『見えない娘 THE INVISIBLES』

 8月28日の公開からまだ3日目の8月末日月曜日の21時45分の回を、歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館で知己と観て来ました。1日3回の上映が為されています。マイナーな作品にも関わらず、新宿では明治通り沿いのミニシアターがもう1館で1日2回上映しています。都下に拡大すると14館、全国では86館で上映されているようです。

 観たいと思えた最初のきっかけは、公開日翌日に放送された『王様のブランチ』での小品紹介特集のようなコーナーの1本としてこの作品が紹介されたことです。そこで大まかな物語設定と主人公が毎熊克哉であることを知りました。観たいと思えた大きな理由は二つで、1つはトレーラーの画像で観た毎熊克哉がまさに当たり役という感じに見えたことです。そして、もう1つは、ロードムービーが基本的にあまり好きではなく避けることが多い私にとって、透明人間のロードムービーが非常に斬新な設定に思え、関心が湧いたことが大きいかと思えます。

 毎熊克哉については、『「桐島です」』を劇場で2025年7月に観た際の感想記事にこのように書いています。

[以下引用↓]

 桐島を演じた毎熊克哉は、パンフに特に書かれていませんが、指名手配写真に酷似した表情を本当によく作り出しており驚かされます。私にとってはここ最近では原作者の自死により実質的にお蔵入りと思われる『セクシー田中さん』の準主役の印象がとくに強く、たった1話の登場ながら『どうする家康』の裏切者役もかなり印象に残っています。

 その後、劇場で鑑賞した中でも『ビリーバーズ』の第三本部長や『悪い夏』の腐った市役所職員など、あちこちに登場していますが、今回のような主役級がなく、物語に馴染みこんでいて、むしろ存在感があまりないぐらいです。主役をやってもこれほど物語全体で大きな主張が成立する作品を成立させられる名優なのであろうと思われます。

 その他にも劇場で観た(私には全然魅力が感じられなかった)『AI崩壊』など多々私が観ている作品にも出演しているようですが気付くことがありませんでしたし、ウィキに拠れば『私の奴隷になりなさい』シリーズの第二作・第三作の主演が出世作であるように書かれていますが、私は第一作しか観ていないので分かりません。今後彼を発見しても当分は、本作と『セクシー田中さん』が連想されることと思います。

[以上引用↑]

 さらに、この『「桐島です」』鑑賞の3ヶ月前に観た、上の文中に登場する『悪い夏』の感想には、恐ろしいほどのイメチェンを経た木南晴夏についての言及の後で、彼女と『セクシー田中さん』繋がりの文章展開で以下のように書いています。

[以下引用↓]

 幻になってしまった主演作『セクシー田中さん』でその彼女が交際にも至らない微妙な関係性を築いていた相手が毎熊克哉で、今回は愛美の胸を揉みしだく高野を演じています。元々芝居を作る側だったことなどが、ウィキを見ると書かれていますが、私はあまり彼を観ることがありませんでした。しかし、認識するごとに全然違う性格や設定の人物を綺麗に演じ分けています。私が知っている本作以外の彼の出演作は、先述の『セクシー田中さん』の気難しいけれども真面目で奥手な会社員、『どうする家康』の家康を裏切り武田に寝返ろうとして、瀬名と信康を誅殺しようとする岡崎城代の大岡弥四郎、山本直樹原作の映画『ビリーバーズ』で副議長の恋人として現れ、結果的に教団から逃避行を企てる幹部の第三本部長と、かなりバラバラですが、芸達者にも、きっちりその場にフィットしている感じです。今回でさらに役のふり幅が広いことが見せつけられたように思います。7月には問題作の『桐島です』の公開が控えています。トレーラーで見る彼の外見が指名手配書の桐島本人にあまりに似ていて驚かされます。また彼のバリエーションの広さを見せつけられそうです。

[以上引用↑]

 さらにその後、彼が主人公を務めているらしい『安楽死特区』の劇場公開情報を知って、一応、鑑賞候補作に入れたものの、思いの外、終映が早く、見逃してしまっていました。(DVDで鑑賞予定です。)

