新宿東口の映画館の上映最終週の月曜日。東京では7年ぶりとか言う大雪の日の6時半からの最終回で観てきました。昨年から観に行きたいリストに入っていて、延び延びになっていたのですが、意を決して漸く映画館に赴きました。
大雪でも成人式の祝日で街にはかなり人が居て、観客数もそれなりの多さです。30人ぐらいの入りではなかったかと思いますが、封切から既に二ヶ月近く。人気のほどが分かります。
映画は、欲望のままに場当たり的に生きている悪党の(ここでもまた)山田孝之が運転するトラックで、小さな有限会社の金属加工場の社長である堺雅人の妻の坂井真紀が轢き逃げされます。坂井真紀は死に、山田孝之は二年後に刑務所から出てきて、さらに数年が過ぎ、二種免許をギリギリ取得してタクシー会社に勤務しようとしている所から、映画の中核のストーリーが始まります。
もともと甘いもの好きで、工場での仕事を抜け出しては隣接する自宅に戻り、三個セットで売られる安プリンを冷蔵庫から出して食べ続け、痩身なのに糖尿になりかけている堺雅人は、丁度プリンを次々と開封して食べている所に留守番電話の声が響き、坂井真紀がスーパーで買い物をするか否か決めたいので、冷蔵庫の中を見てくれと言う内容でした。これが坂井真紀の最期の声となって、堺雅人に残されています。
堺雅人は、工場から抜け出て、乱雑に散らかった部屋をそのままに、愛妻の遺骨も卓袱台の上に置きっぱなしにしたままに、プリンを食べつつ5年を過ごします。畳の上に広がる妻の服や下着を掻き集めて抱きしめては、匂いを嗅ぎ、泣き濡れつつ、「また、どうせプリン食べているんでしょ。好い加減しなきゃ駄目だよ」と言う妻の最期の声を何度も何度も薄暗い部屋で再生するのでした。
そんな彼は、毎日数度ずつ出掛け、出所した山田孝之をストーキングします。そして観察し続けます。野菜などの買い物をし、手にしたビニール袋には、常に包丁が一本入れられています。気弱で社会性が高い訳でもなく、ぎこちない生活を送るだけの零細工場の二代目社長の臆病な復讐劇に対する予感がどんどん高まります。そして、とうとう、5度目の妻の命日を決行日として、山田孝之の許に毎日、「お前を殺して俺も死ぬ。決行まであと○日」と書かれた短い手紙が届けられるようになるのです。
そんな中、坂井真紀の兄である学校教師の新井浩文は、なんとか堺雅人をまともに戻そうと細かな配慮を続け、バツイチの同僚女性教師の山田キヌヲを紹介します。嫌がる堺雅人は山田キヌヲに向かって、「僕はあなたのような方と結婚できるような人間ではありません。すみません」と深々と頭を下げて去っていくのでした。ハンカチ代わりに彼が作業ズボンのポケットから出したのは亡き妻のブラジャーでした。
山田キヌヲはそんな彼に余計に心が傾き、再度訪ねます。固辞する彼に彼女は映画全体を貫く美しい言葉を投げかけます。
「そんな重たい話はしなくて良いんです。今日はあなたと他愛のない話をしにきました。好きな食べ物の話でもいい。昨日見たテレビの話でもいい。好みの女性のタイプの話でもいい。何でもいいから他愛のない話をしたい」。
その言葉に僅かに心を開いた堺雅人ですが、包丁持参のストーカーの緊迫感は増し、ついに決行日が来ます。台風が直撃したその夜、土砂降りのグラウンドで二人は対峙し、堺雅人が包丁を出します。しかし、その包丁を泥濘に捨て、堺雅人は「君と他愛のない話がしたい」と山田キヌヲの言葉をそのまま復唱するのでした。
チンピラ悪党である山田孝之は、武器を捨てた堺雅人に向かって徐に今度は自分が包丁を出します。すると、堺雅人は「日本で二人殺せば必ず死刑だ。俺を殺して死刑になれ」と、山田孝之の手をつかみ自らに刺そうとします。躊躇した山田孝之と堺雅人はパンフに「体が冷え切って何をしていたのか記憶さえない」と書かれている場面で乱闘を続け、力尽きます。徐に堺雅人がずぶ濡れになったポケットから取り出したのはストーキングの結果を書きとめた手帳です。そこには、山田孝之の、朝食抜きにコンビニ弁当、さらに魚民で飲むだけのような毎日の食生活が克明に書き込まれていて、それを本人に読み聞かせるのです。
そして、「君は何でもない人間だ。何も為していない人間だ。そんな君は、始めから僕の話の中にはいなかった」と大声で告げて堺雅人は去っていくのでした。
色々なことを考えさせる映画です。
愛する者が居る日常が突如終焉し、どうしてもその欠落を埋めるだけの心の整理ができないままに、全ての思考も全ての興味も封印されてただ只管に失われたものが心に充満してしまう時の気持ちを、「微笑みの貴公子」の渾名もある堺雅人が信じられないほど冴えない男の役で、観る者を圧倒する演技で表現します。恋に焦がれ、それが叶わなかった経験のある者なら、誰もがその心中に引きずり込まれ、自分の悲しみが心を再び満たすことでしょう。泣けます。やたらに泣けます。
その悲しみを埋める模索がこの映画では幾つか為されています。堺雅人はホテトル嬢を買い決行前夜にセックスに至ろうとしますが、勃起せず、ただ無為にラブホテルでホテトル嬢のカラオケを聞くだけに終わります。セックスと言う行為ではその悲しみや欠落が埋められないことが示されます。
そして、山田キヌヲです。「他愛のない話がしたい」は、恐ろしく力のある言葉です。愛だの恋だのセックスだの将来だのを一旦脇に置いておき、ただ、他愛のない話で相手を知りたい。他愛のない話で相手と共にいる時間を過ごしたい。堺雅人は山田孝之相手に怨讐をも脇において接しようと努力しますが、それも結果的に、ただの人としてあまりにも未熟で粗暴な山田孝之には全く無力で、「始めから話の中にいなかった」と、妻の死と何ら関りないものと位置付けるしかなくなるのです。
泥濘のグラウンドの場面の後、堺雅人がとぼとぼと帰途を進む中、山田キヌヲが車で通りかかり、「ラーメンを食べに出かける」と言います。「では、一緒に」と言うことにもならず、例えばシャワーを浴びにと山田キヌヲの家に行きセックスに至るような展開も全くありません。単に、山田キヌヲが堺雅人に傘を貸して車で走り去るだけです。そして、その傘を手に堺雅人は帰宅し、ドロドロの疲労の中、最後に留守録を聞き、それを消去するのです。そして、頭や顔にプリンを乗っけては潰し、ただ咽び泣くのでした。
亡き妻の声を消去した所にほんの微かな希望の光芒が見られます。けれども、全編を通して鉛で心を埋め尽くすような映画です。それが堺雅人、山田孝之、(『ゲルマニウムの夜』の怪優)新井浩文や、私が大好きな『女殺油地獄』主演の山田キヌヲ、そして田口トモロヲや谷村美月などの名演技で構成されていきます。台詞の各所に出てくる魚民やバーミヤンなどの現代の日常の場所名も、リアリティを殊更に描き込みます。
他愛のない話を重ねるだけでもいいからつながりを持ちたい相手が居る、または居た者の心を鷲掴みにして離すことのない暴力に似た力を持つ映画です。DVDは間違いなく買いですが、観るタイミングを慎重に選ぶ必要があるものと思います。