5月1日の封切から1ヶ月と10日経った水曜日の夜10時20分の回を久々の新宿バルト9で知己と二人で観て来ました。大人気との触れ込みで、封切時は新宿だけで1日に40回程度上映したように記憶しています。鑑賞時点でも上映館数・上映回数はそれほど衰えていず、バルト9でも1日6回(うち半分がDolbyCinemaという分類の上映)です。新宿では大型マルチプレックス4館が足並みを揃えて上映しており、1館当たり1日5~6回の上映をしている状況になっていました。映画.comの情報に拠れば、全国で366館、東京都下35館で上映しているようです。
私達が観た回は、DolbyCinemaではない回でしたが、具体的に何がどのように変わるのか分かっていませんし、料金が違う訳でもなさそうなので、単に都合の良い時間の回に観に行った結果が、この午後10時過ぎの回でした。当日は水曜日のサービスデーなので、一般観客でも1400円、シニアが1300円です。後でネットで観て気づきましたが、バルト9の一般観客の通常料金は2200円という、私の知る限り最高額になっていました。驚愕の金額です。
それでも終了が翌日0時25分で、完全に終電後に雪崩れ込む時間枠ですので、チケット販売機のモニタで見た際に、0時5分ぐらいの時点でしたが、鑑賞者は私たち二人だけでした。シアターに入ると、私達以外に観客は20代に見える女性が1人だけでしたが、シアターが暗くなってから、20代後半に見える男女の二人連れが私達同様の最後列に陣取り、さらに、本編が始まってから、暗がりで殆どよく見えませんでしたが、男性と思しき観客が1人増えました。(ちなみにこの観客は長いエンドロールのかなり早いうちにシアターを後にしたので、結局年齢性別は不明なままです。)
ネットで見ると137席のシアターにたった6人ですが、平日の終電時間枠で、封切後1ヶ月余り経った状態と考え合わせると、これを多いと見做すべきか少ないと見做すべきかかなり判断が難しい所と思えます。ただ、勿論、単純に言ってしまうと、恐ろしく低い稼働率です。
この作品はタイトル通り、往年のヒット映画『プラダを着た悪魔』続編で、映画.comの紹介文にも冒頭にその事実が告げられています。
[以下引用↓]
アメリカの小説家ローレン・ワイズバーガーの同名ベストセラーを原作とする2006年の大ヒット映画「プラダを着た悪魔」の20年ぶりとなる続編。
ニューヨークの一流ファッション誌「ランウェイ」のカリスマ編集長として、ファッション業界の頂点に君臨するミランダ。かつてそのアシスタントに採用され、厳しく完璧主義な彼女のもとで奮闘する日々を過ごしたアンドレアは、現在は報道記者として活躍していた。そんなある日、ミランダとその右腕ナイジェルが危機に直面していることを知ったアンドレアは、特集エディターとして「ランウェイ」編集部に舞い戻る。さらに、アシスタント時代の同僚エミリーとも再会するが、彼女はラグジュアリーブランドの幹部として「ランウェイ」存続の鍵を握る存在となっていた。それぞれの夢と野望がぶつかり合うなか、事態は思わぬ方向へと展開していく。
キャストにはミランダ役のメリル・ストリープ、アンドレア役のアン・ハサウェイ、エミリー役のエミリー・ブラント、ナイジェル役のスタンリー・トゥッチら前作のメンバーが再結集。前作に引き続きデビッド・フランケルが監督、アライン・ブロッシュ・マッケンナが脚本を手がけた。
2026年製作/119分/G/アメリカ
原題または英題:The Devil Wears Prada 2
配給:ディズニー
劇場公開日:2026年5月1日
[以上引用↑]
私はこの作品の第一作の物語の記憶を明確に持っていません。DVDで観た記憶はありましたが、あまり好きな映画でもなく、なぜ大ヒットしたのかが、少なくともDVDで観た当初、ピンと来ないままになっていました。私が辛うじてこの第一作に関心が持てたのは、私の洋画ベスト50に入っている『ファッションが教えてくれること』の存在が大きいものと思っています。『プラダを着た悪魔』から3年遅れて発表されたこの作品は『プラダを着た悪魔』のミランダのモデルとなった『ヴォーグ』の編集長アナ・ウィンターのリアルなドキュメンタリー作品です。(『プラダを着た悪魔』の原作小説は、アナ・ウィンターのアシスタントだった女性によって書かれています。)