 上の文章では演じる役柄がバラバラと書き、彼について書かれた文章でも(例えば、ウィキには「2018年の1年で『万引き家族』『空飛ぶタイヤ』などの話題作からインデペンデント作品まで10本を超える公開作品に出演し幅広い役柄を演じて、確かな演技力とかつての東映や日活の俳優を彷彿させる鋭い眼光と硬派な佇まいにより映画関係者から注目を集め…」といった文章があります。)役柄のバリエーションの広さが注目されているように書かれていますが、幾つか彼の出演作が溜まって来ると、何となく内向的な役がフィットするように感じていました。

 内向的なのに、その思いが何か内部で発酵して、外側に滲み出るか噴き出るかしてくるような役と言うべきかもしれません。その辺が、今回は本作のトレーラーを観てコメディと理解した上で、どんな風になるのかについて、関心が湧いたのでした。

 そして、先述の通りロードムービーが好きではない私は、そういった作品を避けていますが、本作がその類型に嵌っていることは一応以下の映画.comの紹介文で認識していました。

[以下引用↓]

「MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」で注目を集めた竹林亮監督が、透明人間の娘と一緒に東京へ旅に出た家族の奮闘を描いたSFドラマ。

とある島でひっそりと暮らす星野家の父と3人の娘たちには、少し変わった秘密があった。それは、末娘のひかりが、生まれつき透明人間であること。娘たちを朗らかに育てた母が他界した後、心配性の父・学は三姉妹を人目から隠すようにして暮らしてきた。そんなある日、東京に住む大女優の祖母・砂川エリ子が入院したという知らせが届く。家族はひかりが透明人間であることをエリ子に打ち明けられないまま東京へ向かって出発するが、その道中にはさまざまな危険や困難が待ち受けていた。

「初級演技レッスン」「ケンとカズ」などの毎熊克哉が父・学役で主演を務め、近藤華が長女・風子役、矢山花が次女・音々役、鈴木凛子が透明人間の三女・ひかり役、余貴美子が祖母・砂川エリ子役、寺島進がタクシー運転手・倉田誠一役で共演。アニメーション映画「超かぐや姫!」の脚本家・夏生さえりが竹林監督と共同で企画・脚本を手がけた。

2026年製作/110分/G/日本
配給:パルコ、CHOCOLATE Inc.
劇場公開日:2026年8月28日

[以上引用↑]

 私がロードムービーが好きになれない理由は、なんとはなしの自覚しかありませんが、多分、幾つかの理由が複合的に混じり合っています。1つは私自身が旅行があまり好きではないことです。慣れた所の方が快適に時間が過ぎるのは当たり前のことで、その快適さや安定感を大きく超える感動などの価値があるのでなければ、わざわざ時間と労力と費用と、そして道中の面倒事のリスクなどを耐えて目的地の何かに到達したいとは到底思えません。基本的にインドア派ですので、電車日帰りなどの観光は楽しめる余地がありますが、それ以上の未知は面倒事とほぼ同義であろうと感じてしまいます。

 そんな私がロードムービーを見ると、道中の色々な実際に起き得るであろう場面があまりに都合よくカットされているように見えて仕方がありません。例えば、食事をどうしているのかとか、ずっと車中に座っているのならエコノミー症候群対策はどうしているのかとか、睡眠は十分とれているのかとか、普段飲み続けているような持病の処方薬はもっているのかとか、さらに、給油はこんな程度ではあるまいとか、例えば本作でも2万円ものタクシー代を現金で払う場面がありますが、多くのロードムービーの中でかかった費用を真面目に試算してみるとかなりの大金を要することが分かるのに、劇中では全くそのようなことが表面化しないようなケースも非常に多いように思います。

 また、ロードムービーにおいて、途上で登場人物達がまるでドラえもんのポケットでもあるかのように、都合よく、薬やサングラスやマスクなどを何かの必要に応じて持ち出すことがありますが、現実には、ドラッグストアも近くにないようなルートで、かばんも小さく、極僅かなものしか持参していないはずなのに、どこからそれらを出しているのか分からないように思えることは多々あります。下着もそうで、数日や1週間に及ぶ移動でずっと車中にいて、コインランドリーに寄っている場面もないのに、体や下着が臭いなどとは登場人物が一切言わないというのも、ファンタジー過ぎて私には興醒めに思えるのです。

