4月10日の封切から2週間余り経った土砂降りの月曜日の午前8時25分の回をつい先日『黄金泥棒』を観に行ったばかりの明治通り沿いのミニシアターで観て来ました。『黄金泥棒』と全く同じシアターでした。このシアターは入口がシアターの側面にあり、入口と反対側の座席の端は壁に接しているため、入口側の端からしか座席の列に入り込んでいくことができません。前回はその構造が明確ではない座席図で壁寄りの端の2席を選んでしまいました。今回はその体験から学習し、通路側の端どころか、通路側で且つ、座席群の一番端の角席にポツンと陣取ることができました。
封切後2週間までは、新宿でも歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館が上映をしていましたが、2週間を過ぎた所で、新宿の上映館はここ1館になりました。上映回数も1日たった1回で、おまけにこんな早朝枠ですから、もう風前の灯と言う感じです。これは見逃しかねないと、完全夜型人間の私が、辛い7時起床をして映画館に赴いたのでした。調べてみると、鑑賞時点で都内ではたった2館、ここと有楽町の1館でしか上映が為されていません。全国に拡大しても19館で、近畿エリアはゼロなのに、九州には5館も上映館が存在します。変わったまだら模様状態です。
61分しかない小品です。短いせいか特別価格になっていて、年齢などに関わらず一律1800円でした。シニアの枠が無いため、老人に厳しい価格設定になっています。映画.comの紹介文章は以下のようになっています。
[以下引用↓]
「岸辺露伴は動かない」シリーズの監督・渡辺一貴と主演・高橋一生のタッグによるオリジナル作品。岡山県に伝わる妖怪「脛擦り(すねこすり)」に着想を得て、深い森の中を舞台に、神秘的で美しく、そして残酷な愛の物語を描き出す。
人里から離れた深い森の中。足に傷を負った若い男は、女の甘い歌声に導かれ、古めかしい神社にたどり着く。そこには謎の男と、若く美しい妻・さゆりが暮らしていた。看病を受け、傷も癒えた若い男は、そこで夢のような、時の止まったかのような時間を過ごす。繰り返される穏やかな日々は、まるで永遠に続くかに思えたが……。
渡辺監督が岡山県の森に足を運び、その地に伝わる物語からインスピレーションを受けてオリジナル脚本を執筆。岡山県の高梁市や新見市で撮影が行われた。謎の男役で高橋一生が主演を務め、男とともに森の奥深くに暮らす謎の女・さゆりを、これが映画出演2作目となる新星・蒼戸虹子が演じた。第78回カンヌ国際映画祭監督週間に出品された「見晴らし世代」で主演を務め、注目を集める黒崎煌代が、傷を負い森に迷い込む若い男に扮する。
2026年製作/61分/日本
配給:シンカ
劇場公開日:2026年4月10日
[以上引用↑]
私がこの作品を観たいと思った理由はあまり明確ではありません。背景要因として、ここ最近長らく続いた「夏枯れ状態」がやや緩和してきた感がある割には、自分で積極的に観たいと思える映画作品が非常に限られたままになっていて、良さそうと思える程度のグループの作品群に手を伸ばしてみる構造的圧力を感じたことがあるかもしれません。今年に入ってから1月は劇場鑑賞2本、2月は4本ですが、そのうちの2本は同時上映でセットになったものですから、事実上3本と考えることができます。3月は2本で、4月も2本となりそうな中で、多少の梃入れの必要性を感じたということです。
このように今年の作品を振り返っても、どうしても観たいと手薬煉引いて待っていた作品は『星と月は天の穴』、『恋愛裁判』、『チェイン・リアクションズ』ぐらいで、そこに後付けで魅力を発見した『ブゴニア』ぐらいが加わります。圧倒的な「どうしても観たい作品」群の欠乏が分かります。このような「どうしても観たい作品」が4~5本、特定の月に集中することさえ、過去には年1回以上はあったのが、嘘のようです。
そこで、映画.comを始め、ネット上の各種映画情報を漁り、この作品に行き着きました。小品で観易いこと、高橋一生の特殊メイク姿の演技に多少関心が持てたことぐらいが、比較的主要な選択理由です。高橋一生はここ最近では、『岸辺露伴は…』シリーズでの印象が強く、この物語のあらすじを読んだ際、無意識から湧き出たのは『岸辺露伴は…』シリーズの『六壁坂』と『富豪村』です。
