『抱きたいカンケイ』

連休中の祝日に久々のバルト9の夜の回で見てきました。封切2週目。バルト9の中では小さい方のハコで、そこそこにカップル客や女性同士の客が入っていました。

ここ最近、「スゴク見たい!」と言う映画があまりなく、ただ足が遠のくのもどうかと思い、久しぶりに恋愛系の映画でも見てみようかと思い立った結果の選択は、当初『ブルーバレンタイン』でした。しかし、蜜月時代の男女とすれ違い揉めに揉めて別れることになる後の彼らを対比して描くと言う構図には関心が湧いての選択だったものの、レビューを見るとかなり、諍いが激しく醜い様子と分かりゲンナリしてしまいました。

それで、急遽、代わりに選んだのが、この『抱きたいカンケイ』です。選択基準は監督です。アイヴァン・ライトマンと言う監督は、ファンであると言うほどの認識はありません。ただ、コメディ系の映画で私が見たことのある映画を数々監督している人物です。どれも、「わぁ!」と印象に残ると言うほどではないのですが、そこそこのヒット映画をコンスタントに作り続けている所が凄い監督です。

自分でも見た、人に勧められる軽いコメディ映画を上げようと考え、ウィキのフィルモグラフィから拾うと…
『ゴーストバスターズ』、『夜霧のマンハッタン』、『ツインズ』、『ゴーストバスターズ2』、『デーブ』、『エボリューション』、『Gガール 破壊的な彼女』など、時代を問わず、やたらに挙げられます。この中でも、特に好きなのは最後に作られている『Gガール…』です。ユマ・サーマンの怪演が最高でした。その『Gガール…』の印象から、少々期待が膨らんだと言うのが見に行くことにした最大の動機です。

『レオン』の出演から期待が大きいままで来て、『スター・ウォーズ』3部作で何やら失速した(基本的に『スター・ウォーズ』シリーズは全て好きではないので、見ていませんからよく分かりませんが、トレイラーで当時見た画像や映画評からの受け売りの印象です)ナタリー・ポートマンの少々ドタバタ系のラブコメ。『バタフライ・エフェクト』が面白いと思えた映画でしたが、その主演男優アシュトン・カッチャーのドタバタ系コメディ。共に見る価値は一応あるかなと言うのもあります。この俳優陣に対する期待の方は大きく裏切られることなく、見終わることができました。二人とも、私が観た映画の中では抑制の効いた役柄や必死な役柄が多いので、意外な面はそれなりによく映えています。

ただ、『Gガール…』程に面白かったかと言えば、少々疑問が湧きます。ストーリー展開に大きな盛り上がりもなく、結構淡々と話が進む中で、メグ・ライアンやゴールディー・ホーンのような、または、せめてサンドラ・ブロックのような根っからのラブコメ女優でなくては、感情面での盛り上がりを欠く感じが否めません。ただただ、少女時代に比べて、痩せてふっくら感のなくなっていても、はしゃぐ姿は可愛いナタリー・ポートマンと、意外にイカス奴が似合っているアシュトン・カッチャーが、それなりには健闘していると言う程度です。

それよりも目立つのは主人公の男の父親です。主人公の男の元カノとのセックスに耽った挙句に結婚すると言い出すわ、ラリって病院に担ぎ込まれるわの、大騒ぎぶりです。かなり「イヤな奴」ではあるのですが、ケヴィン・クラインが演じているがゆえに、「人間は恋する相手を選ぶことはできない」などという名セリフを吐く場面に唐突に移行しても、すんなりと見て居られます。アイヴァン・ライトマンの多数の映画と同様の及第点越えをギリギリやって見せてくれた映画ということで、一応、DVD入手の価値はあるかなと言う感じです。

観終わってから、改めてこの映画の良い所を振り返ってみると、舞台となっている西海岸の文化と生活感の描写かなとも思えます。LAとサンタ・バーバラの風景のグラデーション的なつながり。東海岸の知性有る人々と西海岸の退廃的人々の対比。平然と多数出てくる同性愛の人々。取り急ぎ、「付き合っている」とお互いに宣言しあっては、セックスしか主だったやることのない若者プロム文化。(主人公達が15年前に参加したサマー・キャンプの夜にも、その10年後に再会した地元大学の男子寮のパーティーでも、基本、皆セックスしたがってばかりです。)などなど。

しかし、これほどに、セックスを繰り返している若者達がいて、なぜこの程度の淡白なセックスを機械的に繰り返すことばかりになるのかが、分からない所ではあります。女医であるナタリー・ポートマンも、「今度はあんな体位でやってみようか」などと言ってはいるものの、多忙な中再三セックスを繰り返している割には、30近くなってオーガズムに達しているなどの場面もありませんし、それで世界観が変わるような体験が窺える訳でもありません。草食系の人々が増えたせいかもしれませんが、日本の書店にずらりと並ぶ、気持ちいいセックスをテーマにした本の一つも読んで、「男女がからだを結合して行なうスポーツ」のような幼稚なセックスを、なぜ早々に卒業しようとしないのかと、つい思ってしまいます。

セフレから始まった男女の関係がそのままに維持できるかと言うことが、この映画のテーマです。劇中、主人公のアシュトン・カッチャーが車で去るナタリー・ポートマンを見送って、犬の散歩をする近隣の住人に「あれはカノジョではない、単なるセックス・フレンドだ」と言うと、近隣住人の男は、「そんなことはあり得ない」とぼそりと呟きます。これがこの映画の結論で、セフレで始まった男女は、やはり、(結果的に別れるにせよ、安定的な交際になるにせよ)恋愛関係にもつれ込むことになると言うことのようです。退廃的に描かれている西海岸の人々が主人公であるのに、或る面で、保守的な米国の恋愛観を感じざるを得ません。

見てはいませんが、最近の邦画『婚前特急』などのストーリー展開を見るにつけ、二股・三股どころか、薄く広くセックスをする男女が交錯している状況が平然と存在し、「付き合っている」だの、「カレシ・カノジョ」などと言う概念さえ危うくなっている日本の若者の男女交際を考えれば、セフレが恋愛関係に至らねばならない結論は、その時点で既にファンタジーのようにさえ感じられます。

やはり、米国でも、代々木忠のドキュメンタリー映画『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』を上映して貰わなくては駄目かなと考えてしまいます。発汗ピストン運動ぐらいの意義しかない単純なセックスを繰り返すセフレの関係の先には、月並みな恋愛関係の道とは別に、人生観や世界観を変えるほどの深遠なセックス体験をその場でその場で作りえるセフレの関係もあり得ることがよく分かります。(代々木忠のセックスもアダム徳永のセックスも、殆ど求道の行為です。)セフレならセフレのままで、道を極める映画で、若い男女のコメディストーリーがあったら、結構見てみたいかもしれません。

追記:
 原題の “No Strings Attached” の意味が載ってるならパンフを買おうと思い、店員の女性に尋ねたところ、パンフを捲って答えが見つからず、「赤い糸が見つからないセフレとの関係の映画ってことだと思います」と丁寧なベスト・ゲスを教えてくれました。
 その意見に感動し、答えのないパンフを買いましたが、ふと「糸」が複数形であることに気付きました。店員さんのホスピタリティには感謝するのですが、今は、「マリオネットなどの人形の糸がついていない状態」が原題の意味かと思っています。