 そんな私のロードムービー感ですが、今回もそれは発生するであろうことが予測されましたが、基本的に移動距離がそれほど長くなく、家族御一行様の慣れた関係性の人々の物語であり、その上、その一人が透明人間という特殊性バッチリで、各種のエピソードに事欠かないであろうと期待から、楽しいロードムービーであれば、上述のような疑問や苛立ちや不満が発生しにくいかもと期待したのでした。

 色々な不発感は在って、評価はイマイチでしたが、同様に一応楽しむことができたコメディ系のロードムービーの事例に『ダンスウィズミー』があります。こちらも催眠術が大きなモチーフになっていて、ロードムービー臭さが少なくとも未見段階ではあまり感じられませんが、後半は延々と『母を訪ねて三千里』的な展開で移動が重ねられます。それも途中で金が尽き、金策をしながらの道中になるのです。色々外している感は在りましたが、一応楽しめる作品だと思いました。

 そんな期待から本作を観に行くことにしたのです。

 シアターに入ると私達以外に10人ほど観客がいました。暗くなってから半数近くが入ってきたので、年齢構成どころか性別の確認さえ難しいぐらいでしたが、概ね50代以上が過半数のように見えました。20代から30代ぐらいの若目の観客は私達以外唯一の2人連れの男女で、それ以外は全員単独客でした。残った総勢8名の単独客の中に女性は1人しかいなかったように思います。

 観てみると、思春期の娘たちに振り回される父親の姿が、よくあるシングル・ファーザーものとしてもそこそこ良い出来のコミカルさで、まあまあ楽しめる雰囲気がベースに存在する作品でした。早くに亡くなってしまった妻(娘たちの母)。そして透明人間である三女を、先天性の重病と偽って、会わせることをずっと拒み、疎遠になってしまっていた大女優である義母(妻(娘たちの母)の母)。離島で暮らす3人娘と父の小さな閉じた世界の過去にだけ存在する妻と外に疎外したままにされた義母との関係性も結構細やかに描かれています。

 その物語設定的基礎がある上に、盛られた大ネタが三女の透明人間の話です。透明人間の物語は世の中にたくさんあります。一般的な物語の他にも、AVにさえ頻繁に採用される設定です。多くのケースは、透明人間は生体が透明になるという設定です。服を着ても服だけは見えてしまいますから、透明性を発揮しようとすると全裸になる必要があります。冬だろうと冷房ギンギンの部屋だろうと、全裸でいる必要があるのはなかなか無理があります。アフリカの原住民族のような人々もいますから、基本的に無理ではないのかもしれませんが、どこに行くのでも裸足で行かねばならないのも、かなり辛い状況になります。

 この難点を解消する設定も幾つかあります。例えば、ファンタスティック4のスー・ストーム(インビジブル・ウーマン)のようなスーツごと消える妙に都合の良い設定もあります。確か『インクレディブル・ファミリー』の娘もスー・ストームのパクリ設定の能力だったかと記憶します。女性に怪力の能力や、それに伴う醜悪化の能力を持たせるのは良くないと、ジェンダーフリーに真向逆らう逆差別的な発想の故か、戦隊型の一群の中では、透明化の能力は大抵女性に割り振られます。しかし、その場合、全裸で透明化すると、戻った時に全裸状態で現れることになってしまいます。それでは問題があるので、馬鹿げて都合の良いその能力を「透過させる」ご都合主義スーツを身に纏うことになっているようです。

 一方で、このご都合主義をさらに合理的な解釈で突破した事例も存在します。例えば、『攻殻機動隊』で登場メンバーたちが装着する光学迷彩です。完璧な素通しではありませんし、よく見れば動きと同時に画像がややずれたりするので、輪郭が現れたりしますが、一応の透明性が確保できる設定になっています。これは現実の技術でもLEDモニタの進化と共にやや近いものが開発されつつある優れモノです。『ダンダダン』のバモラちゃんの怪獣スーツも同様の機能のようです。

 さらに斬新な発想の設定もあります。『ジョジョの奇妙な冒険』に登場する静・ジョースター(透明赤ちゃん)です。彼女は自身の透明化のスタンド能力を自分を中心に“放射”しており、自分の身体の中心ポイントから一定の半径内のものを無条件に透明化します。通常は自分と自分の服とその周囲のものの一部程度ですが、球体になる透明範囲の半径が拡大すると乗っているベビーカーが車輪の断片以外は透明化したりするようなことも起きますし、抱き上げた人物の腕や胸も透明化します。このスタンド能力なら、服を着ていても透明化が可能だということになります。

