『チェイン・リアクションズ』

 3月28日の封切から2週間弱経った4月2度目の水曜日の夜8時40分の回を非常に久々の渋谷の映画館で観て来ました。遥か以前、2008年頃『いのちの食べかた』や『いま ここにある風景』などを観て、それ以降にも1、2度何かの作品を観た、ないしは、観に行こうとして満席だったか、記憶が定かではありませんが、渋谷の東の外れ、殆ど青学に近いような位置にあるぽつんとあるミニシアターです。座席数も少なく当日に行くと満席になっていたトラウマ的記憶があり、致し方なく、ネットで座席を指定して購入して行きました。いつもの親しくしている人と二人連れです。

 1日3回の上映ですが、都内の上映館はここ1館しかありません。神奈川にも1館横浜で上映されているようですが、関東でもそれに加えて宇都宮があるぐらいで合計3館しかない状態です。横浜の映画館も宇都宮の映画館も1日1回だけの上映ですから、上映回数、上映館数共に非常に限られている作品です。

 私がこの作品を観ることにした動機は、この作品が快作ホラー映画『悪魔のいけにえ』について、5人の業界関係者が語りまくるという構成のドキュメンタリー作品だからです。映画.comの作品紹介の文章は以下のようになっています。

[以下引用↓]

ホラー映画の金字塔「悪魔のいけにえ」製作50周年を記念し、同作がなぜ50年を経てもなお語り継がれるのか、その核心に迫ったドキュメンタリー。

トビー・フーパー監督によって1974年に生み出され、映画史に名を刻んだホラー映画の名作「悪魔のいけにえ」について、コメディアンのパットン・オズワルト、映画監督の三池崇史とカリン・クサマ、ホラー映画についての著作で知られる映画評論家アレクサンドラ・ヘラー=ニコラス、「ホラーの帝王」の異名をとる世界的作家スティーブン・キングという、それぞれが第一線で活躍する表現者たちが、「悪魔のいけにえ」に受けた衝撃や影響について語る。彼らの証言から、低予算で製作されたインディペンデント映画である「悪魔のいけにえ」が、なぜ世界の人々の間で語り継がれる作品となりえたのかを検証する。

監督は「ピープルVSジョージ・ルーカス」「ウィリアム・フリードキン リープ・オブ・フェイス」など、これまでも巨匠監督の名作をひも解くドキュメンタリーを手がけてきたアレクサンドル・O・フィリップ 。第81回ベネチア国際映画祭のクラシック部門で上映され、映画に関するドキュメンタリーの最優秀賞を受賞。

2024年製作/102分/G/アメリカ
原題または英題:Chain Reactions
配給:エクストリームフィルム
劇場公開日:2026年3月28日

[以上引用↑]

 私はこの『悪魔のいけにえ』という作品がホラー映画というジャンルで括り切れない何かを持っている、若しくは、この映画こそが本来のホラー映画のあるべき姿で、他のホラーで括られる多数の映画作品群はゴア度合いを競うだけの児戯の如きもの様に感じられてなりません。それほどに『悪魔のいけにえ』は異質な作品です。このブログでも幾つかの作品で『悪魔のいけにえ』に言及しています。その一つ、『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の感想記事では以下のような文章が含まれています。

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 私が感じた作品全体の面白さは、やはり、巨人の視点が見事に描かれていることだと思います。巨人目線で見ると、人間はワラワラ動き回る食料でしかないですし、少なくとも映画開始の段階までは、その食料が反撃してくるなどと言う想定は無い訳ですから、(その後も巨人たちが、何か戦略的な判断をしたとは到底思えませんが…)何か意志を持った戦闘と言う感じにはならないはずです。

 似たような構図は、『GANTZ』の原作にも巨人で人類を捕食する異星人が出てきて、人類を蹂躙する場面があり、酷似している描写が続きます。この作品の巨人たちは『GANTZ』のそれに比べ、知性がある訳でもないので、単純に動きの鈍い動物の捕食活動のようなのっぺりとした人間捕食の場面が続きます。

 同様の無機質さで私を初めて慄然とさせたのは、子供の頃に観て、その恐怖が他のスプラッタ系(当時はそういうジャンル名さえありませんでしたが…)の映画とは異質だったのが、『悪魔のいけにえ』です。この作品に登場するテキサスの一家は食人を常としていて、捕えた人間の扱いがまるで食材の扱いそのものであったことが、当時の私に強烈な違和感を湧かせる作品でした。

