9月26日の封切から2週間余り経った10月中盤の水曜日の晩、午後7時からの回をピカデリーで観て来ました。鑑賞から数日後の週末に調べてみると、上映館数はかなり限られていました。鑑賞当日にはもう少々多かった可能性がありますが、都内では25館で渋谷でさえやっていません。23区内は15館で寧ろ上映館の中心は23区外に移りつつ段々と消え入る途上という感じに見えます。ピカデリーでも鑑賞時点で1日3回の上映でしたが、金曜日以降は1日1回に減っていて、それも午前早めの不人気枠でした。
観に行ってみようと思い立った最大の理由は、ここ最近のネット上の社会現象の一端を観に行くのも良いかなと思ったことです。海外には続編まで出ている『search サーチ』や『ディス/コネクト』などなど多数のこの手の映画がありますし、チェコの男達の少女達に対する猥褻行為の数々を描いた『SNS 少女たちの10日間』も劇場で観ていますので、そうした作品鑑賞を邦画でもできたらと言う漠然とした希望によるところが大きかったと思います。あとは嫌いではない阿部寛と、嫌いではない芦田愛菜ちゃんぐらいが多少のプラスポイントではありました。
シアターに入ると40人ぐらいの観客が最終的に揃いました。先日観たばかりの『THE オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ MOVIE』の際を超えるぐらいに複数連れ客が多い珍しい観客構成でした。ただ前回は全体が25人ほどしかいなかったので、単独客は少数派になってしまっていましたが、今回は全体のパイがやや大きく、単独客は辛うじて多数派を占めていたように思います。3人連れが2組居て、女性同士が1組と男性1人に女性2人という組み合わせがもう一方です。さらに2人連れが4組も居て、高齢女性2人連れが1組と20代に見える若い女性の2人連れが2組、そして中年の女性の組み合わせが1組という構成です。
このように見ると、原作人気なのか主演の阿部寛目的なのか分かりませんが、複数連れの観客は圧倒的に女性と言えます。それでも全体で見ると女性の方が構成比は低く40%程度だったように見えました。残る男性6割は3人連れに含まれる1人を除いて、全員単独客ということになります。全体で見ると年齢層はかなりばらけていて、20代から70代ぐらいに見える層まで広がっています。
観てみると何か混乱させられる作品でした。それもミステリーとして混乱させられるというようなことではなく、作品制作者側の陳腐な演出意図によって主に混乱させられているという感じです。
まず出演者が私のようなジーサンには結構つらい構成になっていました。よく年を取るとその時点でのアイドルの区別がつかなくなるという話がありますが、本作では若手男性アイドルと思しき役者がまとまって登場します。藤原大祐、長尾謙杜、橋本淳、といった面々です。これが制作側の狙い通りの女性観客動員のネタなのかもしれませんが、いずれも演技に精彩がなく、過去に観た記憶もなく、大学生が他にも“その他大勢”的に多数出て来て、どれもが今時のスッキリイケメン的なルックスだと、物語の進行に伴い主要キャラが絞られて来て、多少なりとも人格描写が掘り下げられるようになるまで、観ていて混乱一歩手前ぐらいに踏み止まるのが精一杯でした。
パンフを見ると、長尾謙杜は『どうする家康』に出演しているとあり、調べてみると家康の異父弟で武田信玄に預けられていた久松源三郎勝俊だったようです。また『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』にも出演していたとあり、これも調べてみると、木村文乃の大人の色香に振り回される若き日の露伴を演じていたことが分かりました。それなりに主要な役柄で、記憶に残っていないのがおかしいと感じるほどですが、現実に今回の劇中で観て、全く連想できず、パンフを観てさえ分かりませんでした。
しかし、こうした配役のダルさどころではない、おかしな物語がこの作品では展開します。何がどうおかしいのかというと、物語の筋書きは結構ストレート・フォワードなのですが、わざわざ演出狙いでイミフな捻りを入れているからです。ミステリーだから、それもアリだろうと言われればそれまでですが、わざわざミステリーに無理して仕立てあげている感じが、全く好感が持てません。具体的には、現実にはない場面、しかも、誰かの幻想や誤解の中にも出て来ていない場面、つまり、全く無意味に観客を騙すためだけの場面が用意されているのです。
物語の大枠は、映画.comの紹介文にある通りです。
[以下引用↓]
