『ユリゴコロ』

10月にしてはやたらに早い晩秋のような冷たい雨の降る木曜日の16時35分からの回をバルト9で観て来ました。封切から一ヶ月弱。既に上映は1日3回になり、当初に比べて激減していました。少ない回数になると、仕事の隙間時間との都合がつかず、行けないままに何とかしなくてはとジリジリとした思いで、機会を窺っていました。翌週からの上映は1日1回になることを知ったので、直前のアポを早めに切り上げて、ギリギリ上映に滑り込みました。

この作品は上映館が少なく、新宿ではバルト9しかありません。何としてもバルト9で観られるようにする必然性がありました。また、同様に新宿ではバルト9のみで上映している『プラネタリウム』も観たい作品ですが、『ユリゴコロ』と同日の封切で、当初、多数の上映回数を誇っていたのに、あっという間に上映回数が減り、今既に1日1回になってしまっています。1回なら深夜にして欲しい所なのですが、午前中の遅い時間枠なので、観ることはできないままに終わる可能性も高まっています。

ロビーと同じフロアの小さなシアターの中に半分ほどは観客が居たので、30人ぐらいではないかと思います。私が観る映画の中では珍しく女性客が圧倒的多数派で、7割以上を占めていたように思います。男女共に若い客が多く、男性客のほとんどはカップル客の片割れでした。シアターに入る際の入口でのチケットのチェックで私の前の女子大生二人連れが、学生であることを証明できず、結果的に300円の追加料金を取られたようでした。(スタッフと二人の会話が長くなりそうだったので、スタッフが私のチェックを先行させ、私はシアターに入ってしまったので話の展開を知りませんが、数分後に二人がシアターに入ってきたので、追加料金を支払ったものと想像しているだけです。)

女性客が多い背景には、主役級の松坂桃李と松山ケンイチの存在が大きいと思いますが、それ以上に原作の魅力が大きそうであることに、パンフレットを読んで気付かされました。「まほかるブーム」とまで言われるぐらいに、原作者の沼田まほかるの作品群は人気があるようで、この作品はその人気の皮切りになったようです。そして、この原作者の作品の初の映画化作品でもあるようです。考えてみると、最近、このようなミステリー小説を原作とした作品は非常に増えているように思えます。

どうも顔が腫れぼったく見えることが気になる広瀬すずが主役を張っているので、仕方なくパスしようと思っているものの、現在上映している中でも『三度目の殺人』も、この手のジャンルですし、現在、トレーラーで再三繰り返される中で私が観に行くべきか迷っている作品でも近日公開の『彼女がその名を知らない鳥たち』などもあります。少々前なら(そして今尚)東野圭吾作品に始まり、湊かなえ作品などもありますし、それ以外でも、ここ最近私が観た中にさえ、『愚行録』があります。最近、DVD化の告知をよく見かける『追憶』や『怒り』などもこのジャンルです。やはり、ミステリー小説ブームが背景に存在すると考えることは妥当であるようです。

自分の過去や現在に存在する呪いとも言うべき枷に向き合わざるを得なくなってしまった人々の話です。

連続殺人者の映画は多数ありますが、その殺人の恐怖を描く形になっているものが殆どだと思います。たとえば『悪の教典』や『CURE』、『凶悪』などです。洋画でも実際の連続殺人鬼のセミドキュメンタリーになっている『ヘンリー/ある連続殺人鬼の記録』などが印象に残っています。それに対して、連続殺人者がなぜそのようになったのかを丹念に描いた映画はあまりありません。ぱっと思い出せるのは『脳男』ぐらいで、あとは特殊な事例ですが『おそいひと』がそれです。

この映画は後者に属していて、連続殺人鬼の幼女時代・少女時代・青年期、そして壮年期と、4人の役者が各々に、本当に同一人物に思えるほどの無表情さで周囲の人々に死を齎していきます。

劇中の主役でもあり、4人の中でそれまでの自分の人生を振り返る役割を果たすのは吉高由里子ですが、子役の少女が演じる幼女時代から殺人に傾倒して行くエピソードは、後のストーリー展開の伏線としてあまり活きていないものまで、濃密に描きこまれます。スプラッタ的な人体破壊シーンこそ殆どないものの、人によっては十分に嫌悪感を抱かせられるレベルです。それが、成長した吉高由里子の機械のような言動を支えるのに十分な作り込みになっています。

冒頭では松阪桃李演じる息子の結婚相手が失踪した事実などが唐突に足早に語られて、いきなり、息子が偶然発見し読むにつれて没入してしまうノートの世界観に話が移行します。そしてそのあとは、ほぼ前半全部でノートの中の血塗られた世界をどんどん押し広げていくのです。「なぜこの少女時代をダラダラと描くのか」、「これは何かの伏線なのか」と思いながら見続けることに、ほんの少々の倦怠が湧き始めた頃に、物語は急展開を見せ始め、その頃に姿を現すほぼ予想可能な結末に向けて、轟音を立てて疾駆して行きます。