 それが何らかの恨みや嫌悪や憎悪であっても、多くの作品に描かれる殺戮には目的や意図が明確にあります。それが前提として観客に対しては描かれていて、(場合によっては、観客のみならず、襲われる劇中の人物たちにも何かのコミュニケーションなどの手段で明白になった上で、)迫ってくる危機の意外さや激しさがウリのスプラッタ映画などは多々あります。しかし、『悪魔のいけにえ』の理不尽さは、非常に異質で強烈に記憶に残るものでした。それは、あのロジャー・イーバートさえが、映画評の対象にこの作品を取り上げて、言及していることからも分かります。

『進撃の巨人』の違和感ある恐怖も、『悪魔のいけにえ』と同種です。その恐怖感をCGでは描ききれないと巨人のうつろな視線の再現にこだわったなど、パンフを見ると、その恐怖感の演出を追及しつつ、この作品が制作されているようです。その点が、陳腐な怪獣映画やスプラッタ系ホラー作品などと、この作品が一線を画すことに成功したポイントだと思います。

[以上引用↑]

 もう一つ『悪の教典』ではやや短めですが、以下のような言及があります。

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ただ、今回この作品を観て分かったのは、私は無機質な殺人が連続する映画が基本的には好きなのだということです。変に正義や悪を語ったりしつつ大量殺戮を重ねる戦争映画は、歴史的な価値観から観てしまうことが多く、今一のらないことが多いのですが、個人レベルでの何らかの理由から無機的な殺人が多数行われる構図が好き、ないしは、その構図に関心が持てるということだと分かりました。

それは多分、商売柄、人間観察が日常業務のかなりのウェイトを占めるので、普段余り観ることのない、非日常的な人間行動の衝撃に面白さを感じるということもあると思います。

殺人に至る非人間的な価値観の恐怖を描いた映画で私が名作だと思っている映画に、『悪魔のいけにえ』があります。留学中にもよく観たので、英題の『テキサス・チェーンソー・マサカー』の方が私はしっくりきます。この映画ではテキサスの田舎の人喰い家族が描かれています。この映画の、優れて恐怖心を掻き立てる部分は、家族の一人一人が捕えた人間を全く人間として見ないことです。当然、話しかけたりしないのは勿論、ホイと言う感じで肉を引掛けるフックに若い女を生きたまま掛けたりします。椅子に座らせて、固定するのに、紐などを使わず、何気ない所作で腕を釘で打ちつけたりします。

国内映画でこの手の名作を挙げろと言われれば、間違いなく、桜吹雪の中山崎努の鬼気迫る殺戮が強烈な印象を残す『八つ墓村』や、そのモチーフとなっている津山三十人殺しをそのまま描いた『丑三つの村』も名作です。他にも『アウトレイジ』や『バトルロワイヤル』などいくつも挙げられます。海外作品では『ヘンリー ある連続殺人鬼の記憶』も素晴らしいです。

[以上引用↑]

 このように、私が強い印象を持つ『悪魔のいけにえ』ですが、作品を観た回数は多分ほんの3、4度ぐらいではないかと思います。それも全部の回で全編を観ていないように感じます。僅か83分の作品ですから、特に編集を経てもいないように思いますが、私が子供の頃の映画は映画館かテレビの『●曜ロードショー』などの映画番組でしか観られない時代に、再放送が為されている中で観たこともあったように思えます。その際も、その重苦しさや理不尽さに耐えきれず全編を見届けていないように思えるのです。そんな経験でも、若しくは、そんな経験をしたからこそ、この作品の上述のような人間を食肉として見る目線の強烈な違和感が子供心に刻み込まれたのかもしれません。

 留学中に(単に極貧だったのでケーブルテレビのHBOチャネルで古い映画を観て過ごすのが数少ない娯楽だった私を見て、「映画が趣味」と思い込んだ)ホスト・ファミリーが買い与えてくれた、ピューリッツァー賞受賞の映画評論家のロジャー・イーバートの映画評論集を初めて手にしてから、知っている作品の洋画の原題を思い出しては採録されているかを確かめ、見つけるとその評論を仔細に読み解くことを繰り返していましたが、その作業の最初から20作品名内にはこの『テキサス・チェーンソー・マサカー』があり、見出して歓喜した覚えがあります。
 

