『恋愛裁判』

 1月23日の封切からまる2週間経った2月最初の金曜日の午前中。かなり久々に行く歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館の8時40分の回を、最近親しくしている女性と2人で観て来ました。

 1日1回の上映しかありません。新宿では2館で上映されているので全くのマイナー作品と言う訳でもありませんが、どちらの館でも1日1回の状況になっていて、封切2週間にしてはかなりお寒いと言わざるを得ません。新宿のもう1つの上映館、バルト9は午後時間枠の上映でしたが、私と彼女の都合が合うのが歌舞伎町のゴジラ生首ビルの選択肢しかなく、おまけにそれより先に延ばすと、上映状況が危ぶまれるように思えて、私にとっては致し方ない早朝枠の選択でした。

 この作品に先立って鑑賞した『万事快調 オール・グリーンズ』は、この作品より鑑賞動機が薄い作品でしたが、その感想に

[以下引用↓]

 私のこの作品の鑑賞動機は大したものではなく、基本的にかなり「夏枯れ」(と言っても季節は冬真っ只中ですが)の映画鑑賞作品群の状況の中で、他に観たい作品が『恋愛裁判』ぐらいしかなく、その作品は最近親しくしている人から一緒に観に行こうと誘われているのですが、先方が出張中で戻るまで見られないという状況の中で、次点の作品を観に行こうとしたということです。

[以上引用↑]

と書いている通りの理由で、この作品の鑑賞が後回しになったのでした。私がこの作品を観たいと思った理由は、明確ではありませんが、大雑把に括ると3つあるように思われます。最大の理由は多分、過去に類例のない状況というか場面を描いた物語であることです。二つ目の理由は日本の独自文化の現場を描いた作品であるということかと思います。これら二つが相俟って、私は最初に関心を持ったのでした。

 例えば、(日本のアイドルが多少なりとも輸出されるようになるまでは)欧米ではアーティストは大抵成人でした。アイドルではなくアーティストです。日本の元々はテレビ・アイドルのような存在は皆無だと言っていいでしょう。AKBシリーズなども東南アジアなどには輸出されて日本よりかなり近づきにくいアイドル・グループ群として成立しているようですが、これは世界全体で見て日本で特に極まっている「ネオテニー文化」が、東~東南アジア全体でもある程度共有されているからであろうと思われます。それに対して欧米では、幼いことや拙いことは単純に不完全で劣っていることですから、そうしたアイドルの価値を見出すことがそもそもできないものと思われます。

 そんなアイドル・ビジネスが日本ではどんどん浸透・進化・深化し、この作品で描かれるようなアイドル達の実態が生まれる一方で、消費者側では「推し活」などの人々の特異な消費行動が生まれているものと思っています。新書の『「推し」という病』にはそのダークサイドが精緻に描かれています。この作品は、海外では決して描かれることが無いであろうもので、この作品が2025年のカンヌ映画祭に正式出品される価値を持つのも当たり前という気がします。

 しかし一方で、映画制作の業界はアイドル業界と地続きであるのは間違いなく、敢えて言うならその暗部・恥部に切り込む内容の映画制作が簡単に進むとは思えないのも事実です。「この作品は、海外では決して描かれることが無いであろうもの」と書いたばかりではありますが、国内では国内の描かれにくい事情があるはずであろうことも分かっています。最近、のんの独立問題にかかわる内情に関心が湧いて購入した『ザ・芸能界 首領たちの告白』は分厚く、未だ積読状態ですが、そう言った書籍を読むまでもなく、アイドル業界を中心に据える芸能業界は、深く現在反社会勢力と一括りにされる人々とのつながりなども含め、色々な暗部を抱えているという認識は広く社会に存在しています。

 そうした中で、華々しいアイドルの舞台裏とそのビジネス・モデルの実態や、存在すると言われている恋愛禁止ルールを破るアイドルの諸々のケース(わざわざ丸坊主になって禊としようとした女子まで存在しますが)が生まれる背景などを描くこの作品が、そう簡単に実現するとは思えないというのも本当です。実際に映画.comの解説文には以下のようにあり、日の目を見るまでに長い時間と労力を要した作品であることが窺えます。

[以下引用↓]

「淵に立つ」「LOVE LIFE」の深田晃司監督が、アイドルの恋愛禁止ルールを題材に描いたオリジナル作品。恋愛禁止ルールを破ったとして裁判にかけられる女性アイドルの姿を通して、日本で独自に発展したアイドル文化と、その中で暗黙の了解とされてきた「アイドルの恋愛禁止」問題について切り込んだ社会派ドラマ。深田監督が「元アイドルの女性に賠償命令」という新聞記事に着想を得て、構想から10年をかけて完成させた作品で、主演をアイドルグループ「日向坂46」元メンバーの齊藤京子が務めた。

