12月12日の封切から丁度1週間経った金曜日の午前11時5分の回をバルト9で観て来ました。1日1回しか上映していませんが、全国でもたった2館しか選択肢がなく、それらはこのバルト9と池袋西口の老舗ミニシアターだけです。池袋でも1日1回夕方の上映しかなく、通常なら早起きが極端に苦手な夜型人間の私は夕刻の時間枠を選ぶはずですが、(当初の勢いや上映館数規模がだいぶ異なるものの、)同じく上映状況の維持が危ぶまれ始めた『チェンソーマン…』と連続で一気観をするためにこの時間のバルト9の上映を選んだのでした。
バルト9にノート型PCを持ち込み、観終ったばかりの『チェンソーマン…』の感想まとめのテキスト・ファイルを、ロビー上のカフェ・スペースに陣取って作って、文字を少々打ちこんだ段階で、あっという間に本作の入場開始案内を聞くことになりました。
私がこの作品を観ることにしたのは、今月初旬に観たこのシリーズ作品の第三弾とセットで告知されていた本作(第四弾(完結編ということだと思います。))をコンプリートするということ以外の殆ど理由が見当たりません。
シアターに入ると、私以外にジーサン年齢の男性が2人広いシアターの中にぽつぽつと席を取っていました。1人は私と同じ最後列ですが、かなり座席が離れています。私が3人目のジーサンですが、シアターが暗くなってからさらにジーサンが1人加わりました。(上映が終わって、エンドロール時にふと横に視線を投げると、最後列のジーサンは消滅していました。途中で退屈になって去ったのか、元々暇潰し目的で座っていたのか分かりませんが、多分、エンドロールの遥か以前からいなくなっていたのだろうと思われます。)
観客の年齢性別の構成で言うと、第一作の頃からトレンドは変わっていないように思えますが、(私が観に来ているタイミングの違いも多少あるかとは思いますが)観客動員は明らかに回を重ねるごとに減って行っているように思います。「鶏と卵」的ですが、観客動員と同時に上映館数や上映回数も減少傾向は明らかです。
観てみると、二点でちょっと驚かされました。一つは濡れ場の多さです。これだけセックス・シーンを盛り込まないと、観客動員が覚束ないということなのかもしれませんが、そうであるなら逆に、封切から1週間目で私も含めて平日の真昼間に4人のジーサンしか動員できないというのは、かなり厳しいように感じられます。ジーサン達もとうとうネット上のエロ動画鑑賞、AVのネット通販や配信サービスに目覚めて、わざわざ劇場にエロ鑑賞に来なくても良くなってきたのかもしれません。
もう一点は、ご都合主義的展開です。最後にハッピーエンドにするために、色んな登場人物を無理矢理恋愛関係に持ち込んで満たされている形にするし、ご都合主義的展開は山ほどあって、「うわ、これ現実にどう考えてもないわ」的に思うことも1度や2度ではありません。恋愛カップル成立劇以外にも、一樹の子供を妊娠していても抄子は一樹に告げていずに、自分で育てる決意をしていますが、破水して担ぎ込まれた医院は一樹の父が経営する一樹も元いた苦い思い出で満ちた医院です。おまけにたまさか島から帰ってきて残務整理をしていて、もうすぐ島に戻るという一樹の脇を抄子を乗せたストレッチャーが押し運ばれて行き、一樹がすべてを悟るのです。
何か出来過ぎの話でやや辟易感があります。しかし、第四作目ともなると、何か完全に嫌気がさすということもなく、何となく見守っていられるような気分になるのが不思議です。おまけに、第三作目から何か開眼したのか、抄子役の行平あい佳のセックスはどんどんエスカレートし、髪を振り乱し、大きく長く喘ぎ続け、肢体をくねらせ、その手のVシネどころか所謂ピンク映画の作品群の内容を楽勝で凌駕していて、「うん。頑張っているね」と微笑ましく観ていられます。