どちらも主人公の岸辺露伴が山に土着の妖怪や神と対峙する物語です。そして対峙はするものの退治するのではなく、辛うじてやり過ごしてその場を去るといった展開にしかなっていません。そこには自然や歴史、その土地そのものへの畏敬が存在しています。『岸辺露伴は…』シリーズは全体にそうですが、そうした人間ならざるものや人間の奥底に潜む情念に対する畏敬が物語を貫いているのが大きな特徴で、優れた小品がテレビシリーズには多数存在します。
そのような印象の物語群を支える高橋一生ですから、同じく森の怪異を描き、高橋一生がそれに対峙するやもしれないようなコンパクトな物語に対して漠然と期待が湧いたのでした。そして、劇場に赴く直前ぐらいのタイミングでよく解説文を読み返してみて、『岸辺露伴は…』シリーズの監督の渡辺一貴がオリジナル脚本製作まで行った物語であることを認識し、「神秘的で美しく、そして残酷な愛の物語」と評されていることに、期待が多少膨らんだのでした。
シアターに入ると、私以外に当初3人の女性客がいました。全員単独客です。さらに、トレーラーが終わり、本編が始まって数分した所で、さらに単独の女性客が1人加わりました。女性の年齢分布は若い方から30代、40代、60代、70代といった感じに見えました。30代の女性だけが茶髪でアクセサリーが目立つ出で立ちでしたが、それ以外の3人は雨対策バッチリの地味なジャンパーやブルゾンといった感じの外見です。
観てみると、少なくとも見た目だけでいうなら、『岸辺露伴は…』シリーズの映像に非常に酷似した美しい画像が延々と続く作品です。岸辺露伴などの登場人物を極端に引いたり寄ったりを重ねながら描く印象的なカメラ・アングル。日光に輝ききらめきさえ見せる木々やその枝葉の美しさ。そして建物などの人工物は廊下や境内などの奥行きや広がりが強調されるアングルが連発し、建築物の写真集のようでさえあります。
映画の告知では高橋一生の老人特殊メイクが話題になることが多く、私は高橋一生が妖怪「脛擦り」でそこに捕らわれた嫁にされたのが若い女さゆりで、そこに迷い込んだ若い男が脛擦りと対峙して、若い女を救いだして逃亡する…と言った物語展開を想像していました。しかし、実態は全く異なりました。
いつものこのブログ記事同様に「ネタバレ上等」ですので、ズバリ書くと、若い女さゆりこそが妖怪脛擦りで、若くして捕らわれた高橋一生は逃れることもできずにこの神社で年月を過ごし言葉を発することも覚束ないような老人に成り果てたということのようでした。そこに若い男が交代要員として捕らわれ、高齢の高橋一生は「あなたが来るのをずっと待っていました」と若い男に告げて社を去っていくのでした。
代わりが来ると逃れられる話というのは、非常によくある構造の話です。まさに岸辺露伴が初登場している『ジョジョの奇妙な冒険』の第四部でも送電塔に虜になる話がありますし、他にも類例は多々存在します。そういった観点から見ると、この物語は特段の捻りもありませんし、映画.comの紹介文に書かれているような「残酷な愛の物語」でもありません。
劇中で虜になる人間の入れ替わりが起きますが、これは何のタイミングで起きるのかが全くよく分からないままですし、それについての説明がまるで古文書のような装丁になっているパンフレットを読んでも明確ではありません。
今回の若い男もそうですし、高橋一生の若い頃に迷い込んだケースでも、森で迷うと足を負傷するようです。脛擦りは歩いている人の脛の辺りを摺りぬけ、転倒させるという妖怪のようです。森で迷って足を負傷するのは、その脛擦りの技が重度に炸裂した結果と解釈するのが良いのかもしれません。さゆりである脛擦りは、実際にはかなりの高齢の筈ですが、若い女と言うことになっています。足を負傷し迷った男達は皆若い女の歌声を森の中で耳にし、導かれるように岩を掘り抜くようにできた洞道状の道を通り、古く大きな神社に迷い込むのです。
