9月26日の封切から3週間弱の10月中盤の木曜日の晩、10時45分からの回を久々のバルト9で観て来ました。大人気で混雑が予想されたので、ずっと人気が収まるのを待っていましたが、ふと気づくとバルト9では1日1回の上映になっていました。それも平日木曜日にいきなり終電枠です。都内では33館で上映されていて、新宿では(歌舞伎町の超高価格帯映画館も含め)4館上映しているので、大人気の余韻を感じますが、上映回数はどこも1日1回になってしまっています。
シアターに入ると観客は私以外に誰も居ず、過去に(先述の歌舞伎町の超高価格帯館で)『銀河鉄道の父』を観た際以来の貸切状態かと思ったのですが、シアター内が暗くなるぐらいのタイミングでぽつぽつと観客が現れ、私も含めて総勢5人になりました。他の4人のうち1人だけ女性で50代ぐらい。残りの男性は、20代、40代、70代といった感じでした。全員単独客です。スカスカでチケットを買った際にも画面上に私しか観客が見当たりませんでしたから、いつもの理想状態の最後列の端に近い席を取りました。最後列の反対側の端には50代女性、真ん中あたりに20代男性が座りましたが、迫力の雷撃戦に見入っているうちに、どうも男性客は帰ったらしく、終劇後にまだ薄暗いシアター内を見渡すと私も含めて観客は4人になっていました。最後列の女性の前を通って出たのでしょうが、私は視界を妨げられることがありませんでした。
私はこの作品の原作コミックがまあまあ好きです。「まあまあ」の理由も含めて、一昨年の『沈黙の艦隊』実写版への好感を以下のように書きまとめています。
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この作品はコミック界の歴史に残る名作の一つだと思います。国会の議論の中でも言及されたり、当時の防衛庁の広報誌にこの作品内容に基づく連載記事が設けられたりするなど、社会的なインパクトが非常に大きかった作品であるからです。それで、私も当初この作品の大ファンで、当時A4版で限定販売されていたバージョンを集めようと、既に5巻ぐらいまで出た後に思い立ち、慌てて買い急いだものの(ネットもない時代ですから)1巻と5巻だけどうしても手に入らず、通常サイズのコミックを泣く泣く買う状態になってしまい、今に至っています。(つまり、今でも全巻を並べると1巻と5巻だけ背が低い気持ち悪い状態になっています。)その数年後、香港に出張で滞在している際に、広東語訳された海賊版と思われる『沈黙の艦隊』のコミックを見つけ、流石に全巻買うのは躊躇されたので、サンプル的な扱いで第1巻だけを買ってきたこともあります。
上に「当初この作品の大ファン」と書いたのは、私の『沈黙の艦隊』への好感は、実は連載の後半に至ってどんどん薄くなったからです。日本と同盟を結び東京湾から出航するぐらいまでが、主人公の海江田の人物描写と実際の戦闘場面のクロスする面白さが好きで好きでたまらなかったのですが、その比重が物語の後半では世界政治の中に飲み込まれて行き、薄れて行ったことが原因であるように感じています。
よく私の知り合いの間では、かわぐちかいじ、小池一夫、浦沢直樹の作品群は終わり方が盛り上がらず、不発感や不完全燃焼感があるという話をします。かわぐちかいじの作品では、私は『週刊モーニング』で連載された『沈黙の艦隊』の他に『ジパング』、『僕はビートルズ』、『ジパング 深蒼海流』、『空母いぶき』、『サガラ ~Sの同素体~』を読みましたが、どれも何かすっきりした終わりに至っていないように思えています。
(『僕はビートルズ』は2019年の英米合作映画『イエスタデイ』の設定を事実上10年近く先取りしていて、『イエスタデイ』がパクリ映画に感じられる程です。それでも映画の方が物語の終わり方は纏まっています。)
タイムスリップものの『ジパング』も十分面白くはあったのですが、如何せん、『戦国自衛隊』同様に先進兵器の弾薬などの調達がつかない以上、先は見えていて、太平洋戦争に関与するだのしないだの以前に、米軍の物量を前にどう転んでも苦戦することが見えていて、没入することができなかったように思えます。物語はタイムスリップしたイージス艦みらいから漏れた未来の情報を基に日本が核兵器開発に成功する展開に移って行き、ここでもまた、政治劇の話に収斂してしまうのです。
軍事ものの作品で、中国軍と自衛隊初の空母部隊が尖閣諸島で激突するという『沈黙の艦隊』どころではなく超リアルな設定を知り、普段読んでいない『ビッグコミック』連載であるにもかかわらず、コミックで読み始めた『空母いぶき』はその第一部が明確な大団円に至っていて、私からすると私のかわぐちかいじ作品のイメージを覆すことに成功した秀作です。現在連載されている続編の『空母いぶき GREAT GAME』は、私が育った北海道の田舎町沖で空母いぶきがロシア軍と激突する物語でコミックが出るたびに読み込んでいます。