アナ・ウィンターは『プラダを着た悪魔』の試写会で初対面のメリル・ストリープに対して「(ミランダは)自分と全く似ていない」と語っていると、本作のパンフレットに書かれています。(著者もどういう配慮からか、ミランダは全く架空の人物であり、ウィンターがモデルではないと繰り返し発言しているようです。)しかし、どう見ても、本人のキャリアなどから考えても、ウィンターを強く意識したキャラクターと考えるのが妥当であろうと思われます。そして、仮にそのように考えると、映画に描かれたミランダは極端に悪魔化され分かり易いキャラとして創り上げられています。ドキュメンタリーの秀作製作のタイミングが、『プラダを着た悪魔』のすぐ後であることを考えると、アナ・ウィンターが自身をきちんと世間に提示しておきたかった結果なのではないかと思えてならないのです。
私が人にもよく薦める『ファッションが教えてくれること』の感想で私は以下のように書いています。
[以下引用↓]
原題は『9月号』で、劇中の「9月はファッション業界での1月よ」と言うセリフにある通り、一年の中でその後の一年を方向付ける重要な号が9月号なのだそうです。『ヴォーグ』の編集長アナ・ウィンターが、その9月号を作るまでに、何を見、何を決断し、何を選び、何を捨てたかが、克明に描かれた映画です。2時間を切った短い映画ですが、迫る締め切りを前に加速していく作業の様子がビリビリと伝わってきて、あっという間に終わってしまったように感じます。
パンフで「例えばスティーブン・スピルバーグのお眼鏡に適わなくてもヒット映画はできる(中略)だけど、アナ・ウィンターのお眼鏡に適わなければ、本当の意味でのデザイナーとしての成功を手に入れることはできないんだ」と監督が語り、アナ・ウィンターの周囲のクリエイター達の案がどんどんアナ・ウィンターによって却下されていく様子が映画では強調されます。そして、「有無を言わせず、採用・不採用を決め…」などとパンフのあらすじにまで書かれています。
しかし、どうもそれほど、鉄面皮の態度には見えません。分刻み・秒刻みの仕事の中でも、アナ・ウィンターは、それなりのアドバイスをクリエイター達にしていますし、自分の9月号について持つイメージやコンセプトをかなり反復して伝えています。むしろ、そのコンセプトを理解しようと努力していない(特に若手)クリエイター達の浅薄さの方が私には際立って見えます。
また、アナ・ウィンターは独善的でもありません。貪欲にインプットを重ねていますし、周囲の判断や意見も自分の基準の中に付け加えていっている様子が見て取れます。「アナ・ウィンターのお眼鏡に適う」などと書くと如何にも彼女の理不尽な主観に振り回されているように感じられますが、現実には、3000億ドル産業のファッション業界の幅広い情報を、そのトップランナー達から吸収しきった上で成り立つ物差しが彼女の判断となって現れると言うことでしかないように見えます。
[以上引用↑]
この秀作ドキュメンタリーの存在を知ってから、私は世間でヒットと持て囃されていた『プラダを着た悪魔』第一作を一応観てみるべく、DVDをレンタルしたのでした。そして、先述のように、アナ・ウィンターをモデルにして作られたのであれば、あまりに浅薄で素人臭い物語に私には感じられました。
今回この作品のパンフでは第一作のヒット具合が執拗なまでに振り返られており、「ああ、ヒットだったっけか」と20年を経て理解したような有様です。鑑賞に赴く2週間ほど前に、第一作をDVDで再度観てみましたが、やはり特に好きになるほどのインパクトもなく、しかし、辛うじて『ファッションが教えてくれること』から何とか切り離して鑑賞することができたせいか、嫌悪感が強く湧く程でもなく、微妙な印象でした。
この「微妙さ」は、考えてみると私が観た数本のアン・ハサウェイが主演する作品にほぼ共通の事象です。私が劇場鑑賞した作品で彼女が出演しているのは、彼女の主演作にして、彼女が「製作総指揮」までしている駄作『シンクロナイズドモンスター』しかありません。他には、DVDで観た本作の第一作目と佳作の『マイ・インターン』ぐらいです。『マイ・インターン』は何とか名優ロバート・デ・ニーロの好演で成り立っており、主演であるにもかかわらずアン・ハサウェイの存在感は非常に薄っぺらいものに感じられました。そのロバート・デ・ニーロも、アクが全くない単なる好々爺を演じていて、『タクシー・ドライバー』や『ディア・ハンター』、『未来世紀ブラジル』、『エンゼル・ハート』、『レナードの朝』、『ケープ・フィアー』、『ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ』などの彼を知っていると、ウェハースを食べているような味気なさが残るだけの作品でした。
