『トイ・ストーリー5』

 7月3日の封切から3週間余り経った水曜日の午後4時の回を、多摩センターの映画館で知己と二人で観て来ました。大ヒット映画の呼び声高く、この館でも1日に8回も上映がされています。子供連れが客層の中心との映画館側の読みから、すべて吹替版の上映になっています。翌々日の金曜日以降は1日5回から6回の上映に減りますが、それでも相当な勢いです。

 同日の時点で新宿では歌舞伎町の高額映画館も含めてマルチプレックス4館で上映がされています。ピカデリーでは吹替のみ7回、歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館では字幕5回+吹替10回、歌舞伎町の高額映画館では吹替5回、バルト9では字幕2回+吹替9回という物凄い回数です。合計すると1日38回もの上映です。24時間ぶち抜きで上映している訳ではありませんが、24時間で割ると1時間当たり約1.6回という規模で、これが封切から3週間余り経った状況なので驚かされます。因みに、外国人客を想定していると私が勝手に思っていた歌舞伎町の高額映画館では上映がすべて吹替版ですから、私の想定がどうも違うようであるということが分かりました。日本人であっても、相応に高収入の人物像であれば相対的に英語力は期待されますし、洋画の字幕鑑賞にも慣れていそうな気がします。仮にそうであるとしたら、歩いてすぐの他館では半値程で上映されている作品を大枚払ってわざわざこの館に吹替で観に来る観客の層は、どんなものなのか非常に不思議です。

 新宿では4館ですが、都内の主要駅では一応上映館が存在するものの、都内の上映館数は38で極端に多いというほどでもありません。メジャー作品に縁のない数々のミニシアターが抜け落ちた結果そうなったということでしょう。全国の上映館数は382館で東京都内の10倍もあるのは、結構珍しいことです。

 私がこの作品を鑑賞作品候補に含めたことにそれほど大きな理由はありません。『トイ・ストーリー3』は劇場で初めての3D映画として鑑賞していますし、それ以外の1、2、4もDVDでは観ていて、4作が1995年、2000年、2010年、2019年と公開間隔がかなり長く、観ようと思っても前作の細かな物語を忘れており、関心が強くならないままに(劇場鑑賞した第3作以外は)流し観をするといった状況でした。端的に言って、それほど好きなシリーズではありません。

 ヒットシリーズでありながら、あまり好きになれない理由は、多分、仏教的な供養の発想によるおもちゃ達が消え入る選択肢の扱いが粗いままに、いつまでも主人公のおもちゃ達が頑張り続ける姿が描かれる所に、或る種の偽善を感じることかと思います。そしておもちゃ達の自己主張も行動力も強く、勝手に悩んで問題を自己解決しようしてばかりいて、そこに諦念がないことがやや傲慢に感じることもあるでしょう。今まで真面目に考えてみたことがありませんでしたが、今回の鑑賞に当たってこのシリーズのテイストが好きになれない理由を改めて考えてみた上での結論です。

 それでもおもちゃの社会に生じる矛盾や理不尽をいちいちテーマに取り上げる制作姿勢には評価すべき点もあるとは思っています。第1作では「存在そのものの価値」がある旧来のおもちゃが、人間が想像を膨らませて遊ぶ道具となっているのに対して、SFヒーロー番組のキャラのおもちゃが登場し、おもちゃの新旧対決の様相が呈されています。第2作では、コレクション対象としてのおもちゃの価値という見地が登場します。そして、飽きられ、忘れ去られ、捨てられるおもちゃの悲哀も前作以上に強調されます。

 第3作ではとうとう第1作から第2作でおもちゃ達の持ち主だったアンディ少年が17歳となり大学進学と共に家を出ることになります。持っていくお気に入りのおもちゃと屋根裏部屋にしまわれ忘れ去られるおもちゃの選別や、保育園でのおもちゃの雑な扱いなどが描かれています。おもちゃ達はこの第3作で新たな持ち主の少女ボニーの手にまるごと渡ります。アンディがボニーに大切なおもちゃ達を1個々々紹介して引き継ぐ場面があります。涙を誘う場面でもありますが、非常に発生頻度が低いレアケースであろうと思えてしまいます。おもちゃ達はそれまでにも、ゴミ収集車でゴミ処理場に送られそうになったり、ガレージセールで売られそうになったり、雑に扱われて破損したまま廃棄されたりなどの憂き目に遭う場面が、第3作までで何度となく描かれているからです。

