6月頭の封切から1ヶ月少々経った火曜日の夜中の回をバルト9で観て来ました。スタートは午前1時45分。終了は4時10分です。多分、初めてか二回目のバルト9の梯子状態で、『22年目の告白―私が殺人犯です―』の終了後2時間弱のインターバルで始まりました。
その前の週に観に行き逃したので、週明けに上映の状況をネットで見てみたら、一気に上映館が3分の1ぐらいに減っていて、新宿でも三館あった上映館がバルト9一館に減っていました。しかも、映画情報サイトの「上映スケジュール」の欄では、バルト9の館名は出ているものの、他館の表示と違い、上映時間は表示されていませんでした。慌ててバルト9のサイトを見ると、1日にたった1回、それも夜中の2時近くに一応連日上映しているという、申し訳程度の上映と言った感じが歴然の状態でした。
シアターに入ると、電車が動いていない時間帯にすっぽり収まっている上映時間枠に、観客は私も含めて7人居て、数100人は余裕で入るシアター内に数えるのが大変なほどまばらに座っていました。5人が男性、2人はその連れの女性です。年齢層は、バラバラで若い男女カップルもいれば、30代前半の男性二人連れもいれば、あとは中年過ぎ、と言った構成です。平日の深夜に、これだけ観客が居ることがまだ集客力があるとみるべきなのか否か、かなり悩みどころです。
ヒュー・ジャックマンが、「降りる降りる詐欺」を散々繰り返した挙句、とうとう私の知る限り唯一の当たり役であるウルヴァリンを本当に降りるということで、高齢化したウルヴァリンを見納めに映画館への足を運びました。私は『X-MEN』シリーズは、かなり好きです。特に前半三部作は非常に好感を持って観ています。しかし、後半三部作は、何やらストーリー設定やキャラ設定にもたつきが目立っています。
ギリギリ前半三部作と同程度のストーリー設定は維持できたものの、エグゼビアのキャラがグダグダで、くだらない色恋沙汰が入り込んでしまった『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』。私の好きなタヌキ顔の女性新キャラが続出したけれども、世紀末覇王伝説の世界に至る物語がすっ飛んでしまっていて、スタートから設定が破綻しているかに見える『X-MEN:フューチャー&パスト』、そして、顔色の悪いアラブのおっさんが駄々をこねつつギャグを連発するだけで、物語もキャラ設定も総てが破綻している『X-MENアポカリプス』。
しかし、それ以上に、何やら見て面白さを感じないのが、ウルヴァリンのスピンオフ・シリーズです。これが最後と聞いても、全然残念な感じがしません。見てみると、ボケがかなり進んだエグゼビアを老老介護するローガンという構図が中盤過ぎまで延々と続きます。ウルヴァリンのキャラを深めたと、映画評も言っていますし、ヒュー・ジャックマンも語りまくっていますが、作品を観る限り、何も人間観が深まっていません。
ボケて小用さえ自分で覚束なくなってきていて、癲癇の症状で全三次元方向数十メートルに渡って人間を麻痺させる迷惑なだけのエグゼビアや、足腰もおぼつかなくなり、ケンカも弱くなり、傷の治りもどんどん悪くなる一方の老眼のローガン。正直言って、こんな二人を観て何が面白いのかがよく分かりません。
さらにこの映画が唐突過ぎて不愉快に近い感情を抱かせるのは、どのような経過を経てこのような状態に至ったかがほぼ全く分からないことです。『X-MEN:フューチャー&パスト』も、先述の通り、世紀末覇王伝説的世界にどのように至ったのか分からないために、不愉快な荒唐無稽感がありましたが、その『X-MEN:フューチャー&パスト』で時間の流れが変わり、別次元の話になって、死んだジーンなども『X-MENアポカリプス』で蘇っています。折角蘇った主要キャラは、どうやって死んだのかが全く分からないのです。そしていきなりX-MENの老老介護の話です。何か、『北斗の拳』に対する『北斗の拳 イチゴ味』の位置付けと同じような、スピンオフ・ギャグのように感じられてなりません。それが、キャラの人生観を深堀りして抉って見せた…などと制作側の勘違いの自己満足を語られてしまっては、馬鹿馬鹿しくて笑う気にもなれません。
大体にして、どれほど、米国ではオリジナル・コミックなどで人気があるのか分かりませんが、ウルヴァリンは人生の深みを感じるような奴ではありません。軍関係組織から見たら、その収容所からの脱走を繰り返す実験動物に過ぎないのです。名前の意味も、クズリという獰猛ながらイタチ科の小動物です。何でこんな水槽づけになったりヤク漬けになったりする、「単純生命力バカ」の薄っぺらな人生を掘り下げなくてはならないのかがよく分かりません。「単純生命力バカ」が生命力を老いて失えば、ただの「単純バカ」でしかありません。
老老介護されるエグゼビアも、もとはと言えば、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で明らかにされるように、彼の偏った女の趣味が、X-MENの私情の縺れを決定的にし、世界規模の被害をもたらしています。それでX-MENを率いるプロフェッサーとは恐れ入ります。おまけに、散々政治には介入し、ロクな結果を出していません。それなら、明確に反対勢力になったマグニートーの方が(よく懐柔されるのが優柔不断で白痴的ですが)まだ好感が持てます。業を背負った人生観を深堀りするに値するキャラは、ジーンやローグ、そして、役者が変わってキャラが物語のたびにコロコロ変わるようになってしまう前のミスティークなど、もっとたくさんいるはずです。
老老介護が物語になるのは、そこまでの人生の重みとのコントラストがあるからです。時代経緯もなく、他の業の深いキャラではなく、わざわざ自己満迷惑爺と単純バカ動物を選んで、その老いさらばえた姿を見せられても、「はいはい。あんまり迷惑かけたり、騒ぎを起こしたりしないうちにお引取り下さい」と思うばかりです。
では、新たな世代として登場するウルヴァリンの遺伝子から作られた少女は、魅力的でストーリーを引っ張れるかと言えば、全然そんなことはなく、これまた「単純生命力フルマックス悪ガキ」でしかなく、おまけに、大分後まで言葉さえ発しません。さらに、言葉を発するようになったら、突如、性格どころか知能レベルまで変わったかの変貌ぶりで、キャラ設定が破綻しているようにしか見えませんでした。物語設定破綻とキャラ設定破綻はX-MEN前半三部作以外のX-MEN系作品全部の特徴ですが、ここまで、中身の薄っぺらい設定を重ねたら、それは面白くないに決まっているだろとしか言いようがありません。
「単純生命力フルマックス悪ガキ」の隠れ家が「自由の女神」とか言うモーテルだったり、置物の中にさりげなく混ぜ込まれた日本刀があったり、『X-MENアポカリプス』にもチラッと登場したキャリバンがそこそこヒーロー的活躍をしたり、色々と見つかる他作品との結びつけは、ドンキホーテ店内の掘り出し物探し的な面白さを僅かに作り出すことに成功しています。また、18禁になった(国内15禁?)とか言う人体破壊シーン連続の戦闘アクションシーンも、見応えはありますが、他のX-MENの持つミュータントの戦いぶりを超える魅力を持つものではありません。これらのちょこちょこと見つかる見所では、全体の破綻度合いを補いようもないのです。
急激に上映館数と上映回数を減らしてしまったのは、このようなことが原因かとも思えます。今までのウルヴァリン・シリーズにも増して、楽しみどころが見つからない作品でした。DVDは必要ありません。特撮も目一杯突っ込む予算からみて、ここまでカネをかけて、どうしてこんな薄っぺらい作品ができるのか本当に不思議です。