9月11日の封切から既に1ヶ月と1週間以上経った水曜日の午後13時15分の回を明治通り沿いのビルに入った2館ある映画館のうちの1館で観て来ました。封切当初には新宿でもう1館どこか比較的大手の映画館で上映したいたような記憶がありますが、気づけば、新宿ではここ1館になっていました。都内では新宿と立川で各1館しか上映していません。全国でみても、関東では神奈川でみなとみらいで1館、それ以外ではすべて関東より西に分布していて、大阪、兵庫、福岡が各1館。そして、劇中にも登場し、ベトナム戦争を支えた米軍基地が存在する沖縄が2館という映画内容を踏まえた分布になっています。
この館では1日4回の上映が行なわれていますが、前の週までは5回の上映だったように記憶します。今回も294席のシアターの席は7割近く埋まっており、上映開始20分前時点で、私が好む列の端の席が隣も空いている状態で残っているのは最前列だけでした。そこで致し方なく最前列の右端の席を確保しました。
シアターに入って最前列から後ろを振り返って見渡しましたが、稼働率の高さ故、複数連れの観客の識別がほとんどできませんでした。(数組はシアターに入ってきたときの様子から見出せましたが、それ以上にたくさんいたのだろうと思います。)年齢層は高齢に偏っていましたが、20代、30代の観客もいない訳ではありませんでした。男女比は半々かやや女性が上回っていたかもしれません。偏見が入っているのは自覚していますが、どうもパヨクっぽい外見や服装、言動の人々が相応に多かったように感じられました。
既に封切から1ヶ月余りが過ぎているのに、このマイナーな映画がこれほどの動員なのは驚きですが、実はこれでも大分勢いが衰えてきたほうで、私は前の週に既に2回、満席で鑑賞を諦めています。(1回は劇場に赴いて満席に気づき、2回目はネットで確認した時点で満席を知りました。)
この映画を私が観に行きたいと思った理由は、やはり米国人の戦争に対する意識を計ってみたいということにほぼ尽きるように思えます。たとえば、毎年どこかの機関が計測しているらしい広島・長崎への原爆投下に対する米国民の評価はここ最近「やるべきではなかった」が過半数になりつつあるなどと言われています。私が留学した頃には猫も杓子も「それ以上の日本人と米兵の犠牲者の増加を避けるためには致し方なかった」というトルーマンの戯言を真に受けていて、あからさまに愚昧な米国人が圧倒的多数派だったことが嘘のようです。
また、あれだけイスラエルべったりの国で議会もイスラエルのロビイストに牛耳られているのに、近年のガザ侵攻に対して国民の評価はかなり厳しくなっていたりもします。以前の「国民全員アメリカ太郎状態」が大分揺らいできているのが分かるような情報が、時々耳目に触れるので、本作もそうした流れの一環として関心が湧いたということが一番大きい鑑賞動機であるように思えます。
そして、敢えて付け加えるなら、自分都合の戦争の報いを受ける米国人を見るのも悪くないと思えたことも正直ないわけではありません。ベトナム戦争は色々な戦争そのものや歴史の流れの観点で、大きなターニングポイントだと私は思っています。ランチェスター的な観点で見ても非常に適合する戦闘局面が多かったように思えますし、現代に至るまで続く「非対称戦争」と呼ばれる形態のはしりでもあろうと思います。そしてその結果は日露戦争と言う近代戦に辛勝した日本を除いて有色人種の国が白人国家と大々的に戦って(辛勝ではあっても)勝利した初の現代戦で、その後、米国やロシアが面積や人口、経済規模で大きく下回る国々に軍事介入して快勝した事例がほぼゼロになる歴史の始まりとみることができるものと思っています。
その内実は私が大好きな映画作品の一つ『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』に丁寧に描かれています。そこに視る米政府、米軍、米兵の驕りや慢心は到底信じられないぐらいのもので、歴史的事実や現地の人々の思想信条などをまるっきり誤解し侮ったり無視したりした当然の結果と思えるものでした。日本に対する戦争において、原爆二弾の使用のみならず、東京大空襲などにおいても、民間人の死傷者は夥しい数ですが、それを正当化できる理由は実質的に存在せず、戦争犯罪そのものですが、極東軍事裁判の結果に誤魔化されて、そうしたことが糾弾されることはないままに至っています。
