『うぉっしゅ』

5月2日の公開からほぼ1ヶ月。5月最後の土曜日に再び銀座の路地裏映画館で観て来ました。1日2回の上映ですが、東京都下ではこの館でしかやっていない状態になっています。神奈川では5館で上映されていたり、栃木・群馬でも各県1館ずつで上映されていたりしますので、東京都下の上映館の激減ぶりが目立ちます。しかし全国で14館ですからその3分の1以上を占める神奈川県だけが突出していると考えるべきかもしれません。ただ神奈川の各館も黄金町以外は1日1回の上映ですし、栃木は1日1回、群馬が1日2回ですから、トータルの上映回数と言う意味では大分先細り感が出ている状況です。

シアターに着いてチケット購入の画面を見ると、ざっくり10席近く埋まっていました。パンフを買おうとすると、売切れとのことでした。それも単に売切れなのではなく、「えっと。入荷の予定は現状ないですね」との(こちらが何も尋ねないうちの)補足説明だったので、これからも当分上映を続けるという想定であるように感じられました。ただ、電話確認などしてパンフを買い求めに再来館するようなことはないものと思います。

(ただここ最近、都内での上映状況の読みを誤ると、結果的にこの映画館(か吉祥寺駅北西にある地下映画館のいずれか)での上映に絞り込まれた状況にぶつかることが多く、この館に偶然再来してその際にこの作品のパンフがあれば買ってしまう可能性はあるものと思えます。

映画.comの本作紹介文を見ると…

[以下抜粋↓]

ソープ店で働く加那はある日、母から一週間だけ認知症の祖母の介護を頼まれ、仕事でも祖母の介護でも「人の身体を洗う」というダブルワークの日々がスタートする。祖母・紀江は認知症のため孫の名前すら覚えていない状態のため、2人は会うたびに初対面のようなやりとりを繰り返す。どうせ話をしても忘れてしまう祖母に、親には隠している仕事のことを自由に打ち明けられることに気付いた加那は、そこから徐々に祖母との心の距離が縮まっていく。祖母の介護をする中で、それまで知ることがなかった祖母のこれまでの人生と孤独が垣間見え、加那は自分自身のことを見つめ直すようになる。

加那役を「暁闇」「窓辺にて」の中尾有伽、祖母・紀江役を歌手でコメディエンヌとしても定評のある研ナオコがそれぞれ演じる。

[以上抜粋↑]

のように書かれています。私はウィキで検索してみて出演作などを調べてみても、中尾有伽と言う女優を全く知らず、研ナオコについてもファンでないのは勿論のこと、特に彼女の何かを評価している訳でもありません。

私が過去に彼女を知る機会があったのは、ザ・ドリフターズなどの往年のテレビ界のコメディ・スターと絡むことが多いコメディエンヌとして見ることが子供の頃は結構あったということと、前後して殺虫剤キンチョールを始めとするテレビCMで何となくその存在を認識していたことなどがあります。それ以外には私がファンである中島みゆきが『中島みゆき ソングライブラリー』という他の歌手に提供した曲ばかりを集めたCD5作シリーズがありますが、その中にも8曲も研ナオコの歌が含まれている通り、歌手としての研ナオコが中島みゆきが曲を提供するほどの歌手であるという認識は一応ありました。ウィキで研ナオコを調べると、中島みゆきからの提供曲は14編にも上っています。(中島みゆきの方のウィキを見ると15曲です。)

それでもこうした主要出演者に全く魅力を感じないにも関わらず、私がこの作品を観ようと思ったのは、この作品がソープランドを扱っているからです。ソープランドが主テーマ、ないしは主舞台として登場する映画作品は多くありません。業者の届出で成立するデリヘルは世の中に多々ありますが、ソープランドの事業者は少なく、土地活用制限の関係で、既存店舗の維持は可能でも、新規出店は事実上不可能と言われています。それを反映してか、映画に登場する「風俗」と言われるものも多くはデリヘルでソープランドが描かれることは非常に限られています。

デリヘルをかなり踏み込んで描いた作品で、私が劇場で観たものでパッと思い出せるものには(終盤がただの陳腐なファンタジー映画に堕してしまったのが残念でしたが)『風俗行ったら人生変わったwww』があります。『彼女の人生は間違いじゃない』も『タイトル、拒絶』などもデリヘル嬢の物語です。それに対して、ソープ嬢はパッと思い当たらず、登場するというだけの話で言うと、『東京難民』で大塚千弘が主要脇役の元看護師のソープ嬢を演じているとか、『鉄砲玉の美学』で主人公のチンピラヤクザの破滅に手を差し伸べるのがソープ嬢とか、劇場鑑賞作でも幾つか思い当りますが、主役ではありません。