 第3作では持ち主が交代しましたが、第4作では主役のおもちゃが交代します。主人公のウッディが野良おもちゃになる道を選ぶからです。一部のおもちゃに自我が芽生え、子供たちを喜ばせるという役割を卒業できるという「キャリア(?)」上の選択肢が生まれています。さらに物語中にはおもちゃの方から持ち主を選ぶという積極的なキャリア選択の場面さえあるのです。先述のようなおもちゃの諦念を意識してみていると、この第4作は最もしっくりこない物語と言えます。ここから物語のおもちゃ側の主人公は、カウボーイのウッディの妹分であるカウガール・ジェシーに移ります。そして、ジェシーに恋するバズらは、ウッディがこれまで抱いていたのと同様の懊悩や煩悶を微かに抱きながら少女ボニーのおもちゃであり続けるのです。そして、そこにも再び危機が訪れます。それが、今作です。

 おもちゃの危機は、これまでの作品では基本的に破損し廃棄されることと、持ち主の成長と共に忘れ去れることでした。ボニーも前作に比してやや成長していますが、ネットに拠れば8歳の設定とのことです。従前ずっと想像力を駆使したままごと的おもちゃ遊びを堪能してきた彼女は、17歳で大学進学をするアンディのような大人への成長には至っていません。しかしおもちゃ達には新たなタイプの危機が訪れるのです。それは情報端末のおもちゃの登場です。劇中では英語をそのままに「デジタル・デバイス」と呼ばれています。

 これはなかなかタイムリーなテーマだと思えました。

 シンプルな切り口にまとめると、デジタル機器と子供の関係です。ジョブズもゲイツも自分の子供にデジタル・デバイスを与えてないとよく言われます。そうしたデバイスの作り手である彼らは、子供達にデジタル・デバイスが与えるデメリットを熟知しているからということです。しかし、巷間に広まったこの噂話には、ジョブズやゲイツ自分の子供達に何をさせているのかの答えがありません。本作では、その答えが提示されているようなのです。以下のような映画.comの解説文と幾つかのウェブ上の紹介文を読んで、この関心を膨らませ、劇場に足を運ぶことになったのでした。

[以下引用↓]

おもちゃと子どもの絆を描いてきたディズニー&ピクサーの人気作品「トイ・ストーリー」シリーズの第5作。現代的なテクノロジーというかつてない脅威を前に、ウッディとバズが再び手を取り立ち向かう姿を描く。

ボニーのもとで暮らすバズやジェシー、フォーキーたちは、これまでと変わらぬ日常を送っていた。しかし、最新型の電子タブレット「リリーパッド」がやってきたことで状況は一変。多機能なデバイスに夢中になるボニーの姿を前に、おもちゃたちは自分たちの存在意義に疑問を抱き始める。「おもちゃはもう必要とされていないのか」という不安が広がる中、仲間からのSOSを受けたウッディが再びボニーのもとへ戻り、バズと再会する。かつての名コンビは、おもちゃの居場所を守るため、新たな脅威に立ち向かう。

「ファインディング・ニモ」「ウォーリー」などで知られ、これまでの「トイ・ストーリー」シリーズでも原案や脚本を務めてきたアンドリュー・スタントンが監督・脚本を務め、シリーズを支えてきたクリエイターとして新たな物語を描き出す。共同監督に、ピクサーの短編「アルベルトの手紙」を手がけたケナ・ハリス。日本語吹き替え版ではウッディ役の唐沢寿明、バズ役の所ジョージをはじめ、日下由美、竜星涼らおなじみのキャストが参加している。

2026年製作/102分/G/アメリカ
原題または英題:Toy Story 5
配給:ディズニー
劇場公開日:2026年7月3日

[以上引用↑]