この不思議な感覚を敢えて言語化すると、「大人のお伽噺」という感じかと思います。最後は登場人物総出で大泣きの展開になりますが、涙腺が緩くなっているジーサンにはちょっと釣られてウルっと来るものがありました。四作シリーズで前作(第三作)がベストと言っていたのはギリ変わりませんし、今回の最終作はわざとらしさやご都合主義が鼻に衝き過ぎますが、人生のちょっとした幸せを拾い集めたような話で、ジンワリくることは否めません。第三作が、嫉妬と憎悪に狂った二人の狂気のセックスと復讐劇とか、その結果、主人公二人の眼前で抄子の元夫が抄子を凝視しながら焼身自殺という、狂気過ぎて、ぶっ飛んだ面白さだったので、その状態からまともな日常に何とか引き戻して話を終わらせようという宿命的な役割を背負った作品だと見るべきなのかも知れません。そのような観点で見ると、その役割を無難に果たすことができた秀作であるようにも思えてきます。
作品評価としては上に書いた通り、何やらホンワカ終わったという感じでしかありません。しかし、全四作を通して考えさせられるのは、セフレとは何かということです。このシリーズでも、セフレは通常の人間がなるものではないという制作者側の思い込みが非常に強く感じられます。
第一作においてセフレを志向したのは一樹の方で、その周辺には並行して数人のセフレが存在していたようです。それに加えるという提案をされた抄子は、セフレの関係を拒絶しようとしています。しかし、一樹への思いが募り、セフレでもつながっていることに妥協するのでした。その一樹は、妻が実は自分の実父の愛人で、自分の子供と思っていたのは、厳密には自分の弟にあたる赤ん坊だったというトラウマ級の家族内事件から、セフレとの関係だけに没入しようとしています。つまり、一樹はトラウマ故にセフレを求め、自分も相手のセフレになることを志向していますが、抄子はセフレに拒絶感を持っていることになります。抄子も離婚のトラウマは多少ありますが、それほど引き摺っているようには見えません。単に同窓会で昔の憧れだった一樹に惹かれるようになったというだけの展開から一樹のセフレワールドに妥協する用意なるのです。
その後、一樹と別れることになった抄子は何度となく色々な男性とセックスを重ねますが、どの男も結婚を求めてきたり、少なくとも正式な付き合いを求めてきたりして上手くいきません。隣課の同僚的男性と(向こうが妻子持ちなので)不倫関係に溺れる場面が第四作にありますが、これも宮地真緒演じる自分も当の夫にばれずに若い男と不倫を重ねている妻に露見して迫られ、あっさり「バカだったわ」と別れます。どこにもセックスだけを純粋に楽しむ関係を、それも継続的に維持しようとする男が現れないのです。
女性の方は抄子と一樹の共通の女友達がかなり自由恋愛というよりも、複数の相手と並行してセックスを愉しむ関係を構築できる様子を見せていますが、その彼女も乳癌による乳房の切除と言うトラウマを背負った結果、そうなったと描かれています。おまけに本作で女性作家と女性同士の性交に溺れるようになり、交際を宣言しています。女性同士の交際にも私は全然異を唱える気がありませんし、先述の通り、大団円の流れ的にこういうカップルも作っておきたかったのかとただ思うだけのことです。
しかし、疑問としてどうしても消えないのが、なぜセックスの官能を愉しむだけの間柄というのは、劇中のみならず、制作者側の想定においても、成立し得ないものとされているのかが分からないのです。私にはそれが非常に狭量なセックス観に思えてなりません。そして現実には、何となく嫌いでもなく、他に支障が出る関係性もないので、セックスをすることがある男女と言う関係性は、相応に世の中に存在しているように私には思えます。そしてそれらは、或る程度固定的な関係性であることが多いでしょうが、特定グループや特定の知人関係の中で、或る程度組み合わせ変更が起きることが許容されていて、結果的に彼らの関係性をセフレと見做すべきであるようなことはあるように思えるのです。