民間人の殺戮と言う意味では最近の中東への米軍の介入時には民間施設が誤爆される頻度は非常に高いですが、ベトナム戦争では非対称戦争の相手であるベトコンが普通の村人の中に存在しており、一見ただの農村に見える集落も、実は一大ベトコン基地のようなケースもあることを口実に、民間人が大量に虐殺されています。それは最近の米軍の戦争の民間人への誤爆などという単位の話ではありません。
そうした「国民全員アメリカ太郎」状態の陰りが明確に見え始めたのがベトナム戦争だと思います。先述の珠玉のドキュメンタリー『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』は私の好きな洋画50選に含まれていますが、この作品がベトナム戦争終結1年後に早々に発表されて以降、同じく私の好きな洋画50選に含まれている『ハンバーガーヒル』、『ジェイコブズ・ラダー』というベトナム映画をテーマにした名画が生まれ、他にも多数のベトナム戦争の不正義を描写する作品が続々と生まれました。『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』の劇場鑑賞感想記事には以下のように書かれています。
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戦争に関与した三人の大統領がつき続けた嘘も、政権の体をなしていない南ベトナムの傀儡の実態も、多くの民間人が何一つ納得できる理由のないままどんどん殺戮されて行く様子も、この一本の中に総て収まっています。このような内容の映画が、戦争終結の一年後には既に完成に漕ぎ着けた事実には驚かされます。
その驚きは単純に私のものだけではなく、この映画の制作と存在そのものが、当時の反戦に傾き、独立戦争以来の愛国の意義が大きく揺れて毀損した国内の世論に強烈な衝撃をもたらしたのです。ベトナム戦争映画が反戦のコンセプトの下、この後大量につくられたのも、この映画が社会に突きつけた事実によるところが大きいと言われています。確かに、『ディア・ハンター』、『地獄の黙示録』、『プラトーン』、『ハンバーガー・ヒル』、『フルメタル・ジャケット』、『カジュアリティーズ』、『7月4日に生まれて』、『ジェイコブズ・ラダー』などの私も思い出すことができる悲惨で狂気に溢れたベトナム戦争の有名作品の原風景がこの映画には溢れ返っています。
[以上引用]
これほど批判的な立ち位置の映画作品が作られた戦争も珍しいように思いますが、実際の米国人の一般的なベトナム戦争評価は(戦争に従軍していたのが貧困層や黒人などが多かったせいもあり)、米国に利益がない戦争にコストと米兵の人命をどんどん投じているという程度の政府批判が殆どで、ベトナムそのものに与えている非人道的な数々の被害などについて慮るような姿勢は殆どなかったであろうと思われます。PTSDを患って弓矢で戦車を爆破するランボーのような人間は実際には存在しなかったとしても、ベトナム帰還兵の社会不適合状態は少なくとも『ランボー』公開当時の1980年代前半には十分認知されていたものと思います。それでも、そうした帰還兵が生まれるのは所謂「戦争の悲惨さ」や「戦争の非日常さ」が原因であって、ベトナム戦争の理不尽さや戦争行為から逸脱した民間人への残虐行為によるものという認識は薄かったのではないかと思えます。
そうしたことにスポットライトを当てたのが本作『ネルソンさん…』であると思えたのです。(現地の民間人を蹂躙するという観点では『カジュアリティーズ』もなかなかですが、蹂躙対象の人数が少なく、それを妙に引っ張る展開なので、怠い展開になっています。)映画.comの以下の解説文にも、そのような観点が(民間人虐殺には言及していませんが)明らかです。
[以下引用]
「野火」の塚本晋也が監督・脚本を手がけ、ベトナム戦争に従軍したアレン・ネルソンが自らの戦争体験と帰還後の葛藤をつづったノンフィクション書籍を原作に、“戦争加害者の傷”というテーマに取り組んだドラマ。