 本作での三女ひかりの透明化のケースは、劇中で見る限り、生体のみの透明化であるようで、出生直後に全身を覆うおくるみくるまれている状態の場面が登場しますが、おくるみの中身は透明で全く見えません。つまり、服を着ても同様になることになります。その事実からすると、現在9歳になったひかりは常に全裸でいる想定であることが分かります。しかし、全くおかしなことに、劇中でこの事実は一切言及されません。かなりご都合主義の演出です。劇中で、日常生活上、ずっと全裸状態で家の付近の雑木林も全裸で歩き回っていることになります。さらに、登場する新宿都庁付近の街でもずっと全裸だったことになります。繰り返しになりますが、劇中で全くこの事実は言及されません。一切無視されています。

 そして、生体の透明人間全般には物語設定上どうすべきかを決めねばならない難しい事実がいくつか存在し、多くの作品はその点を適当に設定したり、物語に登場させないようにして回避したり苦労しています。例えば、食べた食品はどうなるのかということがまず第一に挙げられます。

 消化液が透明で消化されるにつれて食べ物が胃腸の中で透明化するというのが順当な設定のように思えますが、その場合、口の中から食道ぐらい、場合によっては胃の中でも食品が見えてなければいけないことになります。かなり美しくない絵面になることでしょう。仮にその設定が採用されていれば、尿や便は透明化しているはずですので、そちらの方は問題がありません。しかし、例えば、劇中では9歳のひかりですから、年齢的に物語がそうした場面を回避することに成功していますが、例えば、月経時にタンポンを挿入していたらタンポンはずっと見え続けるのかとか、仮に男性とセックスして射精されたら膣内や子宮内に残る精液は見え続けるのかとか、そうした疑問は当然湧きます。

 ケビン・ベーコンが凶悪な性格の透明人間になる設定の『インビジブル』では主人公が女性科学者の元カノをレイプしようとするシーンが(朧気な記憶ですが)あったように思いますが、これは男の側が透明人間なので状況が異なります。

 さらに透明人間のよくある問題は、だいたいにして透明人間は目が見えるのかです。透明人間は生体総てが透明ですから眼球も透明で網膜も透明です。水晶体は誰しも透明ですから、そこを通して外界の映像は反転して網膜に写されるのは一般の人間と同じです。しかし、眼球の中は外部環境同様に光に溢れ、透明な網膜には(少なくとも周囲から見る限り)像は結実しないでしょう。透過するだけの光を網膜が感じて、それを脳に送るというのなら一応視覚情報は脳に伝わることになりますが、明るい眼球の中でその水晶体以外からの光情報も溢れる中で、きちんと眼前の視野の視覚情報だけを認識できるのかという問題がありそうに思えます。(ただ、原理的には飛蚊症や白内障の問題は生じそうにないように思えますから、その点は羨ましい限りです。)

 さらに、この三女ひかりの場合は、これらの通常の透明人間の設定上の困難に加えて複雑性が上がる要因が存在します。それは常時透明化の問題です。多くの他の物語の透明人間達は、後天的に透明人間になっています。つまり、自分の身体がどのようなものかを視覚的にきちんと把握した上で透明人間になっています。そして、多分ほぼ全部の物語で(と言ってもきちんと確認した訳ではありませんが…)透明化を解除することが意志を以てできることになっています。しかし、ひかりはそうではありません。生まれてこのかたずっと透明のままで一度たりとも自分の姿を見たことがないはずです。(勿論、例えば、金粉ショーのように全身に何かを塗りたくるなどすれば、かなり精緻に自身の身体を把握することができるはずなので、そうした努力はした過去があるかもしれません。)

 この場合、例えば、ひかりは怪我をして出血したことをどうやって認識するのかといった事もかなり疑問です。そのような怪我をすれば痛みは起きますから、怪我的な何かが発生したこととその部位は自覚できます。しかし、傷がどの程度か分かりませんし、手で触って出血を確認しようにも、手も見えなければ手についた出血も全く見えないのです。骨はレントゲン撮影で写るのでしょうから、骨折箇所などは分かりますし、エコーも有効であろうとは思いますが、それ以外はサーモグラフィなどを何かにつけて駆使しなければ、そうした状況に対応できないはずです。(それでも出血量を把握するとか傷口の大きさや深さを把握するのはなかなかの難易度の筈です。)

