『かくかくしかじか』

 5月16日の封切から既に1ヶ月半が経過した7月最初の木曜日の日中。午後1時15分からの回を多摩センターにある初めて行く映画館で観て来ました。

 1日1回しか上映をしていません。私がこの作品をこの映画館に観に来た理由は23区内では既に2館、新宿と練馬板橋でしか上映されていないことです。新宿での上映は午前中早めで気が進まず、練馬板橋は乗り換えなども含めて時間距離で遠いという理由で却下すると、あとは都下などの近郊映画館と言う話になってしまいます。都下23区外では、多摩センター、日の出、武蔵村山の3館で上映されていますが、比較的簡単に行けるのはここ多摩センターしかありません。

 実際に新線新宿から京王多摩センター駅には電車内時間でたった30分ほどで到着しました。23区内の銀座や以前行った大森などの映画館に比べて特段長い時間ではありません。

 私にとっての多摩センターは古い記憶に溢れた街で、以前開発された団地・マンションに住む人々の高齢化が問題になってきたなどの話はチラリとは耳にしますが特に注意を払ったこともありません。私にとっての多摩センターの一番古く一番インパクトのある記憶は、今から40年以上前の20歳の頃に遡ります。

 私は上京してすぐ東京をよく知ろうとして、所謂山の手巡りを知合いに車を出して貰って二日がかりで行なったのでした。「第一の山の手」は歴史上東京地区に最初にできた山の手地区で、現在の神田から湯島、東大付近を経て、田端に至る文教エリアです。そこからさらに東京が拡大し西側の丘陵地区に新たに山の手が形成されたのが「第二の山の手」で、それは飯田橋から神楽坂、巣鴨、駒込に至る辺りのエリアです。そこも都市化の波に飲み込まれ、さらに西の丘陵地帯に作られた山の手が、まさに山の手通りが現在も残る高級住宅街の「第三の山の手」で、北は初台の辺りから代々木上原や松濤などを含むエリアです。後にバブルの頃に私鉄の山手線から主要駅一つ目が集中するエリアとして通称「一つ目エリア」と言われた地域です。

 さらに私鉄が発達し東京の西部に高級住宅地の山の手が再度創られます。それが「第四の山の手」で世田谷区の成城からニコタマなどを通って田園調布に至るエリアです。そしてバブル時代最盛期に開発が進み、膨張した東京を受止めたのが多摩川を渡って東京都西部から神奈川に至るエリアの「第五の山の手」で、主に北西の端の多摩センターから新百合ヶ丘辺りを経て、たまプラーザに至り、やや港北エリアに入り込んで終るような地域を指します。

 広大な第五の山の手はその開発が道半ばの段階で、バブルが崩壊し、膨張した東京圏は反転縮小を開始して放置される結果になったとパルコ出版の書籍群などは説明していました。そんな第一から第五までの山の手エリアを車で案内して貰い見て回った際に、最後に訪れた多摩センターに着いたのは夜の9時過ぎでした。あかりも少ない丘陵の斜面に立ち並ぶ団地群は異様な姿で、『ウルトラセブン』の『あなたはだぁれ?』の回に登場する恐怖の団地群に見え戦慄しました。実際に『ウルトラセブン』で使われたのはたまプラーザの方であったようですが、私がたまプラーザにその一連の視察の途上で訪れたのは夕方であったので暗闇の団地群のイメージは私の中で多摩センターとして植えつけられたのです。

 さらに私の昼の多摩センターのイメージを決める映画作品もその後23歳で観ることになります。衝撃を受けた名作『人間の約束』です。多摩市にある丘陵地区の一軒家が舞台で少女時代の武田久美子も出ている名作です。丘を下ると無闇矢鱈に続く団地街が登場します。それが映画のエンディングの有名シーンなのです。私は22歳で札幌に転勤になりましたが、23でこの映画を観て、その後すぐ後に上京した際に、多摩センターのこの団地街を今でいう聖地巡礼で散歩して回るほどにこの映画は衝撃的だったのでした。