人気上昇中のアイドルグループ「ハッピー☆ファンファーレ」でセンターを務める人気メンバーの山岡真衣は、中学時代の同級生・間山敬と偶然再会し、意気投合して恋に落ちる。アイドルとしての立場と恋愛との間で葛藤していた真衣だったが、ある事件をきっかけに衝動的に敬のもとへ駆け寄る。それから8カ月後、真衣は所属事務所から「恋愛禁止条項」の契約違反として裁判所に召喚されることになる。裁判では、事務所社長の吉田光一やチーフマネージャーの矢吹早耶らが真衣を追及するが……。

元アイドルである齊藤が、その経験を生かして真衣の葛藤や成長を繊細に演じた。真衣と恋に落ちる間山敬役にドラマ「SHOGUN 将軍」の倉悠貴、所属事務所チーフマネージャー・矢吹早耶役に「極悪女王」の唐田えりか、事務所社長の吉田光一役に人気声優であり俳優としても映画やドラマで活躍する津田健次郎。2025年・第78回カンヌ国際映画祭のカンヌ・プレミア部門に正式出品された。

2025年製作/124分/G/日本
配給:東宝
劇場公開日:2026年1月23日

[以上引用↑]

 三つ目の動機は、今回の鑑賞を共にした女性が、アイドルほどではないにせよ、後述する疑似恋愛系の生業であるために、親しい私は、知り合いから「ファンに見つかったら問題になりますよ」などと言われるような状況が一応存在しており、この作品のテーマが全くの他人事ではないことです。1、2度しか観ていないトレーラーの中にある裁判劇で、交際の経緯を肉体関係の発生まで掘り下げて赤裸々に暴かれようとするなどの面もそれなりに圧力を感じるものでしたが、それ以上に、「露見」と共に主人公の女性が今までの人生の軌道そのものを見失う過程や周囲の損害に対する責任を追及される姿が、それなりには現実的に描かれていることが分かり、自分の学びにしたいと思えたのでした。

 シアターに入ると、私達以外に8名の観客が居ました。平日の朝早い時間枠を考慮すると、比較的堅調な客足と考えるべきかもしれませんが、どうも、この界隈で夜を過ごし、朝まったりと睡眠や休憩の時間を取りに来館しているような観客層も多いように思われました。8人のうち6人が男性客で20代は2人でした。それ以外は皆60以上、80歳に近いように見える男性も居ました。これらの全員とは言いませんが、多くはこの映画を観たくて足を運んだ層には思えません。残り2名の女性は、1人が20代、もう1人が40代ぐらいに見えました。2人連れの私達以外は全員単独客です。

 主演の齊藤京子を私は殆ど知りませんでした。ウィキで見ると、元の「ひらがなけやき」で後の日向坂46のメンバーであったことも、初めて知りました。何となくAKB系の何処かの出身なのであろうぐらいの認識しかありませんでしたし、ウィキを見たりした結果、少々彼女についての知見は増えましたが、関心そのものはその時点から殆ど変わっていません。チラシでも気づかず、余り彼女の発話が無いトレーラーででも気づきませんでしたが、本編を観て初めて、その低い声と低身長からの上目遣いの開き直ったような目線に見覚えがあることに気づきました。本編を見ている最中に、どこで観たのかを考え続け、後にウィキを見てみる前に、TVerで観ていた2023年のドラマ『泥濘の食卓』の主人公でした。何やら無口で暗く、自己肯定感も低く、頭も鈍くと言った感じのフリーターである主人公が、バイト先の妻帯者の店長と不倫関係に至り、その店長が病気がちの妻のことで悩みを深めると、その悩みを解決したいという異常な想い入れから、店長の家に上がり込み妻と偽りの信頼関係を築くという、強烈なレベルのメンヘラ女でした。

 おまけに店長の息子は幼い頃から仲が良かった女子が、自分が選ばれるべきと婚約者ぶって迫って来て、実質的なストーキング被害に遭っています。その狂気のストーカー女子からの逃避の中で、息子は主人公の女子に惹かれていくことになります。店長、その妻、息子の3人と泥沼の(四角関係?の)愛憎劇が始まります。厳密に言うと息子には人間相関図で言うと、そのストーカー女が絡み付いていますから、それも含めると五角関係かもしれません。当然ですが、関東圏の田舎町であるような狭いコミュニティを舞台に、そんな不倫関係の秘密が維持できる訳がありません。