脛擦りが何のタイミングで男の交代要員を捕えることにするのかが、全く謎のままの問題です。捕えた男から精気を吸い取るとか何かの搾取を行なうのなら、それが尽きたら交代要員が必要になる構造が分かります。しかし、高橋一生演じる男はかなりの高齢になって、死が近いようには見えますが、交代要員が決定した後、意気揚々と荷物を背負い神社を後にしていますから、見た目はそれこそ妖怪の如く老け込んでいますが、死が差し迫っているという訳ではありません。
それに高橋一生が若い頃に捕えられた経緯を回想する場面がかなり細かく描かれますが、その際の前の男はそれほど高齢に見えないのです。つまり、精気を失って行く訳でもなく、単なる老化が激しくなって、「代替品」が必要になる訳ではないということが分かります。
また、男達は捕らわれた後、すぐに「差替え」られる訳ではありません。高橋一生の捕らわれた当時もそうですし、今回の若い男もそうです。一定期間「先代」との期間が重なっていて、或る日、先代が出て行くことで自分の役割を唐突に悟るのです。では、その重複期間の終焉はどうやって起こるかというと、どうも脛擦りがじわじわと新たに捕えた「後継者」との距離を詰め、恋愛感情を抱けるようになった時に「差替え」が発生するようなのです。
とすると、捕えられた男達の状態が若かろうが年老いていようがお構いなく、脛擦りが道に迷った男が現れた機会の中で、気の向いた男を引き摺りこみ、さらに気に入れば、「差替え」を行なう(ないしは「差替え」が起こるのを放置する)というメカニズムであると解釈するほかありません。脛擦りの恋愛感情の対象が自分から若い男に完全に移行したと認識した「先代」は漸く自分もこの「義務的奉公」から解放されたと喜び勇んで神社を後にすることになり、脛擦りも新たな「後継者」をモノにしたが故に、「先代」は何をしようと無視しているということのように見えます。
因みに、若き日の高橋一生も今回の若い男も、自分が捕らわれの身になっていることを「先代」の出奔に因って認識します。そして、慌てて神社から逃げ出し、巨岩の洞道を通って森に出ます。しかし森は鬱蒼として方向を失いがちで、それでも無理に走り出すうちに、転倒を重ねるようになります。最初は単なる躓きのような転倒ですが、そのうちその頻度はぐんぐん上がり、転倒ももんどりうつような重大なものになっていきます。そして終いには、立ち上がることもできなくなり、何とか匍匐前進しようとしても、身動きが取れなくなってしまいます。
そしてそれらの逃亡志願の後継者たちが地に伏した状態で自分の足元を見ると、さゆりがしっかりと彼らの足に抱きついて抑え込んでいる姿を見出すのです。この場面は全く同じ構図で、今回の若い男と回想場面に出てくる若き日の高橋一生の両方の分で劇中に登場します。この作品の中の唯一の直接的な恐怖シーンです。しかし、血が噴き出る訳でもなければ誰かが惨殺される訳でもなく、とんでもなく重苦しい運命が圧し掛かる訳でもありません。ただ永遠に若い女と暮らすことになるだけなのです。(実際には、永遠ではなく、いつ「後継者」との交代が宣言させるか分かったものではありませんが…。)
さらに不思議に思えるのは、これらの虜囚の恋愛感情です。取り敢えず捕らわれた当初は、さゆりへの恋愛感情を募らせるようになっています。年老いた高橋一生は若い男に「妻のさゆりです」と彼女を紹介していますから、高齢になってからは無理かもしれませんが、虜囚になってからはさゆりと散々性交も重ねているのではないかと思えます。薪割ぐらいはしていますが、それほど家事をしている様子もなく、ひがな縁側で碁を打っていたりします。交代劇の際に、すぐに逃げようとする必要が本当にあるのか否か私には納得できません。
私は高校の進路指導の際に、将来のなりたい職業として(職業と言えるかどうかは置いておき)「ヒモ」と答えた人間ですので、全然問題なく、さゆりとの生活を選択して嬉々として「後継者」になってしまうかと思えます。さらにさゆりが若い男を連れ込んで、そちらを新たな虜囚と認定した後も、食事などは最低限提供され、存在して問題ないなら、その場にずるずると居残って、ヒモでさえない居候のように暮らし続けるかもしれないぐらいです。脛擦りのさゆりはずっとこうした恋愛対象の差替え劇を繰り返して来ていると想定されますから、その歴代の虜囚の中に、「差替え」時に逃亡しない新たな虜囚や、「差替え」時に逃亡しようとしない「先代」の虜囚が、少数派とは言え存在していても不思議ないように感じられてなりません。
