封切から2週間ほど。金曜日の晩7時40分からの回をバルト9で観て来ました。その前日までは、1日5回の上映があり、深夜2時過ぎの回があったので、その日もそれを観に行こうと考えていて、夕方にスケジュールを見たら、上映回数は減り、深夜の回も無くなっていました。その段階で観に行けるのは1日のうちの最終回のこの午後7時過ぎの回だけだったので、意を決して観に行くことにしました。
ネット上では「大コケ」の評価が定着されつつあり、「あの場面のアレはないよなぁ」とか「なんで杜王町がスペインロケなの?」など色々な不評が交わされているようです。現実に興行成績も全然振るわず封切映画のランキングでは2週間目にしてランク外と言う話も聞きました。
バルト9のこの回の上映は1階の小さなシアターになっており、70席ある座席のうち60席以上は埋まっていました。ほぼ満席の大盛況のように思えますが、上映回数は2週目にして削られて、深夜の枠は無くなり、普通だと数百名が入れるシアターで上映される大型の映画が、70席のシアターに終電前の時間枠でもぴったりというのは、やはりかなり不調と見てよいのだと思います。仮に、今回の入りを通常のシアターでやれば、3席に1席も埋まっていない状態になったということです。
観客は男女概ね20代後半から50代前半ぐらいまでが混じりあっている状態でした。2人連れがそれなりには居ましたが、同性の2人連れが比較的目立つように思いました。
私は『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズのかなりのファンの方だと思います。よく好きなキャラでそのファン度合いが分かるという風に言われていますが、シリーズ全編を通して好きな敵キャラを二人挙げたら、私は「ンドゥール」と「プロシュート兄貴」です。ウケ狙いではなく、私がこれを言うだけで、「この男とジョジョの話を軽くすることはできなさそうだ」と相手は思うようです。
私が25歳近くに留学した際に、ジョジョ・シリーズは第二部が大盛り上がりになっていた頃で、ネットも何もない時代に、実家の親に毎週ジャンプを買ってもらい、ジョジョのページだけを切って取っておいて貰って、1ヵ月分まとめて4~5話を航空便で米国の田舎町に送って貰っていました。(残った部分は毎週近所の子供に渡していたようです。)日本人が他に見当たらないその町で、何か驚くべきことが発生するごとに、私は一人日本語で「何と言うことだ、このワムウ」と呟いていました。
ジョジョ・シリーズは、現在第8部が連載されていますが、全8部はファンの間で評価がまちまちです。今回この作品は第4部を頭から取り上げています。私はダントツに好きなのが第5部で、次に第8部・第7部が続きます。第3部や第2部のファンが多いと言われている中で、かなり異常な好みの構成なのだろうと自覚しています。第4部はどちらかというと下位に位置づけられている部です。そういう意味合いで見ると、ファンの私にとってのこの映画の魅力はあまり存在しません。
それ以前に、多くのファンの人々が多分そうなのであろうと想像しますが、それが第何部であろうと、わざわざ実写で楽しむ必要があるのかという問題があります。ジョジョ・シリーズの魅力は多々言われていますが、私は、「絡み合うような物語とその設定の構成」、「スタンド戦の謎解き感」、「知性・覚悟を動員した戦闘」、「スピード感あるコマ展開」、そして「独自のスタイリッシュな人物描画法」と言った感じかと思います。
一般のファンの意見をネットなどで見る限り、最後の点が強調される傾向にあり、私が愛蔵する『ユリイカ2007年11月臨時増刊号 総特集=荒木飛呂彦 鋼鉄の魂は走りつづける』でも、著者の人物描画法に多くの紙幅が割かれています。私もその延長でレンピカの画集を買い、今では、マドンナの『Open Your Heart』や『VOGUE』のPVの背景にズラリと並ぶレンピカの絵画にも逸早く気づけるようになりました。しかし、それほどまでに意識するような最後の論点でさえ、他の4つの魅力の各々に勝るものではありません。