 スーパーのパート・スタッフにも、実質的に引きこもりになりつつあるバカ息子にも、そして最終的には病弱な妻にも、主人公の不倫の恋を知られてしまい、話はどんどんおかしくなっていきます。そうこうしているうちに、主人公を精神的に支配している、筒井真理子演じる狂気染みた母は主人公への歪んだ愛を展開させ、店長の息子に対するストーカー同級生のこれまた狂気染みた行為はどんどんエスカレートし、物理的な事件に至るのでした。

 このドラマのメイキングをDVDで観ると、齊藤京子は主役ですから「座長」と業界の慣例として呼ばれているようなのですが、こうしたクセの強い役を演じるクセの強い役者(特に映画『波紋』並みにイカレた母/妻を演じる筒井真理子など)を取りまとめ、座長を務めるのは困難であったろうと推量されます。

 その齊藤京子が演じた本作の主人公は、何となくアイドルに憧れて何度ものオーディション落ちを経てアイドルになれただけで嬉しかった、真面目で(ここでも口数が少なく)何を考えているのかよく分からないと周囲から評され、時折、ぼそぼそと妙に低い声で断片的に物事を語るような人物です。

 ウィキで見ると…

[以下引用↓]

愛称は、きょんこ、おきょん。名前の京子は礼儀と日本文化を象徴する京都に由来している。特徴的な低音ボイスと持ち前の歌唱力から「日向坂46の歌姫」と呼ばれ、MTV主催でソロコンサートを開催したほか、ハキハキした喋り方とド天然なキャラクターとのギャップでバラエティー番組でも活躍している

けやき坂46のオーディションに合格し、初めて欅坂46のメンバーと会った時には、圧倒的なオーラと完成されたアイドル力に、自分には敵わない相手だと感じて号泣してしまった。オーディションを受けたことを後悔し、悔しくて情けく感じたが、この気持ちのままでは終われないと思い、自分は自分以外のものにはなれないのだから本気でアイドルをしてみようと思い立った。『きょんこハート』、『きょんこ占い』、『きょんこナース』など、アイドルとしてのキャラクター付けに積極的に取り組み、握手会では自ら様々な企画を考え実行した。こうした行動を経て、アイドルとしての誇りを持てるようになった。

[以上引用↑]

と書かれており、何かアイドル・アイドルしていず、歌唱力はあっても、自ら際物キャラを狙ったように受け止められる表現になっています。現実に『泥濘の食卓』も異常なレベルのメンヘラ役が板についていて、到底一般的なアイドル出身者が務める役のようには見えません。今回も彼女のけやき坂以来の、還暦過ぎのジーサンが想像するアイドル像に比較すると、彼女は妙に地味で、背丈も低く、他の(当初)4人のメンバーに比較して、所謂「公開処刑」的に私には見えました。

 パンフを読むと、1人を(厳密な定義で言うと)除いて、グループ・アイドル経験者(ないしは現役グループ・アイドル)で固めたと言い、齊藤京子もその一人なのですが、どうも「ハッピー☆ファンファーレ」というグループ自体に華がなく、ステージでのシーンなども圧巻…とパンフで書かれている状況にもあまり首肯できませんでした。これであれば、比較的最近までTVerのドラマで観ていた『ひと夏の共犯者』で恒松祐里演じるグループ・アイドルの中心メンバーの方が(予算は大分少ないのではないかと思えますが)使い回されるライブシーンに盛り上がり感があります。

 私自身はマイナーなアイドル・グループ「フィーバー」が遥か昔の一時期大好きで、ネットも何もない時代に、彼女達3人が司会として登場する『クイズ・ドレミファドン!』も毎週テレビで欠かさず視ていたのでした。その「フィーバー」の方が、私には「ハッピー☆ファンファーレ」よりもアイドル然として見えます。勿論、劇中では、「ハッピー☆ファンファーレ」は振りや(業界ではレスと言うらしいですが…)目線投げができていないと唐田えりか演じるマネージャーなどにも指摘されている状況ですから、敢えてアイドルとして上手く行っていない様子にしたために、私にはダサく感じられるのかもしれません。(しかし。パンフではそのようなテイストに敢えて演出したとは全く書かれていません。)取り分け、その当初5人のメンバーの中で、背が低く等身も優れていない齊藤京子は一際暗く、ステージを引いて目を細めてみるとそこだけ何かピンボケで薄暗く感じるぐらいの存在感に私には感じられました。

 そういう意味では齊藤京子はミスキャストに思えますが、それでも彼女にならざるを得ない理由があったとパンフには書かれています。端的に言うと、アイドル・ビジネスの闇っぽい面を描く映画にわざわざアイドル業界が自分のアイドルを出したくないという至極当たり前の理由です。主人公の配役で非常に難航したとパンフには何度も書かれています。