 2つあるシアターのうち地下の方に赴くと、観客は私達も含めて8人しかいませんでした。2人連れは私達以外に20代に見える女子の2人連れが1組居ました。それ以外は単独客で、男性が3人。女性が1人です。男性の方は30~40代が2名。あとから50代が1人入ってきました。女性は30代でした。カルトな人気を誇る話題の映画という風に私は認識していましたが、意外にこの作品の知名度は低いままに封切日を迎えたのかもしれません。

 この映画館は1日3回の上映時刻が多分封切日から不変で、水曜日の前の週末の何処かでチェックした際には、今回私達が見たのと同じ20時40分枠は、当日や前日の段階で満席になっていて選べませんでした。ですから、平日になると来られなくなる層がこの作品のファン層と見做すこともできますが、単なるアバウトな仮説に過ぎません。

 劇中では5人の業界人が登場し、五者五様の『悪魔のいけにえ』観を語ります。登場順に感じたことを書きまとめてみたいと思います。

■スタンダップ・コメディアンのパットン・オズワルト

 劇中でも彼のキャリアの原点であるスタンダップ・コメディアンの芸を披露している場面から始まりますが、その話題の中に作品タイトルのインパクトと言ったものがあり、良い事例として「テキサス・チェーンソー・マサカー」が含まれています。

 彼が子供時代に観たハロウィーンの恐怖映画鑑賞体験の二強が『吸血鬼ノスフェラトゥ』と『悪魔のいけにえ』でした。そこから彼は彼の印象に残る『悪魔のいけにえ』の名場面や名演出を子細に取り上げては、『吸血鬼…』との共通点などを上げつつ分析していきます。まるで映像作品作りの講義でもあるかの如く、視点がプロフェッショナルで且つ非常に豊かな英語表現が使い尽くされます。5人の最初に登場するに相応しい選択だと思えました。

 パットン・オズワルトはウィキで見ると、「コメディアン・俳優・声優・脚本家」と書かれていて、活動が多彩です。映画作品にも俳優として登場していて、それら作品のうち多くは日本でも公開されているようですが、私が彼の出演をきちんと記憶している作品はありません。しかし、この作品で劇中にピンのコメディアンとしてステージに立つ彼を見た際に、見覚えがあると感じたので、それは多分、これらの映画作品群の彼を見た微かな記憶が残っていたのだろうと思われます。(テレビシリーズにもかなり出演していますから、そのどれかであった可能性も僅かにあります。)

■映画監督の三池崇史

 映画監督の三池崇史の作品は私も多数観ていますが、その映画監督を知る機会は(他の監督も同様ですが)殆どなく、その作風などから何となくその「味」が分かるようになることがあるというような感じに留まっています。ウィキで見ると「バイオレンスの巨匠」と呼ばれているとあり、その作品群は海外でも高く評価されていることが分かります。

 実際に私が観て作品の中でも、私が好ましいと思える作品群だけでも挙げると大量になります。三池崇史の監督のキャリアから考えて比較的最近の作品と見做せる作品群に限っても、『ヤッターマン』『悪の教典』『テラフォーマーズ』『無限の住人』『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』『ラプラスの魔女』『怪物の木こり』があり、劇場鑑賞作品もかなり混じっています。また、劇場で鑑賞の機会を逃した『でっちあげ~殺人教師と呼ばれた男』はDVDで観ようと予定しています。

 彼は『悪魔のいけにえ』そのものについて語るのではなく、自分にとっての『悪魔のいけにえ』の位置付けを語っています。明言されていませんが、彼を「バイオレンスの巨匠」にしたのは『悪魔のいけにえ』と考えられるエピソードが紹介されています。

 中学生の頃だったかと思いますが、彼が電車で40分もかけてきた大阪の街で、チャップリンの『街の灯』を観ようと思ったものの満席で入れず、それでも映画を何か観ようと近隣を歩くうちに『悪魔のいけにえ』の看板を見つけ、何かエロい作品と勘違いして鑑賞に至ったと語られています。映画作品のテイストや「バイオレンスの巨匠」の呼称からは懸け離れた穏やかな口調で、バイオレンス映画やホラー演出のありかたなどについて彼の考えが語られ、最終的にそれが『悪魔のいけにえ』に端を発していることが語られて行きます。

