4月18日の封切から約3週間経った木曜日の12時25分の回を再び訪れた銀座の路地裏の老舗映画館で観て来ました。
東京23区内ではこの銀座の映画館1館でしかやっていません。封切当初からそうであったのかどうかは分かりませんが、仮に他館でやっていたとしてもかなり早い段階でここだけになったのではないかと推測します。東京都下に拡大しても(最近『マリア・モンテッソーリ 愛と創造のメソッド』を観た際にも似たようなパターンでしたが…)吉祥寺の駅北側の地下映画館が加わるだけです。
全国では7館で上映していますが、そのうち2館はこの映画の舞台となっている群馬県で高崎市・前橋市です。東京と群馬以外の3館は愛知・静岡・京都です。マイナーさがよく分かる分布です。そしてこの館でさえ、1日1回の上映しかありません。
今回この映画館に向かう際に予定より出遅れてしまい、劇場でチケットを購入したのが上映開始4分前でした。それからお手洗いに行ってシアターに入るとすぐに暗くなりました。先にシアターに入っている観客の様子はあまり分からず、その後来た観客も暗くてよく分からない感じでした。(映画終了後には今度は仕事のアポに急いで移動しなくてはならなかったので、他の観客に先立って劇場を後にしなければならなかったのです。)概ね40人余りといった感じの観客数だったと思います。男女比は女性6割と言う感じかと思いますが、年齢層はかなり高齢側に偏っていました。
また、数人連れの観客が多いのも特徴で、2人連れ、3人連れの観客がざっくり数えて6、7組は居たような気がします。そのような複数人1組の観客には高齢者と40代ぐらいの付添者と言う組み合わせも何組かありました。そうした付添者で40代・50代ぐらいがいるものの、それ以外はほぼそれ以上の年齢の観客です。辛うじて例外と言えるのは私の比較的近くに座っていた30代後半と目される男性単独客1人でした。
私がこの作品を観に行こうと決めたのは、この映画館に来て他作(多分『マリア・モンテッソーリ 愛と創造のメソッド』)を観た際にこの作品のトレーラーを観たことです。トレーラーを観て、2点関心を抱いた点があります。一つは出演者に今は亡き樹木希林がクレジットされていることです。実際にトレーラーの中に彼女の出演している部分があり、講演の場で自分の「全身癌」について飄々と語っている様子でした。
私は女優としての彼女のファンでは特段ありません。彼女が役者として出ていることが理由で観た映画作品はないように思います。ただ、彼女の生き様や価値観には共感する所や学ばされる所が多々あるようには感じています。その想いの延長で観た『“樹木希林”を生きる』もこの銀座の路地裏映画館で観ていますが、その感想で私は以下のように書いています。
[以下抜粋↓]
女優樹木希林の死後、雨後の竹の子のように、樹木希林の言葉や生き方を紹介した書籍が発売されています。私は『樹木希林と一緒』と題された長い特集記事が掲載されている『SWITCH』という雑誌をネットで中古で買い、さらに『一切なりゆき 樹木希林のことば』を買って読んだ後、書店で類書の中身を読み比べてみました。書籍の間でも書籍の内容の間でも、非常に重複感が多く、どれもが慌てて出版した感が否めません。劇中でも「モノへのこだわりとかは全然ないから…」と使った台本もすぐに古紙に出すような人物ですから、何か遺稿などの資料が出てくるはずもなく、2匹目どころか、10匹目ぐらいの泥鰌を狙うような作品群に目新しいコンテンツが出てくる訳がありません。その結果、生前に親しかったと名乗る人々が自分名義かライター名義で書籍を出す結果に移行しつつあるようにも見えます。
私は樹木希林の生きざまに多少の関心があります。この作品の劇中でも撮影風景が登場する『日日是好日』の感想の中で、私は以下のように書いています。
「この映画を観に行くことにした最大の理由は、やはりその樹木希林の存在です。『モリのいる場所』のこのブログの感想の中でも…