 シアターに入ると、劇場の目論み通り、子供とその引率の親や祖父母の姿が非常に目立ちました。子供連れには3人連れも多く、両親に対して子供1人というケースもあれば、母・祖母の大人に対して子供1人というケースも、父に対して子供2人というケースもありました。いずれにせよ、3人組は全体で5組ぐらいおり、すべて子供1人以上を含む組み合わせであったように記憶しています。2人連れの方は全部で10組ぐらいいたように思いますが、3人組に比べてかなりアバウトな記憶です。こちらの方は親(より的確には保護者かと思いますが)1人に対して子供1人という組み合わせも2、3組いましたが、過半数はそれ以外の組み合わせだったように思います。若者カップルが目立ちましたが、20代前半に見える男性2人連れもいましたし、40代に見える男女の2人連れもいました。

 それ以外の単独客は20~40代ぐらいが中心層で1桁程度の数でした。そう観客数50人弱に見える中で、単独客は明らかに少数派でした。全体を見渡すと男女比は僅かに女性が多い稼働かという感じのほぼ半々で、それは複数客にも単独客にも共通の性別分散であったように感じます。

 観てみると、先述の「スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツが自分の子供達にデジタル・デバイスの代わりに与えているもの」についての問いは(勿論、それが明示される訳ではありませんが)原理的にはそれが「おもちゃ遊び」(≒おままごと)であると映画が提示していることが分かります。そうした遊びが楽しいと再自覚したボニーを含む子供たちを前にして、ボニーに与えられたデジタル・デバイスおもちゃの「リリーパッド」は自分の存在が子供達の可能性を奪っていると自覚して、廃品回収のトラックの荷台に身を投げるような展開まで用意されています。

 では劇中で描かれる「デジタル・デバイス」の難点は何であるのかということになります。劇中で強調されているのは以下の二点であるように見えます。

▲子供達だけにコントロールが任されたウィーク・タイズだけをもたらすこと
▲身体性を引き上げる遊びの要素がないこと

 さらに、劇中では特段描かれていないポイントですが、一般論で言うなら、以下の点が挙げられるかもしれません。

▲高度に計算され決められた遊び方のみが提供されること
(少なくとも劇中で子供達がタブレット端末に新たなアプリを自ら探し出して特定目的を達成しようと工夫すると言った場面は登場しませんし、仮にどのようなアプリを獲得しようとも、アプリの中ではあらかじめ決められた想定の遊び方しか基本的にできません。劇中でも描かれる「おもちゃ遊び」の創造性が発揮されるような用い方はできないはずです。)

 リリーパッドはSNS的アプリやゲームアプリを通じてたくさん友達を作れると言いますが、それは表面上の知り合いでしかなく、劇中でジェシーは「顔を見て話をしたりしてちゃんと分かり合う関係じゃない」が糾弾しています。この主張がこの作品そのものの主張でもあります。そして、先述のようにボニーがリリーパッドがもたらした関係性によって辛い思いをしたことを知ってリリーパッドは事実上の自殺を図ろうとさえする展開になっています。

 身体性を引き上げる遊びの要素がないことは明確に否定されてはいませんが、タブレットにかじりついている子供達との関係性はボニーと新たな親友ブレイズの眼中には全く無く、彼女達は昔ながらの「おもちゃ遊び」に没頭して行きます。映画の主張としては、子供達の選択に任せ、タブレットで遊ぶのもおもちゃ遊びも選択肢の中にあるということのようにも取れますが、事実上、主人公達が選んだのは「おもちゃ遊び」の方ですし、その前の段階で先述のおもちゃ側の主人公ジェシーの発言がある訳ですから、少なくとも肯定的な扱いを受けていないと解釈できそうです。

 ザ・テック・トリオと呼ばれるおもちゃとデジタル・デバイスの中間に位置しそうなガジェット系の電子おもちゃが登場しています。幼児のトイレトレーニング用の知育玩具のスマーティー・パンツ、GPS機能を搭載して地図を表示するカバの形をしたアトラス、デジカメのスナッピーです。彼らはネット接続ができる状態にはなっていますが、クラウドを想定したような動きができない単機能のおもちゃとして位置付けられており、少なくともタブレットのような睨んでいて時間がどんどん過ぎるような存在ではありません。