その辺のメカニズムがどうもスッキリしないままに物語が終わってしまい、折角の美しい舞台装置の描写などが無効化されるような気になってしまいます。さらに、「残酷な愛の物語」という評も、そう言われているが故に妙に引っ掛かります。「気まぐれに男をとっかえひっかえしたくなる森の中の(ほぼ)不死の女妖怪」の話ですから、単なる尻軽美魔女の妖怪版でしょう。どう残酷な愛であるのか、よく分かりません。男達が残酷に扱われているということなのかもしれませんが、若い女と十年とかの単位でセックス三昧のヒモ生活なのですから、先述の通り、まんざら悪い選択肢でもありません。
よく白人男性でアジア系、特に東アジア系の女性を妻にしているケースで、「ウチの妻は全然年を取らず、ずっと若々しくて美しい」などと語っていることがあります。同じ人種や類した人種の私から見ると、十分老婆に見えるような場合でも、同年齢の白人女性の老け込み方は、一般的に典型的な魔女のルックスのようなとんでもないレベルになることもあり、まあ、その状況を受けて「(自分の妻が)ずっと若々しい」という主観は(共感は全くしないものの)一応理解はできます。劇中の脛擦りは「ずっと若々しい」なんていう話ではありません。何年経っても全く少女っぽいルックスが変わらないのです。妻に娶るのに、或る面、(先述のような白人男性群なら余計のこと)男性の理想像と言っても過言ではないぐらいです。(多くの結婚相談所で見られる傾向で「男は若い女を求め、女は高収入の男を求める」と言う話があります。)少なくとも、そうした若さによる美をやたらに重視する単純思想の米国人には、さゆりは女神のような存在でしょう。それをわざわざ捨て去る必要を、どれほどの男が感じるのか、私には結構疑問に思えるのです。
過去に出産に至るようなイレギュラーなケースがあったような節はないので、どうも妖怪脛擦りのメスと人間男性の間の受精は成立しないようです。パンフレットに拠れば、脛擦りは猫のような姿の妖怪として描かれることが多いようですから、脛擦りと虜囚の男の性交は男の立場で見ると、実質的な獣姦であるのかもしれません。妊娠しないのですから避妊の必要はありません。おまけに性病などの心配も、若い「後継者」が現れるまでは基本的に心配ないでしょう。風俗にお世話になる男達の理想の永遠に若い女性との避妊具ナシの性交三昧の毎日が、生活の心配も一切なくずっと神社で展開されるのです。なかなか不謹慎で背徳的なそそるシチュエーションと考えられないではありません。
脛擦りの男狂いのメカニズムは分からないままですし、上述のような桃源郷か竜宮城のような立場の男の楽園状況は明確に描かれることがありません。今回の若い男は、逃亡を諦めた後、さゆりと仲睦まじく暮らす決意をしたようで、縁側でさゆりと微笑みつつ綾取りを続けています。そこで体を重ねるぐらいの描写は欲しかったように思えます。
美しい森の中の性も含む人の生き様を描いた作品に若い頃の天海祐希が主演した『MISTY』があります。美しい森を背景にした自然の中の人間を描く物語は多々ありますが、必ずしも大自然の美しさ故に人間の性(さが)や性(せい)が描きこめない訳ではないことを『MISTY』は教えてくれます。
また性には踏み込んでいないものの、性(さが)や人間の存在の危うさを暗い森の中に描いた『霧の淵』のような作品もあります。(本作同様に短い尺の小品ですが優れた作品です。)そうした観点で見る時、この作品は何か物足りないのです。そしてその物足りなさは、大自然とそれに調和する人工の建造物、そして俯瞰される人々の営みが美しく丁寧に描かれているが故に、より目立ってしまうように思えてなりません。美しい映画です。しかし、上品な一口和菓子みたいな後味を残しただけでした。DVDはギリギリ買いかと思われます。