 もっと日常的な所では、毛髪や爪を切ることはできるのかとか、切った毛髪や爪は見えないままなのかとかも、いろいろと謎です。仮に切らずにいるのなら、透明で見えない実際の姿は一般的な原始人的なイメージの全裸のオオカミ少女といった感じになっているのだろうと想定されます。ひかりの自分の毛髪や爪についての認識は、実質的に、先天的な盲人のそれと近いものと思われます。なので、手探りで切ることは一応できるでしょう。しかし盲人のケースと絶対的に異なるのは、第三者の支援が極めて困難であることです。盲人の場合、本人以外の誰かが、高齢者介護作業の同様に、髪を整えたり、爪を切ったりすることができます。しかし、ひかりの場合、日常的に一緒に暮らしている長女や次女でさえ、劇中の彼女達のひかりへの身体接触の様子を見る限り、かなり困難であろうと思えてなりません。こうした困難の可能性も、劇中では全く触れられることがありません。

 劇中でひかりは、皆が本来の姿を彼女には見せると言っていて、ひかりは自分が風のような存在であると言っています。その通りではありますが、それはひかりの存在に気づかないからであって、それは本来或る種の「永遠の孤独」と表裏一体の状況であることを、ひかりは全く語りません。そのような劇中の状況を見ると、少なくともひかりの自分の存在についての認識はかなり甘いものと設定されているように見えます。

 社会的にも毎熊父が指摘するように、色々な困難が伴うように思えます。例えば、『亜人』の中の一群の亜人のように実験用モルモットにされてしまうとか、軍事利用されてしまうとかは、十分考えられるので、それを避けようとすれば、社会的に存在しないことにして生きて行く方が望ましいでしょう。

 その場合、生誕時に(医者が「このいきもの」のように読んでいることからも想定できるように)出生届を出すべきか否かという問題もあるように思います。出しても小学校入学もできません。何か障害があることにして、通学しない手もあるでしょうが、それでも全く外部の第三者と接触することなく押し通すことはかなり無理があるでしょう。だとすると、やはり戸籍上存在しないことにしてしまう方が、色々と面倒がなくてよいようにも感じられます。先述のように病気になった際にはどうするのかなどもかなり問題になりそうです。それこそ、毎熊克哉が好演した桐島を始めとする逃亡者たちが必要とするような一定数の(事情を把握していて尚信頼できる)協力者が必要になることでしょう。それも今回の離島の中の山林の中の一軒家の中で隠れ暮らすような方法で生きて行くしかないかもしれません。

 幸いにして桐島などの時代に比べて現在は通販が鄙びた田舎でさえ相応に充実し、収入を得るにも完全リモートも一応可能な状況にはなっています。そんな環境を創り上げつつ人生を送る道を協力者の支援を得て送るしかないように思えます。父親はひかりや彼女を支える長女・次女たちにかなり抽象的なレベルですが、そのような将来の危険性や想定される困難を告げて、覚悟を求めるような言動をしていますが、少女たちは「心配性」としてあっさり受け流している節が、少なくとも表面上見受けられます。

 劇中終盤で長女は大女優の祖母との邂逅の後、元々夢だった映画制作の道に進むべくハリウッドの何処かに留学を果たし、島を離れている状況が描かれます。次女は高校生ぐらいになっている様子ですが、大女優の祖母に対しても、女優になりたいと言っています。その未来が到来した際に、ひかりはどのような立場で何をしているのか。透明人間の設定上の色々な問題のみならず、ひかりの人生設計も何も全く描かないままに、物語は当初の出生シーンのシリアスな説明以上の踏込は一切せず、ドタバタのロードムービーに突入し終始し、ひかりの未来をも揺るがす長女の出奔を描いて終るのです。

 安易な設定過ぎて、コメディ部分が十分楽しめなかったように思えます。何とか大女優が初遭遇ではあまりの驚愕に気絶してしまった透明人間の孫の存在を、病床で受け容れるシーンなど涙を誘う名場面もありますし、その大女優の祖母を演じる余貴美子やタクシー運転手を演じる寺島進の安定の好演は見物ではあります。総体としては、湧き出てくる各種の疑問を振り払うことができればコメディの佳作に落ち着くことができるものと思えます。DVDは辛うじて買いでしょう。

