『ニンフォマニアック Vol.1』

 渋谷の街の北のはずれ、昔、ピカソナンチャラビルと呼ばれていたビルに観に行ってきました。23区内でたった3カ所。本来は寝泊りしているマンションから歩いてすぐの新宿武蔵野館で観ようと思っていたのですが、毎日午後に仕事があるのに、新宿武蔵野館では午前の回もなければ夜遅い回もありませんでした。仕方なく、朝早い9時20分の回がある渋谷の映画館に足を運びました。

 この映画館にシアターは三つありますが、そのうちの一つで、それほど大きくないシアターです。公開から三週間ほど。一日四回も上映していますが、平日の朝っぱらからこの内容の映画を観たい人が大勢いることが驚きです。30人ぐらいはいた観客のうち、どう見ても、女性が過半数。男性は年齢や外観がばらけていますが、女性客は、単独客が多く、おまけに30代前半に集中しているように見えます。最近、セックス・シーンで話題になるこの手の映画に対して若い女性客が目に見えて増えてきているように感じられてなりません。

 出演俳優たちの、オーガズムの瞬間らしき表情を格子縞に並べたデザインのチラシを持っていましたが、それ以外に3パターンも同じ映画のチラシができていました。この映画は、vol.1とvol.2に分かれていますが、チラシは全部両者共通バージョンです。こんなチラシの増殖は過去に記憶がありません。公開が迫るにつれて、違うバージョンのチラシが一つ二つぐらいできるというのはありましたが、公開が過ぎて合計4種類も並ぶと言うのは、全く意味が分かりません。売店ではTシャツも売られていました。

 この映画をトレイラーで観た時に、まさに直球勝負のタイトル通り、セックス依存症の女性の赤裸々な告白を映画にした問題作と言う話だったので観に行くことにしたのですが、正直言って“おかしな映画”と言う印象しか残りませんでした。

 過去に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』・『アンチクライスト』・『メランコリア』など独特の暗さを持つストーリーとイメージの作品群を作ってきたこの監督にしては、珍しくコミカルな展開と言います。セックスは本質“人間のおかしな営み”であると言う見方もあるので、そのようなものかと思っていました。確かに、ニンフォマニアック(色情狂)の主人公の女性、ジョーの体験談と、釣魚のテクニックやフィボナッチ数列、クラシック音楽などの薀蓄の対比などは一応コミカルであるとは思います。それらを説明する際に、画面に挿入される文字・数字・図形などのあしらいも斬新だとは思います。しかし、それだけなのです。

 どこが面白くないかと言えば、まず、ニンフォマニアック(色情狂)と言う言葉から想像される女性の状態が、全く薄っぺらく稚拙だとしか思えないと言うことかと思います。たとえば『夏の終り』と言う満島ひかり主演の、瀬戸内寂聴原作の映画があります。この主人公は二人の男性のどちらも等しく好きで好きでたまらず、会うたびにどちらの男性に対しても、肌を重ねることを止められません。私の好きな『戦争と一人の女』の主人公も平気で色々な男と交わっていく女の話です。江口のり子が演じる主人公には原作者の坂口安吾がモデルとなっている男性と言う、惚れている男が居ます。娼婦として働き、全くオーガズムに達することがなくなっています。周囲の男どもから求められると、特に抵抗感なくセックスをします。

 遥か昔なら1987年の『恋人たちの時刻』の主人公のように、自分を「きれい」や「可愛い」と言ってくれる男たちとどんどんセックスしてしまう女性など。このような女性が、日本語の語感からイメージされる「色情狂」なのではないかと思われます。

 たとえば、民俗学的な説明を待つまでもなく、日本の社会には男性の初めての性体験を“筆下ろし”として、導いてくれる女性が数多く存在しました。彼女達は恋愛感情を持っている訳でもない男性たちのぎこちないセックスの相手を金銭の授受もなく続ける訳です。私がそれを作品の中で初めて見たのは、コミックの『はまりんこ』です。ここでは(以前から代々存在したのかもしれませんが、少なくとも作品中では)初代の筆下ろしの女性が居て、村の少女が二代目になると同時に役割を終えた先代は川に身を投げる話が登場します。村の男性全員の憧れの対象であり、一生に残る美しいセックスの記憶を皆に分け与える女性。このような行為を何かの苦痛もなく、かといって特定の男性に対する思い入れもないままにできるとすれば、色情に彼女が身をゆだねることを村社会全体で認め受容れていることなのではないかと思います。映画でも『丑三つの村』など数々の作品にもそのような女性が登場するように思います。

 パンフだのチラシだのには、主人公の女性ジョーがオーガズムを求めて…と書かれていますが、この映画の展開のイメージを取り急ぎ、どこぞの日本人が書いたことであって、どうも、そのような深い快感を求めているようにも見えません。一晩に、7、8人と毎晩するのでスケジュール管理が難しい、とも言っていますし、サイコロを振って、誰と付き合うのかを決め、誰と別れるのかを決めるのです。これは、単にパチンコの常習性や飲酒の習慣の類と考えた方が良いように見えます。そこには「性愛」がなく、単なる「性器結合」の習慣しか存在していません。