大手ハウスメーカー勤務の山縣泰介は、ある日突然、彼のものと思われるSNSアカウントから女子大生の遺体画像が拡散され、殺人犯としてネット上で名指しされてしまう。身に覚えのない事態に無実を訴えるも、またたく間に情報は広がり、ネットは炎上状態になる。泰介の個人情報は晒され、日本中から追いかけかけ回されることになってしまう。彼を追う謎の大学生・サクラや、大学生インフルエンサー・初羽馬、取引先企業の若手社員・青江、泰介の妻・芙由子ら、さまざまな人物の思惑が絡み合い、事態はさらに混迷していく。泰介は必死の逃亡劇を繰り広げながら、無実を証明し、自分を陥れた真犯人を見つけようと奔走する。
[以上引用↑]
物語の演出だけを狙ったくだらない捻りは、この主人公の娘の存在です。ネット上での騒ぎが拡大し、彼の個人情報が特定され曝されてしまってから、彼が逃亡劇に入りかけている段階で、彼が妻に電話して娘の状態を尋ねる場面があります。妻は娘を自分の実家の母(娘の祖母)の家に避難させたと言っています。ここでその娘の様子に映画はフォーカスするのですが、小学校低学年ぐらいの少女です。そして、彼女が父の状況を心配していると、彼女の同級生らしき利発そうな少年が現れます。そして母も避難した後のように見える彼女の家に上がり込み、彼女の家の家族共用パソコンで、父の無罪の証拠を掴もうといろいろと検索し始め、彼女を後ろで待たせたまま、数時間単位でPC作業を続けているような場面が描かれます。
この際に少女の娘が父に強く折檻された経験を少年に話します。すると少年は「正義を通さねばならない」と自分の父が警察官だったから影響を受けてそう思うと語り出します。そして帰宅した阿部寛に向かって、「娘を傷つけるのは良くない」的なことを言おうとして泣き出し、言えずにお終いになるのです。ちなみにこの少年の父親の警察官は劇中に登場しませんが、淫行で職を追われていることが後で分かります。尊敬していた父親の犯罪を受け容れられず、彼は成長して社会人になってから「本当の正義」を貫く人間になるべく、パパ活女子を殺害して回り、もう一人、鉄槌を下したかった相手である主人公(少女の父)にその殺人の罪を被せようとしたのでした。これがこの作品で描かれる事件の真相です。可能性としてゼロではないことは認めますが、妙に現実感のない殺人動機です。
しかし、一つ明らかにおかしなことがあります。少年が少女の家に上がってパソコンの操作をしたのは本当でしょうが、それは少女の父の疑惑を晴らすためではありません。なぜなら、劇中のリアル時間軸では、少年は成人して父の取引先の人間として父を陥れる機会を狙っているのです。少年・少女の時点で、父の疑惑を晴らすような展開がある訳がないのです。この、現実にはあり得ず、且つ誰の想像や幻想の中にもないはずのシーンが、妙に長い尺を割いて描かれています。それは何のためかと言えば、観客を騙すためだけの「演出のための演出」としか考えられないように思います。
そして、祖母の家に避難している少女の姿が描かれて、先述のように少年とPC作業に入る流れが描かれた後、母(=妻)とその母が実家で警察から質問されている場面で全く少女は登場しないのです。なぜかと考えると、その少女はもう少女ではなく、大学生になっていて、自ら父の疑惑を調べるために動き回っていたからだったのです。そして、この成長した娘が芦田愛菜ちゃん演じる女子大生サクラです。
役名から分かる通り、わざわざ彼女が主人公の娘であることは中盤過ぎまで隠されたままです。それまで主人公の娘と言えば、先述の女子小学生が、過去の姿であることも観客には知らされないままに、延々と見せられ続けるのです。これはミステリーのトリックでも何でもありません。単にありもしない映像まで混ぜ込んで、観客を混乱させるだけの「演出のための演出」です。馬鹿げているにもほどがあります。
ちなみに、サクラはハンドルネームからの呼び名で、ハンドルネームは元々「さくらんぼ」でした。なぜそうなったかというと、主人公一家の苗字「山縣」から「山形県」が連想され、そこの名産の果物と言うことで「さくらんぼ」になったと、あまりにくだらなく、タネあかしにさえ成らないような説明が終盤で言い訳のように為されています。
このようなくだらない「演出のための演出」を削り取って、単に逃げ回る父の状況の遠因を作り、「正義」妄想に奔走する自分の幼馴染を止めようとする、自責の念に駆られた娘の推理サスペンスものにしてしまった方が、余程、ストレート・フォワードで面白い作品になったことでしょう。製作者が「演出のための演出」に自己満足して、物語全体を馬鹿げたものにした酷い作品事例であると言わざるを得ないように思います。
そして、仮にそうした父親の逃走劇と娘の犯人追及劇の組み合わせにしたとしても。この父の方が到底中堅企業管理職とは思えないぐらい愚鈍で、呆れるを通り越して、非現実的に思えて馬鹿らしくなるほどです。