ニューヨークの貧しい家庭に生まれたアフリカ系アメリカ人のアレン・ネルソンは、貧困や差別から抜け出すため18歳で海兵隊に入隊する。沖縄のキャンプ・ハンセンを経て、1966年にベトナム戦争の最前線へ送られた彼は、苛烈な戦場でただ人を殺すことを強いられ、命を奪う経験を重ねるうちに心の感覚を失っていく。やがて23歳で帰国した彼を待っていたのは、戦場の記憶に縛られる日々だった。大きな音や暗闇に怯え、家族との関係も崩壊しホームレスとなった彼は、絶望の淵へと追い込まれていく。退役軍人病院でカウンセリングを行うダニエルズ医師はそんな彼に真正面から向き合い、救い出そうとする。
ブロードウェイミュージカル「RENT」のオリジナルキャストとして知られるロドニー・ヒックスが主人公アレン・ネルソンを演じ、「シャイン」「英国王のスピーチ」などの名優ジェフリー・ラッシュが精神科医ダニエルズ役で共演。リリー・フランキーがアレンの活動をサポートする日本人・黒井役で出演し、全編英語での演技に挑んだ。2026年・第83回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。
2026年製作/116分/PG12/日本
配給:キノフィルムズ
劇場公開日:2026年9月11日
[以上引用]
観てみると、戦争の現場を悍ましいものとして描き、それを引き摺る黒人米兵が、日常社会に適合できなくなる様子は非常に現実的に描かれているように感じました。さすが日本人監督、それも『野火』の監督が描くだけあります。ただ、そのように、ノンフィクション小説をベースにした現実感があるが故に、逆に米国人の稚拙さや傲慢さ、愚昧さが際立ち、主人公の思考にも、主人公を取り巻く社会の価値観にも全く共感できなくなってしまいます。
たとえば、PTSDが酷くて苦しみが大きく、家庭も崩壊したと言い、その後の結婚生活も悪夢に魘されて同衾している妻の首を絞め捲りあわや扼殺と行ったことまで起きています。それでも、たかだか数人が命の危険を感じた程度が最悪なレベルで、実家の方の“崩壊”家族たちは単純にキレやすい家族の発生に戸惑い迷惑したというぐらいのことです。米兵たち一人ひとりが理由もなく殺しまくった膨大な数の人々やその家族の苦痛に比べて、全く物の数ではありません。主人公のネルソンはそれでも自責の念に駆られていますが、そんな風に感じているのは少数派の帰還兵でしょう。戦場で殺したベトコンの耳を切り取って集め、ネックレスにしていたニヤケ顔の上官などは、多分、帰国しても良心の呵責に悩むことなど微塵もないのではないかと思えてなりません。そしてそちらの方が多数派でしょう。
たとえば、2011年に劇場で観た『GATE』という映画の感想記事にも書きましたが、耳集めような訳の分からない米兵の蛮行は、ベトナム人に向けたものだけではありません。太平洋戦争時には死んだ日本兵の頭部を切り取り持ち帰ることが流行し、自国の家族や恋人へのプレゼントや土産にしていたのですから、このような蛮人ぶりは米国民全体の感覚だったと言うべきでしょう。『米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断』と題されたウィキのページまで存在しているぐらいです。『GATE』の感想記事には以下のように書いています。
[以下引用]
さらに言うと、米軍も単に原爆投下に留まらない蛮行・非道を繰り返しています。太平洋戦争下、日本兵の頭蓋骨で作った装身具をプレゼントに使ったり、売ったりしていた米兵の記録が多数残っていたりしています。そのプレゼントを受け取っていた米国の銃後の人々。そして、この映画の前に私が見た『カウントダウン ZERO』では、モンタナ州にあるミニットマンミサイル地下発射管制センターの扉に「世界各地に30分でお届け。届かなかったら、もう一個ただ!」などと、ピザの広告を模した絵を描いてあると紹介されています。このようなことを平気でできる人々。そのような人々と交流して、ともに平和を願うことができるのか。先述の米国の非道に怒りを消せなかった僧が、仮にそのようなことを知って尚、怒りを抱かなくなり、平和への祈りの気持ちに至ることができるのか。興味深い僧達の葛藤などは殆ど掘り下げられないままに映画は終わります。
[以上引用]
上の『カウントダウン ZERO』の事例も考え合わせ、これが米国全体の価値観であると考えると、蛮行と言うよりも、人を殺戮する場に向き合うのに対して民度が低くふざけた態度しか取れないと考えた方が良いように思えます。「畏敬」を知らないとでも表現すべきかもしれません。たとえば、湾岸戦争などでも戦車部隊の米兵がビルを破壊し、中の人々を狙い撃ちで殺すような場面で、ノリよく行なうためにヘビメタを爆音で聞きながら行なうと言った話も、何かの戦争ドキュメンタリー(多分、劇場で観た『アメリカばんざい crazy as usual』だと思います。)の中で紹介されていました。そういうことでしょう。