 確かに、ニンフォマニアのウィキを見ると「(女性の)色情症」(男性の場合は「サチリアジス」と言うのだそうです。)と書かれています。つまり疾病としての扱いです。症状は「気分障害の一種である躁病状態の際に併発する場合があり、量的に過剰な性交(セックス)を求めたり、オナニーを何度繰り返しても満足しないような症状が見られる」とあります。

 分類として「相手から根拠もなく愛されていると錯覚したり主張する好訴妄想(妄想観念)型や、性機能障害による性欲の抑制欠如が原因と考えられる異常性欲型などがある」となっています。主人公は、初セックスの相手を一応愛している節がありますが、それ以外の男性とも、好き嫌い関係なくどんどんセックスを機械的に重ねて行きますので、間違いなく後者です。私たちが考える「色情狂」と呼べるほどに、“色情”と呼ばれるものを持ち合わせているようには見えません。

 私には遥か以前、10歳近く年下の女友達がいました。彼女は幼少期に激しいいじめに合った経験があり、小学校低学年の時にストレスで胃がやられ、肋骨の下の辺りに胃の切除手術の跡があるといいます。そんな彼女は、一人で眠ることができないので常に男を部屋に入れていました。昼間は先物取引の営業で荒稼ぎをするやり手営業でしたが、仕事の打ち合わせをする中で、夕食をともにし、酒が回ってくると、荒んで磨り減った心奥がぽっかりと口を広げてきて、人格が徐々に入れ替わっていくようでした。

 常に三人以上の男性と連絡を取り合っていて、誰一人として彼女の本名さえ知らないような関係の中で、付き合っていました。それでも埋まらない夜を、もっと軽い行きずりに近い関係の男で埋めていました。彼女に一度、当時私がはまっていた宮台真司のブルセラ社会学の書籍について語ったことがあります。「女子高生はなぜパンツを売るのか」と言う当時の社会問題をきちんと論じた内容でしたが、彼女は、「こんなこと、バカでも分かっているような話。何が分かったか分からないような状態で、知ったかぶりした、くだらない本」と、激しく批判していました。この映画の構図には、そのときの彼女を思い出させる類似点があります。

 多くの男から肉便器的に思われていても、“色情”も感じられない、まるで習慣的パチンコのような“習慣的物理的性器結合”を続ける主人公が、自分を路上から救ってくれた頭でっかちオタク系男に自分は悪だ、悪魔だとしつこく言い張り、その傍らに、ヤリマン女のくだらない武勇伝を、平静を装って論評し続ける典型的秋葉オタク的な男。これがこの映画の基本構造です。

 主人公は、やたらに、罪悪感を持ち、他人を傷つけただの、他人の家庭を壊しただの、言い募って、「自分は悪女だ」、「最低の悪だ」と、まるでチンピラが自分の極悪非道を吹聴して回るような告白を続けていて、ウンザリ来ます。

 私の昔の女友達は、尋ねられてもこの映画の主人公のように自分の武勇伝をひけらかしはしませんし、自分の痛みを分かろうとする人間との時間を大切にしていました。宮台真司の“そういうことは、学術的に普通に説明できることで、他の誰も言っていないが俺はそれを調べて発見した”と言った文章テイストに激昂しただけのことです。

 その彼女の言動を振り返るとき、この映画の主人公は、あまりに稚拙でくだらなく、聞き入っている学識溢れるはずの男のコメントも全く噛み合っていない独りよがりの反復で、バカ丸出しです。

 こんな展開の映画が、あちこちで噂になるほどの話題作であるのは、それほどに、欧米のセックス観が、今尚、キリスト教的な禁忌や罪の意識に縛られ続けているからでしょう。主人公のジョーが、早めにアテナ映像の『ザ・面接』シリーズに出演して、代々木忠監督が導く、プロの男優とのセックスで心の枷から解放されていれば、早々に物理的性器結合習慣も捨て、声高にくだらない性器結合話を語るようなこともなかったものと思われます。

 見たかったユマ・サーマンが早速登場しましたが、主人公に夫を寝取られブチ切れる妻の役でした。面白いのですが、特にセックスに走る訳でもありません。クリスチャン・スレ―ターも父親役で登場するので、ニンフォマニアックの娘と、ガンガンセックスでもするのかと思えば、そんなこともありません。少なくとも、vol.1は機械的な“習慣的物理的性器結合”を延々見せるだけの映画でした。DVDは全く必要ありません。

 vol.2は、私の大好きなウィレム・ダフォーがなかなか気合の入った役で登場します。vol.1・vol.2共通のパンフで分かったストーリーでは、多少は盛り上がりもあるようですので、惰性で見てしまうとは思います。面白くないコミックでも、全巻の半分を購入してしまうと、少なくとも後ろ半分も一旦は買いたくなる…と言った程度の動機でしかありませんが。

追記:
 何度となく登場する主人公の初セックスの相手は、『トランスフォーマー』や『イーグル・アイ』などで見たあの男です。初めてこの男に注目したのは『コンスタンティン』です。どうもネットで見ると、色々ゴシップのネタになる男のようで、本作では交際相手とのセックス・ビデオを制作して監督に送りつけて役を取ったとか、インタビューで「台本に示唆されているので、必要があれば、セックス・シーンは本番で行なう」などと発言したとか、今回の作品でも騒がれているようです。そこまでして出演する必要がある作品には全く思えませんが…。