映画の世界でソープランドやそこで働くソープ嬢はどのように描かれるのかに関心が湧いたのでした。

シアターに入ると、私の後から入ってきた客も含めて、私以外に9人の観客がいました。このうち男性は7人、女性2人でしたが、女性の2人は50代と20代ぐらいの2人連れで親子のような感じに見えました。男性の方は全員単独客で、年齢層は20代後半辺りから、私よりも上の高齢者まで偏りなく広がっている感じでした。封切からの時間長や現在の上映館数・上映回数の状況を考えると、私も含めてギリギリ2ケタなのは、一応健闘していると見るべきなのかもしれません。

観てみると、幾つかのレビューで書かれているような浮つき感がやはり少々鼻につきます。何か少々コメディのような早送り演出があったり、ファンタジー映画のように主人公達が商業施設の屋外で落とした袋からカラーボールが転がり出てきて、彼女らが階段下を通りかかった所へ上方からカラーボールが多数転げ落ちてきたりしたりします。場面設定の時間経過を見ると、何か外の明るさがおかしいタイミングがあるようにも感じました。介護・介助の作業も結構安易で、レビューで本格的な介護・介助の作業を知っている人々からは幾つか「薄っぺらく表層的」とのコメントが付いています。確かに素人の私から見てもそのように感じる部分があります。

それでも、この映画は二つ、圧倒的な訴求力をもつ見所を包含しています。一つは研ナオコの神がかっているほどの演技です。

研ナオコはウィキに拠ると実年齢71ですが、80代の認知症が進んだ老女の姿を迫真の演技で描いています。その認知症的言動故に、登場から早々に研ナオコに見えなくなってしまいます。単にボケているのではなく、認知症特有の「状態の良い時」と「状態の悪い時」をきっちり表現していますし、さらに、主人公である孫の加那が研ナオコ演じる紀江の髪を染め、メイクをし、商業施設に車椅子で連れ出し、仲間のソープ嬢達とも回転寿司やシーシャ・バーを一緒に巡って交流させ、おまけに、往年サックス奏者だった紀江の昔の写真を見せてサックスまで吹かせると、唐突に別人のように記憶が一部戻り、自信に満ちた口調で加那に職業に貴賤はないと断言したりします。その自然なありようが目を見張るようなのです。

もう一つの見所は加那の成長譚です。

タイトルから想像される展開と異なり、身体を洗うシーンは1、2度しか登場しません。R指定もない作品になったが故かと思いますが、ソープ嬢として客とセックスしている場面はおろか、裸で何らかのサービスをしているシーンさえ登場しません。客は劇中2人登場し、1人は差し入れにハンバーガーを持ってくる風俗好きといった感じのサラリーマンです。明るく加那に接していますが、風俗嬢に対する慣れた扱いでしかないように見えます。もう1人は加那に恋心を抱き、思い詰めた感じの若者です。サラリーマンのようですが、何とか加那と交際したいという想いを言葉少なに伝えて来ます。言葉にやや詰まった挙句「もっと素敵な人を見つけてね」と加那は彼に告げます。

そんな加那には同じソープランドで働く何でも話せる友人が2人います。加那と同じぐらい若いタヌキ顔のソープ嬢はホスト狂いで、ソープで働いても尚、知り合いのみならず闇金系からも借金が膨らみ、飛んでしまいました。もう一人はかなり年上で、本人も「潮時」を意識しているソープ嬢です。バーでのバイトを兼業していますが、そちらも長く勤めていて職場で信頼されており、大阪にグループ店ができるのを機に大阪店をまとめる役に抜擢されてしまいソープ嬢を辞めて大阪に引っ越していきます。その後の姿は描かれていませんが加那はソープ嬢としての交流ができる人間を一気に全員失ったことになります。

加那はそうした交流相手の不安や不穏を常に感じ取っていて、徐々に自己肯定感を失っていきます。元々人に言えない職業、部屋から出たら誰も自分のことを覚えていない立場と自分を無価値なものと見做すように傾斜して行きます。そんな彼女を必要としてくれるのが彼女のことを覚えていない8年ぶりに会う祖母紀江だったのです。

紀江が薬を拒絶したり、トイレを汚しまくっていたりいたりするなどしたことで、腹を立て加那は一度ヘルパーを自分で依頼し任してしまいます。元々関節症の治療で1週間入院する母の代わりに引き受けた介護ですが、3日目にして挫折し、4日目にはヘルパーに出したということになりますが、先述のようにいつの時点で何日目なのかがよく分からない展開になっているので、正確には分かりません。(加那は夕刻までを祖母の家で介護・介助で過ごし、夕刻からソープランド(の「夜勤(よるきん)」)に出勤するというパターンだと説明されていますが、どうも祖母の家を出る時間やソープで働いた後に3人で飲んで憂さ晴らしをする時間やらなどを考えると辻褄が合わないように見える場面が幾つかあるのです。