「樹木希林の名演も間違いなくこの映画の重要な要素です。老境の夫婦の関係性をとても肌理細やかに表現しています。私は樹木希林のファンではありませんし、特に印象に残る役柄を過去に記憶していません。子供の頃、リアルタイムで見ていた番組の中で、いきなり自分の名前を売ると言う極めて特異な発想を発揮したことや、何かの座談会的な番組で、貧乏役者の若者が「芸術活動に対して、公的機関がもっと支援をするべきだ」と自分たちの窮状を嘆いたのを聞いて、「そんなことをしていい芝居を作れる訳がない」とあっさりと切り捨てていたことなど、色々な場面で表明されるまっとうな見識の方が、私の彼女についての脳内イメージを作る構成要素になっています」
と書いていますが、その後も『万引き家族』関連の報道や他界の報道を見聞きして、より彼女の人生観などに関心が湧くようになっていました。元々、何時までも別れない夫の内田裕也もロックンローラーとしてではなく『水のないプール』や『十階のモスキート』の主役としての衝撃的な記憶が残っていて、そこからのつながりで樹木希林へのインフラ的関心が湧いたということもあります。
もちろん、樹木希林自身の出演作でも名画の『ツィゴイネルワイゼン』や『さびしんぼう』は辛うじて彼女の役柄を覚えていますし、『リターナー』や『駆込み女と駆出し男』の影の実力者的役回りも『海街diary』の世俗的おばはんも、そして『モリのいる場所』の画家の老妻も明確な記憶ではありませんが、安心感があったように思います。むしろこうした脇役の方が光る女優さんで『あん』は悪い物語では決してありませんでしたが、少々間が持たない感じが無きにしも非ずでした。
この脇役が特に光る感じは、私が当時の写真用フィルム業界関係者として馴染みあるフジカラーのCMでも、当時北海道在住者として多少注目はしたピップエレキバンのCMでも活きていると思います。また数少ない私がガッツリ見たTVドラマ『寺内貫太郎一家』でも「ジュリー~!」と悶え叫ぶエロバーさんはそう簡単に記憶から消えるものではありません。
先述の役者としての仕事観もそうですが、女性の人生などについてのコメントも非常に深いものが多く、具体的に細かく記憶していませんが、岸田森との4年の結婚生活の後に、内田裕也と再婚しますが、すぐに別居状態になって内田裕也との裁判劇を経てもずっと結婚生活を続けるという、不倫や離婚をことのほか醜聞として取り上げるメディアのトレンドの中にあって、毅然とその状態を維持し続ける価値観自体に魅力を感じます」
そのような注目に値する人ではあると思いますが、ファンでもありませんし、その人生観は、私からすると一本筋が通っているが故に分かりやすく、一旦、分かってしまえば、それ以降はすべて想定内と言う風に思えてなりません。私には既に15年以上、月1、2回の頻度で通う新宿の老舗バーがありますが、そこの齢70頃のママの価値観に樹木希林のものは非常に近いことも、“想定内”の理由かもしれません。
樹木希林のファンでもなく、その作品群を見直したいとも全然思いませんが、世の中で騒がれる樹木希林の人生観はかなり理解できるつもりでいます。その私から見て、樹木希林の言葉を厳かに語り継ごうとする書籍群の山にはどうも如何わしさが漂っています。そして、そのような書籍群は相応の売上を上げているはずなのに、その人生観を見習って「SNSを止めた」とか「服はすべて着潰すまで着るようにした」とか「(結婚も含めて)自分が考えてした決断の結果からは逃げないようにした」と言っている人物にはとんとお目にかからないことが非常に不思議です。そんな風潮の中の彼女の“偶像”とは異なるはずの、彼女のナマの言動を見極めに行こうかという欲求が湧いたのが、この作品を観に行くことにしたほぼ唯一の思惑です。
[以上抜粋↑]
そんな樹木希林の新たに更新された最終出演作にして彼女自身が自分の死生観を語っている作品を観るというのも悪くないなと思い至ったのです。
そして、この作品が死を巡るドキュメンタリーであることが2点目の鑑賞動機です。私が観た中で『愛について語るときにイケダの語ること』を数少ない、多分唯一の例外として死に関わるドキュメンタリーは秀作ばかりです。これまたこの銀座路地裏館で観た『運命屋』の感想で私は以下のように書いています。