抄子のケースを見てみると、第三作の終わりで一樹と別れてから、本作の頭ではネットで見つけたであろう相手やシングル・バーで行き会った相手と行きずりのセックスを重ねていますが満たされていない…という状況として描かれています。抄子は同じ男性と連絡を取り合い何度もセックスだけを愉しむということもしませんし、(とてつもなく経済的に恵まれている訳でもないはずですが)金銭を要求することもありません。ここでもまた行きずりのセックスは満たされないものだというクリシェの価値観を制作者側が提示していることになります。
単純に一人一回のセックスというルールに従っているようにも見えます。まるでセフレとはそういうものだと決まっているが如くです。私が考えるセフレはそうではありません。セックスを純粋に楽しめる関係なら、何度でもあって何度でもセックスを重ねれば良いと思います。ただそれ以外の要素を持ち込まず、交際に転じる訳でもなければ、子供を作ろうともせず、単純にセックスの官能を味わうだけの関係です。よくある職場の上司の妻帯者男性と部下の独身女性の不倫関係なども、セックスの官能や精神的な充足感だけを目的に維持できるのなら、私は寧ろこれをセフレと呼ぶべきなのだろうと思っています。(職場での上下関係があるが故に、セックス「フレンド」と呼ぶことに違和感がありますが、ベッドの中に職場の上下関係は持ち込む必要が無いと私は思っています。)
第三作において、私は感想記事に「最早セフレの映画ではなくなっていること」という一項を設けていて、抄子と一樹が交際関係にあり結婚さえも相互に求める心情になっている居ることに、(本来の私のこのシリーズ作品に対する期待からすると)幻滅しています。それは第三作に始まったことではなく、前述のように制作者側の認識として、セフレは何かトラウマがある人間しかならず、仮にそれが成立したとしても、不安定で、消滅するか交際関係に移行するのが当然となっていることが常に透かし見えています。
そうした意味で、(原作は読んでいないので分かりませんが、)あくまでも映画作品シリーズ全体で見ると、どうも『セフレの品格(プライド)』というタイトルそのものが内容に合っていないように思えてならないのです。セフレという概念の掘り下げにはシリーズ全体で不発感が否めませんが、本作は当初からのコンプリートを狙うが故に、辛うじてDVDを買いということと考えざるを得ません。
追記:
第三作でもタイトルに入っている「慟哭」の意味が分からないと書きましたが、今回のケースでも「終恋」というのがよく分かりません。先述の通り、大団円の結果、あちこちにカップルが成立してしまい、少なくとも複数の恋が始まったようには見えます。主人公達は抄子の出産を機に第三作の中の二人の意向通り結婚をして、一樹が島で僻地医療に励み、抄子が子供と田舎の一軒家で彼を待つという典型的なエンディングが用意されていますが、これを「終恋」と表現するのか否か、私には少々疑問です。激しく燃え上がりあらゆる問題が内と外から発生する危うく魅惑的な「恋」が終わり、安定の「愛」の関係に落ち着いたということを言いたいのかもしれません。しかし、少々無茶な解釈なように思えなくはありません。
追記2:
私は全く観ていませんが、NHKの連続テレビ小説で主役を演じてから、結構大物感が出てきたらしい高石あかりは、第二作で妊娠中絶不良娘を演じた頃は代表作『ベイビーわるきゅーれ』もまだまだ本調子ではなく、無名に近かったように思います。(私は比較的最近TVerで『御上先生』の彼女のまあまあの好演を観ています。)第三作では劇中の話題に登場したぐらいだったように感じますが、今回は幸せな結婚をするということになっています。相手は抄子のセフレになり損ねたボクサー志望の青年です。現在の高石あかりのステータスからすると、脇役過ぎますし役の中身自体もパッとしません。しかし、無駄遣いに思えるこの配役も、やや無名時に彼女を起用したシリーズ作品への恩返しだったということなのかもしれません。