そして、私にとってのジョジョ・シリーズの大きな魅力が設定や戦闘の展開などに偏っているが故に、それが仮に映画でどのように表現されていようと、原理や構造として分かっているものを再度実写で堪能する必要がほとんど見いだせないのです。その理由で、私はアニメ化されたジョジョ作品も一切見ていません。「見たくない」と言った積極的理由ではなく、寧ろ単純に「関心が湧かない」と言った感じです。
同じジャンプ・コミックでも、あまり興行収入に期待が寄せられていなかった『銀魂』が先行して公開されていて、記録破りの興行成績を叩き出す一方で、ジョジョ・シリーズの映画化は二週目にしてランキング落ちの大コケと言われるのは、多くのファンが(たとえ、その感じる魅力のポイントが違ったとしても)「わざわざ実写映画を観る理由」が感じられなかったことが大きいと私は思っています。
では、ファン以外を動員できたかというと、ジョジョ・シリーズはその設定や物語性の複雑さ故に、全く不知の人間をいきなりファンにできるものではありません。単純なアクションの魅力もないですし、特に第四部は単なる地方都市が舞台でダイナミックな展開を欠きます。
私は、ここ最近あちこちに登場し過ぎと思える神木ナンチャラが康一役をやっているのと、つい最近観たばかりの『忍びの国』で敵方の最重要武将を演じた男が、ジョジョ・シリーズで最も多くの部にまたがって登場している承太郎役をやっていること、あとは、何か眠い顔をしていて『渇き。』で監督から「ヘタクソ」と罵声を浴びた大根役者のモデルの子が脇役で出ているぐらいしか、役者を認識できませんでした。どれも、むしろ関心が湧かないとか、できれば出さないで欲しいぐらいの認識の人々で、他には(加齢で随分質量を増した感じに見える往年のアイドル観月ありさを含む)かなりチョイ役の数人と顔が土気色した悪役になった“勇者ヨシヒコ”ぐらいしか分かる人が居ません。
それでも、若手人気芸能人を豪華に取り揃えた配役だと噂されています。その布陣をもってしても、観客を単なるサスペンスモノや推理モノとして動員できないぐらいにジョジョ・シリーズ第四部の話は際立つ一般ウケする魅力がないのだと思います。その意味で、ジョジョ・シリーズの特質とファン心理をもう一歩踏み込んで解析していれば十分に避けることができた大コケであったように思えてなりません。
そんな中で私がこの作品を敢えて観に行った理由は、端的にジョジョ・シリーズをいつか語る時に、観ていないものを非難するのはフェアではないだろうという妙な律儀感と言うか、大仰に敢えて言うなら正義感の為せる所です。
ギリギリに行ってみたら、小さいシアター故に残席は少なく、空いているB列の端を取りましたので、スクリーン全体の同時俯瞰に難儀をしましたが、作品全体の感想としては、非常に良いでき映えだと思いました。どこが良いかと言えば、やたらに原作の色々な面に忠実に実写で再現していることに尽きます。ありとあらゆる所に、ファンだったらこのポイントを押さえて当然と思うよねと言った部分に対する配慮が感じられ、非常に緻密に再現が為されています。康一がぶちまけたカバンの中身をスター・プラチナが一瞬にして拾い集めるシーンまできちんと再現し、仗助が言う「チコッと頭に…」などのおかしな表現もきちんと台本に入れています。
登場人物も街の他の一般エキストラの人々と違和感が湧くぐらいに、明らかにディテールが凝りすぎているコミック・キャラの再現度合で承太郎の帽子と一体化した毛髪と言い、康一の妙にオドオドした態度と言い、申し分がありません。
CG技術の無駄遣いとさえ思えるぐらいに精巧にスタンドも映像化されています。スター・プラチナvsクレイジー・ダイヤモンド、アクア・ネックレスvsクレイジー・ダイヤモンド、バッド・カンパニーvsクレイジー・ダイヤモンドの三戦も驚きの精度で何の驚きもない精緻な再現度合です。或る意味、文句の付けどころがありません。文句の付けどころは確かにないのですが、それだけなのです。