一方、駄作の『シンクロナイズドモンスター』の方は、劇場鑑賞した感想に以下のように書いています。
[以下引用↓]
コミカルに始まった物語は、突如、ストーカーと被害女性が対決するライト・ホラーの様相を呈し、よく分からない解決方法でエンディングを迎えます。どうしてそうなったのかも、激昂した少女に落雷したからと言う、まるで放射線を浴びた蜘蛛に噛まれたらスパイダーマンができたのと同じぐらい非科学的な理由も何の言葉による説明もなく、ぼんやりした子供の頃の記憶で描かれるだけです。
何か綾瀬はるかと印象がカブることの多いアン・ハサウェイは、だらしない女を演じても憎めませんでしたが、彼女を見下さねば気が済まない男から見捨てられて折角別れたのに、素朴な田舎青年に迫ってセックスをして、ストーカー男の本性を引き出します。そのストーカー男に激しく恨まれて結局殺害し、そして復縁を迫る見下し男とよりを戻そうとする、本格派のダメンズぶりには、さすがにげんなり来ました。DVDは要らないものと思います。
[以上引用↑]
ということで、今年御年43歳のアン・ハサウェイに期待するものも殆どないような状態でしたが、それでもこの作品を観ようと思えたのは、純粋に出版業界の現状が描かれていることを期待したからです。私が中小零細企業の経営者向けのビジネス月刊誌の編集部に在籍していたのは、21世紀が数年後に迫る3年間です。その頃から、既にウェブの持つ可能性に人々は気づき、紙の出版事業は凋落を始めていました。正確には多分、ウェブの勃興があからさまになる遥か以前から、文字離れや書籍離れ的な要因で、出版ビジネスに劇的な市場拡大の目はなくなっていたものと思います。
そんな中で、現在でも書店にはファッション誌が多数並んでいますし、少なくとも素人目には、それが劇的な凋落の途上にあるようには思えません。一方で、ディアゴスティーニの通販の箱と見紛うような、付録同梱の「ハコ」と化した雑誌も多数目にするようになりました。その業界知識も特にありませんし、クライアントがいてその要請がある訳でもないので、特に深く研究したいとも思っていませんが、辛うじて生き残りが図られている日本のファッション業界の様子を(素人なりに)一応踏まえる時、読解力が極端に低い米国の雑誌出版業界(と言っても、劇中の『ランウェイ』もモデルとなっていると言われる『ヴォーグ』の方も、米国という商業エリアの雑誌ではなく、全世界規模の影響力を持つものであろうとは思いますが)の状況を見てみたいと思ったのです。
観てみると、やはり、色々な意味で彫り込みの浅い、浅薄な作品だと思わざるを得ませんでした。勿論、第一作同様、最近『岸辺露伴は…』などでも目にするようなヨーロッパの古都市の風情ある景観は素晴らしいですし、アン・ハサウェイだけでも、パンフには劇中で47回着替えていると書かれているぐらいの最先端のファッション群は、婦人服仕立て屋の息子であっても全くその手の審美眼を持たない私にさえ、魅力あるものにちゃんと見えます。
さらに、20年の時を経て、さまざまな時代の変化が第一作に比べる時、明らかになるようになっています。トップを務めるミランダの言動にはコンプライアンス(/反ハラスメント)面での抑制が強くかかるように変わっていますし、先述のように紙雑誌の売上は減少し、ネット媒体とのメディア・ミクスが完全に意識され、ミランダがコンテンツそのものの方向性には今尚強い影響力を及ぼしているものの、ミクスのありようについては全くついて行けていないような様子が描かれています。当然、スマホも登場していますし、ウーバーのタクシーも登場します。
しかし、そこまでなのです。この作品の物語には二つの大きな軽薄さが埋め込まれているように思えます。一つは、結局、散々描かれた出版業界における事業の凋落と買収劇の応酬の答えは、端的に言えば「物言わぬ株主が見つかればラッキー」という中期的な時間稼ぎ以外の何物も見当たりませんでした。元々、欧米企業には事業の差別化を図るという発想が本質的に希薄です。