劇中の初盤で、「これはネットの中だけのバカ騒ぎの世界だ」というようなことを阿部寛演じる主人公は言っています。ならばなぜ、その流れにどんどん載って行ってしまうのかがよく分からない展開です。ただ稚拙で考え足らずの人々のドタバタに見えてしまうのです。主人公が警察に追われるようになる前に、ネットで追及が進む状態でかなりの時間が経過しています。この段階で、会社の顧問弁護士を主人公につけるなりして最低限の対策を打たせれば、第一の殺人は主人公のXアカウントを利用してアップされているというだけでしたから、それだけで問題は沈静化したはずです。弁護士と警察に誹謗中傷の被害者として相談に行ってしまえば、警察では殺人に関して、彼のアリバイなども比較的簡単に証明され、ネット音痴の彼は比較的早くから主犯の容疑者から外されたことでしょう。
一方で彼の会社も会社です。会社にも問い合わせが電話で殺到していたりしますが、会社は事なかれ主義で、主人公に自宅待機を命じて事態鎮静を待つことにします。これは積極的にそう判断したのではなく、無責任に事件から距離を置こうとしただけのことです。はっきり言って今時田舎の中小零細企業でもこのような愚昧な判断をなかなかしません。アホです。社員が殺人犯だとされるだけでも十分な風評被害が発生します。殺人犯だと確定するまでは、警察の捜査には協力しつつも、社員の主張を容れ、無罪・無関係を主張している以上、彼を法の下に最低限守り、自社の風評も完全に守るようなPR活動を展開するべきでしょう。その手の話がやたらに詳しく学べるドラマ『リスクの神様』でも観ていただきたいものです。
そんな会社を頼ることもできず、さっさと警察に行きもしない愚鈍な主人公は、ただ逃げ回っている間に、家の物置に第二の死体が置かれ、それを発見した瞬間をネットにアップされ、完全に警察に追われる立場になります。この死体も例えば凶器の出所や殺害時間など色々と辻褄を合わせて行けば簡単に矛盾が見つかり、彼への容疑が晴れた可能性が高いものと思われますが、逃げ回ってしまっているために、そうした検証を行なう機会を警察に与えない展開になってしまっています。
主人公が逃げ回ることを選択したのは、「逃げて逃げて…」などと書かれた犯人かららしい手紙を読んだからです。犯人からのものと分かっていて、(別に人質が取られているとかの強制力もないのに)その内容にそのまま従うのもバカ丸出しです。その手紙には意味ありげに「困った時にはここに来い」という緯度経度の座標が示されていました。それをスマホで検索しようにもスマホが手元になく、部下の家を訪れ、玄関先で懇願してスマホを入手します。ところがなぜか、主人公はスマホを手にしても、座標をずっと調べないままに逃亡を続けています。よく分からない展開です。
ちなみに、ネット上には彼を犯人扱いして彼を探し出しリンチの上で警察に突き出そうとする「私人逮捕系ユーチューバー」が多数登場し、現実に彼を追い回しています。こうした人々に対する当座の対策も、事件後の賠償請求や刑事告訴なども、徹底して弁護士と行なうべきだったでしょう。しかし、物語はそんな展開も一切なく、主人公はエンディング近くで「俺が悪かった」と家族に伝え、妻も娘も「悪いのは私よ」と言い張りあって終わります。社会的関与も巨大になってしまうような犯罪行為の物語なのに、最後は何故か家族の小さな物語に還元されるという、何やら不合理で無理のあるこの作品の展開は、同様のくだらなさを持つ『映画 マイホームヒーロー』と間違いなく比肩します。
ネットによる冤罪で人生が壊れる話であるはずなのに、全くの腰砕けです。会社も相応に損害を被っているはずですが、主人公を疑って距離を置いていた人々が何食わぬ顔で日常に戻るという後味の悪さを適当に描くだけでお茶を濁しています。どうせ冤罪を描くなら有名作『それでもボクはやってない』ぐらいのことをして欲しかったですし、解決の目途も立たず、被害者がただ無力に事件を受け止めなくてはならない理不尽を描くのなら、擦り切れた石原さとみが珍しい『ミッシング』など、幾らでも名作が見つかります。本作は何をしたかった映画なのかよく分かりません。
私が分かっていないだけかもしれませんが、おかしいと思える点が他にも幾つもあります。先述の演出のためだけの架空の場面も全くくだらない挿入ですが、それ以外にも、例えば、余りさえていなさそうな刑事達が主人公を「犯人にしては不自然」と疑い出すのが、殺人に関わる情報も含めてネットにアップしているのがすべて自宅のWi-Fiを通している事実です。その事実から、家に長らくいる誰かが自宅のWi-Fiを通じてアップを続けて主人公を犯人に仕立て上げようとしていると気づきます。ところが殺人前時点の投稿は確かに娘が勝手にやっていたことでしたが、殺人に関する投稿以降は娘が作った父のアカウントを犯人が乗っ取ってアップしたものです。子供時代とは異なり、大人になった犯人が頻繁に家に上がり込んでやっていたと考えるのはかなり不自然で、その説明は劇中になかったように私には見えました。