あり得ないぐらいの運命のいたずらで、少々できすぎの感は否めません。しかし、役者陣の圧倒的な演技力が観客の心を激しく揺さぶるので、「こういう話もあってもいいか…」と許せてしまいます。特に、主役の吉高由里子と松山ケンイチの二人のやり取りはその傷の痛みが見る者に突き刺さってきます。自分のではない子供を妊娠している吉高由里子を受け容れ、自分が殺してしまった少年への贖罪として、その子供を二人で育てようと決意したものの、数年後には、少年の死を見たくて殺害を起こした張本人が吉高由里子と知ってしまいます。自分の子供として育てた男の子は既に幼稚園児ぐらいになり、少年の死以来、その呵責から性的不能になっていたのさえ、吉高由里子の生活の中で回復して行く。そんな矢先の生活すべてが崩れ去る物語です。

死を見ること、死を齎すこと、そして、自分自身には死の代替として売春に身を任せ、心の解体を齎すこと。これしか心のやり場が無かった吉高由里子の方は、早い段階で、自分を愛して自分に新たな人生を用意してくれた男の人生を歪めてしまったのが、自分自身であることを知ります。それでも、新たな生活の魅力故に、ずるずると男との生活を選び、いつか秘密が露見して、愛憎が裏返しになることを知っていながら、愛しみの時間を積み重ねていく吉高由里子の無表情は、他の3人にも共通していて目に焼き付きます。「あなたの優しさには容赦がありませんでした」と、ノートの文章を読み上げる彼女の声は単調なのに、人生で初めて体験する喜びとその体験そのものへの驚嘆が溢れ出ています。

すべてを知った松山ケンイチ演じる夫が、吉高由里子にダムの上で自死を迫るシーンの慟哭も嗚咽も、殺人鬼の成り立ちを知ってしまっているが故に心を揺さぶるリアルな力を持っています。

元々吉高由里子は後に息子も読んで総てを知ることになる、「ユリゴコロ」と題したノートを書き終えたところで川に歩み行って死を試みます。しかし、ノートに拠れば、自分の殺人のことに気付きかけた時点で、今までの私なら夫を殺していただろうとあります。それをそうせず、そこから立ち去り、以前もしていた「解体」を本気に自死の形で実現しようとしたのだと考えられます。秘密を知った愛する人と子供を殺すべきか立ち去るべきかで逡巡する女性の姿は、「雪女」の物語を彷彿とさせます。最近、相澤亮と言う漫画家によって優れたリメイクコミック作品『雪ノ女』になったのを読んだせいか、人間ならざる者に戻らざるを得ない女性の切なさが心に残ります。

さらに、他にも脇役陣でも名演技が炸裂します。湧きあがる殺人衝動に絡め取られ、まるでアモンに合体された不動明のような松阪桃李の言動。リストカットを止められない病んだ女を演じる佐津川愛美の焦点の合わない視線。青年期の殺人鬼を演じる吉高由里子に本当に被って見える木村多江の、自分の首を絞める実の息子に「殺しなさい」から「殺せ」と言葉を変えて目を剥いて言う覚悟。

過去によって規定された自分の現在に翻弄され続ける人々の姿ばかりが、執拗に描写されます。目立たない役ではありますが、松阪桃李の失踪する婚約者を演じているのは清野菜名と言う女優ですが、パンフを見ると、全く魅力を感じなかった『東京無国籍少女』の主役の子でした。劇場で見た中では、『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』にも出ていたようですが、全く気付きませんでした。そして、一応楽しめた『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』にもかなり重要なキャラとして出演していたことが、今回初めて分かりましたが、この作品では、メイクが特撮級に凄くて、全く認識できませんでした。

この清野奈名に至ってさえ、ヤクザとの結婚から輪姦が延々と続く毎日と向き合うキャラになっています。不必要なほどに何かが渦巻く過去に蹂躙される人々が、これでもかと言わんばかりに、出演者の渾身の演技で描写されて行く作品です。

設定上、謎とされている、「ユリゴコロ」と題されたノートの書き手の殺人鬼が誰なのかも、早々に分かりますし、さらに、木村多江が登場した瞬間に、そのやたらに深い暗さを秘めた瞳を見るだけで、ノートの書き手の現在が分かってしまいます。私は推理小説を読む趣味は若い頃に途絶えてしまって久しいですが、小説以上に多分映画の方が結末がすぐに透けて見えてしまっているのであろうとは思います。それでも、これらの役者が作り出す人物たちがもがき足掻く様子から目が離せなくなるのです。DVDは買いです。

追記:
吉高由里子が初めて愛によるセックスを体験する際のセックス描写は秀逸です。『アメリカン・ビューティー』のバラに埋もれた妄想セックス、『エンゼルハート』や『私の男』の血の雨が降りしきる近親相姦、『蜜のあわれ』の金魚同士の交尾を滝下で幻想的に擬人化したセックス。色々なセックスのイメージ映像がありますが、この作品のそれは、群を抜いて、映画の主題に忠実な描写になっています。