 その結果、後に一度ピューロランドに行っても尚、ピューロランドの印象よりも深く刻まれた『ウルトラセブン』の恐怖の団地街と『人間の約束』の老人介護を巡る殺人事件を抱え込む家族の深刻な物語の舞台が、私の中に今なお残る多摩センターの印象です。

 7月に入って「危険な暑さ」とニュースが報じる強い日射の中、多摩センター駅からこの界隈唯一の映画館に向かう道を周囲の街並みをじっくりと見ながら進みました。隣の永山の駅には某日系IT大手の研修センターに数回仕事できましたが、駅を降りてからの風景は全く異なります。そしてガッツリ摩り込まれた団地群の風景とも駅からの方向が違うため、全く異なるものでした。

 先述の通り、人々の極端な高齢化などのニュースの寂れた印象など微塵もなく、寧ろお台場などより普段着の人々の活気を感じる街のように見えました。大学キャンパスがそれなりに存在しているからかもしれませんし、北上延伸が予定されているというモノレール沿線の人口増加などがあるのかもしれません。ただ少なくとも目的の映画館周辺でいうなら、サイゼリヤやコメダが目立ち、最近ではあまり見ないイトーヨーカドーがバーンと立っているのを見ると、やや場末感が湧かないではありません。路面の照り返しも含めて眩しく普通に見渡せないピューロランドへの大通りのパステルカラーの人工的街並みは、或る意味、脂ぎったファンタジー臭さを醸し出していて、少し愉快に感じました。

 劇場についてチケットを購入しようとしてふと気づくと、この映画館にはシニア料金設定がありませんでした。すわ俄か老人冷遇のバルト9どころではない老人虐待姿勢と不快感が少々湧きかけた所で、ふと気づくと、一般料金が今時1800円でした。シニアだのなんだのの区別なく皆に優しい映画館と言う風に解釈ができなくないと気を取り直しました。券売機の隣にはコンセッションがあり、さらにその脇にパンフ売場がありましたが、『かくかくしかじか』のパンフは完売していました。

 私は大泉洋のファンでは全くありません。『岸辺露伴は動かない 懺悔室』の感想で以下のように言及した通りです。

[以下抜粋↓]

私は北海道育ちですが、TEAM NACSは全く知らずに過ごして来て、『水曜どうでしょう』なども東京などでよくファンだという人物に会いますが、私は全く関心も持てず、全く観たこともありません。当然、TEAM NACSに属しているらしき人々も、バラで徐々に認識して行きました。大泉洋は何となく北海道でテレビを観ていたらたまに現れる人ぐらいの印象で長年過ごし、YOSAKOIソーラン祭りの際に大通りでナマの本人を見かけたこともあります。『アフタースクール』で初めて、「ああ映画にも出るんだ」ぐらいの認識をし、それ以降色々な作品で観るようになりました。

[以上抜粋↑]

 その後『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ、『駆込み女と駆出し男』、『東京喰種トーキョーグール』、『鋼の錬金術師』、『青天の霹靂』、『新解釈 三国志』、『騙し絵の牙』、『ディアファミリー』などで、「ああ、また出てる」ぐらいの印象を常に持ち、ドラマでそれなりに魅入った『ラストマン-全盲の捜査官-』でも、「ああ、悪くないね」ぐらいの感じにしか思っていません。これだけ彼の出演作を観ていても、北海道の拙宅でたまに観るテレビで執拗な露出の北洋銀行のカードローンのCMに登場する彼の方が露出の頻度から印象に強く残ります。

 この作品は上映直前に上映が危ぶまれるぐらいのダブル不倫(不倫関係にある男女が両者既婚者のダブル不倫ではなく、1人の独身女性が既婚男性1人・独身男性1人と並行してセックスしていたという構造の珍しい「ダブル」と言えないような不倫。二股不倫とも呼ぶようです。)の大問題が発生したようですが、私はいつもの如く、そのアウトプットで芸能人や芸術家などを評価すべきだと思うので、ほぼ気にしていません。ネットのニュース記事に拠れば今回のケースでは、不倫そのものの決定的な証拠に欠け、本人達が完全否定をしていることから追及の動きが腰砕けに終わったようです。少なくともこの作品に期待していた人々は、不倫疑惑となった問題をそれほど気にはしていなかったと言われています。永野芽郁本人はかなりマイナスの影響を受けたものの、危ぶまれたこの作品の興行収入にはほとんど影響が確認で聞かなかったという話が多いのは良かったと思われます。