ただ、いずれにしても、加那は途中の抜けがありながらも、紀江を1週間介護し、最後の日の夕刻に紀江に別れを告げて去っていきます。紀江は認知症によって、加那が何度名乗っても孫だと思いだして認識しないだけではなく、翌朝にはまた加那を忘れていて自己紹介から始まる状態でした。加那にとってそれは店の客のように、自分を簡単に忘れ去る存在で、毎日紀江と交流ができ、ソープの職場のことさえ気兼ねなく話せるようになっても、結局は記憶されないことで自分の存在意義を見失っていくのでした。

加那は自己肯定感の低さからブランド物を買い漁ったりし、部屋はぐちゃぐちゃなままにしながら、家事代行の中年女性を派遣して貰っています。この女性は「グラスは使ったら洗っておいてください」などと加那に苦言を呈し続けますが、加那はそれを半ば母からの言葉のように半分鬱陶しくしかし半分親しく受け止めています。加那が(本来ルール違反なのに)家事代行の家政婦に高いお土産をいちいち買って来るたびに、彼女は「今回だけですよ」と加那の好意を無にしないために受け取るのでした。

介護の最終日を終えて仕事に行き遅くに帰宅した加那の誘いで、その家政婦がワインを開けた加那の雑談に付き合ってくれることになります。そして加那に初めて語る彼女の過去の介護士の仕事の経験が加那の認識を揺らがせます。彼女に拠れば、紀江が加那を記憶していないのは加那が紀江を長く記憶の外に置いて来たからであると喝破するのです。言葉に出せなくても認知症の患者にとって家族は特別な存在で、無意識の記憶をしているというようなことを説明します。そして、私なんか誰も覚えていない人間で誰からも蔑まれる仕事をしていると加那が自分を卑下するのに対して、お金を稼ぐことは何でも立派なことで胸を張るべきだと諭すのでした。

加那が名残惜しそうな態度をしていても、自身を持ちなさい、もうちょっと家事ができるようになりなさい、家族を心の中に置いておきなさいと、メンターの如く語って家政婦は去ります。その直後、加那は猛然と部屋を片付け整理整頓を終えて、深夜にタクシーを拾い多分電車で30分以上はかかるぐらいの設定の場所にある地方都市の山間の住宅街の紀江を訪ね、突如飛び込んだら、紀江は仄暗い家の中で加那がやってみせたカラーボールのジャグリングに拙いながら熱中していたのでした。

加那は紀江に添い寝して、「紀江ちゃんが何度私のことを忘れても大丈夫。私は絶対に紀江ちゃんを忘れないよ」と紀江に訥々と話し掛けます。それは自分に言って聞かせているようでもある祈りの言葉でした。すると、ぽつりと「覚えているよ。加那ちゃん」と紀江は応じたのでした。泣ける場面です。

当たり前にソープ嬢であることを加那同様に負い目に思っていた親しい同僚である2人は加那の前から去り、加那を日々見つめる家政婦と加那に活き活きとした日々を取り返してもらった紀江が加那の周りに残ったことになります。その二人は力強く加那に自信を持つように伝え、加那に自身の存在意義を思い出させたのでした。

良い話です。先述のようにややおかしな点や浅薄な点が散見されるように思えますし、ソープ嬢の日々を描けば、このような物語展開の軌道を維持することはかなり困難になってしまったであろうとも思えます。その意味でこの作品はR指定なしにする代わりにファンタジーでしか成立しない物語になってしまったのかもしれません。それでも、研ナオコの熱演に支えられた加那の成長譚には一見の価値があります。

この体験を経ても、加那はブランド物を買い漁るかもしれませんし、妙に広く美しいマンションの部屋に住み続けるのかもしれません。それでも、家政婦に言われて、家族を大切にすることの延長線上で、ソープランドで働いていることを母にさえカミングアウトした加那だったので、隣家の幼馴染の幸せな結婚生活さえ眩しく身を隠したくなるものと受け止めていたのを平常心で受け止められるようになっているのかもしれません。

あるなら、2年後か3年後の設定で、紀江が弱り逝去に至る場面をエンディングにした、その後の加那の日常を観てみたいものだと思えます。現在の加那の勤め先は熟女系ではないようなので、現状の店のソープ嬢としての「潮時」への加那の向き合い方を描く話なら良いと思います。主演の中尾有伽を私は全く知りませんでしたが、そのぎこちない会話ぶりや押し黙った際の微妙な表情が(それが素なのかもしれませんが)とても加那にマッチしていたので続投を希望します。勿論その際にはR指定もつけて、やや現実味ある加那の仕事観の描写が含まれていて欲しいと思います。DVDは買いです。

追記:
 グレン・ミラーはそのベスト盤のLP2枚組を祖母が持っていたのでよく聞いたことがあり、『スウィングガールズ』を観た際にもその登場曲の殆どを(曲名は分からなくても)知っていました。祖母は私が中二の年に亡くなりましたが、そのLPは今でも残っています。本作ではまさにグレン・ミラー楽団による『ムーンライト・セレナーデ』が往年の紀江の記憶と共に効果的に使われていて印象に残りました。