今回の映画でも、主人公は散々民間人を殺戮してきた中で、或る日、主人公の部隊から拷問を受けていた若いベトコンが、射殺される直前に言った「われわれは自由のために戦っている。戦うならアメリカで、黒人の自由のために戦え!」との言葉に動揺し、それ以降、迷いが大きくなって前線から去ることを依願していたりします。こんなことを若いベトナム人の拙い英語で言われるまで考えたこともなくその場にいて、殺戮を繰り返していることに慄然とさせられます。若いベトコンの知性と覚悟に比して、主人公を含む米兵は驚くべきほど稚拙で野蛮です。
この稚拙で野蛮な低民度は特に戦争そのものに対して発露しているだけではありません。ベトナムに向かう前に主人公達は沖縄の基地に送られていて、そこで売春宿に数人の集団で行く場面があります。ほんの数秒の描写ですが、主人公(若しくは、主人公の先輩格の兵士だったかもしれません。暗い場面でよく判別がつきませんでした。)のセックスは稚拙でただの激しいピストン運動を狂った如く繰り返して果てるだけです。
おまけに娼婦にもタクシー運転手にもカネを払わないで殴る蹴るを重ねるだけの野蛮さ丸出しです。自分達が優れている人種であるなら、なぜ余裕を以て礼節を重んじないのか、全く理解ができません。アホはどこまで行っても治ることのない不治の病としか思えません。沖縄では全国区で報道されているだけでも年1回以上は、米兵による強姦事件が発生しているように思えます。そう考えると時代が大分変っても、こういう人間としての質の伴わない米兵は今でも沖縄に相応に存在している可能性が高そうです。ポン引き兼業のタクシー運転手の人々は、暴行を受けてもやや同情の余地が少ないように感じますが、裸一貫で図体だけデカいノータリンの相手をしなくちゃならないのであれば、辻のソープ嬢も大変だなぁと同情を禁じ得ません。
バカ単純な二元論の世界観しか持ち合わせていない稚拙な人々に、ああでもありこうでもある複雑系の深淵なアジア文化など分かることもないということかもしれません。流石反知性主義の総本山の国の兵隊です。少なくとも劇中で彼らは、理解できないものは自分より劣っていると決めつけて「グークス」(劇中では字幕で「グークス」と表記されていますが、実際には「Gooks」だと思われます。)と見下す愚昧さには呆れます。その挙句が前述の通り、年端もいかない射殺間際の若者から拙い英語で本質論を投げかけられ、逡巡を止めることができなくなる愚昧さです。
同様のことは名画『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』でもこれでもかというぐらいに描かれています。
[以下引用]
史実には、当然ベトナム人同士の血で血を洗う戦闘も多々存在しますが、米国製のこの作品では米国とベトナムの対照の構図が際立っています。米国側の登場人物の話は、あまりに馬鹿げているものが多く、話者の白痴を疑いたくなるようなものばかりです。
「人口が多いせいだと思うが、アジアにおける人の命は軽い。彼らの哲学にもそのようなことがある。彼らは人が死んでも特にどうと言うことはない」、「文明には年齢のような成熟度があり、ベトナムはまだ若く、世界というものを分かっていない」のようなことを真顔で言っている在ベトナム援助軍最高司令官。
「この国の自由を守る戦いだ。我々は必ず勝つ」などと村々の藁葺きの家々にライターで火をつけて回る軍曹。
「この戦争が無駄だなどと批判する者がいるが、大学にまで行った私の息子が戦地に赴いて戦って死んだのが無駄であるはずがない。崇高な国の理念を守るための闘いだったのだ」などと、イミフなことをこぶしを握って力説する戦死した兵の父親。
60000人近くの戦死者を出し、南ベトナムから撤退したにもかかわらず、「我々は勝利した。南ベトナムが自立したのを見届けたので、役割を終えて帰還するのだ」などと戯言をしらじらと述べるノータリンもいます。
最大の死者を出した68年には短期長期を合わせると20万人以上の兵が脱走し、帰還兵も戦地での残虐行為をどんどん告発するに至っても尚、このような声が出る世界の超大国のエゴと白痴に言うべき言葉がありません。