 元々の原作人気も強かったと思いますし、ファンの多い原作者がこの作品の主人公である若い頃の自分自身を演じるのが永野芽郁であることを非常に喜んでいることを不倫疑惑爆裂の遥か前から明言していたことも大きいのではないかとニュース記事を読むと感じます。

 永野芽郁も嫌いではないものの、それほど好きと言う訳でもない微妙な感じです。感じはしません。結構ぶっ飛んだ役回りだった『マイブロークンマリコ』や『地獄の花園』での彼女には好感が持てますし、『からかい上手の高木さん』はあまりにキャラ再現が完璧で驚愕させられましたが、『月夜に君は光り輝く』のような幾つか私が観た作品で特に感嘆させられるような何かを見せてもらった記憶はありません。可愛らしさは分かりますが、何かそこで止まってしまう感じなのです。

 そんな主演二人の認識度合なのに私がこの作品を観ることにしたのは、やはり劇中の教育のスタイルとそれを今時の人々がどれほど受け入れられるのかについて感触を得るためです。私は行き過ぎたハラスメント騒ぎだの体罰恐怖症騒ぎだのに辟易している人間です。さらに例えば塾や私立教育機関などを教育サービスと位置付け生徒達(プラスその保護者)をお客と認識するのは勝手ですが、少なくとも公立の学校教育において子供達をお客と見立てて嫌がることをしないなどというのは全くのおためごかしのくだらない発想だと思っています。

 そんな私がやや溜飲を下げるような教育に関する揺り戻しが多少起きているように感じています。テレビドラマで言うと『なんで私が神説教』というおかしなタイトルの作品がつい先日完結したばかりです。広瀬アリス演じる元引き籠りニートの高校教師の心の声と顔芸は途方もなく可笑しく私はドラマ自体を愉しみましたが、私にはタイトルと異なり、「お説教」と教師たちが呼ぶ行為は全く説教に見えませんでしたし、その内容もありきたり過ぎてとても「神」を冠するような内容ではなかったように思っています。

 それでもこのドラマは事なかれ主義(「褒めるな、叱るな、相談乗るな」)の教師達が私立高校で無難に事を進めようとするのに対して、新任のニート上がりの主人公が空気も読めず、学生達を上手く無難に放置することもできず、(説教と言うレベルに私には全く見えませんが)真っ向から学生達(さらに周囲の教師など)に自分の意見を述べるという展開がほぼ毎回発生するのです。先述のようにコメディ・タッチで誤魔化されていますが、端的に見て鬱陶しい存在です。それでもそれなりにはネットで話題になり、広瀬アリスの好演や、私にはそれ以上に楽しめた木村佳乃のさばけた校長の大熱演もあってか、この物語を受け容れる人は多かったようです。

 一方で現実の世の中では「パワハラ・モラハラ上等」と喧伝する組織が若手社員の採用に全然困らない状況で、「自分を鍛え直してほしい」などと入社希望が後を絶たないなどと報道されています。ブラックすぎる企業は最早話題にさえ成らなくなりつつあり、世の中では「ホワイトすぎる会社をチャレンジがなく能力も伸びないように感じ辞めたくなる」若者が多々存在すると言われています。さらにあの私も『平成ジレンマ』というドキュメンタリーで(苛烈な暴力は少々おいておき)それなりに共感できる部分も多々見つかった戸塚ヨットスクールのYouTubeチャネルが好評でフォロワー数を伸ばしているなどの報道も見つかります。