そう言った観点からこの『空母いぶき』は私の中でかわぐちかいじ作品の最高峰といえますが、それが実写映画化された作品は、相手国を「中国」とも名指しもせず、いぶきが明確に相手を戦闘不能状態に陥れることに成功もしないという腰砕けのおかしな物語で、原作とは大きく乖離している作品だと劇場鑑賞前に知ったので、DVDをレンタルして一応早送りで観て、それ以上何も求めないことにした程度の駄作でした。
その為体な実写映画『空母いぶき』のイメージがあったので、今回の『沈黙の艦隊』ではそのようなことがないことを祈りながら、劇場の混雑具合いを見計らっていました。そのうち、何人かの知り合いから素晴らしい内容との噂を聞き、『王様のブランチ』などの映画情報番組やサイトでも高評価を得ていることを知った一方で、上映回数が激減していて観客動員が言われるほど伸びていないことを知り、取り急ぎ、早く観なくてはと焦って、致し方なくゴジラの生首映画館に赴くことになったのです。
[以上引用↑]
本作は、この時に観た実写映画第1作と、さらに配信ドラマが東京湾雷撃戦を描き、そしてその次の北極海の戦闘から描かれることを、以下のような映画.comの紹介文で知っていました。
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かわぐちかいじの名作コミックを、大沢たかおが主演およびプロデュースを務めて実写化した「沈黙の艦隊」シリーズの映画第2作。2023年の映画第1作および24年に配信されたドラマ「沈黙の艦隊 シーズン1 東京湾大海戦」の続編で、原作随一のバトルシーンである「北極海大海戦」と、連載時に大きな話題を呼んだ「やまと選挙」を描く。
日本政府が極秘に建造した高性能原子力潜水艦を奪い、独立国「やまと」建国を世界に宣言した海江田四郎は、その卓越した操舵で数々の海戦を潜り抜け、東京湾での大海戦で米第7艦隊を圧倒した後、国連総会へ出席するためニューヨークへ針路をとった。そんな中、アメリカとロシアの国境線であるベーリング海峡にさしかかったやまとの背後に、ベネット大統領が送り込んだアメリカの最新鋭原潜が迫り、流氷が浮かぶ極寒の海で潜水艦同士の激しいバトルが幕を開ける。一方、日本ではやまと支持を表明する竹上首相を中心に、衆議院解散総選挙が実施される。
海江田役の大沢をはじめ、上戸彩、中村蒼、笹野高史、江口洋介らシリーズでおなじみのキャストが続投するほか、津田健次郎、風吹ジュン、渡邊圭祐が新たに参加。前作に引き続き「ハケンアニメ!」の吉野耕平が監督を務めた。
2025年製作/132分/G/日本
配給:東宝
劇場公開日:2025年9月26日
[以上引用↑]
映画館に着いてチケット購入の後にパンフを購入し、シアター入場時間までその内容を眺めていると、「ニューヨーク沖」という言葉が目に飛び込んできました。北極海の戦闘に勝利したやまとは国連総会が開催されるニューヨークに向かい、ニューヨーク沖で米軍の大艦隊と対峙することになるのですが、そこで『沈黙の艦隊』ファンの間でもよく語られる「空を飛ぶ」という奇想天外な操艦でナイアガラ・フォールズと呼ばれる水中の大爆撃を回避したりします。北極海の戦闘のみならず、その見せ場がこの映画には含まれているということが、いきなり分かったのです。そういう観点から見ると、上の映画.comの紹介文は「嘘」ないしは「情報欠落状態」ではありますが、粋なサプライズ効果を狙ったものとして受け止めるしかないかなと思います。
映画を観てみると、結構原作と異なる所が見つかりました。例えば、北極海の雷撃戦の結果、原作では1艦目を撃沈した後、2艦目も戦闘不能に陥れてから降伏を迫っていますが、映画では2艦目は1艦目撃沈後に大きなダメージもなく降伏に至っているようです。
また、大見せ場のニューヨーク沖の戦闘も、敵戦闘艦が多過ぎてやまとの魚雷の数の方が少ない状態での戦闘です。やまとは圧倒的な優秀性を示すために米軍艦隊を撃沈できるあからさまな状態に1艦1艦追い込んでは、魚雷で仕留められる状態になったことを演習時のように探針音を浴びせることで示すという行動に打って出ます。米軍が本気でどんどん攻撃しているのにもかかわらず、あいてのやまとはたった1艦で、魚雷が届かぬ1000メートルの水深さえない場所なのに、嘲笑うように演習よろしく米軍艦隊をあしらい、全艦を探針音で「撃沈」状態にしてみせるのでした。
