8月22日の封切から1週間経った土曜日の午後2時45分の回を札幌の狸小路にあるNPO法人運営のミニシアターで娘と一緒に観て来ました。全国で23館で上映されていますが、北海道では札幌のこの館1館です。東京に目を移しても、新宿、銀座、恵比寿、吉祥寺の4館しかありません。封切からまだ1週間ですから、プロモーション不足であまり知られていない作品ですが、概ね1日2回から3回の上映が東京でも各館で為されているようです。この狸小路の館では1日2回、午前早めと午後2時45分の回です。
シアターに入ると、私達以外に8人の観客がいましたが、全員単独客でした。男性が4人、女性が4人で、どうみても全員50代以上という感じで、上は70代ぐらいに感じました。私達も含めると、20代半ばの娘がポツンと年齢構成の下限値を大きく引き下げています。
私がこの作品を観ることにしたのは、娘が高校時代から能を始め、それを見ていて多少この分野の知識がついたので関心が湧いたということも少々ありますが、狂言師の初のドキュメンタリー映画であることが一つの大きな理由になっています。あとは最近ドラマの『どうする家康』や『アンチヒーロー』で観ることが増え、以前観た映画『のぼうの城』や『七つの会議』などに比べて仰々しさが減じた野村萬斎がドキュメンタリーの中心人物野村万作の息子であり弟子として登場しているので、本来の狂言師としての彼を観る機会ができるのも良いかと思ったことも大きいように思います。
映画.comの作品解説には以下のように書かれています。
[以下引用↓]
「ジョゼと虎と魚たち」「のぼうの城」の犬童一心監督が、人間国宝の狂言師・野村万作を追ったドキュメンタリー。
日本で650年以上にわたり受け継がれてきた伝統芸能・狂言の第一人者であり、芸歴90年を超えて現在もなお舞台に立ち続ける野村万作。2023年には文化勲章を受章し、翌24年6月には受章記念公演を開催、ライフワークとして磨き上げてきた珠玉の狂言「川上」を上演した。本作では、その公演が行われた特別な1日に寄り添いながら、万作が自身の過去に対して思い浮かべる“六つの顔”をアニメーションで表現するなど、大胆かつ繊細なアプローチで彼の芸境に迫る。狂言への思いを語る万作の姿に加え、息子・野村萬斎、孫・野村裕基へのインタビューも収録。さらに、「川上」の物語の舞台である奈良・川上村の金剛寺の荘厳な原風景もカメラに収め、万作が長年にわたり追求してきた世界観を、その至高の芸とともにスクリーンに映し出す。
「頭山」でアカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされた山村浩二がアニメーションを手がけ、俳優のオダギリジョーがナレーションを担当。野村万作と野村萬斎が監修を務めた。
[以上引用↑]
観てみると全くその通りな内容で、短い尺(82分)の中で、非常にシンプルだけれども丁寧な作りの映画だと感じました。万作の会というのは、野村万作を中心に狂言の公演を行なうグループのことのようですが、受賞記念公演ではこの万作の会の人々が(多分)全員それぞれに出し物を演じて、劇中では満を持して最後に(実際には最後の演目と言うことではないようでしたが、)野村万作がシテ(主役)を務め、野村萬斎がアド(主役の相手となる脇役)を務める2人舞台の『川上』がフルバージョンで提示されます。
ですので、映画は冒頭から映画のタイトルである6つの顔として、現在の野村万作を創り上げた人々や演目を紹介する部分が置かれ、その後、記念公演の野村万作以外の出し物がダイジェストのように提示されて、その後フルバージョンの『川上』が堪能できる作りになっています。その後には、野村万作のやや長めのインタビューが配置されています。
6つの顔というのは、野村万作が幼い頃に能を教えた祖父(五世万造)の顔、そして能の初舞台として取り組む『靭猿(うつぼざる)』の猿の面、そして演劇や歌舞伎にのめり込んでいた学生時代の野村万作の学生帽を被った顔、そして円熟して来てから取り組む『釣狐(つりぎつね)』の狐の面、父(六世万蔵)の顔、そして早逝した弟(万之介)の顔の6つです。顔として登場しませんが、これらについて語られている中に、息子野村萬斎から見た野村万作のありようや、孫である野村裕基から見た野村万作についてのコメントなども挿入されています。
野村萬斎の野村万作評は非常に的確で且つユーモアがあり、流石と思える内容でした。 本来、型に捉われた中の芸が狂言であり、自分も型の中でどう演じるかを常に考えているが、父は型を脱してしまっている。舞台に一緒に上がると、型から逃れて自由な父に合わせるしかない…という苦笑と嘆息をしていますが、その様子が微笑ましく見えます。野村萬斎がアドを務める『川上』を後半で観て私は初めて狂言を演じる野村萬斎を観ることができたのでした。
私が野村萬斎を野村萬斎として認知できるようになったのはかなり古く20年以上前に遡ります。当時幼稚園時代の娘がテレビで『にほんごであそぼ』を観ており、その中に野村萬斎が登場して、『呼声(よびごえ)』などの狂言の演目の一部を子供への言葉遊びとして演じていたのでした。娘も当時この番組が好きで、録画して同じ部分を繰り返し観ていました。その際に、この『呼声』と出る題字は何だろうと思い調べてみて、それが狂言の演目名であることを知り、そして演じているのが野村萬斎であることを知ったのでした。