 すったもんだの冒険劇の中で、リリーパッドは新型のバズ50体ほどにドローン機能をDLして実装させ、全体で飛行ができるようにする大活躍をしたりしつつ、彼女の居場所を見つけます。ザ・テック・トリオも同様で、廃品回収の車で去って行くリリーパッドの追跡を3体の連携で実現するなどしています。最終的には、これら4体はボニーとブレイズのおもちゃ遊びの一部に取り込まれて、その機能をそこそこ活かしつつ、存在することになって行っています。これがこの作品の理想的な落としどころということなのでしょう。

 新型バズにドローン機能を実装させたりすることも、SNS上のグループの中での大人の目の届かない(所謂「学校裏サイト」に通じるような)サイトの中のいじめ問題など、7年ぶりの新作はかなり時流を意識した作りになっています。観てみていろいろな昨今社会で言われているAIネタに思い至らせられます。たとえばこんな事柄です。

■日本のGIGAスクール構想の如何わしさ

 先日読んだばかりの藤原和博による『学校がウソくさい 新時代の教育改造ルール』は白眉の内容で、その内容の殆どに首肯できました。その中には優れた映像コンテンツで強化を教える授業そのものはかなり代替できるということが述べられています。そうした用途でのデジタル・デバイスの使用はアリかと思われますが、「デジタル機器に慣れる」だの、イミフの根拠でタブレットを子供達に与え、ゲームやネットの使用と規制のイタチごっこを続けるような放任状態には全く賛同できません。「海外は進んでいる。子供達に学校でデジタル機器を使った教育は当然」のような鳴物入りで導入されたGIGAスクール構想も、その本家本元の海外の方が問題に気付いて取りやめたという話もネットでよく見ます。

 現実にAI時代に必要とされるのはAIにできないことを行なう知識やスキル、若しくは非認知能力です。それを育むべき重要な時間を削り取る愚行が「デジタル教育」の名の下に本末転倒に展開されることが多いと聞いてあきれてしまいます。劇中でもかなり早い段階で描かれる家々の自宅に籠ってタブレットを観続ける子供達の姿を未来のスキルを学んでいる素晴らしいものと受け止める人間はいないでしょう。そして先述のようにこうした時間の過ごし方を主人公の少女達は選択していないことに安堵します。 
 

■ウィーク・タイズの過大評価

 世の中的には、ウィーク・タイズが強調されるようになりました。ネットで検索するとAIさんが以下のようなまとめを示してくれています。

[以下引用↓]

●ウィークタイズ(Weak Ties)
・意味:あまり頻繁には会わない知人や、浅く広い関係。
・特徴:自分とは異なる新しい情報やアイデアをもたらしやすい。

●ストロングタイズ(Strong Ties)
・意味:家族や親しい友人、職場の仲間など、深く強い結びつき。
・特徴:強い信頼や心理的サポートが得られる一方で、情報が固定化しやすい。

[以上引用↑]

 ストロング・タイズは「情報が固定化しやすい」とのデメリットで文章が締め括られているのに対して、ウィーク・タイズの方はいいこと尽くめのように描かれています。このようなウィーク・タイズ礼賛の姿勢に私はかなり懐疑的です。

 所謂「上級国民」のような人間なら、ウィーク・タイズ一本で全く問題なく生きて行けるでしょう。しかし、SNSで繋がっただけの「お友だち」と呼称される人々や言っていることを見流し聞き流しているだけの「フォロワー」は、困った時に泊めてくれないでしょうし金を貸してもくれないでしょう。通称武漢ウイルスが蔓延したら、リスクを冒して看病してくれるようなこともないでしょう。こういう人々ばかりを自分の周囲に配置してしまったら、セーフティネットが全くない状態に近づいて行きます。そしてどうしても困ったら「ナマポ」だの、「トクリュウ」だのといった話になりやすいことでしょう。

 ウィーク・タイズは自堕落な人間でも無責任な人間でも或る意味簡単に作れますが、ストロング・タイズを新たに得ることは並大抵のことではありません。マナーや配慮、努力などが恒常的に必要になるでしょう。北海道の私立大学で『職業を知る』という授業を教え、キャリア形成や働き方などについて学生に考えさせる抗議をしていました。受講生からは講義の内容が好評で、卒業後に会った元学生から「最後の回で『取り敢えず、本当に困ったんですとお願いしたら、ぽんと100万円を貸してくれる人物を3人作れ。そうすれば人生が大分楽に進められるようになる』と言われたのが忘れられません」などと言われたこともあります。