私がメルマガの形で発行している経営コラム『SOLID AS FAITH』の25周年記念特別号に以下のような文章があります。
[以下引用↓]
不思議なことに海外のマーケティング論では差別化という概念があまり登
場しません。「レッド・オーシャンとブルー・オーシャン」とかいう変に
写実的な名称の理屈で「多くの競合が犇めく市場は儲からない…」という
話などもありますが、ではレッド・オーシャンの市場に居たらどうすると
いう話になると、日本では「棲み分ける」(≒「差別化する」)とか「市
場の勝てる小さい部分を切り取る」などの対策が出てくると思われます。
少なくとも多くの場合中小零細企業の生きる道はそこにあります。
ところが欧米発の経営論では、上の様な戦略を考える前に、多くの場合、
二つの選択肢しかありません。「他社買収で自社シェアを大きくして競争
を減らす」か「撤退する」です。レッド・オーシャンの中の多くの企業が
このいずれかの戦略を採用すると、市場の企業数はどんどん減って行きま
す。すると寡占市場や独占市場が生まれます。
古典的で強烈に支配的な経営論にSCP理論というものがあります。大雑把
に書くと、もともと古典経済学の“完全競争市場”の理論をそのまま経営
に適用させたものです。“完全競争市場”は「参入障壁もない市場で無数
の小規模事業者が全く差別化の余地もない商品・サービスを売り続けてい
る」状態のことです。これでは儲かりません。
この市場のどこを変えて儲けられるようにするかという話になります。日
本企業の多くは、上の定義の中の「全く差別化の余地もない商品・サービ
ス」だからダメなのだと考えて差別化を図ります。しかし、欧米の多くの
企業経営者は定義の中の「無数の小規模事業者」だからダメなのだと考え
て、買収を重ねて「無数」でもなくして「小規模」でもなくするのです。
この結果、起きることは全く違います。日本の場合は棲み分け他市場はも
とより小さくなりがちですし、企業規模も急に大きくはならないので、
各々の企業の売上も利益も低いままになります。しかし、多様な商品や
サービスの選択肢が市場に存在するので消費者には多くの選択肢が生まれ
ます。その中で高付加価値の商品は高くなるでしょうが、大手が普及させ
るコモディティ的な商品は廉価で生き残りますので、競争が激しい中で、
エンド・ユーザーには非常に望ましい市場が発生します。
一方で欧米の場合は真逆です。M&Aを重ねて短期的には濡れ手の粟の売上
上昇が望めますし、長期的には寡占・独占状態を形成しますから市場でや
りたい放題になって行きます。極端な例で思考実験してみましょう。
お客はどうしても買いたい商品・サービスに対し、自分しか売り手がいな
ければ普通は価格を吊り上げたくなります。製品開発やマーケティングの
努力も根本から要らなくなります。その結果、売上も利益もガッチリ確保
できる一方、エンド・ユーザーには低品質の商品・サービスを高く売りつ
けることで不利益を強い続けることになるのです。(注釈略)
こうして物価はどんどん上がって行きます。その売上や利益は株主にまず
還元され、それを実現した経営者に日本の中小零細企業経営者の報酬の数
百倍・数千倍の報酬が支払われることになります。割を食うのはエンド・
ユーザーでB2Cなら一般消費者です。株主や経営者に還元を優先し、職業
別組合が煩いので労働者にはおこぼれを分け与えます。これが一般労働者、
特に単純労働系の人々の賃金が上がらず、多数派の人々は平均賃金の上昇
など全く体感できずに暮らすようになる絡繰りです。
よく「諸外国の賃金はどんどん上がっているのに日本は全然ダメだ」とい
う話を聞きますが、二つ抜け落ちている論点があります。一つは「平均賃
金」なので国民全体の賃金が一様に上がっている訳ではないことです。格
差がどんどん広がっている以上、むしろ平均以下の人々は増えています。
もう一つは上のような構造なので、賃金が上がる以上に物価はもっと上が
っているということです。日本が長くデフレを続けている間、多くの先進
国ではインフレがずっと続いてきました。現在でも毎年5%などのインフレ
が嵩じた状態が続いている国々が存在しています。そう言った国々の人々
の多くは賃金の上昇率以上の物価高騰を経験しているのです。賃金は上