全く陳腐な演出で大失敗し、ミステリーにもなり切れないような駄作になってしまった作品に思えます。出演者も何となくそれを感じていたのか、何か投げやり感が漂っているように(単にそう言う風に思ってみるからそう見えるということかとは思いますが)見えてなりません。
例えば阿部寛は何か他の作品とあまり区別がつかなくなってきています。『新参者』シリーズや現在続編が期待される『VIVANT』などの刑事役や、犯罪のみならず不正や理不尽に立ち向かう、『下町ロケット』や『ショウタイムセブン』などでの役などは一括りにできそうです。それ以外では『テルマエ・ロマエ』や『TRICK』シリーズに代表されるようなコケティッシュな役柄群もあります。それ以外には、『どうする家康』の武田信玄のような時代の枠にハマらない大物のような役も、結構見つかるように思います。今回はどれにもぴったり嵌りません。コケティッシュにも振り切れず、無個性な犯罪者でもなく、悪に対峙する正義漢でもありません。どれもがぐちゃぐちゃに不細工に混じり合った感があり、何か不発感が漂っています。
一方、思わせぶりに登場して、意味もなく尺を引っ張り、最後に正体を現す芦田愛菜ちゃんは、感情を顕わにして眉間に皺を寄せたり、大声で相手を詰問したり罵倒したりする場面がちょっとだけ新鮮です。最近観た役はTVerで観ていた『さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~』のいじけた天才バイオリニスト娘やDVDで観た『はたらく細胞』の原作にはないのに付け足された劇中少数派の人間役、さらに同じくDVDで観た『メタモルフォーゼの縁側』のコミュ障娘ぐらいですが、今一パッとしません。寧ろ最近なら、TVerで再三登場する「サトウの切り餅シングルパックミニ~♪」のCMや「スカパージェイサッ子」のCMの方が記憶に強く残っているぐらいです。
伝説レベルの名演技の『パシフィック・リム』の少女とか、『のぼうの城』の存在感ある村娘など、幾らでも記憶から引き出せる子役時代の冴えが失われているような気がしてなりません。演じられるバリエーションが、無口な子やコミュ障の子、優等生なのに思い詰めて拗らせた子ぐらいの幅の中に納まってしまっているように見えます。破天荒な子や気怠く悟ってしまった子、突き抜けた腐女子、承認欲求に駆動された援助交際娘など、彼女の配役で想像するのがかなり困難で、面白みが急激に減衰したように思えます。読書量の多さや芸能界でも群を抜く知的レベルは有名ですから、教養番組の進行役などに活躍の場の比重を移した方が良いのではないかと思えます。
出演者では久々に観た美保純が結構いい感じの年の取り方をしていて、ダレたスナックのママを好演していたのが、掘り出し物的な価値がありますが、作品全体のあまりのダメダメさの前には霞んでしまう程度のポイントです。
さらにこの作品が妙にクリシェな話の中に納まってしまっているのも面白くない理由の一つかもしれません。単にネットの炎上やら暴走やらに振り回されて社会問題になる話というだけなら、既にクリシェに感じます。ネットでどんどん噂になり無実の罪に追われる人間が生まれる話も、冒頭で挙げた洋画の事例以外に邦画でも、既に古典的とも言える『白ゆき姫殺人事件』が今から10年以上も前の2014年に相応にヒットしてほぼほぼ問題構造が語り尽くされています。
ネット前提ではなくても社会批判やバッシングを受ける作品も例えば『バッシング』のようなまんまのタイトルの作品もありますし、志田未来の好演が光る『誰も守ってくれない』のような名作もあります。社会から追及される過去の重大な罪と向き合わざる得ない人間を描いた作品も、例えば『友罪』のような名作がやたらにあります。このように考えると、この作品にはネット炎上の冤罪被害者が逃げ回る話として観ても、斬新な切り口や深い掘り下げが見当たらないのです。制作側もそれを分かっていたのか、観客を混乱させるためだけの無理矢理でイミフな捻りの捏造演出を挿入するなどして、余計に作品をくだらなくしてしまっています。
阿部寛の作品で言うと、最近観たのは『キャンドルスティック』でしたが、IT基礎知識ガン無視のかなりの駄作でした。今回はそれにさらに劣るぐらいの無意味な作品に私には見えました。DVDは全く不要です。