『17歳』

 2月15日の封切から約三週間。新宿ピカデリーでも上映最終週で毎日一回の上映になったところを、まさに上映最終日の昼に観に行ってきました。前日に続き、ビッグサイトから戻って映画館にストレートに急ぐと言う流れです。

 観客は20人弱。男性が6割以上で主に中高年。女性は広い年齢層に見えました。かなり雨の強い中、そして平日の昼間の、上映最終日と考えると、結構な入りだと思います。久々のフランス映画です。何か自分の時代のフランス映画を観るのも悪くないかと、自分なりに典型的なフランス映画らしい題材の映画に感じられて、この映画を観ることにしました。

 フランス映画に対して私が持つイメージは、解釈の余地を味わいとして残し得る、不親切な描写。そして、恋愛に対して日本よりも自由な価値観故の、スタイリッシュな恋愛劇、そういった感じです。子供時代に映画が好きになったプロセスで色々な意味で露出が多かったのがアメリカ映画で、中学校時代には『ロードショー』を定期購読していましたが、多少古くは『大脱走』とかですし、印象に残るのは『タワーリング・インフェルノ』や『ポセイドン・アドベンチャー』などのパニックもの。『ジョーズ』や『グリズリー』などの動物パニックもの。そして、『キャリー』や『エクソシスト』、『オーメン』などのオカルト系の作品群です。今の時代に結構リメイクの対象となったり、オマージュの対象となったりする映画が目白押しに出てきた時代でした。

 そんなハリウッド的映画全盛の中にどっぷり浸かっていたのが映画事始めなので、それを基準に、そうではない映画として、日本映画や、フランス映画(というよりもヨーロッパ映画が全般)と言うことぐらいの位置付だったのだと思います。地方都市に住んでいて、DVDどころかビデオもない時代に、映画館以外に映画を観るのは、テレビのナンチャラ・ロードショーの類しかありません。映画館の映画がハリウッド大作や各種の邦画に占拠されていく中、フランス映画などに触れる機会がほとんど残っていなかったのでした。この映画分類についての大枠の構図は今になっても私の中に存在します。そして、映画が好きとは言われるものの、実は名画と言われるフランス映画類をほとんど見ていないことが何となくコンプレックス化しています。

 この名画コンプレックスは邦画に対してもあります。非常に素人っぽい発想ですが、クロサワ作品ぐらいは色々見ておこうと、何作もDVDで連続で観てみた経験もあります。その後、英語が分かるようになると、ハリウッド大作の多くの単調であまりに分かり易く、予定調和的な味わいに飽きが生じてきますが、逆に話している言葉が分からないので、余計フランス映画からも距離が生まれてしまいました。テレビのナンチャラ・ロードショーや●曜劇場で遥か昔に見たアラン・ドロン主演作などは、朧気な記憶として残ったままです。

 そんな状態の私が、『17歳』のトレーラーを観て、目を奪われたのが、老いて尚、妖しい魅力を放つシャーロット・ランプリングが主人公の美少女に年齢を尋ね、17歳との答えに「17歳。最も美しい歳ね」とぼそりと言うシーンでした。彼女のオーラの如き存在感に私が最初に気づいたのは、例の動物パニックものの『オルカ』です。『愛の嵐』などの超有名作を見たこともないままに、全く馬鹿げた話ですが、それが最初の遭遇でした。その後、かなり好きな映画の『エンゼル・ハート』、その後の『D.O.A.』などで、「やっぱり凄い」と印象を重ねます。しかし、彼女の世界観というか女優としての職業観が強烈に刺さりこんできたのは、問題作『デブラ・ウィンガーを探して』です。ソリアズのネタにも出てくる通り、この作品に出ている多くの女優が私はかなり好きになりましたが、観る前後で関心度合いのギャップが最も大きかったのは、彼女でした。

 その彼女が出演する典型的なフランス映画をリアルタイムで観て、自分の時代のフランス映画の名作を獲得する。何かそんな使命感のようなものが湧いてきて観に行ったのがこの作品です。奇しくも『脱兎見!東京キネマ』の200目のエントリーです。

 南沙織をリアルタイムで僅かに逃した私が、森高千里の声を反芻しながら、「誰もいない海 二人の愛をたしかめたくてぇ?♪」とブツブツ歌いながらシアターに入ると、映画の物語が、二人の愛を確かめるどころか、愛がなかなか見つからない17歳の話として始まりました。