 この作品においても安易な「ウィーク・タイズづくり」がどちらかというと否定的に扱われていることに、好感を持ちました。

■実体が忘れ去られること、捨てられることについての諦念

 この物語のシリーズではおもちゃの末路が常に意識の片隅に存在します。廃棄されるおもちゃも登場しますし、主人公のおもちゃ達が博物館でヴィンテージ・コレクションとしてずっと保管展示され続ける選択肢について悩む場面も登場します。さらに幼児にただ雑に扱われ破壊されるだけのような立場をやはり好とはできないことも描かれています。

 主人公の主要なおもちゃ達は辛くもそうした末路を回避し続けることに成功していますが、それもどちらかと言えば単なる偶然の結果で、岐路においては運命を受け容れる態度を示す姿が描かれていたりします。取り分け、初期の主人公のウッディとバズは第三作において成長したアンディとの別離に当たり懊悩しています。

 そして、明確には描かれていないものの、後半のおもちゃ主人公であるジェシーは既に見捨てられた経験があり、それがトラウマになっています。そのジェシーが今回自分を捨てた持ち主と嘗て住んでいた家を訪れることになります(それが上述のブレイズの家です。)。広い裏山のような土地で馬が放牧されています。丘の上に一本立っている思い出の木の下に行くと、木の幹に「ジェシー参上」と掘り付けられていることに気づきます。そして、その下に埋められていた缶の箱を掘り出すのでした。

 そこには、「愛するジェシーへ」と裏書された母と幼い娘の写真がタイムカプセルとして幾つかのおもちゃなどと共に入れられていたのです。自分の名前が書かれているものの、おもちゃのジェシーは自分が居た時代の物品が入っているのではないことに気づきます。そして写真に写った母は、自分の元の持ち主の少女エミリーでした。エミリーは成長して自分の娘にジェシーと名付けていたことが分かるのです。

 これ知ったおもちゃのジェシーは用が済んで捨てられたにもかかわらず、自分の存在がエミリーに大きな何かを残していることに気づかされます。そして忘れ去られ捨てられるおもちゃの運命を前向きに受け容れるようになるのでした。ドタバタ大冒険が続くこの物語の中で、かなり短い尺しか割かれていないエピソードですが、泣かせます。

 よく死んで居なくなった人間について「記憶の中に生きている」というような表現をすることがあります。私は自分にとって大切な人々はまるで往年のヒット・ロック・バンドのようなものだと思っています。メンバーそのものは年老いて、解散し、さらに一人また一人と他界して行きます。しかし、彼らの珠玉の作品群は人々の手にコンテンツとして残り、場合によっては世代を超えて、ずっと人々と共にあり続けるようになります。バンドが解散したからと言って、唐突にそれらの名盤の価値がなくなることはありませんし、突如記憶から消えてしまう訳でもありません。

 ウッディやバズは、「子供たちを喜ばせる」というおもちゃの使命をよく口にします。存在そのものに生れ付きの役割があり、それに殉じなければならないというのは構造主義的発想で、個人が好きに権利を主張する米国的発想とは乖離しています。そして、ジェシーが受け容れたものは、人間で言えば、記憶に生きることに移行する死そのものです。そしてジェシーの心に芽生えたのは、単なるトラウマからの解放などを超越した諦念だったのではないかと思えます。尺が短過ぎたようにも思えますが、秀逸な物語設定だと思います。

 同じ映画館で観た『私がビーバーになる時』のようなドタバタの冒険劇が、幼児や未就学児童を対象にするには必然だったのかもしれませんが、錬成されたおもちゃ達の「人生(?)観」がやや描き足りない気がしないではありません。それでも、現代のAIと人との関係性まで視野に入れた問題提起と、それに対して、妥当と思える答えの提示にまで至った制作側の姿勢には好感が持てました。DVDは買いかなと思います。