 こうした流れを見ていると、無理強いを伴う教育や指導の意義が見直されているのを感じます。本人がやりたいことを頑張るというのは理想ですが、人間は自分にどうしても甘く、甘い自分を乗り越えてでもどんどん能力を伸ばし、才能を磨ける人間はほんの一握りです。多くの人間は苦痛から逃げますし、できないことに取組み失敗することや、長く取り組んでも成果を出せない自分を承認したり許容することができません。つまり、強いられることがなければ能力は伸びませんし、可能性も見つからないのです。それが現実で、どれほどきれいごとを言おうとも、この作品で示される師のありかたは理不尽と表現するのが一番に見えますが、それは原作者から言葉に表せないほどの感謝の対象となっています。それがどれほど観客に受け容れられるものなのか私は見てみたかったのです。

 シアターに入ると、暗くなってから入ってきた人々も含めて、25人ぐらいの観客がいたと思います。明るいうちからいた観客の殆どは後ろから見ると白髪が目立ちましたが、暗がりで入ってきた観客がどんどん平均年齢を押し下げた感じがします。結果的には老人系客と20代客のグルーピング出来るような珍しい年齢構成になったように見えました。男女比で言うと女性が6割程度、男性が4割程度ですが、年齢層に関係なく性別構成はほぼ一定だったように感じました。今回の観客層の独自な特徴は単独客の少なさにもあるように思えます。2人連れが多数存在し、3人連れの男子学生もいました。女性ばかりの4人でそのうち3人が高齢層で1人だけ10代後半か20代前半と言う組み合わせも居ました。いずれにせよ、非単独客で全体の7割ぐらいを占めていたように思います。

 この映画の概要は映画.comに上手くまとめてあります。

[以下抜粋↓]

「海月姫」「東京タラレバ娘」など数々のヒット作を生み出してきた人気漫画家・東村アキコが自伝的作品として描き、第8回マンガ大賞および第19回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞した漫画「かくかくしかじか」を実写映画化。漫画家を目指す少女と恩師である絵画教師との9年間にわたる軌跡を描く。

宮崎県に暮らす、お調子者でぐうたらな女子高生の林明子は、幼い頃から漫画が大好きで、将来は漫画家になりたいという夢を抱いている。その夢をかなえるべく美大進学を志す明子は、受験に備えて地元の絵画教室に通うことになった。そこで出会ったのが、竹刀片手に怒号を飛ばすスパルタ絵画教師の日高先生だった。何があっても、どんな状況でも、生徒たちに描くことをやめさせない日高。一方の明子は、次第に地元の宮崎では漫画家になる夢をかなえることはできないと思うようになっていき、日高とすれ違っていくが……。

[以上抜粋↑]

 観てみると思い出すことが幾つもあって、その後には身につまされることが幾つも頭に浮かんでくる内容でした。私が発行しているメールマガジン『経営コラム SOLID AS FAITH』が創刊8周年を迎えた際に『希な望』という文章を書いたことがあります。その一部を以下に抜粋します。

[以下抜粋↓]

中小企業診断士の三次実習で言葉では言い表せないほどにお世話になった恩師、
小谷喜八郎先生は、実習の最中、その日の診断結果をレポートでまとめて、そ
の日のうちに提出するよう、夕刻私たちに指示した。やっとワープロで打ち終
わったレポートを、当時ファクスのなかった自宅を出て、コンビニからファク
スしたのが真夜中。明日の街頭調査に備えて寝ようとしていたら、夜中の2時
過ぎに留守番電話が叫びだす。
「市川はん。出てください。これからファクスをコンビニに送るから、訂正し
て明日の朝には持って来てな」。翌朝6時、消耗しきって、調査対象の商店街
に行くと、先生は先に来ていて、「なんや。みんな眠そうな顔して。わしも全
員の分のファクス送るのはしんどかったわ」とチーム5人の顔を見渡して平然
と言う。以前から、癌に冒されていた先生は、既に胃を3分の一以上切除して
いて、「ビールなんかの泡立つもんは、もう飲めないんや」と言っていた。脳
にまで癌が転移し亡くなったのは数年後。

先生には妥協がなかった。メンバーがレポート作成の打ち合わせをしていて、
「放置自転車の問題は、いい解決策が見当たらないから、さっと流すだけで終
わらそう」などと口にした途端、「何を言ってるんや」と激怒した先生が、カ
バンから放置自転車の資料を出して机に叩きつけ、「あんたら、それで一日5
万とかのお金をクライアントさんに払って貰えると思ってるんか」と怒鳴りつ
けられたこともある。私の師とはこういうものではなかったか。

