、今時、かなりナイーブな奴と思えます。
特にお家騒動以外に大きな波乱がある訳でもなく、(特撮はそれなりには上手くできていますが、マーベルの他作品を凌駕するものではありません。)映像的に何か優れたものがある訳でもなく、有名俳優が登場する訳でもない。非常に長所が見つからない映画です。
前の週に名古屋に出張した折、駅の前の商業ビルの1階に『ブラックパンサー』で用いられたレクサス1台の展示が行なわれていました。こんなイベントもあるのだから、さぞかし流行っているだろうと思えば、作品の出来はDVDも全く不要なほどに見るべきものがない作品でしかないことが一方で分かるのです。
追記:
多分、コミックの原作の翻訳などのプロセスで既に遥か昔から「ヴィブラニウム」と音訳することに決めてしまっているから、映画化の段階では変更ができないのかと思いますが、劇中では皆「ヴァイブレイニアム」と発音していて、非常に違和感がありました。