がっても多くの人々がそれでも間に合わない物価上昇に喘ぎ苦しむ状態の
方が、日本の現状に比べて間違いなく「ダメ」でしょう。「消費者に多様
な選択が残らない」どころか、食うや食わずやの人々が急激にその割合を
増やすことになるのです。
余りにその数が無視できなくなってきたので、他国では色々と対策が打た
れています。ちょっとした犯罪でも刑務所に入れたり、富裕層の慈善活動
のネタにしたり、年金よりも少ないようなベーシック・インカムで「皆が
幸せに暮らせる社会」を謳ってみたりしている背景には、こうした社会構
造があるのです。
[以上引用↑]
このような構造は分かってはいるのですが、本当にこのような中の発想しかこの作品には登場しません。単に買収劇が繰り返される中で、政争によって何とか出版事業を存続させてくれるオーナーに買ってもらおうと主人公達が奔走するだけのことです。どれほどの伝統と世界的な認知と文化価値があろうとも事業は凋落しているのですから、それを整理しようとするのは持ち主なら当然の発想です。その発想は上述のようなものなので、すぐに不採算部門をカットすれば残りは儲かる部門という、小学生並みの単純バカの発想のコンサルタント群がしゃしゃり出てきて事を為すだけなのが愚かしいですが、少なくとも何かの手を打たなければならないということにおいては間違ってはいません。
一方で、そのような単純で愚鈍な大リストラ策を否定しようとする主人公達に何か事業を支え上向かせる方策がある訳ではありません。単に凋落するビジネスに縋る自分達を温存してくれる、端的に言えば、頭が悪く単なる浪花節に絆されてカネをどぶに捨てるオーナーを見つける道を必死に模索します。劇中では、今や実年齢57歳とネットにあるルーシー・リュー演じる成金美魔女のホワイトナイト的美談として描かれていますが、これは見ようによっては、価値が下がり続ける不良物件に、気分次第でポンと金を出す無能な成金の姿ですし、主人公は新オーナーの資産を棄損する確信犯ということでもあります。
このどちらも、日本の経営論では及第点に達しない解です。及第点越えはステイクホルダー全体の満足でしょうから、事業の浮上策が欠かせないはずで、そこには差別化だのポジショニングの話が必須になるはずです。けれども劇中には(私が認識した限り)微塵もそのような発想が登場しません。愚劣の極みです。
もう一つの軽薄さは、上述の点が巨視的であるのに対して、微視的なものです。主人公を除いて主要登場人物達は20年を経た変化を示しています。前述の通り、ミランダはメリル・ストリープがパンフで語るように、性格がやや悪くなりつつも、コートの投げ捨てもしなくなっています。ナイジェルの職人肌は全く変わらぬ魅力として存在していますが、そんな彼も終盤今までの裏方役から表舞台に立つ選択をしています。環境と自分の強みを、まるでSWOT分析でも精緻にしたかのように、キャリアを展開しているのはエミリーで、ディオールの責任者から終盤ではコーチのブランド責任者に転職を果たしているぐらいです。
ちなみに、エミリーを演じる、そのまんまの名前のエミリー・ブラントは、外見や言動などが役柄によって大きく変わる女優であまりヒット作にも恵まれていないので、私にとってなかなか認識が困難な女優です。私が彼女を、「鈍い/なまくらの」という意味の変わった苗字と共に明確に認識できたのはDVDで観た『ルーパー』と劇場で観て結構楽しめた『オール・ユー・ニード・イズ・キル』においてです。しかし、『ルーパー』の彼女が『オール・ユー・ニード・イズ・キル』に登場しているという認識も鑑賞後に改めてパンフを読んで発生したもので、それ以降も、鑑賞中に彼女を認識することがほぼできないままにいます。遥か以前にDVDで観た第一作に登場している彼女が、エミリー・ブラントであることを、私は今回の第二作の映画紹介を読んでようやく気付いたのでした。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』の劇場鑑賞の感想には、ほんの数行だけ彼女に対する言及があります。
[以下引用↓]