私に留学を勧めた福原先生は、十度目でも尚、私の書いた大学へのアプリケー
ションレターに、ただ、「やり直し」と書いてつき返した。「外国での成績証
明は事実上無意味なので、アプリケーションレターは、たかが一枚の紙でも、
市川さんの人生を表現する唯一最大の道具です。ちゃんと考えてください」と
先生は繰り返すのみだった。

留学の卒業時に、コンサルティング会社への推薦状を何パターンも用意して下
さったパケット教授は、私の作文に大きく斜めに線を引き、右上隅に“Redo
(やりなおし)”とたった四文字を書くだけだった。直してまともになれば点
数はくれる。何をどう直せばよくなるのかを、粘って、喰らいついて、諦めず
追求した者だけが点数を獲得できる。彼のクラスを二回受け、私はしつこさ故
に、両方ともAを取ったと教授自身が笑いながら言ったことがある。「私が答
えを教えたら、私以上の人間が育たない」と彼は何度か言っていた。

[以上抜粋↑]

 他にも私には中小零細企業のオーナー経営者向けのビジネス誌の編集部に入る前に、1年に渡ってその編集部の後にも先にも最強と言われた編集長から直々に毎月送ってもらった内容について課題を出されては、その結果を何度も編集長と電話越しに議論する作業が続いたこともあります。

 高2の時の英語の発音矯正も、北海道の真冬のピークの3ヶ月間、平日は毎日授業後に2時間以上、土日は毎日5時間以上、延々と同じ単語を正しくできるまで試行錯誤して、教師になってまだ二年目の唐突に私の担当を任され、英語弁論大会の全道大会に出せる状況にするよう命じられた先生に厳しく指導される日々を送ったこともあります。

 英語を柔道や剣道のような道として捉えるべしと説いた松本道弘先生はこの作品の先生のようにインプットを繰り返し強調した。同じく『経営コラム SOLID AS FAITH』の15周年に書いた文章に以下のようなものがある。

[以下抜粋↓]

「大山倍達はかつて考えた。(中略)白帯の頃は、「術」でも「道」であって
もさほど違いは目立たない。差があらわれるのは英語の力が有段者の域に達し
た場合である。術は「殺人語」になり、道は「活人語」に発展するからである」。
 英語術と英語道。こんな文章が載っている英検一級受験指導書『松本道弘の
英検1級突破道場―英検1級から黒帯への道』。著者、松本道弘は子供の頃から
「英語を道としてとらえて」きて、映画館で洋画を見るときにも、その英語を
諳んじられるように何度も緊張して観たと言う。

 20歳になって上京してほどなく訪ねた彼の英語道場。その合宿に参加して、
「語彙力を伸ばすために単語集を暗記しようとしても、なかなか上手く行かな
い」と相談した私に、彼は驚きの回答をした。
「例えば歴史の話がしたいなら、日本語でいいから、歴史をよく勉強すること
だ。そうすれば、どんな語彙を知るべきか自ずと分かる。英語は生きていて、
日々刻々と変化するコミュニケーションの手段だ。目的が決まらないのに、手
段を選ぶことはできない。何を話すか決まらないのに、語彙は増やせない」。
(第8話『虹を追う者』)

 彼は私の英語学習のイメージを悉く破壊した。英語の世界観と言うよりも、
“英語を学ぶという行為の世界観”だと思う。そして、それは何を学ぶにも同
じだと気づくのに、時間は掛からなかった。ソリアズでも、第8話『虹を追う
者』、第124話『快い問い』、第152話『動機の圧搾』、第235話『適正在庫維
持』と多くの号に登場するほどに彼の教えは、学びの本質に迫っていたと思
う。

 インプットを増やし、自分の中で知識を熟成させ、自分のものとして“潜在
意識”の中に定着させること。第152話『動機の圧搾』で描いた教訓。それが
なぜそうであるのかに思い至る余裕は当時の私にはなかった。
 