 登場する画像では、小道具担当者らしいスタッフらが取り囲む中で、撮影現場の室内にどんと座り込み、半透明のバイブレーターを一心不乱に油性ペンで黒く塗り上げる作業をしている姿などもあり、前のめりの姿勢を強く感じさせますが、それとはあまりにイメージの違う穏やかな語り口で、どうも言っている内容に情熱が感じられないように思えてなりません。彼は今もまだ『街の灯』を見ていないらしく、その理由は、また人生を変えるような出来事が起きては困るからという話でした。

 貴重なインタビュー内容ではあるものの、どうも記憶の襞に刺さり込んでくるような部分が少なかったように思えます。

■オーストラリアの映画評論家のアレクサンドラ・ヘラー=ニコラス

 英文しかないウィキを読むと、歴史家でもある一方でホラー映画についての著作や、映画界の女性像の論評などでも知られている人物であるようです。その著作の殆どが邦訳されていないことからも、国内での知名度の低さが分かります。しかし、私も今回初めて知った『Rape-Revenge Films: A Critical Study』や『Masks in Horror Cinema』の著作のモチーフは、確かにあって当たり前そうなのに、今までなかった切り口で、それが書評によると、非常に明晰な分析が行なわれている内容のようですので関心を湧かせます。

 オーストラリア出身であることは、登場後早々に自身が映画『ピクニック at ハンギング・ロック』の舞台となったハンギング・ロックの近くであると説明することで、観客が理解します。しかし、学歴が高くなると洗練されるのかもしれませんが、オーストラリア訛りが、少なくとも私には全く感じられない発音で、寧ろブリティッシュ・イングリッシュに寄っているように思えました。(単語「massacre マサカー」が何度も登場しますが、その語尾の発音が全く濁っていずブリティッシュ・イングリッシュ的です。)

 ウィキで見ると1974年生まれですので、子供時代にビデオの仕組みは普及していたはずですが、オーストラリアの社会倫理や宗教倫理的に、子供時代に女子であるが故に『悪魔のいけにえ』を観る機会が失われたと発言しています。また、オーストラリアの映倫のような組織が『悪魔のいけにえ』の国内上映や流通を許可しなかったようで、最初の申請から10年を経て解禁された問題作として、国内で走る人ぞ知る大話題作ということであったようです。

 流通した『悪魔のいけにえ』は何度も再生された後のヘタったテープでオーストラリア国内では流通することになり、褪色した映像は黄色に染まっていたと彼女は語ります。しかし、砂塵に覆われた領域の多いオーストラリアでは、黄色の色調は熱波の表現であり、国内では自然に受け容れられるどころか、寧ろ、『悪魔のいけにえ』の表現効果をあげる結果になったと彼女は説明します。(劇中では、黄色に褪色した映像とオリジナル映像との比較をスクリーンを左右に割って対比する形で明示されています。)

 オーストラリア人から見た米国の典型的なイメージが『悪魔のいけにえ』にはあると語られていますが、米国の典型的なイメージが例外的な米国大都市群をイメージする多くの日本人とはかなり話が違います。劇中には私も一昨年に観た『ピクニック at ハンギング・ロック』が何シーンも登場し、同作を鑑賞時にはそれほど強く感じなかったホラー寄りのサスペンス的な場面が取り上げられ、その不穏さや生理的な違和感が『悪魔のいけにえ』に共通していることに気づかされます。

 視点としては面白く、彼女の存在とすぐれた著作を認識できたことには意味がありますが、『悪魔のいけにえ』そのものとの連関で言うとやや本作全編の中では弱い内容であったように思えます。

■作家のスティーブン・キング

 私がこの作品が列挙する5人の中で一番見て見たかった人物です。パンフでも「ホラーの帝王」の異名をとる世界的作家と紹介されていますが、私が小説を読んだことがあるのは、私が非常に好きな映画『デッドゾーン』の原作本を留学時代に1年ほどかけて少しずつ読んだことがあるぐらいです。日本でもスティーブン・キングの知名度はかなり高いものと思いますが、それは映画化された作品群の多さによるものと思います。