[以下抜粋↓]
死に向き合うことは映画に頻出するテーマで、死そのものに色々な形があるように、テーマとしての取り上げ方や描き方などに、幅広いバリエーションがあります。洋画でも名作は多々あり、私の好きな作品を選んだ洋画トップ50の中には『愛と追憶の日々』や『マイライフ』などが入っています。邦画はさらに、枚挙に暇が無いというぐらいに、名作があり邦画トップ50の中には伝説の映画といって良いような『エンディングノート』もありますし、これまた伝説の黒澤作品で洋版リメイクも比較的最近された『生きる』などもあります。
このような中で、実在の人物の死生観が描かれる作品はそれなりに限られています。上述の中ではやはり『エンディングノート』は圧倒的ですが、たとえば比較的最近(2021年)観た不発ドキュメンタリーの『愛について語るときにイケダの語ること』などもありますし、幾つかポツポツ見当たります。本作はドキュメンタリーではないものの、どう考えても、ミッキー・カーチスがわざわざ25分の尺の映画を自分の住む街を舞台に撮るのに、自分が納得しない死生観を打ち出す訳はないように思えたのです。
[以上抜粋↑]
そしてこの2点目に含めるべきか3点目にすべきかどうか分かりませんが、この作品は死に向き合う人々そのものを描くのではなく、死に行く人々に向き合う緩和ケアの専門医の姿を描いた作品であることも私の中で興味が湧いた点だと思います。トレーラーの中でも、死に行く患者とその家族を前に、「けど、もうすぐ死んじゃうけどね」などと笑いながら言っているのです。死に当たり前に向き合い、死について語ることをタブーにしないという方針であることがトレーラーの中でも分かります。一見異様ですし、そのような対応そのものに不遜や侮蔑を感じる患者もいるのではないかと思えるほどです。
しかし、劇中に登場する患者とその家族は悩み苦しみ抜いた上に、この緩和ケア専門医萬田氏に従って残された時間を限りなく有意義に過ごすことを選択した人々なのです。俄然観たくなります。映画.comの作品紹介には以下のような文章があります。
[以下抜粋↓]
過酷な延命治療で苦しむことなく、住み慣れた家で心と身体の苦痛をやわらげながら自分らしい日常生活を送れるようにする「在宅緩和ケア」。末期がんで余命宣告を受け、病院での治療をやめて自宅で過ごすことを選んだ患者たちとその家族を取材。在宅緩和ケアで2000人以上を看取った経験のある萬田緑平医師による適切な指導のもと、患者たちが最期まで自然体で生きぬく姿を映しだす。同時に、自宅で一緒に過ごす家族が在宅緩和ケアのなかで気持ちを整理し、納得してお別れの時間を過ごす様子にもカメラを向けた。2018年に他界した俳優・樹木希林の講演会時の映像も使用。
[以上抜粋↑]
たった85分の短い映画を観てみると、5人の末期癌患者の生き様とその家族の心の整理の過程がコンパクトにしかし余す所なく描かれた良作でした。(なぜかパンフレットには4人分しか紹介されていません。何か遺族の希望などでそうしているのかと思われます。)トレーラーで表現されていることですが、萬田医師の診察室にも往診の場にも笑顔が溢れ、死に行く人本人も含めた皆が彼の指針に従って、死の形を自らの意志でデザインしようとしていることが胸を打ちます。
映画の前半は抗癌剤治療や延命治療をやめて自宅での緩和ケアに切り替えた人の話が続きます。ほぼ全員が苦しい抗癌剤治療を耐えて忍んで続けても改善の見込みが無くなったことから、残された時間を意義あるものにすべく家族と過ごすことを選択して在宅の緩和ケアを選んだ人々です。(一人、例外的に、末期癌治療のために入院したら、一気に認知症が進んでしまって、それを家族(と明確な意思を示せていたか少々怪しいですが本人も)が良しとせず、退院しての緩和ケアに切り替えた高齢男性のケースもありました。)