組織の構成員を動機づけする要因を説いたハーズバーグの二要因説では、「その職場で働くことに対して構成員の不満を減らす要因」と「その職場で働くことに満足を感じさせ、構成員を積極的に能動的にする要因」は一応別物として整理されています。端的に言うと、「不満がほとんどないことと満足することは全く別の事象である」ということです。この作品はまさにそういう感じで、作品作りにかけた熱意や技巧は十分に伝わり、不満は全く湧かないのですが、総てが分かり切っているが故に、満足も全く湧かないのです。
敢えて言うと、一点、驚きがありました。ラストで物語のカギとなる弓矢のセットが盗まれるのではなく破壊されるのです。ん?と思いましたが、よくよく考えると、第四部は前半と後半に大きく話が分かれていて、敵役も変わります。そして前半の敵役である音石と言うギター・フリークの兄ちゃんが持っていた弓矢は原作では回収されてお終いになるのです。つまり、無くなろうとどうなろうと、後半の展開にいきなり移るなら影響がないことになります。
現実に、映画のラストに音石のスタンド「レッド・ホット・チリ・ペッパー」は現れず、吉良のスタンドの一部「シアーハートアタック」(私だったら「シア・ハート・アタック」と表記しますが、ネット上ではこちらの表記の方が一般的です。)がちらりと登場して去って行きます。(残念ながら、名台詞「コッチヲミロ!」は言ってくれません。)つまり、原作第四部の冒頭は今回の「第一章」と称した作品で忠実に再現しましたが、その直後の前半は一気にぶっとばして、後半の対吉良戦に話を移すつもりであるということのようでした。なるほど、こういう省略の仕方もあるかと、ちょっとだけ感嘆させられました。
私は音石とそのスタンド「レッド・ホット・チリ・ペッパー」は特段好きでも何でもないので登場しなくても構わないのですが、第二部・第三部・第四部と連続して登場する人気キャラのジョセフ・ジョースターが第四部ではかなり高齢化し、「レッド・ホット・チリ・ペッパー」の名前を聴力の落ちた耳で聞き、「何、ポッポッポ、ハト、ポッポ?」と聞き返すあのシーンが映画から存在しなくなってしまうのがとても残念です。
しかし、このシーンどころか、第一章と銘打った今回の作品は第二章以降ごと存在しなくなると言われるほどに、興行成績が振るわないという話です。出れば観ることとは思いますが、多分観るごとに、不満も満足もない状態が再発するだけに終わるのだろうと思います。不幸なことに「舞台の街もキャスティングした」などとパンフに書かれていますが、妙な想い入れからか、スペインロケをしてしまっていて、製作費を馬鹿に押し上げています。何章まで作る気だったのか分かりませんが、第四部である以上、ずっと同じ街が舞台ですから、作るごとにスペインロケを繰り返すことになってしまいます。スペインロケをしないなら、かなりの設定変更の妙手が必要となることでしょう。
この監督はつい先日私が楽しんだ『無限の住人』の監督でもあり、その他、、『ヤッターマン』、『忍たま乱太郎』、『神さまの言うとおり』、『テラフォーマーズ』などなどコミックの実写化に挑み続けている監督です。私が好きな『ヤッターマン』では最後に本編では登場しなかったヤッターペリカンが登場する予告編が現れます。フカキョンのドロンジョをまた観られるぞと楽しみにしていたら、一向に制作の気配は現れず、第二作目は登場しないままに今に至っています。今回はタイトルに「第一章」とやる気満々に表明してしまっていて、予告編をつけたどころの騒ぎではありません。これで二章がなければ、或る意味、伝説の作品になるのではないかと思えます。
もしかすると、今回の作品がジョジョ・シリーズ連載開始30年記念の流れの一環ということですので、40年記念時などに、街のロケ地も配役も全部変えて、その時点での最高のCGを使いこなし、またもや精緻に原作の物語をなぞりながら、第二章が作られるのかもしれません。すべての過ちも後悔も時が癒す非常に大掛かりな事例になるのかもしれません。
コミックの画像が再現される精緻なCGは特に見所ではありますが、やはり、DVDを買うほどの満足感には至らない作品でした。