野村万作の方は「狂言師 野村万作」としてセットで記憶には残っていましたが、それは遥か昔私が子供の頃に観たコーヒーのCMに「違いの分かる男」として登場した際のことだけで、それ以上、彼を調べてみるとか狂言に興味を持つということがありませんでした。劇中で野村万作がそうしたCMに出ること自体が当時の伝統芸能の世界では異例のことであり、元々学生時代から能・狂言の外の世界との接触を重ねた野村万作ならではのことと言うような説明が、野村萬斎の口から語られます。
その後、私は野村萬斎をテレビや映画で観ることになりますが、スタートはどちらかと言えば映画寄りです。劇場で観た『のぼうの城』はまあまあお気に入り作品で、行田市の石田堤(いしだづつみ)を観に行きたくなったほどですが、その後に野村萬斎を観た『七つの会議』では、昼行燈キャラを演じるには目力や声の張りが過剰で、無理があったように思えました。その感想で以下のように書いています。
[以下抜粋↓]
期待していた野村萬斎も、やたらに張りのあるドスの効いた声で語る人物になっていて妙に不自然さがあります。普通に立っているだけの姿でも、妙に両腕が胴体から離れていて、やや前傾姿勢の変わった身構え方で、どんな会社に行ってもこんな立ち方をしている人を見ることはありません。ゴジラをやった『シン・ゴジラ』は少々極端な役選びとはいえ、『陰陽師』シリーズ二作や『のぼうの城』、『花戦さ』など、基本的にその筋の人を演じればぴったり感がありますが、今回は逆に浮いてしまっているように感じました。野村萬斎が初めて現代人の役を演じたと語っている『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』は、私もDVDで観て結構気に入っていますが、こちらも自分の超能力を持て余して、世捨て人になってしまっているような役ですので、中堅企業の係長とは大分“一般性”が異なります。
[以上抜粋↑]
狂言を演じる野村萬斎。父であり師でもある野村万作とその狂言の芸道を語る野村萬斎。これらがとても新鮮で、パンフレットに紹介されていた彼の著書『狂言サイボーグ』を購入してみようかと思い立つほどでした。ちなみに本作の監督の犬童一心は野村萬斎と『のぼうの城』をきっかけに知り合い、今回のドキュメンタリー映画化を野村万作が希望した際に、監督をオファーされたのだとパンフに書かれています。
野村萬斎が的確な野村万作像を語るのに対して、孫の野村裕基の野村万作について尋ねられた回答が、かなり稚拙で呆れてしまいます。「老い木の花」という多分能・狂言の中での芸道の表現だと思われますが、そのような用語を使っているのが精一杯で、93歳にして、未だ(野村万作の)父や祖父に及ばないという野村万作に対して、「一体何処まで行けば気が済むのか」的な感想を述べています。極めることがなく、常に高みを目指すしかない芸道のありようを全く理解していないかのような発言でがっかりさせられます。
それでも彼の演じた狂言『奈須與市語(なすのよいちのかたり)』は1人で4役をこなし、20分間延々と手振り身振りを含め語り尽くす演目でしたが、(パンフに拠れば、「狂言のセリフ術習得のための重要な曲」となっていますが、)ダイジェストで観ても躍動的で見入るものがありました。芸はできても芸道の理解が全く伴っていないように見える事態はどう理解すれば良いのか分かりませんが、やはり、能・狂言の文字面での学習に加えて、文学とか教養とか、何らかの他の芸術分野全体に通じるような原理原則や歴史を学び直す必要があるのではないかと思えました。
自分が実践できないことの理屈だけが滔々と語れるというのも情けないように感じますが、相応に見応えのある芸ができるのに、それを自分で解釈し得ないというのも間が抜けています。
そしてそれらを経て、ドキュメンタリーは『川上』のフルバージョンに踏み込みます。この『川上』の演目は、狂言の演目の中で、笑いが殆どない少数派の一つであるようで、激しい動きや大仰な発声が必要な笑いネタの演目が野村万作には演じにくくなってきたこともあり、ドラマ性の高い『川上』を近年ライフワークとしていると劇中で説明されています。他の舞台芸能からも触発されていた野村万作が、笑いを取る狂言に飽き足らなく、老境にして自由にドラマ性という狂言の可能性を追求しようとしている見ることができるという説明も劇中で為されています。
この『川上』をネットで検索すると三宅昌子という研究者のサイト『描く狂言 狂言の扉を開く』の内容がすぐ現れます。
https://classic.gakuji-tosho.jp/archives/1174
そこから引用すると、『川上』の物語は以下のようなものです。
[以下引用↓]
吉野の里に住む男は、妻と結婚してすぐに俄盲となり、10年不自由な生活を強いられてきた。吉野の山奥、川上に眼病を良く治して下さる霊験あらたかな地蔵菩薩があると聞いて、一人で出かける。