この映画では萬田式の緩和ケアを紹介していると注釈が文字や口頭で何度も登場するぐらい、萬田医師のアプローチは独特、或いは極端と言うべきもののようで、前半は悩むこともあった中で萬田医師に巡り逢って任せることに決めたが、今から考えてそれは最適な選択だったというようなことが本人以上に家族の口から語られます。(本人はそう思っていないということではなく、濃い日々を送るのに必死であるのと、家族の方がより客観的に患者を見ていて、且つ饒舌に語るだけの精神的な余裕があるということだと思います。)
残された時間が限られていることを知りながら、現実に劇中の患者達は充実した1日を重ねることに努力をしています。家族旅行に温泉など各地に行っているケースもあれば、大好きな芋焼酎の赤兎馬を舌鼓を打ちながら飲んだりしているケースや、競艇に何度も通って楽しんだりと、見た目上、とても死に向かっている人々には見えない状態です。或る中高年女性などは、何かの老人施設に慰問に行くことになって、そこでセーラー戦士のコスプレをしたと写真を見せてくれたりしています。寧ろ本来慰問される側であるとさえ思えます。それほどに、萬田医師は、やり切ること、若しくは生き切ることを患者達に動機付けているということなのだと思います。
映画の中盤で、個別の患者・家族の物語から離れた2つのエピソードが挿入されます。一つは萬田医師の過去です。彼は17年もの間、勤務医として外科で働いて来て、多くの患者の延命を胃婁や各種の方法で実現して来ましたが、それはあまりに不自然で患者本人に何のプラスにもなっていないことが多いとの想いを積み重ねてきたということのようでした。そして、本人の表現によると外科医としてのピークの時期にあっさりとそのキャリアを捨て緩和ケアの道を志したというのです。
本人による表現が巧みで「死なせないことを目標にした病院では、『死』が[医療の敗北]になってしまうんです。患者さん本人が延命治療を希望している場合は良いのですが、多くの場合は、ご家族からのご依頼です。望まない延命治療を受ける患者さん本人はかわいそうです。つらいです。怖いです。(中略)つらくないように緩和ケアをして、最期の日まで元気に暮らせるようにしてあげれば、“ハッピー・エンド”を家族みんなで迎えられると思うんです。『死』を[医療の敗北]ではなく、[人生のゴール]にしてあげたい!僕の仕事はそのお手伝いです。」と述べています。彼があるべきと思っている死の“意味合い”が非常によく分かります。
彼が患者や家族に何度も説明している図があります。横軸の向きが(時間軸の横軸が右に行くに従って後になっているケースなど)その時々でバラバラですが、概ね同じ図を描いています。それは歩き、人と話をし、それこそ米国で悪の権化的に話題になっているフェンタニルを含む強い鎮痛剤の処方によって痛みから解放される…などのことで、死が訪れる直前まで自分の意志で行動できる時間を作るというのが、横軸から斜め上方に向かっていくグラフです。
横軸上にまっすぐ水平に進む線は、効かない抗癌剤治療を受けつつ入院を続ける選択肢です。どちらも最後に垂直に切り立った縦の線「死」にぶつかります。癌そのものへの治療が為されず、状況の改善は全く図られていないのが緩和ケアですから、「本来延命を期待するものではない」と萬田医師は考えているように見えます。緩和ケアを行なうと見かけ上、元気になるだけで、死自体を避けることはできないと思った方が良いということでしょう。
一方で萬田医師は患者に重く圧し掛かっている病院での余命宣告について、「神様に言われた余命だったら信じていいけど、医者ごときに言われた余命を信じたってしょうがないじゃないですか。余命は自分で決めましょう。頑張って延ばしましょうよ!」とも言っていますので、本人の努力で医者から言われた余命を延ばす余地があることが窺われます。しかし、これは、元々の本来の病状からの余命を延ばすというよりは、医者の言っている余命期間そのものがかなり正確性を欠くものであるという認識に基づいての発言のように受け取れます。