 ただ、今でも、オーナー経営者が人生をかけた中小企業経営は、間違いなく
「道」に見える。そんな組織の現場を見ると、溶接工場の溶接機械にも、パチ
ンコ店の釘調整の盤面にも、美化製品会社の立場で見る駅のホームのゴミ箱に
も、積み重ねられた「道」が透かし見える。
 
[以上抜粋↑]

 この映画は不肖の弟子の物語です。劇中で現在の原作者東村アキコの当時の自分を振り返り、恥じ、悔い、どうやっても戻ることのない時を嘆く言葉が挿入されます。特に美大に進んでまともに絵を描くこともしないような女子大生だった自分に対して、「振り返れば竹刀で一発入れたい」とまで言っています。

 私は彼女と同じように、そして彼女よりも数の上でかなり多い師から無茶ブリな指導を人生の中で何度も受けて来て、とても「あの頃、もっとできたはず」などと思えませんし、「竹刀でぶっ叩いてやりたい」とも思えません。その頃十分自分を出し切って練習に励んだからということではなく、今でも自分の価値観と不釣り合いな指導だったと認識していて、「それでもよくまあそれなりの所まではついていくことができたよなぁ」という想いの方が先に立ちます。

 そして結局どの師に教え込まれたことも考え方は何となく体得できて今に至りますし、人にその考え方を伝えることもできますが、自分で何か師の指示した先にある高みに辿り着くことはありませんでしたし、そんなことを自分で望んでもいなかったと思っています。それでもそんな経験が無駄だったとは思っていません。偶然凄いことをさせられ、師の期待に添いたいとも思わなかったし、実際にそうなってはいないものの、その考え方の本質を学ぶことができ、それが些末な日常の事柄についても見え方を大きく変えたという実感はあります。

 東村アキコは私よりもっと真面目で師に後になって真っ向向き合い、それを作品にまで昇華しているのです。師はそのように思っていなかったと思いますが、東村アキコは漫画家になって大成した後、亡き師匠の残像に向かって、「先生の言った通り、今でも描いて描いて描いているよ。絵を描くのも漫画を描くのも同じだと分かったよ」と言っています。

 私も同感です。中小企業診断士の師匠と同じ業容に私は全くなっていません。天才編集長から習った中小零細企業観は今も間違いなく自分の中で息づいていますが、雑誌編集をしているのでもなければ、経営に関わる書籍で食っている訳でもありません。けれども、学んだ本質が変わらず自分の血肉になり、それが何をやっても滲み出てくるようになるのだと私は思っています。

 内田樹は多くの書籍で師弟関係について述べています。その説くことを咀嚼してみると、師と弟子は同じ道を歩むとは限らないということに気づかされます。それは先述の本質が同じでも周囲の環境が異なり、その学びを活かして満たすべき環境側のニーズが異なるから、こちらのアクションの形が変容するのだと私は思っています。

 師も未だ修行の途中ですが弟子の先行者でもあります。師の到達点から見える景色の一部に弟子の立っている場所があり、弟子は自分の周囲を俯瞰してみることができない以上、師は常に弟子が理解できないことや想像できないこと、場合によっては弟子にとって理不尽なことを言ったりやったり強いたりすることになります。

 内田樹は学びとは別の何かになることだと言っています。師匠の価値観を一定期間受け容れ、膨大なインプットと凝集したアウトプット、その反復練習を気の遠くなるほど続ける中で、自分の無意識の回路に自然に流れる道筋ができるのだと思います。それが大泉洋演じる絵画教師日高が「どんな状況でも、生徒たちに描くことをやめさせな」かった理由であろうと思われます。

 不肖の弟子の物語はとても実感させられるものでした。そして、それを多くの20代の人々が泣き笑いしながら食い入るように見ている姿は暗がりの中でも十分分かりました。竹刀片手に怒鳴る教師の指導をリアルに受けたいか否かは別としても、「道」のように自分の血肉にする身体知を学び取り人生を豊かにするプロセスが分かり易い物語として彼ら・彼女らに提示されたのなら良かったと年金老人の身には思えてなりません。