道中、苦労しながら地蔵堂に到着すると、多くの人が参詣していた。その人達と言葉を交わす内に夜も更け、読経の声を聞きながらまどろむと、夢に地蔵が現れ、目を開けてやるという有難いお告げがあった。
目覚めるとすぐ目が見えるようになり、大喜びで帰路につく。まだ持っていた盲杖に気づき、これを捨ててしまう。
途中まで出迎えた妻と喜び合うのもつかの間、実はこれには条件が付いていたことを白状する。霊夢によると妻とは悪縁で、そのために目が見えなくなったので、妻と離縁すれば目を開けてやるということだった。
それを聞いた妻は激怒し、地蔵を悪し様に罵る。妻を離縁して目を開けて貰おうと気楽に考えていた男だったが、妻は目がまた見えなくなったところで、今までと同じじゃないかと譲らないので、妻とは別れない決意をする。
まさか一度開けた目をまた暗くするなんてあり得ないだろうという妻の楽観は見事に裏切られ、再び目が見えなくなってしまう。
哀しみながらも、二人は寄り添って、家に帰っていく。
[以上引用↑]
という内容ですが、野村万作の演技のキレには目を見張るものがあります。杖の用い方一つも無駄がないように見えますし、盲目である所の演技があまりに自然過ぎて、途中で目が見えるようになる所の歓喜や、それに伴う目や顔の動きなど、素人の私が観ても完成された芸とはこういうものと分かる目を離せない見事さがあります。
尚、上の物語紹介の文章を読むと、夫が離縁を諦め妻と盲目の中に添い遂げることにした直接的な動機はどちらかというと、妻が駄々を捏ね、それに引きずられる形で、まさに「盲従」したような流れと読み取れます。実際に、最後の去っていく二人の姿の場面では妻が夫の手をかなり意識的に引いているようです。しかし、野村万作の演じる『川上』はそうではありません。十数年前、ミラノ公演で鑑賞していた老夫婦が、最後の男女の手を取り合って幕に入っていくのを見て、自分達も同じように手を取り合ったという感想を通訳から聞いて、考え直したというのです。
妻に押し切られたのではなく、過去の悪因縁を受け容れた諦念とその中で支え合って未来に歩むことにする二人という位置付けをより明確にしたと言います。勿論、そうは言っても、台詞も舞台構成もすべてが同じ型の中の演じ分けですが、それでも野村万作は以前からアドに対して、「手を引いてくれるな」と言うようになったと言われています。
神託が拒絶され、前世からの悪因縁のある中に生きることを選ぶ人間の姿。それが夫婦の支え合いで選ばれている所。それが見せ場であると野村万作は終盤のインタビューで語っています。構造主義的な人間の生き様の描写で非常に説得力があり、頷けました。。
野村万作の父は俳句も嗜み、俳句をやらない野村万作は父の作った句の中で一つ常に頭に残っているものがあると言います。
「ややあって また見る月の 高さかな」
まさに孫が分かっていなかった、いつまでも目指すべき月が高い所にあるということを示した句です。野村萬斎の言葉の中にも守破離の原理そのままの型の構造が前提として埋め込まれています。野村万作も前述の通り歌舞伎研究会に大学時代に入っており、一般の演劇にも嵌っていたと、6つの顔の一つの学生帽の野村万作の語りが説明しています。野村萬斎も言わずもがなで、各種の芸能の方を経験しています。そしてこの親子が協力して『能 狂言「鬼滅の刃」』や『能 狂言「日出処の天子」』などを創り上げていることを今回パンフで知りました。片や一方で、野村万作は伝統を伝える立場から『川上』において台詞にたった一ヶ所「この」を付け加えることを熟考して決めたとパンフに書かれています。何でも新しいものを単にやみくもに取り入れたりするのでは全くない思想・姿勢が感じ取れます。
芸道のありかた、極める姿勢を学ぶ非常に奥深い訓えを含んだ作品です。DVDは勿論買いです。
追記:
近年、能の流行の気配を感じることが増えたと思います。それもこの作品に紹介されている野村万作・野村萬斎親子の各種の取り組みの結果であるようにも感じられます。コミックだけを見ても、少し前に完結した『ワールド イズ ダンシング』は若き世阿弥の話でしたし、最近連載中のものには、元アイドルの若者(男性)が能を学ぶことにした物語の『シテの花』もあります。
そういえば、『VIVANT』・『今日からヒットマン』で私も認識できるようになった怪優(?)河内大和は、現在、上映が始まった『8番出口』のプロモーションで書店やゲーム売場などに自分の等身大パネルが設置されて、「大変なことになった」と突然の認知度激増に戸惑っているとインタビューで答えていますが、この『8番出口』に出演が(多分ルックスから)決まった後、「歩く男」のゲームのような気配のない歩き方を求められて、彼が一時期経験した能の摺足を実演して見せたところ、監督から一発OKが出たというエピソードが紹介されていました。
歌舞伎はどちらかというと鑑賞者を見つけることがやや容易ですが、嗜んでいる人物を見つけるのは容易ではありません。それに対して、私の娘も含め、能を学ぶことにした人は、じわじわと増えているような気がします。