 パリの有名名門高校の生徒である女子高生アグネスがバカンス先の砂浜で知り合ったドイツ人男性と初体験をします。ちょっと年下の弟が彼女の最大の理解者として登場しますが、共にセックスに関心が湧いて仕方がない年頃です。多分、この映画の中で最もエロティックなシーンが、かなり早い段階で登場します。ベッドに低く四つん這いになって、クッションに股間を当て、騎上位のようにこすり付けてマスターベーションする彼女です。それをバックから映すのは、ドアの隙間から覗き込む弟の目線です。

 セックスができるようになった体。セックスを意識する心を抱えて、ドイツ人青年と体を重ねることにします。夜の砂浜で、大した前戯もなく、「初めて」と男は尋ねて、早々に接合を始めます。男は彼女の眼を見る訳でもキスする訳でもなくただ正常位で行為を続け、彼女は横を向き、闇を見つめています。闇の中に見えてくるのは立ち尽くして見つめる自分自身の幻でした。

 たった一回のセックスから、ドイツ人とはほとんど関わりなくなり、バカンスを終えて街に戻ります。ネットの出会い系サイトのような仕組みで客を取るようになります。多分、大人のセックスの可能性を知ってみたいと言うだけの、頭のよい女の子の好奇心が最大の動機に見えます。自分が求めていた、本来意味深いことを、単調でくだらない行為に代えられてしまったことへの反動と解釈する方が良いかもしれません。300ユーロほどで色々な男の色々な要求を受け容れていきます。その中で、一人、彼女に関心を持ち、彼女を愛でてくれる高齢の紳士に巡り会います。家族連れで行った芝居見物の場で娘と一緒の彼に遭遇し、互いの素性をさらし合ってしまいます。それ以降、どんどん惹かれあう二人は逢瀬を重ねます。そして、彼女が騎上位を激しくしたところで、ED薬の影響で心臓に負荷がかかり過ぎていた彼は、突如死亡するのです。

 アグネスはバカンスを一緒に過ごした親しい夫婦の黒人の夫と自分の母が密会を重ねていることを芝居見物の場で知ります。そして、警察から売春と死亡の事件を聞いて、ことの全貌を知って詰って来る母に向かって、「私への信頼の証に、彼と寝たのか教えて」と応えるのでした。母はそれに応えませんでした。愛や信頼がどのようなものかアグネスはどんどん学び、行動に反映させていっているのが分かります。

 老紳士ジョルジュのセックスは、典型的な若い女を味わう老いた男のそれです。何か川端康成の『眠れる美女』を思い出します。絡み付くようにねっとりとしたセックスが続く中で、アグネスが確信した愛はあっさりと終焉し、警察から被害者の未成年と言う形で処理され、母と義父からは不気味さと嫌悪を伴って若気の至りとして片づけられてしまうのでした。

 死んだ老紳士を恐怖と動転のあまり、そのまま放置したアグネスには、結局すべてがあっという間に消え去った夢のようなできごとでした。それを彼女の現実の血肉に変えるのが、死んだ老紳士の妻が送ったメールでした。その妻が金を払って彼女を買い、老紳士と彼女が最後の時間を過ごした部屋に二人で行くよう誘うのでした。そこで、彼女は自分を愛してくれた男のことをさらによく知り、そしてその妻から承認を得るのです。

 私がトレーラーで観たシャーロット・ランプリングは、この老紳士の妻でした。物語の結末近くまで私がトレーラーで惹きつけられた最高の場面は登場しなかったのですが、飽きずに見られるどころか、引き込まれる展開でした。

 高校ではランボーの17歳についての詩が朗読され、映画の区切りとなっている夏、秋、冬の三つの季節には、各々にフランソワーズ・アルディと言うフランス人有名歌手(とパンフにあります)の歌が配され、朗々と場違いなまでのボリュームで流れます。意味深い台詞の積み重ね。幻惑するような真夏の日差しに溢れたバカンスの海岸。出演者達の装いが際立つ秋と冬の街並み。決して私の好きな女優のタイプではありませんが、イブ・サンローランの香水のイメージモデルであった映画初出演の女優の美しさが全編で映えます。

「援交」と言う言葉もないフランスでは、彼女の行為は端的に「売春」と表現されています。しかし、劇中彼女は「快楽のためでもなく金のためでもない」と自分のしたことを語ります。素晴らしい映画だと思います。「分析」と言う字幕が出て、「アナリシス」が出るのかと耳を澄ますと、「ダイアゴニー…」などと聞こえ、言葉の壁を意識せざるを得ませんでした。けれども、とても印象深い映画です。DVDは勿論買いです。