『冷たい熱帯魚』

休日の午後。新宿でたった一館しかない上映館は、見たこともないような混雑で、念の為、一時間前にチケットを買いに行ったら、既に席は9割近く埋まっていました。

園監督の好きな映画を三つ挙げろと言われたら、悩んだ末の好きな順に『紀子の食卓』、『自殺サークル』、同着三位が『気球クラブ、その後』と『奇妙なサーカス』です。『冷たい熱帯魚』がこれらのうち、どれかを押しのけて三位に食い込めるかと言うと、どうもそう思えません。五位につけたと言う感じです。

ただ、『冷たい熱帯魚』は、これらの四本、取り分け死人が出る事件が起きる三本に比して、一つ際立った特徴があります。それは、徹底した悪役が存在することです。バットマンのジョーカーのような単純にして純粋な悪意ではなく、自分を守り、自分の欲得をがむしゃらに押し通す猛烈な力の表出結果としての「悪」を、常時体現している登場人物が存在していることです。

これに対して、影の薄い草食系主人公が居て、家庭の不和を抱えて口をつぐんで、零細熱帯魚店を経営しています。悪役はロードサイドの大型熱帯魚店を経営し、店員は皆バドガールのような格好をしていて、さながら、カルト教団のごとくです。悪役は一見ひょうきんなオヤジである所が味噌です。甘言と罵声を使い分け、金も女も欲しいものはどんどん手に入れる人間です。主人公の妻は後妻で、先妻との間にできた娘とは折り合いが悪い状態ですが、悪役はそこに付け込んで、その娘を住み込みのバドガールに絡め取ってしまいます。そして、あっという間に、草食系の主人公の妻はこの悪役に胸を揉みしだかれ、自ら身を任せます。この展開は、私が学生時代に見て、その後味の悪さ故によく記憶している、ダスティン・ホフマン主演の『わらの犬』に酷似しています。

しかし、悪役の質がかなり違います。埼玉愛犬家殺人事件を元に作られたと言うこのストーリーは、地方都市の無機質な、宮台真司の「終わりなき日常」と言うか、三浦展の「ファスト風土」と言うか、色々な社会学者系の人々に説明されてきた環境を舞台に、真っ赤なフェラーリを乗り回し、どんどん自分の敵や不都合な人物を、「ボディを透明にしてやる」と表現して殺害・処分していきます。登場人物も少なく、強靭なオスと変わり身早くそれに寄り添うメスの、動物の生態として観察すると合点の行くシンプルな物語は、テンポよく進行します。終盤近くに草食系の主人公が突如肉食系へと覚醒して拍手喝采の展開となる、或る種のコメディです。

飽きが来ず見られますし、悪役の妻の切れっぷリやら、草食系主人公の豹変ぶりなど、見どころはたくさんあります。『自殺サークル』、『紀子の食卓』以来の血糊は多用され、殺害した人物は、「唐揚げぐらいに細かく切って」、「骨と肉を分けて」と草食系主人公に悪役と妻が実践で教えようとするぐらいの(既に50人余りの実績があるので当然ですが)手慣れた作業で分解処分されていきます。そのシーンも多々ありますので、スプラッタの血飛沫が飛ぶと言う意味では、本来的スプラッタですが、特に、グロく怖がらせるための演出満点の切株映画と言うほどではないように思います。それは、悪役夫婦が、まるで夫婦で趣味を共有するかの如く、「今からこいつに包茎手術してやろうか」などと楽しく会話しながら、ことを進めることによるのかもしれません。

悪役は登場時点で、熱帯魚店を経営していると言い、その大型店に主人公を招いて、ビジネスはエンターテイメントじゃなくちゃいけないと言います。確かに、悪役の店舗は水族館のように見栄え良く、そこに朝礼で挨拶練習を反復したバドガールが接客要員として居て最高です。さらに、悪役は、自分で決め、自分で問題を解決し、自分で尻拭いをすることができるのが自分であり、何も決められず、何も解決できず、その結果、妻と娘にも愛想を尽かされた主人公とは全く違うと説教をたれます。

店舗経営の本質を喝破し、今多くの企業で喉から手が出るほど求められている自律(・自立)型人材の在り様をも説教します。やる気の出なかった草食系人材を結果的に事業に巻き込み、立派な共犯者に仕立て上げています。殺害した人間の筋の良くない関係者が集団で怒鳴りこんで来るのに応じるため、草食系主人公にトークを教え込み、ロープレ練習まで夫婦で周到に行ないます。

殺人や詐欺は勿論論外ですが、経営者としてみると、緻密でリスク管理に長け、自分の強みで勝負することを知っている、結果を叩き出せる優れたタイプの人物です。敢えて言うなら、その生物的魅力故に愛人を作れるのも、比較的珍しくないオーナー経営者の特徴かもしれません。

園子温監督の作品としては、他にも秀作が多数あるので順位は低いですが、文句なく面白いです。トイレの近い私が水断ちで臨んだ二時間半の長さも気になりませんでした。DVDは買いです。