 齊藤京子はアイドル・グループを卒業してから東宝に籍を移していて、そうしたしがらみからほぼ解放されていたということのようです。ウィキで見ると秋元康系グループ卒業生の中で私が知っているような、前田敦子だの大島優子だの指原莉乃だのや、最近映画やテレビでよく見る川栄李奈や、TVerで観た2作に目立つ役で登場していて、最近はキンライサーのCMでも見る野呂ナンチャラなど、そうした人々に比べて、どうも目立った活躍が無い齊藤京子には、本作のような問題作も十分な話題作であったのかもしれません。(その割には興行収入が振るわない感じです。)

 この作品が描くアイドル業界の闇とされる事象が「恋愛禁止のルール」です。劇中でも基本的人権の保障に抵触するという風な指摘が為されています。私は全く賛同できない見解です。端的にそれが嫌なら最初からアイドルを目指さなければ良いだけのことです。アイドルに憧れるのは勝手ですが、その道に入るのなら現実を理解してはいるのが当り前であって、今時の新卒学生が自分の労働市場での価値も分からず、「自分には合っていない職場だった」とか「聞いていたのと全くイメージが違う仕事だった」などと知能指数激低の馬鹿げた台詞をすぐ吐くのと同じ構造であろうと思われます。

 各種の仕事には仕事上の制限があります。極端な事例ですが、私は葬儀会社で学生時代にアルバイトしたことがあり、仕事中は明るい顔(特に笑顔)や大きなハキハキとした返答が一切禁じられます。また、歩く際も摺足のような歩き方で音を立てず大股にならないよう指導されました。(それがどうしても守れず、つい一般の職場のように笑顔ではきはきと答えようとしてしまうのを止められず、私は早晩クビになりました。)笑顔の表情ができるのが自然であり、それが基本的人権であるのなら、この仕事も基本的人権を侵害していることになります。馬鹿げています。

 他の事例で考えてみると余計この点は鮮明になります。例えば、政治家はそのプライドやエリート意識故か、よく不倫だの乱交だのをして、すっぱ抜かれていますが、それは何か制定されたルールを破っているのでもなく、単純に社会からのバッシングの対象になり、何度もラブホテルに行って打ち合わせをしていたと抗弁する群馬県の女性市長も一旦は辞任に至りました。政治手腕や実績よりこうした風評だの見栄えだのを優先した結果があからさまに人気商売では当たり前とされています。

 ならば、疑似恋愛をベースにした数十万・数百万のカネが動くアイドル業で、イメージ管理は当然のことです。なぜそれをルールとして提示してその職業に就く人間に守ることが(当然事前の説明があっての話とは一応思いますが、SNSのここまでの社会浸透をみれば、事前の説明など要らないぐらいに当たり前の事実や業界構造であろうと思われます。)求められて何が悪いのか分かりません。

 現実に先述の『「推し」という病』の中には、峰岸みなみに1000万円を投じ、後続する大場美奈には2000万円を溶かしたという男性の事例が出て来ます。彼のエピソードが紹介される章の中にこのような文章があります。

[以下引用↓]

 今日では「恋愛の自由」を制限することは人権侵害の観点から、どのアイドルグループでも「恋愛禁止」は明文化していない。しかしながら、交際が発覚した場合にはファンからバッシングを受けるし、売上があからさまに低迷するので、事務所としても処分をせざるを得ない。このため、現実問題として「アイドルには恋愛禁止ルールが課されている」のが暗黙の了解となっている。いわば「推し」(アイドル)への過度な純潔の強要と支配が黙認されているわけであり、これはアイドル業界が抱えている大きな課題だ。
 アイドルのスキャンダル報道のたびに、グッズやCDを破壊した画像をSNSにアップするオタクもいる。アイドルへの傷害事件も、古今、枚挙にいとまが無い。これらの行為はそれまでの熱意が反転したバックラッシュの結果と言えるが…

[以上引用↑]

 峰岸みなみと大場美奈に合計3000万円溶かした男性は、押しているアイドルが卒業すると、いきなり別物になったように感じ、すぐ自分の二番手三番手の推しに主力をシフトすることで、バックラッシュを避けているとされていますが、本作の物語にもある通り、裏切られた感情をいきなり暴力に訴えてくるファンは、当然山ほどいても不思議ありません。そうしたリスクを伴うビジネス構造であるというだけのことです。