 ぱっと私が平均以上には好ましく思っている作品群を上げるだけでも…

『キャリー Carrie(1976年)』『シャイニング The Shining(1980年)』『クジョー Cujo(1983年)』『デッドゾーン The Dead Zone(1983年)』『クリスティーン Christine(1983年)』『炎の少女チャーリー Firestarter(1984年)』『ペット・セメタリー Pet Sematary(1989年)』『黙秘 Dolores Claiborne(1995年)』『ミスト The Mist(2007年)』『キャリー Carrie(2013年)』

など、枚挙に暇が無いと言っていいぐらいです。(これでもウィキに記載されている映画化作品リストの3分の1にもなっていないぐらいです。)また「ホラーの帝王」とはいうものの、ホラーではない作品群では『スタンド・バイ・ミー Stand by Me(1986年)』と『ショーシャンクの空に The Shawshank Redemption(1994年)』はホラーに全く関心のない人々にも広く名作として認識されているものと思います。最近では彼のデビュー当初のペンネームで発表された作品さえ映画化の波が及び、この数はより増える傾向にあります。

 動画配信もなければ、ネットもなく、DVDもビデオもなかった子供の頃、映画を観る機会は限られており、観られるものは有り難く観るしかないような構造から、私は今以上に当時ホラー作品を観ていたと思います。その結果、スティーブン・キング作品も初期のものは結果的に見ているものが多少混じり込んでいます。強く印象には残っているものの、今から見るとB級テイストで、『ジョジョの奇妙な冒険』の第三部に登場するスタンド「ホウィール・オブ・フォーチュン」のモチーフではないかと思われる『クリスティーン』がその筆頭です。B級感が予算の多さで薄められた感じの『ペット・セメタリー Pet Sematary(1989年)』も微妙ですし、『炎の少女チャーリー Firestarter(1984年)』に至っては、同じくパイロキネシスをテーマにした『クロスファイア』とかなり記憶が混同しています。

 一方で私の好きな映画ベスト50の洋画のリストに『デッドゾーン The Dead Zone(1983年)』と『黙秘 Dolores Claiborne(1995年)』は含まれていて、両者共にビデオからDVD購入へと媒体を重複させながら、何度も見返している(私にとっての)名作です。

 劇中でキングは主に自分の作風を語っています。自分の創作姿勢を語る。『悪魔のいけにえ』のトビー・フーパー監督と仕事をした経験に言及します。そして低予算映画の体当たりの撮影の魅力を語るのでした。その流れで、有名な『シャイニング』の問題についてもかする程度に言及しています。

 キングは『シャイニング』がスタンリー・キューブリックの手によって映画化されたのを見て、「エンジンのないキャデラックだ」と強烈に批判したと言われています。そのエンジンの部分は「登場人物のキャラクターに対する愛」であるとの解説がよく為されています。今回の作品の中でキングが『シャイニング』について不満を述べているのは、雪の洞穴を逃げ回るダニーのシーンを「高機能のカメラなどを数セット用意して大予算で撮ったものの、あの程度の緊張感のない映像にしかならない…」のように語っているのです。

 そしてその意見を自分が高く評価した監督サム・ライミにぶつけた所、「ハンディ・カメラを2台用意して走りながら撮ったらもっと良くなる」のような意見が返ってきたとキングは語ります。この映画作りに飛び込む感覚が、『シャイニング』に欠けていた「エンジン」でもあったのかもしれませんが、少なくともキングは『悪魔のいけにえ』のトビー・フーパーにその要素を強く感じ高く評価しています。(キングはフーパーと会話したことがあると劇中でも語られています。)

 もう少々、『悪魔のいけにえ』について掘り下げてもらいたいようには思えましたが、一方で自分の恵まれなかった子供時代から若者時代までをベースとして作品群を生み出していると言われるキング自身の創作姿勢が色濃く出ていたインタビュー内容で面白く観ることができました。

 このブログでもスティーブン・キングは何度か言及されています。キング自身の原作作品では『キャリー(R15+版)』(2013年)を劇場鑑賞していますが、それ以外の作品でのキングについての言及の方が、彼の影響力の大きさがうかがえるかと思います。『LAMB/ラム』の記事です。

[以下引用↓]