後からパンフを読んで分かりましたが、今回の主役級のエミリー・ブラントは『ルーパー』に主役一歩手前級の存在感で登場していました。この女優は、他にどこかで見たことがあるなと調べてみたら、DVDで観た『砂漠でサーモン・フィッシング』もそう言えばという印象ですが、極めつけはやはり『サンシャイン・クリーニング』のおかしな姉妹の片割です。(因みにもう一人の方は、タヌキ顔がかわいいエイミー・アダムズです。)
[以上引用↑]
このような主要脇役群に対して、アン・ハサウェイ演じるアンディ(アンドレア)は、殆ど変化がありません。第一作で揉めた後にイケイケ感の男と同衾した上で縒りを戻したカレシとはその後どうなったのか全く分かりませんが、プライベートの生活感は殆ど以前と変わっていません。物語の冒頭の段階での生活パターンから類推される所得感は第一作から大きく上がっているようには見えません。
さらに、20年の間、報道の業界に身を置き、フリーの記者として働いて来たようで、各地を転々としていて固定的な交際相手を持つこともなかったなどの話も登場します。そのような中で、元の職場に復帰したということから、敢えてそのように設定されている可能性はありますが、ミランダとの関係性や、ドタバタで力技のアシスタント業務のありかたが、20年を経て全く変わっていないように見えるのです。辛うじて、中国系の女性部下を扱う場面が挿入されていますが、その部下がかなりの才媛という設定なので、殆ど具体的な指示・指導をしないままに物語は進行しています。
ナイジェルがアップになると肌の衰えが目立つ感じがしましたが、他のキャラ同様に、基本的にアン・ハサウェイの老け感は目立ちません。その外観からあまり目立たなくなっているのですが、20代前半の新卒の体当たり的な業務上の情熱を、40代前半の百戦錬磨のフリー・ジャーナリストに持たせるには、かなり無理があるように思えました。特に、ホワイトナイト探しにおいて、全く戦略性というものが感じられません。
おまけに、紙媒体が老いやられて行く時代の潮流に対して、単なる感情論で愚痴っている場面がありますが、フリー・ジャーナリストで業界で年一の表彰さえ数度受けているような人物像のはずなのに、全く業界の進むべき方向性に関して洞察のようなものもなく、仕事に対する矜持のようなものもほぼ感じられません。40代中盤に差し掛かって、20代の前半のキャッキャした「当たって砕けろ」アプローチしかできない、バカ丸出しのオバサンなのです。
これが、どこかの零細企業の現場作業を続けるパートかバイトのオバサンなら、まだ好感を持てる元気で前向きな従業員になり得るでしょう。さながら『県庁の星』の柴咲コウ(はもうちょっと若かったと思いますが)のような感じになるかもしれません。けれども、『ヴォーグ』クラスの全世界規模の出版事業の取り仕切りの担当者が、これでは単なるアホです。非常にゲンナリ来ます。やはり『シンクロナイズドモンスター』の製作総指揮を務めただけのことはあります。
見所は多くのレビューにもある通り間違いなく存在します。楽しく観られるコメディ映画と言えるのも間違いありません。しかし、上のような軽薄さ故に純粋にコメディとして楽しむことがやや困難そうなので、DVDは不要かと思います。『ファッションが教えてくれること』を見直したくなりました。
追記:
今回ウィキを見て、メリル・ストリープが先日劇場鑑賞した『私がビーバーになる時』の「虫の女王」の声を担当していたことを知りました。何という大物の配置かと驚かされますが、私が劇場鑑賞できたのは「吹替版」だったので、彼女のナマ声を聞くことがないままに鑑賞は終っています。
追記2:
アンディのアシスタントの中国系女子の描かれ方(と差別的呼称の「チン・チョン」に近い「秦舟(チン・ジョウ)」という役名)について、侮蔑的だということでメインランド・チャイナでは一部で炎上しているというような話をネットの記事で読んだ覚えがあります。『ガンホー』などに比べると余程マシな気がするレベルの話ですし、上述のようにとんでもない高学歴女子の設定ですから、その程度で楽しめなくなる人々はハリウッド映画作品群そのものを見ないようにしたら良いかと思えました。韓流作品群に対してと異なり、明確な不買活動を意識している訳ではありませんが、私自身も結果的にハリウッド映画を観る機会が激減しているのは、総じて単純至極すぎる大味物語設定もさることながら、日本人も含めた非白人に対する偏見がそれなりには鬱陶しいことが挙げられるものと、今回のニュース記事で軽く再認識しました。