 変な喩えですが、ビジネスはリスクを取ってナンボです。そのリスクを取った以上、きっちり他社より精緻にそのリスクを管理して、大きなリターンを得るのがビジネスの本質です。ダイナマイトに火をつけてから扱いが分からないと騒ぐ奴は市場からすぐ撤退するのが当り前です。そんな危険物取扱業務を社員に担当させるのは人権侵害だと誰も言わないのなら、アイドル・ビジネスのリスクも同じことでしょう。パヨク的発想のヌルヌルに甘い人権思想を私は嫌悪します。

 雇用している人間の人権を制限している悪辣なビジネス・モデルというのなら、アイドルを全員個人事業主化してしまえばよいでしょう。労基の雇用裁定の9条件を極力クリアするような形の契約にすれば、この仕事の特殊性故に一応法的問題もクリアできるように思えます。どうしても、人権だと言い、ルール化するのは悪だというのなら、発生した損害を徹底的に個人に背負わせる仕組みを導入すれば良いだけかもしれません。それが職業上のモラルというものではないかと私には思えます。嫌なら関わらなければ良いか、入ってしまってから恋愛するのなら、脱退によって発生するコストを負いつつ、恋愛情報がリークされないうちに脱退を果たせば良いだけのことでしょう。

 先程のリスク・マネジメントの中に、情報管理も含まれているものと思われます。社会学的に「個人」から「分人」の社会に移行したとよく言われます。分人の概念は「個人(individual)を分割不可分な一つの存在とみなすのではなく、個別の関係性によって生じる人の部分的な存在として分人(dividual)を導入し、この分人が社会を構成すると考える」などと説明されていることが多いようです。こんな考え方は、遥か以前から当たり前です。現在でも裏垢ができるのはこの分人思想によるものでしょうし、ほぼすべての「感情労働」は分人が確立してなければ成立しません。売り手だけの話ではなく、消費者の方も、スタバの有名な「サード・プレイス」が社会的に必要になる背景には、あの単純至極な発想をしやすい米国人でも職場や家庭で分人足らねばならないからでしょう。

 その設定の中で、分人に純潔性を求めたり、恋愛感情を出したりすることは当然あるでしょう。感情のみならず、物理的にも、例えばホストが普段の自分ではなく職業人のホストの分人として色恋営業をして、客の女性とバンバン肉体関係を持つのも当たり前に発生しています。これらも分人としてやっていることでしかありません。社会学的にも構造的に当たり前のことを、なぜこんな風に騒ぐのかと言えば、パヨク的な人権思想の振り回し結果なのであろうと思われます。

 実際、こうしたホスト達の営業スタイルはセックスが強く深く絡みついているようです。疑似恋愛を軸にした男性向けのサービスなら、スナックやキャバクラから始まり、ガールズバーなどが、セックスを「付加価値」として提供する前提のサービス展開になっているようです。現実に銀座のホステスの半生を描いた書籍で、著者のママが「店を開いてからお客様以外に抱かれたことがございません」などと語っていたりします。地下アイドルや一部「地上アイドル(?)」などもこの範疇に入っています。また、性的行為・性行為が主軸のサービス、例えば、リフレ、メンズエステ、デリヘル、ホテヘル、ソープランドなどでは、性的行為・性行為に絡めて疑似恋愛の感情面が「付加価値」となる逆転が起きるように思えます。

 それに比べて先述のホスト達を考えると、ホストクラブでの接遇がメインではあるものの、「付加価値」の殆どの形が疑似恋愛で、簡単にセックスに結びつくようです。例えば、試しに「ホストの営業形態」で検索すると…

■色恋営業(いろこい営業):ホストが客に「好きだ」「付き合おう」と恋愛感情を匂わせ、疑似恋愛関係を築く手法。「あいつのために」という感情を引き出し、リピートや高額プレゼントを促す。

■本営(ほんかの営業):色恋営業の発展版。客を「本命の彼女」として扱い、本当に付き合っているかのように振る舞う。ホストから告白することも多い。

■病み営業(やみ営業):自分の悩みや弱い部分を伝え、母性本能をくすぐって「私が支えなきゃ」と思わせる手法。

■枕営業(まくら営業):顧客と肉体関係を持つことで、直接的に指名を獲得し、売上を上げる手法。

■友営(ともだち営業):友達のような関係を築くことで、精神的な依存や信頼を獲得する手法。

 このうちセックスが関与しないと考えられる形態は「友営」ぐらいしかありません。しかもこれらの営業形態の中で、「友営」は多分構成比的に一番低いものではないかと思えます。いずれにせよ、このように、日本中の大多数の人々が承認欲求の渇望に喘ぐ中で、疑似恋愛ビジネスは、感情も肉体も総動員されながら、「個人としての疑似恋愛」ではなく「分人のマジ恋愛」ににじり寄って行くように見えます。