 件の毎熊克哉が「親になった経験がない自分が…」と本人がパンフで書いている通り父親役にはちょっとミスマッチ感が漂う気もしないではありません。しかし、若い父親、それも今となっては思春期に掛かった娘3人を育てるシングル・ファーザーの戸惑いや必死さを上手く描くことに成功したとも言えるようにも思えます。

 長女と次女はずっとどこかで観たような気がすると思い続けて鑑賞していて、これも微かなコメディ要素を楽しめない要因になりました。パンフを観てからネットを検索して、長女(を演じた近藤華)の方は以前TVerで観た『アンチヒーロー』に出ずっぱりの少女、次女(を演じた矢山花)の方は比較的最近劇場鑑賞した『恋愛裁判』で芸能界から干された主人公に自分達のダンスを見てくれるようにせがむ一群の少女の一人であることが分かりました。長女の方は三人娘の中で、父とのコミュニケーションが質量ともに多い重要なポジションをきちんと勤めていますし、次女の方は、終盤の数年後の場面で、まるで別人のような成長ぶりが一瞬ではありますが披露されており、良い配役であるように思えました。

追記:
 この作品でさらに鑑賞中もずっと気になるポイントがありました。それはタイトルの『見えない娘 THE INVISIBLES』です。なぜ「INVISIBLES」と複数形にされているのかが気になるのです。当初は「the + [形容詞]」で「~な人々」ということかと解釈しましたが、劇中に透明人間はひかり一人ですし、その場合は形容詞なので最後のsは要らないはずです。ネットの辞書で改めて引いてみると、確かに名詞の意味もあり…

■可算名詞 目に見えないもの.
■[the invisible] 霊界・神

の意味があるようです。可算名詞でもあるので複数形は問題ありませんが、では複数の「目に見えないもの」は何だったのかということになります。劇中では長女・次女がひかりの存在を見失ったとき、亡き母から教わった方法とのことですが、目を閉じて感性を研ぎ澄ますと、ひかりの存在が離れていても感じられるものとして描かれています。「見えない方が、ひかりの存在を感じられる」と表現され、新宿都庁付近の地下通路で父も初めてその方法に挑戦しています。
 これはただ目には見えないだけの妹が確かにそこにいて、家族の大事な一員であるその存在との目に見えない(というより目に頼らない)強いきずながあるということの象徴的な演出なのであろうと思われます。知己とも話し、こうした目に見えない絆が、タイトルの「INVISIBLES」なのであろうと、何とか考え至りました。

追記2:
 登場人物の名前もかなり象徴的です。長女は「風子(ふうこ)」、次女は「音々(ねね)」、三女は「ひかり」、おまけに妻(母)は「心(こころ)」で、すべて、目に見えないものになっています。そうした意味を持たせた名前にしたのは間違いないでしょうが、三女が生まれる前からこうした名前が長女と次女に付けられていたという話になるので、ややご都合主義という気がしないではありません。さらに敢えてこじつけるのなら、そうしたことを意識している母だったからこそ、透明人間が生まれたのかもしれない…ということにしておくべきなのかもしれません。
 ちなみに父は「学(まなぶ)」で、亡き妻や娘たち、そして義母にさえ教え諭され気づかされてばかりの役柄そのまんまの名前です。

追記3:
 三女ひかりの声だけで出演している(私が全く知らなかった)鈴木凜子という10歳の女優(子役?)はパンフにも顔写真が載っていない透明人間ぶりですが、ネット記事『透明人間を好演の10歳・鈴木凜子 62歳の寺島進に対し「コーヒー飲めるんだ!大人だね!」』によると「映画本編では姿は見えない鈴木だが、リハーサルでは毎熊らキャストと実際に演技。本番時のみ監督やカメラの横に移動し、声のみの演技に切り替え透明人間を再現したという。」とのことでした。
 とすると、役者陣はひかりの実体を経験してからその所作・動作などを再現していたことになります。しかし、劇中で見る限り、見えないひかりと握手したりハイタッチしたり、またひかりを抱きしめたりする動きはどうもそれっぽく見えないわざとらしさを感じることが多いものでした。もしかすると、パントマイムのように、実態との接触の形を再現するのではなく、ないものをあるとイメージさせるための演出材料としての所作・動作が必要だったのかもしれません。