これに対して、ベトナム人の登場人物は、葬式の場であってさえ、泣き喚く者もほんの僅かで、家を焼かれ下半身を露出させられ泥の中に倒されて、銃座で頭を何度も殴られている男性でさえ、声一つ出さず、自分を殴る米兵を射抜くような視線で見つめるばかりです。ナパームで焼かれた皮膚が全身からボロボロにめくれて、全裸で農道を逃げる少女でさえ、全く泣き喚くことなく、無言で中空の一点を見つめ、駆けて行きます。
仏僧らしき人物が流暢な英語で「ベトナム人は野蛮だと米国人は言うが、現実を見ると野蛮な殺戮をしているのは、米国人の方だ。我々は5000年の歴史を持っている。200年の国の人間達とは違う」というようなことを言っています。卓越した知性です。
[以上引用]
唯一『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』で描かれていなくて残念なのは、同じアジア人でありながら、東洋哲学の欠片も持ち合わせず、調子に乗って自分達も米国人並みに優れた民族と評価されたくて出兵した韓国人兵の卑屈です。後に広く世界に知られるようになる「ライダイハン」は、ベトナム戦争中に現地へ派遣された韓国軍兵士や労働者と、ベトナム人女性との間に生まれた混血児の総称で、韓国人の父親に認知されず、ベトナム社会で長年「敵の子」などの偏見や差別にさらされていると言われています。その数は少ない見積(多分韓国人が捏造した数字でしょう)で1500人、多い見積では30000人という桁違いの多さです。
上の定義の中では韓国人労働者のケースも含められており、恋愛や買春によるベトナム人女性の妊娠の結果も一応あるにはありますが、多くは韓国軍兵士による強姦結果であることが知られています。単純な強姦が単発的に行なわれたのではなく、村々を襲撃しては虐殺と強姦を繰り返した、人間とは思えないほどの所業です。
私が留学時代の1990年ごろの米国では西海岸に多く見られたベトナム移民は非常に勤勉で優秀で、1世の段階で地元で繁盛するファミリービジネスを展開しているケースが多々見られました。景気が悪くなっている当時、ベトナム人をやっかみ鬱屈していた米国人貧困層(主に黒人とヒスパニック、さらに当時はまだインディアンと呼ばれていることも多かったネイティブ・アメリカン)は、徹底的にベトナム人を差別し攻撃しようとしていました。
ベトナム戦争当時の米国兵どころか韓国兵まで人間とは思えないような所業に打って出るのには、深層心理的に異常に優れて老成したベトナム人の思想や価値観に対する卑屈な想いがあったのかもしれません。
劇中前半から中盤の回想で蛮行の限りを尽くす主人公には、(前述のように少なくとも主人公個人には)悲惨な帰還後の生活が待っています。ついこちらも引き込まれてバカ単純発想に陥り、主人公の悲惨な生活をみると胸のすく想いが湧き上がります。
帰還して実家に戻って来てもシェルショック状態が続き、家庭を荒しに荒していられなくなり、小学校の教室に体験談を聞かせに行っては小学生に詰められ、憐れまれ、何とか結婚して働いても長続きしないどころか、幻想のベトコン兵の首を絞めているつもりが妻をベッドで扼殺しかけてみたりなどなかなかです。
さらに精神科医に詰められブチ切れ、何とか平静を保っていられるようになった後も、結局、自分の酷い体験をまるで懺悔のように語りまくる人生に身を投じずにはいられなくなり、家に居つけなくなり、妻や二人の子供(そのうち一人が実子)とも別居生活に陥ります。おまけに、贖罪の気持ちが嵩じてとうとうベトナムにまで講演に行って当初歓迎ムードだった聴衆から憎悪の目を向けられ、終いには、枯葉剤に侵された体はガンが異常増殖して61歳で死亡です。
死ぬまで償い続ける人生ですが、そこには『恩讐の彼方に』のような解脱も昇華もありません。人間どころか生きとし生けるモノすべてにまつわる無常観など想像もしたことがなく、日本の武士のように思想や哲学を以て殺傷に向かうこともないような、精神性が低い人々の人殺しの結果はこんなもんだろうなと思えます。
たとえば、現在大人気の漫画『だんドーン』には幕末時期の薩摩武士の数多くの殺人が描かれていますが、誰一人としてPTSDになることもありませんし、誰に一人として自分の殺傷の行為に疑念を抱くことがありません。そこに大義があり思想があり、無常感があるからと考えるべきでしょう。そうした「闘い手」と主人公を比較するとき、その違いはまさに雲泥の如くです。