劇中で見る限り、家族と過ごし、会話をし、色々な生活上の刺激を受け、散歩を続け、家の中も歩き回ることで、多分に免疫力が上がるからであろうと考えられますが、少なくとも退院前に病院の医師から宣告された余命期間を大きく過ぎてもまだ死が訪れない状況が発生し得ることが分かります。3ヶ月と言われた人が8ヶ月生きたりしたのは短い方で、3ヶ月と言われて5年生きているなどの例も紹介されています。しかし萬田医師は本人の努力で「本人が自由に生きることができる時間が延びる」とは言っていますが、「延命がどんどんできる」のような気休めは全く口にしません。先述のように「けど死ぬけどね」的な一見冷酷なぐらいの言葉を言います。死を笑顔で普通に語れる日常の一部として位置付けているのです。
この「見かけ上よくなっていること」という視点は非常に大きな学びでした。素人の私は、やはり、萬田医師が実現するような患者の自由意志による生活と、苦痛のない時間の積み重ね、そして心身ともに働かせ刺激し続けることで、病状が改善し、上手く行けば寛解といった想いをつい抱いてしまいます。そのようになるケースも全くない訳ではないでしょうが、それを期待できるほど現実は(一般論として)甘くないということなのだろうと思われます。
もう一つの挿入エピソードは樹木希林の2016年の講演のシーンです。特に彼女のキャリアなどに深く踏み込むこともありませんし、内田裕也との離婚に生涯向かうことがなかった人生観などにも全く言及しないままに樹木希林のエピソードは完了します。全身癌と言われて、自分の死が目の前になって、初めて客観的に自分を見られる視点を得たと、病気に感謝するぐらいの気持ちを語っています。これは、私が彼女の生活感や仕事観について書籍・雑誌・映画などで見知っている情報の一部ではあるものの、改めて本人が語っている映像をみると心に強く訴え掛けて来ます。
そして、この後来るのは、当然、紹介された癌患者の人々のその後であろうと思っていると、その通りになります。それもジェットコースターの如く、急展開で、普通に萬田医師のクリニックに通院して談笑していたような患者が痩せ細り、ベッドから出ることもままならなくなっていく姿を5人分並行して早送りのように提示し始め、どんどん彼らはこの世を去って行きます。(私の記憶では最も高齢だった男性だけが、劇中で死を迎えていないように思います。)そして、その家族達は彼らの死を看取り、彼らの死を受け止めるのに苦悩し、悲嘆に暮れつつ、それでも最後にこうした時間を作れたことが本当によかったと涙ながらに語るのでした。
娘2人や孫達がベッド脇に来て「お別れ会」が開かれた女性のその際の言葉が胸を打ちます。パンフにもわざわざ見開き2ページを割いて載っている以下の言葉です。
よかったね。
こういうふうに、
ばあばが お別れできるなんて
思いもよらなかったよ
ありがとうね
悲しくないよ
ばあばも いい人生だった
じゃあ、私は先に行ってます
またね
みんな ありがとう、愛してる
娘が後に、「母は人間が一生を頑張って生き切る姿を子供達に見せてくれた」と言うような主旨を語っています。号泣する孫達を抱きしめ、その患者はベッドで笑顔で上の言葉を言ったのでした。病院での死ではなかなか実現できない大事な人生の教えだと思えてなりません。
自分の葬儀の打ち合わせを何度もしたり、「死ぬ死ぬ詐欺」と言われながら、墓石のデザインをしたりと家族と共に淡々と作業を進める姿も名作『エンディングノート』のように日常のものとして、そして名作『エンディングノート』以上に笑顔を以て描かれています。亡くなる僅か4時間前に撮影した動画で笑顔で家族にお礼とお別れを言っているケースもあれば、死ぬ数日前らしい撮影された「とても充実した人生だった。もしさびしくなったら夜に月を見て。私はそこに居るよ。みんなありがとう。またね。先に行って待っているね」というような言葉を(まるでドラマの次回予告かと思うほどの)信じられないぐらいの明るさで語っている女性の動画が葬儀で流れたというエピソードも紹介されます。両者共に、とてもその後短時間のうちに無くなったとは思えないぐらいのしっかりした様子に見えます。