 そのような構造の中で、アイドルという分人の「人格管理」に、アイドル本人の脇の甘さや、アイドル・ビジネス上の情報統制の主に二点において失敗してしまった物語が、この映画のシチュエーションと考えられます。

 当初、再会した主人公と相手の男の間で、恋愛禁止について語られた際に、主人公の方が業界のルールは仕方ないと当然のことを言い、それに対して男の方は幼稚な正義感を振り回し「そんなのおかしいよ」と反論しています。そして、その時点で、「ハッピー☆ファンファーレ」のロリ系担当のメンバーのVtuberとの恋愛が発覚し、相手の男と別れることになり、動画で謝罪を入念に行ない、炎上状況の鎮静を図ります。しかし、このメンバーに入れ込んでいたオタクファンが逆上し、ライブ後の握手会にナイフを持って乱入して来ます。一応怪我人は出ず、何とか取り押さえに成功はし、この事件そのものについては相応の情報統制が為されました。

 この事件に対して、当のロリ系メンバーは、自分の恋愛という失態や過失が招いた事態の重さに戦き、アイドルとして個人の恋愛感情を擲つことを強く決心していきます。一方で、激高したファンから彼女を守った主人公は、恋愛感情を捨てねばできないビジネス・モデルそのものに疑念を抱くようになり、事件を報道で知り慌てて駆け付けた自分の交際相手の軽ワゴンに衝動的に飛び乗って、何の仕切りもけじめもなく、ただグループ活動から逃避してしまうのでした。

 その際に男はワゴン車から彼女を突き出すこともできたはずですが、「本当に良いの?」と数度彼女の意思を確認してからは脳天気に車を出し、交差点の信号待ちではディープキスで発進が遅れるほどの浮かれようになって行きます。この失踪劇から主人公はグループに謝罪して戻るという選択肢も多分あったはずですし、先述のマネージャーもそれを望んでいたように見えます。しかしながら、そうした可能性をあっさりと無視して、物語はいきなり7ヶ月後に飛び、法廷に舞台を移します。

 本作のレビューでは、裁判劇がちゃっち過ぎると言った感想が幾つか見受けられますが、実際の民事の裁判の遅い歩みと面倒な手続きを一応知っている私には、良い見せ場をコンパクトに提示した望ましい塩梅に感じられました。興味深く思えたのは、賠償請求の金額が、たかだか数百万であったことです。収入が乏しい男女二人には大きな金額として描かれていますが、主人公の逸(はぐ)れアイドル路線の追求や、男の方の大道芸人路線の夢さえ捨てるないしは抑制すれば、今時何かのバイトで幾らでも返せる金額であるように思えます。CDの売上の減少や、各種のセールス・ツール類の作り直し、ライブなどの実活動に関わる人々へのキャンセル料などの賠償などを考えると、数百万でもかなり安く私には思えます。

 さらに興味深いのは、主人公に対してプロダクションが請求を行なうのは契約書に書かれていることをベースにしている以上当然です。しかし、契約の縛りがない相手の男性にも賠償請求がされているのです。契約違反ではないので、男性がプロダクションに損害を与えたので賠償するという関係性だけで民事で彼が訴えられているということになりますが、彼に彼女が拉致されたわけでも何でもなく、自ら彼の腕に飛び込んだ主人公が本来賠償の責を一人で負うべきであるように思えないではありません。裁判劇の中でも、この大道芸人の男に、「契約書に恋愛禁止ルールがあることを知っていたか/その契約書の条文を見たことがあるか」などの質問が為されていますが、見たことがあっても尚、彼に「車を出せ」と迫って恋愛を推し進めようとした女性の責とイーブンではないように思えてなりません。

 プロダクション側が大手の一般企業に買収され、コンプライアンス規定が一般の商売のモノに置換されると、「アイドルという種類の人間であっても、恋愛禁止というルールを強いる法廷の主張」がプロダクションの経営層で問題視されるようになり、謝罪文一つで賠償金の請求などもすべて放棄すると原告のプロダクション側からの和解案が提示されます。

 ロリ系のメンバーが捨てたVtuberの肩を持って、「恋愛禁止のルールに縛られているなんて人間としておかしい」などと甘っちょろく主張していた男でしたが、延々と続く法廷闘争に辟易し、且つ、重い(とは思えませんが)賠償金の支払いがリアルに迫ってきたことに打ちのめされ、彼は和解を選び新たな人生のスタートをしたいと判断します。一方で齊藤京子演じる主人公は、「恋愛禁止ルールの適用そのものが人権侵害」との立場から、和解を拒み、法廷闘争を継続することを決断するのでした。当初とは全く逆の立場になってしまっています。男の方は和解をしない主人公に対して「いったい何と戦い続けたいの?」と問うていますが、逆に男の方にも、「何を得ようとしてあの時にワゴンを発進させたの?」と尋ねてみたい気がします。