この作品を観ている最中、最初に考えたのはこの作品のジャンルが何であるのかということです。「いやミス」というカテゴリーがありますが、「いやな気分にさせる」という点は間違いなさそうで、ミステリーと言うほどの解くべき謎もなく、人間でも、人間にとって既知な生物でもないものが二体も出て来るので、一応SFということかもしれません。とすると、「いやSF」ということになります。それも、普通、「いやミス」は、元々原作の小説のジャンルのことで、国内作品を指すことが多いようなので、敢えて言うなら、「海外版いやSF」です。

 ただ、そういう風に言うと、非常に珍しいカテゴリーのように聞こえますが、何となくこの手の映画は多いように感じます。「この手」というのは、まず比較的隔絶されていたり、人里離れた感じの自然環境の中に棲む少数の人々が主人公で、自然の中から人知を超える何かが迫って来て、それと遭遇してしまったそれらの人々が、あまり望ましくない結果に至るが、それが国家規模の問題になったりニュースで報道されて社会問題化するようなことはない…と言った感じの話です。たとえば、スティーブン・キング作品には結構この手の、物語が始まる前からロクでもない結末が人々に待っていることが分かっているので、冒頭のゆっくりとした山野の描写や何気ない寂れた商店街の描写でさえ、やたらに不穏に見え、仮にキャッキャしている子供が数人いるようなシーンがあっても、それを見つめる周囲の大人の虚ろな瞳に何か禍々しい予兆が窺えるような、そんな作品群がそれなりに見つかるように思います。

[以上引用↑]

■映画監督・脚本家のカリン・クサマ

 カリン・クサマもこの作品を観るまで全く知らない人物でした。苗字から分かる通りの日系人でウィキで見ると、「日本人の父ハルオ・クサマ(函館出身。小児精神科医)とアメリカ人の母の間に生まれた日系人」と書かれています。さらに彼女の監督作品群を観ると、『イーオン・フラックス』がDVDで観たことがある程度でした。嫌いな作品ではありません。

 彼女のインタビュー内容が他の4人と異なるのは、彼女が『悪魔のいけにえ』とどのように遭遇したかなども、『悪魔のいけにえ』が自分にどのような影響を与えたかなどもかなり割愛されており、語った内容の殆ど米国の文化論になっていることです。

 先述のアレクサンドラ・ヘラー=ニコラスもオーストラリア人から見た米国世界として『悪魔のいけにえ』の舞台を見ていましたが、カリン・クサマの場合は、そうした舞台設定の心象風景の話ではなく、『悪魔のいけにえ』の食人一家が米国の発展に乗り遅れ、振り落とされた人々という見立てである一方、見栄えはよくないもののワゴン車を仕立てて、米国の大学に行き、皆で旅行に出かける余裕のある若者たちを米国社会の上流階級と見做して、分析をしているのです。端的言えば、格差社会を描く映画としての『悪魔のいけにえ』論です。

 取り分け、彼女は大画面でリマスター版を精緻に見返しており、配置された小道具類や登場人物が示す写真の有名絵画作品への酷似など、かなり細かに記号論的なアプローチで制作者の意図を読み解こうとしていて、非常に関心が湧きました。オープニングの太陽のフレアの意味を読み解いたり、「これは実話である」と冒頭に述べる制作側の挑戦に言及したり、分析は広汎で、何度も見返して検討してみたくなります。

 彼女の発する英語は劇中の他の3人の英語の語り手のモノよりも分かり易く、それは多分彼女が日系人だからであろうと推測されます。DVDを購入して字幕などを観つつ、こう文や文章構成などをよく見直せば、日本人に特徴的な英文が分かるのかもしれないと思えました。

 この映画の私にとっての魅力を総じてまとめてみると、ロジャー・イーバートも評価するホラーと括るのに抵抗があるぐらいの異質のホラー作品の金字塔的存在をプロの視点から、それも多様な視点から語り尽くす構造ということになるかと思えます。さらに、スティーブン・キングの生の英語の語り口を聞ける体験も私にとっては初めてで貴重でした。単純に英語学習という観点から見ても、以前観た『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』以上に(英語の語り手が数人いる分)役に立つと思えます。当然ながらDVDは買いです。

追記:
 タイトルは、一本のホラー映画が多くの人々に影響を与え、彼らの価値観やキャリアを左右している連鎖反応という意味でもあるでしょうし、原題の「チェーン」にもかかっているのもあるかと思います。いずれにせよ、秀逸なネーミングであると思えました。