バタバタと登場人物が最期の時を迎える中、再度一つ劇中に挿入される要素があります。米国の作家、ナンシー・ウッドの有名な詩です。(元々プエブロ・インディアンの古老の言葉をナンシー・ウッドが聞き書きしたものらしい)『今日は死ぬのにとてもいい日だ』です。どちらかというと「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と訳されていることが多いかもしれませんが、劇中では「とてもいい日だ」の訳が採用されています。この詩の原文が群馬の地平線の上に広がった美しい朝焼けを背景に一瞬浮かび、佐藤浩市の落ち着いた日本語訳全文の朗読が続きます。(ナレーションは佐藤浩市の他に、室井滋も担当しています。こなれた落ち着いたナレーションが実現しています。)この朝焼けのシーンは劇中で前半から何度か登場しています。その美しい朝焼けが登場人物の死という名の旅立ちの象徴であることに後半に至って分かるようになっています。英文の全文は以下の通りです。この映画の旅立つ人々に捧げるのに非常に相応しい内容です。実際、米国の葬儀などでよく朗読されていることを私も知っています。
Today is a very good day to die.
Every living thing is in harmony with me.
Every voice sings a chorus within me.
All beauty has come to rest in my eyes.
All bad thoughts have departed from me.
Today is a very good day to die.
My land is peaceful around me.
My fields have been turned for the last time.
My house is filled with laughter.
My children have come home.
Yes, today is a very good day to die.
患者の家族の言葉の中に萬田医師に言われたというある言葉が登場し、パンフにもそれが萬田医師の言葉として記録されています。それは「癌は一番別れる時間をくれる病気なんだよ」です。これも一般に知られる癌の疾病としてのイメージを覆すものだと思います。確かに脳卒中や心不全などに比べて、死までに残された時間が長く、その残された時間の充実した活用の余地が大きいことに気づかされます。
全体を通してみると、私の中で父の死を娘の立場から客観的に描いた『エンディングノート』を超える作品ではありませんでしたが、自らの強い意志で自分の死をデザインした『エンディングノート』の主人公のようなことは、強烈な意志と行動力が無ければ普通はなかなか実現できないものと受け止めると思います。しかし、そのような満ち足りた死の迎え方を迷いなくブレなく普通の人々にももたらしてくれるのが、今回の萬田医師の取り組みであると、この映画は示してくれているように思えるのです。
同監督の幾つかの他作の収益金やクラウド・ファンディングでこの映画は作られていると言われていますが、DVDが出るなら間違いなく買いの秀作です。
追記:
普段、劇場に来る人々の鑑賞動機は外見や属性から分からないことが多いですが、付添を伴って、家からの道中で数々の階段の段差を乗り越えて杖をついての儘ならない歩みで高齢者がわざわざこの作品を観る理由は、劇中の旅立った人々の充実を思い出す時、明確に分かる気がします。
追記2:
エンディングテーマ曲はウルフルズの『笑えればV』です。パンフに拠れば元々『笑えれば』という曲だったのが、再録音されて『笑えればV』になったというぐらいの伝説の名曲のようです。映画の中の死に向き合う人々の描写にこれほどシンクロする内容の曲はないとパンフでも評されています。エンディングロールでは多くの登場人物や家族のスナップショットが映る中、この曲が流れます。そして、驚くべきことに歌詞がスナップショットの傍らにデカデカと表示されるのです。他作品でこのような例を見たことがないように記憶しますが、監督のこの曲を選んだ想い入れがとてもよく分かる表現になっていると思えました。