この作戦の構造自体は、原作コミックでも今回の映画でも一緒です。しかし、原作では一度探針音を浴びて沈められたことになっている艦が戦局から引かず、攻撃を掛けようとすると、本物の魚雷を喰らうことになっていました。つまり、やまとは演習のルールに従わない艦に対しては制裁を加えていたということになります。けれども、今回の映画では、国連総会に艦長海江田が参加するためにニューヨークに寄港しようとしているやまとということで、「攻撃の意志はないので、入局を許可せよ」と米艦隊に最初に宣言しています。そして、一切の攻撃をせず、(つまり、演習ルールを守らない艦も排除せず…、というよりも、そうした少数の艦の発生場面を映画で一切る描くことはせず)米艦隊に歴史的に前例のない「飛行」まで行なって、米艦隊のみならず、米政府、米大統領の心まで挫き、米艦隊の攻撃を諦めさせることに成功します。そして、それと前後して「このように、こちらには一切攻撃の意志はない」と行動を以て証明してみせるというカッコよさなのです。
ちなみにニューヨーク沖海戦で、私はどうも好きになれない場面が原作にあります。それは、正確に言うと、ニューヨーク沖の海戦以降、私はエンディングに至るプロセスで原作の物語が前述原作者のテイストとさえ思えるような物語終盤の不発感故に完全に関心ゼロの状態になります。以下のポイントがその原因です。
▲空母の寸前に迫るやまとに飛行中のF-14トムキャットが捨て身の衝突攻撃をして、やまとが物語中初の大被害を受ける。その結果、魚雷発射管6門のうち1門しか使用できなくなる。
▲やまとはニューヨーク港に停泊中に何者かの放ったミサイル攻撃1発で破壊される。
▲海江田は国連総会に出席し、自分のスピーチを終えて暗殺者の銃弾を頭部に受け、昏睡状態に陥る。
の3点です。敢えて付け加えるなら、この前の段階で、今回の作品にも描かれる「やまと保険」を巡る政治劇が延々展開した所で、連載する原作の魅力を私は当時殆ど感じなくなっていました。ですから、物語終盤でこれら4点が、またもや不発感満載のエンディングが実現し、ゲンナリ来たのです。
上の3点のうち1点目は今回の映画でもカバーされているニューヨーク沖海戦でのエピソードです。この場面があるために、例の有名な「飛行」場面があっても、私はニューヨーク沖海戦の辺りで既に原作への関心を失っていました。今回の映画ではこのトムキャットの自滅攻撃は発生しません。深深度に潜ることもできない中の攻撃を多々受ける衝撃の中で、5門の魚雷発射管が使用不能になるというだけのシンプルな設定になっています。(原作では、ルール破りの制裁のために魚雷を発射している中で、1発しか一度に発射できないことを米艦隊に見透かされていますが)本作では元々やまとは全く攻撃をしないので、その故障が敵にバレることはありません。
やまとが「攻撃の意志がない」ということについて筋を通したという今回の劇中での設定は非常に好感が持てますし、「やまと保険」も絡む政治劇はかなりスッキリしましたし、戦闘機も自滅攻撃を加えて来ず、見事なCG映像で「飛行」するやまとを描いたのも素晴らしかったと思えます。そうした意味で、本作は私が原作で疎ましく思っていた場面のほぼ全部を緩和解消してしまった秀作でした。
ただ、敢えて言うなら、ニューヨーク沖海戦の制裁ナシの平和主義的展開や、2艦とも追い詰める所まで迫らない北極海海戦、大迫力の雷撃戦も原作に比べると限られていて、総じて見ると米国に優しいやまとになってしまっているようにも見えます。あのハンソロでさえ、悪党相手に自ら中を放つことを止めるように設定変更された『スター・ウォーズ』は、ファンから訴訟を起こされるほどの大問題化しましたが、世の中が(一応)平和主義的な風潮になって、血の気の多いやまとは忌避されたのか、子供じみて偏執的な米国現政権への忖度の結果なのか、僅かに味気ない感じを禁じ得ません。
(それでも、中国共産党に配慮したのか、国内の媚中政治家に忖度したのか、中国を名指しにして戦闘を行なうことを避けた、実写版『いぶき』に比べたら、全く問題にならない程度の「ふんわり」感でしかありません。)
物語構成に関しては、以上のような、それなりに好感が持てるモノになっていましたが、登場人物のキャラと俳優のイメージのミスマッチは(出演者がそのまま引き継がれている以上当たり前ですが)依然として存在し、寧ろ拡大しているぐらいになっています。主人公の海江田と海自の潜水艦たつなみの艦長の深町は、原作と大分イメージが異なり、それについて、実写化第1作では以下のように感想に書いています。