小学校のクラスで自分の体験について質問を受け、自分の息子の高校で涙に詰まりながら自分の戦争体験の悲惨さを語り尽くしたら大ウケし、その後、あちこち(特に「べ平連」などの活動があったからかもしれませんが、日本では1000回以上も講演をしています。)で自分の悲惨な戦争体験を語り、皆から素晴らしいと受け容れられるのが贖罪と感じられるのと同時に、自己尊厳の欲求が満たされまくって、(まさに「講演商売を一回やるとやめられない」という俗説の通り)調子に乗って家族も顧みず、ネタが一つしかない一発屋芸人のように癌に侵されて寿命が尽きるまで延々と話して回るようになります。
本人は贖罪行脚のように語っていますが、米国や日本などで得意げに話しまわるのではなく、自分の殺戮を重ねた村跡を行脚して、その都度指の一つも詰める(ヤクザの指詰めは、関節単位で行なうので、1本で数回詰められます。)などして回るぐらいの覚悟と深刻さを持った行為をして欲しかったように思います。歓待を受けてヘラヘラと、まるで自分も戦争という事象の被害者であるかのように得意げに話して回って悦に入っている自分をなぜ客観的に見ることができないのか不思議でなりません。
名作マンガの『ブラック・ジャック』には『悪魔』(コミック掲載時は『魔王大尉』)と題され1975年に発表された作品があります。ブラック・ジャックへの依頼者は米軍のケネス大尉で、ベトナム戦争の英雄と言われているものの、実際にはベトナムの村を焼き払い村民を無差別に虐殺した人間でした。彼の頭には戦時中に撃ちこまれた弾丸の破片が残っており、他の医者が匙を投げる摘出手術をブラック・ジャックが引き受けることになるのでした。
ケネス大尉に焼き殺された村民の生き残りの子供達が、ブラック・ジャックを尋ねてきて「あいつを治療しないでくれ」と要請しますが、ブラック・ジャックが手術を行なう判断を覆すことはありませんでした。しかし、彼は手術当日に手術室に子供達を「立会人」として招き入れます。ケネス大尉は、自分が焼き殺した村民の子供達の敵意溢れる視線の中で麻酔に入り、手術そのものは成功したものの、呵責の念で精神が崩壊してしまいます。そして空港でジェット機のエンジンに歩み寄り、焼け死ぬのでした。
この映画の主人公にも得意気に一発芸の三流芸人のような講演業で、贖罪を偽装するのではなく、ケネス大尉のような末路を派手に歩んでほしかったように思えます。手塚治虫の『悪魔』一編を精読する方が、余程この映画の主人公が徐々に流暢に語るようになる事実関係のエピソードより、余程心に残るものがあります。
シアター内に溢れていたパヨクめいた(ように見える)人々は、多分、この映画を観てバカ短絡的に「戦争反対」と叫んで、昨今の高市政権の防衛力強化に反対したりするんだろうと思います。けれども、実際には真逆のことを読み取らねばならない映画でしょう。こうした精神性が劣った愚劣な人々が世界の大半を占めていて、武力によってや移民の送り込みによって、こちらを蹂躙する可能性があるということをよく知るべきです。その人々は、散々人を理由もなく理不尽に殺しておいて、あとから「自分も被害者だった」と涙ながらに嘯いて見せて、素人芸人家業で食って行こうとするのです。この映画を観て日本に対して米軍のようになるなと騒ぐのではなく、ベトナムのように骨の髄まで愚昧極まりない大国の人々のご都合主義や自己満足の犠牲に日本が二度とならないようにせねばと考えることが必要なのだと思います。
結局兵士一人が海外で贖罪して回っても、(そして、統計上国民の半分が広島・長崎の原爆投下は正当化できるものではないと考えていたとしても、)米国としては民主党政権の人気取り大統領が広島を訪れるだけが精一杯のような状態です。それならこの主人公が兵士としてできることは寧ろ『ゆきゆきて、神軍』の「神軍平等兵」奥崎謙三のように自分の同僚や耳を集めてニヤついていた上官を糾弾して回ることの方がより社会貢献ではないかと思えます。楽な道を進んで、十分苦しんだふりをするのは、安易な自己売名の道に見えるのです。