 自分の選んだ彼女のイチャラブ恋愛関係と肉体が欲しいだけなら、こんなコスパの悪い選択肢の女性を選ぶべきではありませんでした。疑似恋愛商売の女性を選ばなければ、その女性が「車を早く出して」と自分の軽ワゴンに乗り込んで来ても、女性のその選択を安易に尊重する余地はかなり広がったことでしょう。この大道芸人は過去にもそれなりに女性を軽ワゴンに載せ、肉体関係を持つようなことがあったと語っていますから、別にこんな底なしの高リスク女を選ぶ必要などなかったのです。

 大道芸人男はプロダクションがついている訳でもなく、マネージャーが居る訳でもなく、個人の活動の中に芸能活動のすべてを完結させています。主人公が彼に惹かれた一つの理由は彼のプロ意識の高さであったろうと思われます。それが自分の取り柄であり強みであると分かっているのなら、軽ワゴンに乗り込んできた主人公に向かって、「支えてくれているファンを裏切るな。真剣にやれ」と軽ワゴンの助手席から突き落とすぐらいのことをして欲しかったように思えます。温い男です。

 一方で主人公の方も、そのような人生の軌道を大きく変える選択をしたのに、アイドル活動には未練タラタラです。裁判闘争の最中(さなか)の時期にも、動画配信をし続けています。(彼女を推し続ける人間の気持ちが私にはよく分かりません。)また、自らが裁判の経過に疲弊して路上に出ると、彼女の前を「ハッピー☆ファンファーレ」のアドトラックが横切り、そこに自分の姿が描かれていない当然の事実を前に路上で泣き崩れたりしています。おまけにダンスの練習は続け、その貸スタジオの次の時間枠に集まった女児たちから「ハッピー☆ファンファーレ」の元メンバーと指摘されても、白々しくそれを否定したりするなど、どう見ても「ハッピー☆ファンファーレ」を投げ捨てた自分の選択について得心から程遠い心理状況が続いていることが窺われます。

 そこで致し方なく、自分の抜けた意義は、プロダクション会社の公然の人権蹂躙を世に問い、それを糺すことと、まるで認知不協和を何とか否定するだけのためであるかのように、裁判でも好条件の和解案を拒んだのでしょう。そこで妥協してしまっては自分が抜けた(勝手に後付けした)意義が失われてしまうからでしょう。一般論として言うなら、愚昧な選択であろうと考えられます。そのまま人権派のパヨクの社会活動家にでもなるぐらいに突き詰めたらよかったのではないかと思えてなりません。

 この映画のあまりに残念で卑怯な腰砕けの部分は、最終的な主人公の逃走劇の結論を誤魔化して、さらに時間を飛ばした状態で、エンディングに持ち込むところです。裁判はだいぶ前に終了し、(グループ活動のありかたを理解しつつも)主人公にも理解を示していた冷静な常識派メンバーも脱退し、望んでいた作詞作曲活動を開始して、今はメンバーが3人となった古巣に楽曲提供をする快挙の後にまで年単位の時間が飛びます。その常識派メンバーと主人公の邂逅の会話でその後が窺われるだけの展開なのです。

 描かれた物語の構図としては、元々の想定通りの非常に興味深いものであると思います。しかしながら、二度に亘る『ジョジョの奇妙な冒険』第五部のラスボスの能力ではありませんが、特定の時間枠をブッ飛ばして無かったことにするような展開は、かなり安易ではあります。その結果、激昂してイベントに殴り込んできた元熱烈ファンの男のその後は全く描かれていませんし、それに対する世間の評価も描かれていません。また、恋愛の発覚による2人のメンバーの存続危機のうち、1人はテロ的事件まで引き起こすような事態の中、復活を果たし、もう1人はファンから見れば予兆もなくいきなり男と逃避行をして消えたという大事件を、プロダクション側はどう扱い、ファンと世間はどのように受け止めたのかも、全く描かれていません。

 おまけにビジネスに忠実な元のプロダクションは、買収劇の末に大手のコンプライアンスに服従することになると、いきなり人権侵害の見方を容れ、あっさりパヨク的思想の和解案を相手に提示することとなります。尺の都合もあるでしょうが、もっと彫り込んで描く余地は有ったのではないかと思えてなりません。

 それでも、この作品が投げかけるビジネス構造とその評価のありかたは重いものだと思えます。私の好きな小泉八雲の短編『常識』が何となく思い出されました。私はその物語がとても好きで、今でも繰り返し読むことがあり、私の月2回発行の『経営コラム SOLID AS FAITH』の第191話『猟師の常識』の主要なモチーフとして採用しました。以下のような文章です。