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そのエピソードに拠れば、過去には深町は海江田の部下であったことになっています。なので、深町は当初海江田のことを「海江田さん」と呼称していますが、反乱逃亡の報を聞いてからは「海江田」と部下との会話の中で呼び捨てにするようになります。しかし、やまとに「入国」して海江田に対峙した際には海江田に対して敬語を使い続けているのです。深町は妙に礼儀正しく言葉少なで、原作の荒削りで粗暴で、大胆な親分肌の性格が全く見えません。当然やまとに「入国」して、「男ばかりのむさくるしい国だな」的な名言を吐いたりもしません。
海江田は海江田で、もっと色白のほっそりとしたタイプの頭脳明晰感が溢れるルックスで、だからこそ、その妙に大きい目に宿る信念の下に、少ない言葉で語られる戦略的決断がぐっさりと読み手に刺さるのでした。それが大沢たかおが演じると妙に体格が良く、肌色も濃くて『キングダム』シリーズの名キャラ王騎大将軍が連想されます。「童、信」などと今にも言いだしそうに見えるのです。おまけに深町に悪態をつかれることなどもないどころか、今に至るまで残る深町のトラウマ的事件を作った張本人ですから、どうもラスボス感が拭えません。原作ファンとしては何かキャラが物語に嵌り切らないように見えるのです。
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今回日本を遠く離れた海底・洋上の話になって、深町は登場しませんが、海江田はよりマッチョ感を強めています。あろうことか、上半身ランニングシャツ姿で艦長質の中で腕立てしつつ汗を滴らせるようなシーンが冒頭に登場します。先述の王騎大将軍を演じた際よりも体重を大きく減らして戻したという話ですが、この映画のプロモーション活動として唯一出演した『トークィーンズ』というバカ話系バラエティ番組で、大沢たかおはジムによく行くことが何度も語られていますので、腕立てシーンもマッチョ感がかなりあります。到底原作の優男海江田のイメージではありません。腕立てを終えて、「ンフッ」とか王騎のように笑いだしそうで気が気ではありませんでした。
深町も登場せず、緊迫のやまと艦内が描かれる場面が多い本作で、存在感を増したのが副長の山中です。原作ではちょっとゴツイ系の人物ですが、これまたイメージ違いですが、中村蒼が演じています。最近観た映画では劇場で観た『早乙女カナコの場合は』で主人公カナコの職場のナイスガイの先輩でカナコにアプローチして結果的に振られる役です。しかし、私の中で彼が最も印象に残っているのは『ギークス~警察署の変人たち~』のちょっと抜けた正義感強めの刑事です。こちらでも主人公にやや恋心を抱いていますが、相手にされていない感じでした。ただ狂言回し的な結構重要な役割で、準主役級です。
どうもこの辺の彼のイメージが強く、原作を知っている私には山中のイメージに合わず、おまけに艦内の閉鎖空間で、マッチョで無口で(撮影中は1歩も動かなかったと大沢たかおが語っている)不動の海江田の脇に居て、海江田には分かり切ったような戦況を確認するような発言をしたりすると、(観客に状況を理解させるための台詞を吐いただけとは分かっているものの)どうも軽薄で鬱陶しくさえ感じられてしまうのでした。
他には『劇場版TOKYO MER 走る緊急救命室 南海ミッション』で観たばかりの江口洋介も(これまた原作の重量級のパワフル政治家の役から大分イメージが乖離していますが)『劇場版TOKYO MER …』での役に比べれば、まだこちらの方が嵌っているとは思いますが、それでも私が知る『七人の秘書』シリーズや『ネメシス』シリーズ、『コンフィデンスマンJP』シリーズ、映画では『線は、僕を描く』や『るろ剣』シリーズ、『からかい上手の高木さん』実写版などの彼に比べると大分精彩を欠きます
夏川結衣は『俺ではない炎上』で観たばかりです。向こうでは長かった結婚生活の意義を見失った迷える主婦の役で、今回がかなりキツメの政治家役で、見比べても同一人物に見えないほどの見事なキャラの演じ分けでした。
そんな彼女の本作のイメージに近いような断固たる態度を評価されて、本作を観た数日後に高市早苗が内閣を発足し、彼女が創り上げた重要ポジションの経済安全保障担当相に彼女の後継者とも盟友とも言えるような小野田紀美を据えたら、尖閣諸島に300日以上連続で侵犯を繰り返していた中国海警局の艦船が突如姿を消したと報道されています。
プロデューサーの一人でもある大沢たかおは、原作が1988年から1996年連載と言う時期の作品ながら、今に通じる重要なテーマを扱っていると考え、第1作から制作に取り組んできたと語っています。第2作の大ヒットが落ち着いたところで、日本は中国の侵犯を戦わずして止めたのは、なかなか印象深い出来事のように思えます。DVDは出る勿論買いです。