この作品を観て、登場する精神科医のアプローチも結構疑問に思えました。主人公は、長期間にわたりダニエルズ医師のカウンセリングを受けていました。そしてセッションの各回の時間が終わりに近づくとダニエルズは「なぜ人を殺したのか?」と質問し、主人公が、「あれは戦争だったから仕方がない」「そういう役割を果たすように言われたのだから当然だ」、「殺さなければ自分が殺されるシチュエーションだった」などと強弁するのですが、ダニエルズはそれを無視して「また来週」とセッションを終え、次の回にも同じ質問を繰り返すのでした。
あまりに執拗にこの質問が繰り返されるので、主人公は苛立ちを募らせ、ふと「殺したかったからだ」と答えます。するとダニエルズは「よく気がついた」と初めて応じます。自分の中にあった(自分の子供の頃からの生活環境とその中に含まれる人々への)怒りや自己尊厳の欲求やから主人公は殺戮の場を与えられたら自らの欲望から殺りくを繰り返したと悟らせたという構図です。
映画の終盤、年老いた主人公はベトナムに渡り講演をするという、自分に対する最大の罰を与えることを、自分よりさらに年老いたダニエルズにダイナーで会って告げます。その際に、自分が主人公に対して行なったセッションは、当時PTSDに対する認識も確定していない段階で治療方法も手探りの中で行われていたとダニエルズは語るのでした。
行き過ぎた心理主義以外の何物でもないように思えます。社会学的見地からの「心理主義」は通常、批判的な意味で用いられます。AIさんに拠れば「社会構造の歪みや制度の問題であるはずの生きづらさやトラブルを、『個人のメンタルが弱いから』『対人スキルや心の持ちようの問題である』と、個人の内面や自己責任に還元してしまう志向と説明されています。
もちろん、人間にはたとえばマズローの5段階欲求説の4段階目のような自己尊厳欲求がありますから、人に褒められ羨まれるような機会が少なかった人生を送ってきた主人公には、その欲求を満たす機会は、それが大量殺人であっても、逃すべきものではなく映ったとしても不思議ではありません。しかし、普通、そうした欲求の発露の仕方は無意識的にさえブレーキがかかります。現実に過激YouTuberなどにそういうことがあるかもしれませんが、目立ちビューやいいねをたくさん稼ぐために大量殺人を行なう人間がそう簡単には見つからないのと同じ原理だと思います。それは悪名高いミルグラムの服従実験で十二分に分かることです。国家に強いられてその環境に入れられたら殺人でも犯すようになるのは、戦場でなくても簡単に起こるとミルグラムは証明しています。
主人公は学歴も低く、ミルグラムの実験についても知らなかったことと思いますが、仮にセッションの終わりにいつもの質問を繰り返されても、ずっと「あれは戦争だったから仕方がない」「そういう役割を果たすように言われたのだから当然だ」、「殺さなければ自分が殺されるシチュエーションだった」と冷静に反復し続け、決して「自分がやりたかったからだ」などと答えないままだったら、カウンセリングの行方はどうなっていたのか見物です。少なくとも私なら、一度、ミルグラムの実験を引いて「そうするのが当り前でそれ以外の答えはない」と言っておき、その後の質問の繰り返しには、その都度「その質問には既に答えました」と言ってお終いではないかと思えます。
どう考えても、普通に考えられる理由はミルグラムの実験の状況を学び直すまでもなく、「戦争の仕組みのせい」であり、「環境のせい」としか考えられません。敢えてどうしても主人公個人の非を探すというのなら、その軍属のキャリア選択の先に何が待っているかを知ろうとしなかったことだけではないかと思えます。
面白い作品ではあると思います。しかし、余りにもリアリティがあるが故に、米国、米軍、米兵の主人公の愚劣さや安直さ無邪気さが日本人(または東洋人)の立場からは際立って見える作品でもあります。しかし、この作品の主旨をより鮮明に脳裏に焼き付けるのであれば、この作品監督が映画化した傑作小説『野火』、そして『ブラック・ジャック』の『悪魔』、さらに珠玉のドキュメンタリー『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』の3作のいずれかを堪能した方が良いでしょう。
どうも若手ベトナム兵に自分の自己矛盾を拙い言葉でぶつけられ、動揺ついでに贖罪と銘打って講演稼業にのめり込む元黒人兵のジーサンの自己慢話には、嫌悪感が湧く部分がぽつぽつと頻繁に見当たるのです。DVDは不要かと思います。