 この映画を観て、全く予期していなかった配役が結構楽しくありました。畑芽育がその一人です。私は最近TVerで観ていた実写ドラマ『天久鷹央の推理カルテ』が(世間では低視聴率だと糾弾モードですが)かなり気に入っていて、その中で初めて彼女の存在を認識しました。ドラマ版の『ハコヅメ…』にも数話登場していたようなので永野芽郁とも共演済みということなのでしょうが、私は『ハコヅメ…』はコミック派で全くドラマに関心が湧かず、観ていません。彼女が主演をしている『うちの弟どもがすみません』はいつかDVDで観てみようとは思っていましたが、現状まだ手が回っていないので、私の認識する彼女は『天久…』の一作で全話に登場する大活躍ぶりです。そんな彼女をこの映画で発見して結構嬉しくなりました。

 ただ彼女の立場がパンフレットもなく映画だけで観ていると、時系列ではどこから登場したのか分からず、(冒頭のシーンから登場するので最初は編集者かと思っていましたが)主人公東村アキコのアシスタントであることが分かり、それなのに、日高の人柄にも詳しいというよく分からない役柄でした。畑芽育の演技がそれなりに上手く、彼女が日高塾に居たことに私が気付いていないということが、後にウィキを見て判明しました。彼女の役柄は「佐藤」ということらしく、ウィキには「日高教室で東村が講師をしていた時代の教え子。当時は高校生。のちに東村のアシスタントを得て、はるな檸檬として漫画家デビューする。」と書かれています。謎が氷解しました。

 他にも、東村アキコの両親の役でMEGUMIと大森南朋が登場します。安定の演技で宮崎の(東村アキコの評に拠れば)おおらかな田舎の人々といった感じの夫婦を演じています。特にMEGUMIについては『零落』で役者としての彼女を結構明確に認識するようになり、続く『君は放課後インソムニア』でも端役ではありましたが、その存在に気づきました。それからドラマを観るたびに彼女が見つかるようになり、『おいハンサム!!』シリーズの彼女は白眉で流石この役で幾つも賞を受けたことにも納得がいきます。さらにそれ以降、TVerで観た『ホットスポット』にも登場し、『おいハンサム!!』シリーズで娘だった木南晴夏と今度は同級生を演じています。さらに同じくTVerで観た『プライベートバンカー』でも金の亡者の長男嫁を演じていますが、キャラが濃い人々に取り囲まれている感じで、やや苦戦気味という感じではありました。鑑賞リストには入っていませんがドラマから映画化されて今尚ギリギリ公開中の『それでも俺は、妻としたい』でも主役級ですから、俳優以外の商売やらプロデュース業など、稼ぎまくり出まくりの状況に見えます。

 ただ私の中の彼女で最も印象に残っているのはやはり『零落』で、その次がほぼ毎週1回はタクシーの中で観る広告番組(インフォマーシャルだと思います)の『ひみつのPRIME』でMCを務める人形のウサギの「ラヴィさん」です。外見はちょっと作りが粗い昔風の操り人形なのですが、語りがモロにMEGUMIのややだらけたバージョンで私は結構楽しんでいます。

 台本もコピペで楽だったかなと思われるほど、「描けぇ。描けぇ。描けぇぇ」を繰り返す大泉洋はそれなりに当たり役のようには見えました。しかし、それ以上に私はMEGUMIと大森南朋の両親が結構この映画の優しい味わいを作っていて良かったように思えます。仕事でも「学び」のありかたを話す機会が結構多い中、かなりよい教材物語が登場したように感じます。特にそういう用途があるので、DVDは絶対に買いです。

追記:
 この作品はコミック『かくかくしかじか』の受賞式に東村アキコが現れ、作品の元となった絵画教師日高を思い出す形で始まります。すべてを振り返り、自分のふがいなさを悔やんだりもしたプロセスを記憶で辿ったなら、最後のシーンは再度受賞式に戻って何か意味深い言葉を言ってほしかったように思います。しかし、この作品の中で多分私にとっては唯一残念なことですが、映画はほぼ全編に及ぶ長い回想が終わった所でいきなり終わり、現在時点の受賞式の場には戻ってくることがありませんでした。