[以下全文引用↓]

その191:猟師の常識

『標題の件ですが、再三申し上げております通り、「先生」の呼称は、正直申
しまして、当方といたしましては、不快・不愉快を禁じ得ません。再三申し上
げて、なぜ、ご理解賜れないのか全く理解できません』と言う文章から、説明
に移り、
『よって、私は、「先生」などと決して呼ばれるわけには行かないものと思っ
ておりますし、そのように私を呼ぶ方は、詰まる所、私の仕事への姿勢や仕事
のあり方をご理解いただいていないものと解釈せざるを得ません』とまとめ、
『長くなりましたが、以上、お含みの上、「先生」では決してない請負業者市
川と、例えば、会社に来る、コーヒーメーカーのコーヒー豆補充担当者や、足
拭きマット交換担当者、さらには、コピー機のトナー交換担当者などと同様の
お付き合いを末永く賜れますようお願い申し上げます』とメールを締め括る。
小料理屋で会って、高く評価して戴き、仕事を貰うことになりかけている相
手の副社長に向かって送信した。

何かに資する。何かを使命とする。そんな高邁な思想とは無縁の稼業だと思
っている。志も情熱も理念もない。本を書きたいとも、自説を打ち立て知らし
めたいとも思わない。理論、理屈、あるべき論、トレンド。それらとは離れた
所に、中小零細企業の「現実」の一部は間違いなく存在する。その組織経営に
良くも悪くも経営者の人間性が投影するが故の泥臭い問題は山積する。それら
に真っ向向き合うだけの請負作業である。

昔、ある山村の寺に夜毎、普賢菩薩が眩い光と共に光臨し始める。和尚はそ
れを有難く拝み、食べ物を運び込み寺の生活を支える村人の中の一人、猟師に
この事実を告げ、一緒に拝み功徳を得るよう薦めた。その夜、和尚、小僧、猟
師の三人が待つ前に果たして六本の牙を持つ白象に載った普賢菩薩が現れる。
猟師が立ち上がり、普賢菩薩に矢を放つと、大音響と共に普賢菩薩は消え、残
った血痕を辿ると、人をたぶらかす力を得た古狸が死んでいた。猟師は静かに
言う。
「わたしは、無学の猟師で、殺生を生業としております。命を奪ることは、仏
さまの忌われるところです。それなのに、どうして、普賢菩薩をおがむことが
できましょうか」。
小泉八雲の『常識』と言う私の大好きな話である。

殺生を繰り返し、獣の血に手を染め、皮を剥ぎ、臓物を引きずり出す生業。
猟師は自らの生業故に、御仏を見ることも叶わず、悟り清らかな生活を送るこ
とはないことを知っている。それでも、猟師は獣の命をひたすらに奪い続ける。
その生業が人様から求められ、そして自らを生かしていると知っているからで
ある。

[以上全文引用↑]

 私は人材ビジネスの事業企画の立案請負や実践支援を長く生業として来て、人材派遣においても、人材紹介においても、アウトソーサーの業務請負においても、人材を商品と見做し、その「在庫管理」や「販売計画」を練ると実績が大きく伸びることを認識して愕然としたことがあります。人材紹介事業を立ち上げた際に、その「紹介担当者」になった私の同僚は、「この商売は、人間が売ったり買ったりしてはいけないものを扱って儲ける商売だ」と喝破していましたが、少なくとも上述の「3大マンビジネス」は本質的に人間をブツと見做してマーチャンダイジングを精緻に考えれば考えるほど儲かります。

(5大マンビジネスという時には、研修・育成事業とアウトプレースメントが加わりますが、特にアウトプレースメントのベネフィットの薄っぺらさは犯罪と見做すべきか迷うほどであることが殆どでした。)

 倫理に悖るという点で同様に、人間の想いや愛情を吸いだして換金する商売が、先述のような疑似恋愛主軸の感情労働型の商売でしょう。倫理らしきものに照らした時、本来人間の尊厳を商取引の対象に組み入れるべきではないのに、その商い構造を客として求める人々が多数存在し、そのニーズは、自分がパヨク的綺麗事を言って満たさなければ、他の誰かが礼も言わず掻っ攫って商売のネタにするだけのことでしょう。グレー・ゾーンでギリギリでブラックではないにせよ、その如何わしさを全部背負い、汚れた自分の手を分かっていて尚、行なうビジネスであるということだと思っています。

 その売ってはいけないモノを扱う商売の裏構造を炙り出すことに果敢に挑戦したという点で、私はこの作品に価値があると思っています。DVDは買いです。